神武の出自と東進の謎
古田史学会報
2001年 4月22日 No.43
千歳市 今井俊圀
古田氏は神武東進の出発地について、『盗まれた神話』(文庫本二五四頁)において、
“「神武東征」の発進の地、およびその妻の出身地、そのいずれも、その日向(国)は、宮崎県であって、福岡県ではない。─『記・紀』の表記に従うかぎり、そう考えるほかはないのである。”
とされ、同書(二五三頁)で
“しかし、彼等の活躍の「基地」が日向(宮崎県)にあったことは疑えないようである。『古事記』〈神武記〉に、「即ち日向より発して筑紫に幸行す。故、豊国の宇佐に到りし時に…」とある。この「日向」は「筑紫の日向」ではない。明らかに「日向の国」(宮崎県)だ。また神武の最初の妻も「日向の国」の人だ。「故、日向に坐す時、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比売を娶る。生む子は多芸志美美命、次に岐須美美命、二柱坐すなり。」〈神武記〉『書紀』〈帝王本紀〉では、「日向国の吾田邑の吾平津媛」〈神武紀〉と書かれている。”
とし、この阿多、吾田を、宮崎県臼杵郡の「英多」とされています。又、
“この神武の兄弟や子供たちの名前には、日向国から豊国、つまり九州東海岸の「地名」がついている。”(同書二五六頁)
とされていました。しかしながら『神武歌謡は生きかえった』(九〜五六頁)において、
“「神武の出発点」は求められた−「福岡県の志摩の地」である。”
“「竺紫(ぢくし)の日向(ひなた)から竺紫の筑紫(筑紫)。大字へ」─それが彼等軍団の最初の行動なのであった。”
とその出発地を糸島半島に変更されました。私もそうだと思います。がしかし、神武の妻の出身地や神武兄弟の出身地、つまり出自については明確に変更なさってはいないと思います。『失われた日本』(二一四頁)において、
“これに反し、日本書紀の編者は、その「正しい方向」を見失っていた。日向国の吾田邑の吾平津媛〈神武紀〉とあるように、右の「日向」を宮崎県の「ひゅうが」のごとく解していたようである。”
とし、又、同書(二一八〜二二一頁)において、「神代三陵」が筑紫の日向にあるとされた事により、そのスタンスも変わってきたのかな、と思います。
私は、神武の妻の出身地も神武自身やその兄弟達の出自も糸島半島であると思っています。その根拠となるものは、古田氏も『神武歌謡は生きかえった』(二一〜二四頁)で述べられているように、神武が東進に率いていた軍団は唯一「久米の子ら」すなわち「久米集団」だけであり、その「久米集団」は糸島半島北部、つまり福岡県志摩町久米出身の人々であったからです。もしも、神武が宮崎県の日向の出身であるならば、なぜに宮崎の軍団を率いなかったのでしょうか。率いている唯一の軍団すなわち子飼いの軍団が糸島半島出身であるならば、神武自身も糸島半島にいたと考えるのが自然ではないでしょうか。同書(二三〜二四頁)でも述べられているように、「楯並めて 伊那佐の山の 樹の門よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養が伴今助けに来ね。」の歌にでてくる「島」は、糸島郡の「志摩」であり、
“しかも、この「志麻郡」に当たる、福岡県志摩郡北半分の場合、その北岸、玄界灘沿いの地は、海鵜の大量繁殖地である。”
から、この「鵜養が伴」も「久米」と対応しています。そして、
“「神武の歌」において、神武が呼びかけている「鵜養が伴」が、みずからに「近接した部族」であったらしいことをしめすもの、それは神武たちの父親の称号である。“
とされた、神武たちの父親の鵜葺草葺不合命の称号が鵜飼いと関係の深い事から、
“神武の家系が「鵜養が伴」と深いかかわりのある家柄であった“事がわかりまっています。その根拠となるものは、古田氏も『神武歌謡は生きかえった』(二一〜二四頁)で述べられているように、神武が東進に率いていた軍団は唯一「久米の子ら」すなわち「久米集団」だけであり、その「久米集団」は糸島半島北部、つまり福岡県志摩町久米出身の人々であったからです。もしも、神武が宮崎県の日向の出身であるならば、なぜに宮崎の軍団を率いなかったのでしょうか。率いている唯一の軍団すなわち子飼いの軍団が糸島半島出身であるならば、神武自身も糸島半島にいたと考えるのが自然ではないでしょうか。同書(二三〜二四頁)でも述べられているように、「楯並めて 伊那佐の山の 樹の門よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養が伴今助けに来ね。」の歌にでてくる「島」は、糸島郡の「志摩」であり、
“しかも、この「志麻郡」に当たる、福岡県志摩郡北半分の場合、その北岸、玄界灘沿いの地は、海鵜の大量繁殖地である。”
から、この「鵜養が伴」も「久米」と対応しています。そして、
“「神武の歌」において、神武が呼びかけている「鵜養が伴」が、みずからに「近接した部族」であったらしいことをしめすもの、それは神武たちの父親の称号である。”
とされた、神武たちの父親の鵜葺草葺不合命の称号が鵜飼いと関係の深い事から、
“神武の家系が「鵜養が伴」と深いかかわりのある家柄であった“事がわかりまっています。その根拠となるものは、古田氏も『神武歌謡は生きかえった』(二一〜二四頁)で述べられているように、神武が東進に率いていた軍団は唯一「久米の子ら」すなわち「久米集団」だけであり、その「久米集団」は糸島半島北部、つまり福岡県志摩町久米出身の人々であったからです。もしも、神武が宮崎県の日向の出身であるならば、なぜに宮崎の軍団を率いなかったのでしょうか。率いている唯一の軍団すなわち子飼いの軍団が糸島半島出身であるならば、神武自身も糸島半島にいたと考えるのが自然ではないでしょうか。同書(二三〜二四頁)でも述べられているように、「楯並めて 伊那佐の山の 樹の門よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢ぬ 島つ鳥 鵜養が伴今助けに来ね。」の歌にでてくる「島」は、糸島郡の「志摩」であり、
“しかも、この「志麻郡」に当たる、福岡県志摩郡北半分の場合、その北岸、玄界灘沿いの地は、海鵜の大量繁殖地である。”
から、この「鵜養が伴」も「久米」と対応しています。そして、
“「神武の歌」において、神武が呼びかけている「鵜養が伴」が、みずからに「近接した部族」であったらしいことをしめすもの、それは神武たちの父親の称号である。”
とされた、神武たちの父親の鵜葺草葺不合命の称号が鵜飼いと関係の深い事から、
“神武の家系が「鵜養が伴」と深いかかわりのある家柄であった”
事がわかります。これは、神武たちがその父親の代から糸島半島にいた事を示しているのではないでしょうか。そして、「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻ろふ 細螺の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ。」の歌や、「宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし くぢら障る…」の歌は、実に生活感の溢れた歌であり、代々、糸島半島で生活した者でなければ歌えない歌だと思います。そして、決定的なのは、『失われた日本』(二一八〜二二一頁)で述べられている通り、神武たちの父、鵜葺草葺不合命の墓である「日向の吾平の山上の陵」が「筑紫の日向」すなわち糸島半島の高祖山付近にあるという事です。もし仮に、『盗まれた神話』(文庫本二六四頁)で述べられた様に、
「神武らは、九州辺域の日向にいた傍流者だった」のなら、鵜葺草葺不合命も宮崎県の地方豪族であったと考えるのが自然でしょう。そうであるならば、その墓が糸島半島にあるのはどうみても不自然です。やはり鵜葺草葺不合命も神武たちも代々糸島半島で暮らしていたとするのが妥当ではないのでしょうか。
では「日向の吾平の山上の陵」とは何処でしょう。この「吾平」は神武の妻である「阿比良比売」(『記』、『紀』では「吾平津媛」)と関係の深い地名です。「阿比良比売」は『記』では「日向の阿多の小椅君の妹」、『紀』では、「日向国の吾田邑」の出となっています。この「阿多」、「吾田」を「筑紫の日向」すなわち高祖山付近で見ると、福岡市早良区に「小田部」という地名があります。これは「こたべ」と呼ばれていますが、福岡市西区の「小田」が「おた」、筑紫野市の「西小田」が「にしおた」と呼ばれている様に、元元は「おたべ」と呼ばれていたのではないでしょうか。そして、小田部の南西に西区の「橋本」という地名があります。ここは元々小田部も含む「小田村」の一部であった所です。そうすると、「阿多の小椅君」はこの辺りにいたのではないでしょうか。そして「吾平」に当たる地は、小田部の東に「原」という地名があります。又、小田部の北、室見川をはさんで西区の庄に「大原」という地名があります。
この「小田部」には、弥生前期の絹の出土した有名な「有田遺跡」があり、神武の母の玉依比売を祀る宝満宮(小田部字中園)もあります。そうなると、「吾平」はこの「小田部」の東の「原」の辺りという事になりますが、この辺りに山らしきものは見当たりません。「山の上の陵」がどの辺りになるのかは分かりません。この「原」には、弥生中期の遺跡の「原遺跡」や「鶴町遺跡」があります。
他にもう一つ候補地があります。それは、西区の「今津」です。その北に「小田」があり、更に今津の字地で「大原」という地名もあります。そして、柑子岳から派生した小丘陵の斜面に弥生中期〜終末期の「小葎遺跡」があります。付近に大集落の跡とみられる遺跡もあるとの事です。この辺りに「山の上の陵」があったのかもしれません。神武たちが、糸島半島出身という事を考えると、こちらの方が可能性が高いかもしれません。
それに関連して、鵜葺草葺不合命は『紀』では、「西洲の宮に崩ず」とあります。この「西洲の宮」とは何処でしょう。私は、伊都国の長官が「爾支」と呼ばれていた事に注目しました。古田氏は『邪馬一国への道標』(文庫本二四二〜二五三頁)において、「爾支」を「ニシ」と呼び「平西将軍」に当たるのではないか、とされています。
この「伊都国」に当たるとされる前原市付近には、「西」のつく地名が多数あります。まず、同市の前原の中心部に「西町」があり、潤に「西」という字地があります。又、波多江に「西沖」という字地があり、泊に「西原」という字地があります。神在には「西宮神社」があります。そして、「西堂」という地名もあり、志摩町桜井海老崎にも「西神社」があり、糸島半島の北部、福岡市西区に「西浦」という地名があり、又、西区の小田には、かつて「西園村」がありました。志登神社を中心にしたこの一帯が「西洲」(ニシノクニ)であった事がうかがえます。そうすると、志登神社が「西洲の宮」であったかもしれません。この様に考えると、鵜葺草葺不合命は後の「伊都国」の長官に当たる役職に就いていた、あるいはそれ以上の高官であった可能性があります。そうなると、神武たちも、それなりの待遇を受けていたと考えられ、決して「九州辺域の日向にいた傍流者だった」訳ではないと思います。
では何故、神武たちは東進したのでしょうか?古田氏は『盗まれた神話』(二六四頁)において、
“神武らは、九州辺域の日向にいた傍流者だった。そして筑紫を「中央」とする九州で、不本意な情勢に直面し、この地に絶望した。”
とされていますが、「彼等を絶望させた不本意な情勢」については言及されていません。
最近、奈良県橿原市の纏向石塚古墳が3世紀前半の日本最古の古墳であるとされ、卑弥呼の時代と同じであるから、邪馬台国が大和にあった可能性が高いと、某新聞が書いていましたが、邪馬台国云々はまったくお話にならない話しなので別にして、大和における古墳の発生時期を3世紀前半と考えると、神武東進の時期は2世紀末〜3世紀初めとしても良いのではないかと思います。
ではこの時期、北九州では何が起こっていたでしょうか。そう、「本亦男子を以て王と為し、住まること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、及ち、一女子を共立して王と為す。」まさにその時代でした。つまり、天孫降臨以後、1世紀の委奴国を経て、ずっと倭国の権力の中心にいた天孫族直系の男王の死後、その跡目相続争いが起きて相争う状況になり、その結果、卑弥呼が女王として共立され、権力の中心が卑弥呼と彼女を補佐する者に移り、都も「高千穂の宮」のあった高祖山付近から春日市の須玖岡本の地に移り、糸島方面を支配下に治めていた神武たちも、権力を奪われ領地も失い、それ故に絶望して東へと新天地を求めて移動していったというのが真相ではないでしょうか。
神武たちが糸島半島でかなり高い地位についていたのではないか、という事は、前に述べました。そして、彼等が領地である糸島半島を失ったと思われる証拠は、「倭人伝」の中で、女王国として出てくる二十国のトップに「斯馬国」という国が出てきます。これこそ、糸島半島の志摩、当時は文字通り、いくつかの島々で出来ていた「斯馬国」ではないでしょうか。この二十国の国々は女王卑弥呼の直接統治を受ける国々、つまり女王国であり、神武たちのかつての領地の「斯馬国」が女王卑弥呼の直接統治下に入ったため、彼等が領地を失ったのだと思います。この様な状況に追い込まれたからこそ、神武たちがかつての都である「高千穂の宮」において、「何地に坐さば、平らけく天の下の政を聞し看さむ。猶東に行かむ。」(『古事記』)の「高千穂宮の合議」がなされたのであろうと思います。そして、これが「彼等を絶望させた不本意な情勢」の真相ではないでしょうか。
これに関連して、「古田史学会報」の“三五の高良山の「古系図」についての古田氏の論文を拝見しているうちに、ある事に気が付きました。あの論文の中で『書記』の「孝元」の「皇歴」BC二一〜BC一五八の時間帯は、「天孫降臨」の大略の実年代であるとされています。その様に考えて、「孝元」の即位開始年のBC二一四年をゼロスタートとして、「神武」が橿原宮で即位した辛酉年・BC六六〇年までの間の四四六年間を繰り下げてみると、AD二三二年になります。これは、卑弥呼が難升米を魏に使いにだして朝献した景初二年・二三八年に近い年代になります。そしてこれは、「神武東進」の時期が邪馬壱国成立時前後とする、私の説を裏付けるものではないでしょうか。そして、『書紀』を作った者たちは、「孝元」の時期が「天孫降臨」の実年代である事や「神武東進」の時期が「邪馬壱国成立時前後」である事を知っていたのではないでしょうか。『書紀』のカラクリが少し見えて来た様に思えます。
以上の様に、「神武の出自と東進」について、私なりの解釈を述べてきましたが、これは、九州王朝における神武の出自の高さを証明する事によって近畿天皇家の優位性を示そうとする皇国史観にもとずいたものではない事をはっきりと宣言しておきたいと思います。
二〇〇〇年八月八日
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
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