学問の方法と倫理 二 歴史を学ぶ覚悟

古田史学会報
2000年 6月12日 No.38


学問の方法と倫理 二

京都市 古賀達也

 学問に倫理は不可欠である。とりわけ、現実政治やイデオロギーと無関係ではいられない歴史学には尚更であること、論をまたない。古田武彦氏はそれを「歴史を学ぶ覚悟」と表現された(注1)。小生は古田氏から次のような言葉を聞いたことがある。東京学芸大学の西村教授からの、「九州王朝説や君が代盗用説などを主張すると右翼からのテロの危険性があるのではないか」という趣旨の発言に対し、古田氏はこう言われた。「その覚悟は第二著を出すときに、既に決めました」。第二著とは「失われた九州王朝」のことである。淡々として発せられたその言葉に、小生は身の引き締まる思いがした。

 それに比べて、「市民の古代研究会」はどうであったか。七年前、和田家文書偽作キャンペーンが本格的になり始めた頃、それまで古田氏を支持していた人々の間に、次のような分化が見られた。一つは、偽作キャンペーンから「自己保身」するため、古田離れを主張した人々(具体的には恒例であった古田講演会の中止など)。二つは、古田離れには反対するが、偽作キャンペーンに対しては「傍観」を決め込んだ人々。三つは、古田氏と運命と行動を共にした人々である。

 市民の古代理事会、特に本部の関西では一の立場の人々が多数を占めつつあった。しかも、「古田離れ」は一般会員には秘密裏に企てられた。そうした企てに反対した小生は、遠方の理事に対して、事務局長として職責を賭けて反対することを文書で表明したのであるが、それが反古田派にとって格好の標的となった。そうした意見表明は事務局長にあるまじき行為と、理事会にて小生を解任する口実にされたのである。その時の理事会を小生は今でも忘れない。私への集中攻撃が続き、反古田派の代表格であった秦理事からは「病院に行ってはどうか」とまで言われた。小生は「古田ファンや支持者でこの会は成立しており、会員に内緒で古田離れを画策するのは、会員への背信行為である。私は藤田会長に請われて事務局長を引き受けたのであり、藤田会長から古賀は事務局長としてふさわしくないと言われるのであれば、理事会の決議を待つまでもなく辞任する」と藤田会長に判断を迫った。藤田氏は小生の解任に最後まで同意されず、反古田派の策動は成功しなかったが、小生は少数派に追い込まれたことを痛感した。

 その時であった。突然、水野氏(本会代表。当時、市民の古代副会長)が立ち上がり、「わたしは古賀さんと進退を共にする」と言われたのである。騒然としていた理事会は、この突然の発言に静まり返った。当時、氏は和田家文書偽作説の立場であり、小生とは学問的見解が異なっていた。しかし、この時のこの発言を聞いて、小生は水野氏を深く信頼するに至ったのである。水野氏の見解は明瞭かつ原則的であった。この会は古田ファンで構成されており、理事会は会員の要望に応えるのが仕事である、というものであり、それは本会代表となられた今でも変わっておられない。
  いま一人、忘れがたい人に中村幸雄氏(当時、市民の古代理事)がおられる。小生が市民の古代との決別と本会設立の決意を中村氏に電話で伝えた時、「古賀さんがそう言うのを待ってたんや。あんな人らとは一緒にやれん。古田はんと一緒やったらまた人は集まる。一から出直したらええ」と言われ、小生と行動を共にすることを約束されたのであった。「理事」などという堅苦しい肩書きをいやがられ、「自分は世話人でよい」と早朝の例会会場予約や裏方を黙々と務められた、実に庶民的で気さくな方であった。ちなみに、本会の「全国世話人」という制度と名称は、こうした氏の意を汲んで決めたものである。しかし、その翌年、氏は急逝された(一九九五年三月十七日、享年六八才)。会分裂と本会設立の心労が禍したのであろうか。訃報に接した夜、小生は家人の目も憚らず、泣いた(注2)。

  歴史研究は、それが真実に迫れば迫るほど、時として体制やイデオロギーのタブーに触れることが少なくない。その際、様々な圧力や迫害を覚悟しなければならない。一方、イデオロギーや現実的利害から出発すれば、真実と学問を曲げ、曲学阿世の徒と化してしまう危険性を回避できないのである。同様に、本会のような歴史研究団体も、「学難」と無縁でいられるはずはないであろうし、一方、会の発展とともに生じる「利権」(注3)も初志を変質させる要因になりかねない。したがい、会の運営に参画するものは、すべからく無私であらねばならないし、また無私の者だけが参画すればよいのである。本会の全国世話人はそうした無私の人々により構成されている。この一点で本会の倫理性は保証され、会員の信頼に応えられるのである。
 古田氏は次のように述べている。

「学問はナショナリズムに屈服してはならない。(中略)日本国家のナショナリズムの欲望によって『歴史の真実』を曲げること、これは学問の賊である。わたしたちは、あまりにも、その好例を見てきた。同じく、他の国が己のナショナリズムによって『歴史の真実』を見ようとしないとき、その非を率直に告げる。それこそ真の友であり、『皇国史観』流の歪曲者、御用学者とキッパリ袂別する道、その唯一の道である。学問は政治やイデオロギーの従僕であってはならない。『歴史の真実』を明らかにすることと、現代国家間の政治的利害を混同させてはならない。そのような「混同の扇動者」あれば、これに対してわたしたちは、ハッキリと「否(ノウ)」の言葉を告げねばならぬ。それがソクラテスたちの切り開いた、人間の学問の道なのであるから。」(注4)

 真実と人間の理性にのみ依拠する。これが古田氏の学問精神の根本である。古田学派に志を置くすべての研究者諸兄とともに、この言葉の持つ意味の重さを小生も噛み締めたい。

(注)
1、古田氏は『「君が代」を深く考える』の第四部の表題を「歴史を学ぶ覚悟」とされた。

2、故人は例会での研究発表を大変楽しみにされていたという(寿子夫人談)。急逝直後の関西例会は追悼例会として、生前故人が準備されていたレジュメに基づいて、藤田友治氏が代わって報告された。また、『新・古代学』3集には遺稿「新『大化改新』論争の提唱・・・『日本書紀』の年代造作について」を掲載し、霊を弔った。

3、旧市民の古代研究会は会員千名近くまで発展した。その為、会は数百万円に及ぶ資産と、出版社への影響力さえ持つに至った。そして、それに目が眩んだ人々も少なくなかったのである。「古田無き市民の古代」を目指した人々は、その後資産を食いつぶしながら四分五裂となったようであるが、所詮は同床異夢の徒であったことを、その事実は示した。

4、『「君が代」、うずまく源流』新泉社、一九九一年六月。


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