盗まれた説話 聖徳太子の南岳禅師後身説話と『七代記』の史料批判 フィロロギーと論証責任
古田史学会報
2000年 8月 8日 No.39
京都市 古賀達也
過日、京都の精華大学を訪れたダライ・ラマ十四世の言動に感銘を受け、またテレビ放映されたブラット・ピット主演映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」を見て、チベット民族の悲劇に深い同情を禁じ得なかったのであるが、「侵略」と「統一」は同じメダルの表裏と表現された古田武彦氏の指摘は、今世紀のチベットにおいても例外ではなかったようである(注1
)。
ご存じの通り、チベット仏教の最高位ダライ・ラマは仏教の転生思想に基づき、ダライ・ラマ逝去直後の時期に生まれたチベットの子供の中から新たに選ばれる。こうした「転生」は古代日本にも説話として存在し、その著名な例として、聖徳太子を中国の南岳禅師恵思(五一四~五七七。慧思とも記される)の後身とする伝承がある。数ある聖徳太子の伝記にも、南岳禅師後身説話を記すものが多いのであるが、既に奈良時代にはかなり流布していたようで、『経国集』巻十に淡海三船の「五言 扈従聖徳宮寺一首 淡三船」と題する詩があり、その詩中に「南嶽留禅影 東州現応身」という表現が見え、聖徳太子の南岳禅師後身説話が取り入れられている(注2
)。
同説話が記されている史料中、最も有名なものが『唐大和上東征傳』である(以下、『東征傳』と記す)。天平勝宝五年(七五三)に来日した鑑真和上(六八八~七六三)の伝記で、淡海三船により宝亀十年(七七九)に記されたものだ。同書中に、入唐僧の栄叡・普照の招きに答えて鑑真が述べた言葉として、次のくだりがある。
「大和上答えて曰く、昔聞く、南岳恵思禅師遷化の後、倭国王子に託生し、仏法を興隆し、衆生を済度す。又聞く、日本国の長屋王、仏法を崇敬し、千の袈裟を造り、此の国の大徳衆生に来施す。」(『寧楽遺文』所収。古賀訳)
この『東征傳』は、鑑真に随従して来日した弟子思託による鑑真和上の伝記『大唐伝戒師僧名記大和上伝』(略して『広伝』と呼ばれる)を参考にして著されたものとされており、この『広伝』にも南岳禅師後身説話が記されている。ただし、『広伝』は現存せず、逸文として残っているだけである。こうしたところから、通説では聖徳太子の南岳禅師後身説話は、思託や淡海三船による造作とされているのであるが、命がけで鑑真に随従した弟子の思託が、師が言ってもいないことを造作したりするであろうか。妄語は仏法の戒律で厳しく禁じられており、鑑真はその戒律を日本に伝えた僧であり、思託はその弟子である。その思託らによる造作とするのは安直、かつ、あまりに思託に対して失礼ではあるまいか(注3
)。
もっとも、造作説の根拠としては、あれほど聖徳太子を礼讃している『日本書紀』に、同説話が見えないことや、南岳禅師没年の五七七年は既に聖徳太子は四歳であり(後代史料には聖徳太子の生年を五七二年とするものもある。この場合は六歳となる)、「転生」説など発生困難であることなどがあげられる。この年次的矛盾は、平安末期には問題視されていたようで、『扶桑略記』(三十巻、皇円編著。平安末期成立)にも、「私云。今案。聖徳太子、是南岳大師後身也。(中略)然太子年六歳時、南岳大師入滅。後身之義、年序同時也。其意如何。本傳云、先身念禅比丘。或本伝、前身思禅師矣。」と、疑問を呈している。
こうした矛盾に対して、多元史観の立場から史料批判を試みられたのが、荒金卓也氏である。氏はその著書『九州古代史の謎』(海鳥社)において、鑑真が「倭国」「日本国」と国名を言い分けている点に注目され、日本国(近畿天皇家)の長屋王に対して、倭国の王子とあるのは、聖徳太子ではなく九州王朝の王子であり、『隋書』に見える多利思北孤であると指摘された。誠に卓見ではあるまいか。筆者も、荒金論考を踏まえた上で、この倭国王子は年齢的に多利思北孤よりも次代の利歌弥多弗利の方が穏当である旨、発表した(注4
)。
そこで今回新たに『七代記』に見える南岳禅師後身説話の史料批判を通して、本来九州王朝の伝承であった同説話が近畿天皇家に取り込まれていく過程について、更に論究することにしたい。
『寧楽遺文』に収録されている『七代記』は宝亀二年(七七一)教明の作とされているが、その文中には次の諸史料からの引用が認められている。
1『日本書紀』
2『上宮厩戸豊聡耳皇太子伝』
3『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』
4『大唐国伝戒師僧名記伝』
5『釈思禅師遠忌伝』
この中で注目すべきは、『大唐国衡州衡山道場釈思禅師七代記』である。その記事中に次の文が見える。
「所以生倭国之王家、哀預百姓、棟梁三宝、碑下題云、倭州天皇彼所聖化、(中略)李三郎帝即位開元六年歳次戊午二月十五日、杭州銭唐館写竟」
南岳禅師が倭国の王家に託生し、倭州天皇が後身であると示しているのであるが、聖徳太子は天皇ではないことからも、この説話の対象人物は九州王朝の王族であると考えざるを得ない。更に注目すべきは、「碑下題云」以下の記事が唐の開元六年(七一八)に書写されたことが記されており、八世紀初頭の唐ではこの説話が天台山近くの杭州銭唐館の石碑に記されるほど有名であったことがわかる。しかも碑文の成立年代はそれ以前である。「倭州」とあることから、おそらくは七〇一年、九州王朝滅亡以前と思われる。ちなみに、「李三郎帝」とは唐の玄宗皇帝のことである。
このことから、倭国王子の南岳禅師後身説話は七世紀末頃には中国にまで知られており、通説のような思託造作説は成立し難いであろう(注5 )。そうすると、次に問題となるのが、この説話が倭国側で作られたのか、それとも中国側で作られたのかという点である。残念ながら現時点ではいずれとも断定できない。しかし、南朝陳の高僧南岳恵思禅師が物故した年、東夷の国、倭国で王子が誕生したという情報が伝わり、「転生」の候補として利歌弥多弗利が選ばれたのではあるまいか。そうすると、『隋書』に倭国の王子の名前まで特筆された理由も、そうした転生伝承を意識してのことかもしれぬ。
以上のように、南岳禅師転生説話は中国と日本において著名な説話であったと考えざるを得ないのだが、それでは何故、『日本書紀』に聖徳太子説話として盗用されなかったのであろうか。十七条憲法など、九州王朝の事績を自らの史書に盗用し、聖徳太子を礼讃した近畿天皇家の史官たちが、この転生説話を採用しなかった理由は、思うに南岳禅師の没年と聖徳太子の生年が一致しないという、単純かつ決定的な理由からではあるまいか(注6
)。
あるいは、南朝陳との交流を前提とする説話を『日本書紀』に採用(盗用)することを、北朝の唐に対して、はばかったとも考えられる。白村江での倭国大敗以後、唐の軍隊が筑紫に進駐していた最中に『日本書紀』は編纂されたのであるから、両者の力関係からすれば当然とも言い得るであろう。
そうすると、『東征傳』のように、一見、南岳禅師の後身、倭国王子が聖徳太子のように見える文書が成立(説話を盗用)した八世紀後半頃には、唐の軍隊は日本列島から引き上げていたとも考えられる。この点、今後の研究課題としたい。
なお、本稿で紹介した南岳禅師後身説話以外にも注目すべき説話として、聖徳太子が転生前に中国で使用していた法華経を小野妹子に命じて中国より持ち帰らせたという説話がある。これなども、やはり九州王朝への法華経招来説話からの盗用と思われる。その傍証として、『二中歴』年代歴の九州年号「端政」(五八九~五九三)の細注に「自唐法華経始渡」とあり、九州王朝に法華経が伝来したことが記されているのである。この端政元年は南朝陳が隋に滅ぼされ、倭国では多利思北孤が即位し、天子を名のった年なのである(注7
)。このような、多利思北孤・利歌弥多弗利と法華経との関連説話の存在が、小野妹子による法華経招来説話として盗用されたのではあるまいか。
以上、聖徳太子の南岳禅師後身説話が九州王朝王家の説話からの盗用であったことを述べてきた。同様に、『日本書紀』に始まり後代に至って形成されてきた聖徳太子伝承の根幹部分の多くが、九州王朝内伝承の盗用である可能性は少なくないと思われるのである。この点、古田氏が指摘された十七条憲法の他に、「九州の分国」や善光寺如来との書簡などについても、同じ問題があることを筆者は既に発表してきた(注8
)。今後も、聖徳太子説話に取り込まれた九州王朝内事績についての研究調査を進めていきたいと考えている。
(注)
1 古田武彦「アイヌの聖域なぜ守れぬ・・・侵略の歴史認めるのが近代国家」朝日新聞『論壇』(一九八八年十二月五日掲載)に次の文章がある。
(前略)かつて和人は、アイヌの領域を侵略し、近代日本国家の「わく組み」を設定しました。これは別段“不思議”なことではありません。アメリカ・ソ連・中国・イギリス、その他ほとんどの近代国家は、「統一」という美名によって、“歴史的侵略”をつづけてきた、まさにその「土台」の上に作られているのですから。「統一」と「侵略」は、同じメダルの表と裏なのです。
ですが、真の問題はその次です。近代国家が、その歴史的事実を率直に認め、その“賠償”を、男らしく、否、人間らしく支払おうとするか否か。それが分かれ道です。(後略)
2 蔵中進「文人之首(その一)--淡海三船の生涯と文学」(『日本文学』二〇・十一)において、同詩は神護景雲元年(七六七)三月の成立と見なされている。
3 蔵中進「聖徳太子慧思託生説話について」(『日本歴史』三〇四。一九七三年)において、同様の視点などから、思託造作説を否定されている。
4 古賀達也「『君が代』の『君』はだれか・・・倭国王子『利歌弥多弗利』考」(「古田史学会報」三四号、一九九九年十月)
5 蔵中進氏の先稿3 において、『七代記』のこの記事から、『東征傳』に見える鑑真の発言が思託による造作ではないことを論証されている。その結論は一元通念の範疇を超えていないが、本稿は蔵中論稿に導かれて成ったものである。
6 大山誠一『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館)において、聖徳太子非実在説が唱えられているが、本稿の視点からすれば、倭国王子と誕生日が異なる「聖徳太子」という人物が近畿天皇家内に実在したこととなる。もし、完全に架空の人物ならば、それこそ誕生日を南岳禅師没年にあわせることなど、いとも簡単であるからだ。しかし、『日本書紀』編者たちはそうはしなかった。なお、大山氏が指摘された非実在論の根拠の大部分は、九州王朝説により説明できるものばかりである。この点、別に論じる機会を得たい。
7 古賀達也「続・九州を論ず・・・国内史料に見える「九州」の分国」(『九州王朝の論理』明石書店)において、多利思北孤による「九州の分国」と即位が端政元年(五八九)であることを論証した。
古賀達也「法隆寺の中の九州年号・・・聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎」(「古田史学会報」十八号、一九九六年八月)
京都市 古賀達也
当連載の“「『邪馬台国』はなかった」の眼目”(本紙三七号)において、荒金氏の論考を題材として、「論証責任の所在」というテーマを扱ったのであるが、それに対して、早速、荒金氏より反論をいただいた(本号掲載「古賀達也氏の迷妄の立論に答える」)。ご覧の通り、いささか感情的な論調ではあるが、古田史学の母なる学問領域ともいうべきフィロロギーと、先の「論証責任の所在」というものを改めて説明するのに、よい機会でもあるので、今回は氏の「反論」を題材に論じたいと思う。
フィロロギーとは、人間が認識したものを再認識するという学問であり、その対象はおよそ人間が関わったもの総てであると言いうる。例えば、史書、文学、芸術、建築物、遺物など、その対象は広くかつ深い。今回の場合、王維の詩がその対象であり、王維が自らの詩とその一字一句をどのように認識していたのかを、現在のわたしたちが再認識する学問がフィロロギーなのである(注1.)。
その場合の肝要の一事は、それを現代人の「常識」から解釈するのではなく、王維その人の認識をたどること、これである。古田氏は『「邪馬台国」はなかった』で、三国志の著者陳寿を信じ通すという方法を貫き通されたのであるが、その場合も三国志における陳寿の「筆跡」と用例を調べ抜き、そして、画期的な邪馬壹国博多湾岸説へと到達されたことは、読者もよくご存じのことと思う。従って、同様に今回問題となった「島夷」という表記が何を意味するのかは、第一に王維の詩そのものの分析によらねばならぬこと、自明であり、言うもおろかである。
小生が先稿で「古田氏の立論の根拠いかなる論点で成立しているか」と述べたのは、正にこの点であった。すなわち、王維の使用する言葉を王維の詩そのものから合理的に解釈するというフィロロギーの方法論と、従来説(渤海遠征)では詩の内容と対応しないという事実こそ、古田氏が問題とされた「論点」なのである。そして、その前提に立って、詩の中に見える「むしろの帆をもて聊か罪を問う」や「卉服をきたるは盡く擒となる」という表現を根拠に、それらを白村江の海戦を指したものとし、そこに現れた島夷を日本列島の倭国であると、古田氏は立論されたわけである。
しかし、荒金氏は広辞苑をさんざん引き回したあげく、「古田氏の議論の前提となっている、古田氏の議論の要点や中心点」などと故意に読み替えて、「頭がおかしくなりそうだ」と述べられるのである。頭がおかしくなるのは荒金氏の勝手であるが、他者の文章を理解する場合は、まずその文脈を正確に読み取られた後、知らない語句があれば広辞苑で調べるのが、普通の方法であろう。もちろん、その場合でも辞書に記された複数の用例から、どれがふさわしいかは、やはり文脈から判断して妥当なものを選択しなければならないこと、言うまでもない。この点、荒金氏には、文の全体を読み取るのではなく、文章を細切れにした上で、独特の「解釈」を施し、本来書かれてもいないことに対して論難される性癖をお持ちのようである(注2.)。
次に、ついに荒金氏には理解いただけなかった「論証責任の所在」という問題を、わかりやすく小生もたとえ話で説明しよう。
フルタという人が、「久留米高専を卒業し、京都の化学会社に就職した」という古賀の発言から、古賀を九州出身であると理解し、また古賀という姓が九州に多いことも九州出身説に有利、そう述べたとする。ところがアラカネという人が古賀の妻や娘の戸籍を根拠に、「同時代の同じ家に住んでいる同じ古賀姓の他の二人の故郷が京都市であるのは『史料事実』であるから、それをクリア(否定)できない限り、古賀が九州出身という説は崩壊する」と反論した。さて、どちらの言い分が正しいであろうか。言うまでもなく、フルタ氏の方が論理的かつ方法論の上からも正しいのである。
しかし、アラカネ氏にも形勢逆転の道が残されている。それは、古賀本人の証言から、あるいは古賀が言ったり書いたりしたものを調べ上げて、古賀の故郷が京都市を、もしくは九州以外を示しており、九州を示している例がないことを証明できた場合である。その場合にこそ、アラカネ氏の「反論」が論として成立し、フルタ説は崩壊するかもしれないのである。そして、ここが肝要の一点であるが、その調査(論証責任)はフルタ説は成立しないと反対するアラカネ氏自身が負わねばならないのであり、決してフルタ氏ではない。
これは、荒金氏が述べられた「学生と教授のやりとり」などとは、およそ次元が異なる学問論争上の基本ルールの問題なのである。まして、「新調した服のほころび、云々」に至っては、それこそ「迷妄の立論」という他ない。
話を「島夷」に戻そう。島夷という用語はその本来の字義からすれば、東夷中の島国である倭国とするのが第一義である。しかし、その場合でも詩の中で使用されている以上、詩そのものの合理的解釈からも矛盾無く導き出されねばならない。この二つの手続きを経て古田説は成立しているのである。一方、王維の時代、唐代では「島夷」という語句が倭国以外にも使用されている例がある(注3.)。例えば『北魏書』。なんと南朝を「島夷」と呼んで蔑んでいるのである。しかし、それでも王維の詩中の「島夷」を倭国とする古田説は成立する。重ねて言うが、王維の認識(使用した語句)を理解するには、第一に王維自身の文によらねばならない、というフィロロギーの方法論から見れば、これは明白なことなのである。王維の詩そのものの内容の理解から、その「島夷」が倭国を指すと考えられる以上、たとえ同時代の他の詩人の用例をいくら示しても、反論にならないと小生が言った理由をおわかりいただけたであろうか。
率直に言って、小生よりも人生経験も学識も深い荒金氏に対し、先のたとえ話の様なレベルの例まで挙げて説明しなければならないことを、嘆かずにはいられないのである。また、荒金氏が紹介された比干碑の島夷の例も、仮にそれが高句麗を示すと理解され得るとしても、それこそ何故島ではないことが知悉されている高句麗が島夷と記されたのか、という疑問から、「島夷」そのものへの探求に向かう、これが学問を志す者の発想、姿勢ではあるまいか(注4.)。多元的歴史観(多元的視点)を持つ者であれば、なおさらである。しかし、荒金氏は「島夷」探求ではなく、古田氏への安直な「批判」へと向かわれた。しかも、自らの方法論の誤りに気づくことなく。そこには、真摯な歴史研究者としてのかつての氏ではなく、「古田離れ」の「正当化」に腐心している組織の代表者としての顔しか浮かんでこないのである。小生はこのことを誰よりも惜しむものである。
最後に付言する。小生は本連載の「序」(三六号)において、『俳諧問答』の横沢三郎氏の解説を紹介した。そこには、「(許六と去来の)この問答の優れている所以は、その真面目さにある。更に言へばその真面目さは、門戸を張らうとするやうな下心から出たものではなく、純粋に芸術的な立場に立ってゐる点にあるのである」と記されている。小生も純粋で真面目な批判や論争は大歓迎である。しかし、荒金氏の今回の「反論」は果たして、読者をしてそのように思わしめうるでものあろうか。小生は先の荒金稿への批判(三七号)にあたっては、礼を損なわぬよう、評価すべき点は評価しつつ記したつもりである。しかし、氏は一元通念の学者や偽作キャンペーン一派に対しては、かつて一度も発せられたことのないような、敵意と揶揄に満ちた筆鋒を以て、小生への反論とされた。
小生は、本連載やそれに関わる論争を、後世の人をして、「我々は古田の学問や学問思想を探求する上に、この問答から教えられる所が極めて多い」と称されるようなものにしたいと願っている。その意味でも、荒金氏が「学問の大道」に立ち返られ、多元史観研究者にふさわしい品格ある「問答」を期待したいのである。
(注)
1. フィロロギーについては古田氏の次の二稿を参照されたい。
「アウグスト・ベエクのフィロロギーの方法論について〈序論〉」(『古代に真実を求めて』二集、明石書店)
「村岡典嗣論・・・時代に抗する学問」(「古田史学会報」三八号)
2. 荒金氏が、当時代表をされていた「倭国を徹底して研究する九州古代史の会」の機関紙一九九九年五月二〇日発行号外において、古田史学の会の会則に「古田武彦氏を顕彰する」の一文があり、「おこがましい」と、古田史学の会を突然に一方的に非難された。それに対して、古田史学の会では水野代表・古賀事務局長の連名で、本会会則にはそのような一文はなく、誤引用であり、その点を訂正してほしい旨、申し入れたのであるが(同年七月十七日付)、荒金代表(及び役員会一同)からの返答(同年九月四日付)は、拒否であり、そこでも広辞苑や司馬遷の『史記』まで持ち出したあげく、本会会則第二条(目的)の「古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに~」の文章を、句読点の位置などを事細かに「解釈」され、強引に「古田武彦氏を顕彰する」との意味に読み取ろうとされた。
こうした強引な「読解」をしなければならないこと自体、既に無理無体である証しでもあるが、本会会則第三条(事業)にも「本会は、第二条の目的を達成するため、次の事業を行う。」として、その第一項に「古田史学の継承と発展、その宣伝顕彰に関すること。」と「顕彰」の対象が(古田武彦氏ではなく)「古田史学」であることを重ねて明記している。決して難解な誤解を与えるような文章ではない。荒金氏(及び役員会一同)は本会会則第二条の誤引用の上、すぐ隣の第三条をも見落とされたようである。
なお、荒金代表(及び役員会一同)からの返答の最後は、次の驚くような「脅迫」で締めくくられている。
「(古田史学の会が今後も訂正要求をされるのであれば)古田氏の名誉を慮って公開を避けてきた録音内容の一切をも、会報で公開しましょう。そのことで当会の受けるダメージは微々たるものに過ぎぬのに反して、貴会はもちろん、古田氏の名声・評価等に暴落・失墜の生じること、火を見るより明らかでありましょう。このことを、最後に付言いたします。」
荒金氏らは一体どこへ行かれようとしているのであろうか。
3. 隋代の例としては、水野孝夫氏が煬帝の詩に「島夷」を見出され、研究を深められている。本号掲載の「隋詩『白馬篇』中の島夷・卉服」を参照されたい。
4. 本紙三七号の拙論においても、〔追記〕として、比干碑の「島夷」について別の視点から作業仮説を呈示した。『北魏書』の「島夷」南朝に関しても、別に論述したいと考えている。
これは会報の 公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集~第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一~四集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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