古田史学会報
2001年 4月22日 No.43

古田史学会報

四十三号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
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天皇陵の軍事的基礎<II> 古田武彦

五重塔の心柱 五九四年の伐採確定に思う ーー米田良三氏に聞く


「九州王朝」説の実地検証



東京学芸大学教授 西村俊一

  最近、日本考古学界は、旧石器発掘における虚偽行為が発覚して極度の混乱に陥っている。そこで気になるのが最大の偽書とされる『古事記』・『日本書紀』に依拠して来た日本の古代史学の現状である。それは信頼するに足る歩みを示しているのであろうか。日本の古代史学は、周知の様に、国際的な判定方法である放射性炭素による年代測定を頑なに拒み、専ら日本独自の土器による年代判定に固執し続けて来たのであった。しかし、そのため、全国の遺跡発掘が進むにつれて説明のつかないケースが頻出することとなっている。そしてまた、そのため、これまでの古代史学への信頼も大きく揺らぎ始めているのである。内倉武久は、その著書『太宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房、二〇〇〇年)において、そのはらむ問題の重大性を指摘し、学者が学問的良心を以て古代史学の建て直しを急ぐ様に訴えているが、それも決して故なしとしないのである。
 しかし、そもそもこの様な指摘は、古田武彦が、その著書『「邪馬台国」はなかった─解読された倭人伝の謎─』(朝日新聞社、一九七一年)以来、幾多の著書を通して主張して来たものにほかならない。その後、古田武彦は、多くの同志と共に、そのいわゆる「九州王朝」説に関わる文献考証と実地検証を鋭意継続するかたわら、新たに『万葉集』研究にも踏み込み、その編者の施している作為を剔別し、柿本人麿の実像を鮮やかに描出するなどの成果を挙げている。その著書『人麿の運命』(原書房、一九九四年)は、その端緒をなす労作であった。
 ところが、日本の古代史学界は、大勢として、この様な古田武彦の貴重な研究成果にまともに向き合うことをせず、旧来の学統をひたすら墨守する姿勢を保って来た。そのため、両者の隔たりは一層拡大するばかりとなっている。ちなみに、古田武彦は、一連の研究に基づき著書『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社、一九九〇年)を刊行していたが、それをめぐっては何の論争も生起しないままに、一九九九年における国旗国歌法の制定・施行に至ったのであった。この古代史学の情景は、真に奇異というほかない。
 恐らく、古田武彦による組織的な実地調査活動とそれによって掘り起こされる諸事実は、専ら学統の墨守をこととする古代史学者には、手に余るものに違いない。そして、そのことは、古田武彦にとっても大変不幸なことである。なぜなら、それは、古田武彦がなお当分の間孤軍奮闘を強いられ、その苛立ちを解消できそうにないことを意味するからである。しかし、幸い、この様な事態にも僅かながら変化の兆しが認められる。前掲の内倉武久の著書は、その一例である。
 さて、それでは、古田武彦の「九州王朝」説とは一体如何なるものであり、九州古代史の諸事実とは如何なる照応関係を有するのか。また、それは、九州の古代史関係者に如何に受け止められているのか。以下本報告では、二〇〇〇年十一月十三日から十六日までに行った現地調査(福岡県の筑前、筑後及び佐賀県の吉野ヶ里)を基に、これらの諸点にわたる部分的検証を試みてみたいと思う。(以下省略)
 〔編集部〕本稿は西村氏の「木曜研究会」における報告要旨レジュメから転載させていただいたものです。


福島県二岐温泉のホツマ文字文書

「開かずの間」の古文書

編集部

 和田家文書偽作キャンペーンが熾烈を極めていた頃、「津軽の片田舎に大量の古文書などあるはずがない」という東北蔑視の偽作論も囁かれていた。津軽には和田家文書以外にも多くの古文書が旧家に伝えられていることは、当地では著名であるが、心ない偽作論者にとって、真実よりも偽作キャンペーンの「効果」が重要だったのであろう。
 そうした豊かな歴史を持つ東北地方から、大量のホツマ文字文書が出ていたという情報が、昨年編集部に寄せられていたので、その概要を御紹介する。
 それは、東京学芸大学の西村俊一教授より送られてきた「ホツマ」十二号(平成八年十一月)掲載の鏑邦男氏「古事記・日本書紀はなぜ編集されたか(1)」で、次のように記されている。
 「東京ホツマ研究会の仲間の一人から、こんな話しを聞いた。『たまたま福島県の山奥にある二岐温泉に何度か湯治にいっているうちに、その旅館の主人と親しくなり、こんなことを聞いた。今から二〇年ほど前、この宿のご主人は佐藤さんいうが、新しく旅館を建てようとして古い家を取り壊したところ、この旧家には“開かずの間”というまったく入口のない部屋があって、この中から大量のホツマ文字で書かれた古文書が出てきた。この文書は、現在宮内庁に運ばれて保管されており、そのマイクロフィルムが富士銀行の地下金庫に預けられていて、宮内庁と佐藤さんの双方で持っている鍵がなければ開けられないという。』(中略)以下は大丸あすなろ荘のご主人佐藤好億さんからお聞きした話しをまとめたものである。『私は当家の四男で、当時旅館をやっていたのは長男でした。あれが発見されたのは私がアメリカ留学から帰ってきたのが昭和四十四年ですから、その二年前、四十二年だったと思います。(中略)あれが発見された家は何時建てたのか、はっきりしませんが、鎌倉時代のことと思われます。(中略)解体のときには、宮内庁や文化庁の係官が立ち会っていました。この家の三階には“開かずの間”というのがあることは、前から知られていて、これまでにも某工業大学でファイバースコープを使って調べようとしたことがあるんです。(中略)この建物の取り壊しには、近隣の人たちが大勢かり出されていたのですが、解体が始まり茅葺きの屋根が取り払われ、この部屋の中のものを見た途端、宮内庁の係官から工事中止が申し渡されたのです。これから先は宮内庁直属の者で工事をやるということで、地元の人たちはこの解体工事から外されてしまいました。
 なお、この作業には京都大学で主に古文書を研究している某教授や奈良女子大学の考古学専門の某教授なども参加していました。
 この“開かずの”から出てきた文書は漆塗りの大きな櫃に四十七個もあり、雨漏りのためそのうち三個は腐っていましたが、中は大丈夫でした。この中の文書はほとんど桐の柾板のようなものに書かれていました。文字は間違いなくホツマ文字です。一部漢字で書かれたもの、紙に書かれたものもありましたが、紙はボロボロでした。(中略)この発見された文書は宮内庁に運び込まれたのです。(中略)実は私の兄もこの文書と一緒に宮内庁に入ってしまったのです。兄に尋ねても、お前には関係ないんだからといって詳しいことは何も話してくれのせん。(以下略)」
 およそ以上のような大変興味深い内容である。もちろん、現段階では事の当否については不明であるが、古田史学の会・仙台や当地の研究連絡員による現地調査が計画されているので、その報告が届き次第、会報にて紹介したい。


学問の方法と倫理七 変節の論理 <略> 京都市 古賀達也


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法隆寺の心柱問題について


大阪府泉南郡 室 伏 志 畔

 法隆寺の五重塔の心柱を奈良国立文化財研究所の光谷拓実が年輪年代法によってを測定し、その伐採時期を推古天皇二年、五九四年とする結果発表がいま歴史学界を揺るがしている。
 二月二一日(水)の朝日、読売、毎日の各紙の朝刊はこの記事を大きく扱っていたが、朝日がもっとも詳しく、若草伽藍の塔の心柱の再利用説から転用説、貯木説を載せ、最後を法隆寺は聖徳太子の怨霊鎮めのために再建されたとする梅原猛の飛鳥寺からの転用説の談話で締めくくっている。
 その後、各紙を漁ったわけではないが、三月二日の「赤旗」で直木孝次郎は「七世紀前半に 建立、同世紀に衰退した寺の心柱を拝借して建てたと考えるほかるまい」(「法隆寺建立の年代と事情」)として豊田廃寺を例として上げている。また三日の朝日の夕刊は先の飛鳥寺転用説の梅原猛が「奇説とされた私の説は正説ではないか」(「法隆寺と藤原不比等」)と先の説をさらに敷延している。
 通説が戸惑うしかないのは、「再建・非再建論争」のあげく、一九四〇年の若草伽藍の発掘によって、創建・法隆寺が天智九年(六七〇年)に焼失し、現在の法隆寺が七一一年に再建されたと半世紀前に「確定」したことによる。とするとき五九四年に伐採では、再建・法隆寺の心柱が百年以上も寝かされていたことになり、二の句が告げないのである。これに対し五八八年に建設を始め五九六年に完成したとされる飛鳥寺の心柱が、蘇我同族の聖徳太子の寺である法隆寺の再建に転用されたという梅原説は、時期的には納まるというわけだ。しかし、果たしてそうか。九州王朝論者から一言あってしかるべきであろう。
 法隆寺の聖徳太子の業績に九州王朝・倭国の多利思北孤の業績が取り込まれていることについて、古田武彦の早くからの指摘があった。これを踏まえて米田良三は『法隆寺は移築された』(一九九一年、新泉社刊)で、法隆寺はその多利思北孤が創建した太宰府の観世音寺をそっくり移築したものであるとする瞳目すべき見解を発表したのは知る人ぞ知る。その観世音寺の創建は六〇七年に建設を始めから六一八年に完成したと米田良三はしているから、心柱の伐採がその十三年前の五九四年であったとする今回の発表は、まこと合理的である。というのは心柱に合わせ観世音寺の五重塔は設計され、その十三年後に建設に入り、六一八年に観世音寺は多利思北孤(上宮法皇)によって完成を見、倭国仏教の繁栄を誇ったことが知れるからである。
 しかし九州王朝・倭国はその半世紀後、唐・新羅と事を構えた六六三年の白村江の敗戦によって瓦解して行く。そして天智が唐の管理下に入った九州を見限り近江朝を開き、壬申の乱後に天武によって大和飛鳥に本邦の政治の中心が移ると、六七九年に観世音寺の大和への移築が決定され、六八五年にその解体資材は大和に到着、二〇年ほどの空白をおいて七一〇年頃完成したと米田良三は説く。
 しかし米田良三は法隆寺を観世音寺の移築としたが、なぜそれが九州から大和に移築されたかというその政治的背景についての言及を欠いている。私は『大和の向こう側』(一九九九年、五月書房刊)の「双子寺の遠景」で、移築は観世音寺に止まらず、九州からの大掛かりな中心移動であり、先祖の墓を含めた大移動ではなかったかとし、阿蘇のピンク石が運ばれている事実について触れた。とするとき当然、氏寺の多くが近畿に移築され、本尊の多くも大和に持ち込まれたのではないかと幻視した。
 推古紀十四年の夏の条に、丈六の仏像を元興寺に入れようとしたが、金堂の戸より高くて、堂に入れることができなかったため、戸を壊そうとしたが、鞍作鳥の妙案で、立派に納めることができたという記述がある。しかし、金堂に入れることができない本尊などありえないから、これは九州の元興寺の本尊を大和の飛鳥寺に入れるときに起こったてんやわんやを推古紀に取り込んだにすぎないと私は幻視し、元興寺と飛鳥寺を同一寺院として扱う通説を排した。
 これが理解できないのは、近畿王朝である大和朝廷の前史に九州の倭国史が横たわり、その倭国東朝の大和における復興が天武天皇制の創出で、それが天武死後、天智を戴く藤原天皇制に変質させられたことによって、それまでの前史の一切に悠久の大和朝廷一元史観のヴェールが被せられたことによって歴史の実相を見失ったとし、その原因は我々が理解する記紀史観の内に胚胎していると私はした。
 その天武の大和仏教構想は、かつての倭国(九州)仏教の精華である観世音寺と元興寺を左右に配し、大和における仏法興隆において名を変えて配置されたのが法隆寺と法興寺であると私はした。それは太宰府を中心にした倭国本朝の菩提寺なら、もうひとつは倭国東朝の蘇我仏教の粋を取り込んだところに、大和仏教は大官大寺を中心に羽ばたくものとして構想されていたのである。
 しかし永遠の大都としての天武の藤原京が平城京に移されたことによって、天武構想は藤原不比等の秘策の内に埋没し、正史・『日本書紀』が上程されたとき全く違ったものに変質していた。そこでは大和仏教はかつての倭国仏教の精華を取り込んだはずの法隆寺と法興寺の仏法構想は跡形もなく、かつての歴史一切を取り込んだ悠久の大和史観がそそり立っていた。そこではかつての倭国仏教の精華の一切を体現した架空の聖徳太子が大和仏教の輝ける樹立者として皇室の栄誉を担って法隆寺を建立し、本邦における仏教興隆の中心にあった蘇我氏は悪役を振られ、その氏寺として法興寺が今の飛鳥に投げ出されたというわけだ。
 その藤原史観の精華である『日本書紀』について、戦後史学は文献実証史学の立場から批判的検討を行い、様々な成果をあげてきた。神功皇后の三韓征伐を疑わしくなり、改新の詔は大宝律令からの張り付けであったと大化の改新は否定され、戦後文献実証史学の捨て子として登場した古田史学は、景行天皇の九州一円征服譚は倭国王・前つ君のパクリでしかないと個別に論証してきた。しかし私はその個別の論証を尊びながら、それすらもどかしいのは実証史学が『日本書紀』を全体構造として読みえているかを疑ったのである。
 『日本書紀』がいかなるものであるかについて、時代の共同幻想から読み解く私の幻想史学は、それをタラシ系征服史観による政治的御都合史とすれば足りるとしてきた。
 『日本書紀』は九州征伐を景行天皇(大足彦忍代別尊)が行い、三韓征伐は息長足比売が、また蘇我征伐による律令の開始は中大兄皇子(天豊財宝重足姫尊の皇子)が行い、日本国の天武天皇制からの簒奪は藤原不比等が行ったことを仄めかした。

 九州征伐→大足彦忍代別尊
 三韓征伐→息長足比売
 大化の改新→中大兄皇子(天豊財宝重足姫尊の皇子)
 日本国の簒奪→藤原不比等(藤原鎌足の子息)

 これらが一様に足(タラシ)系の血統を誇っていることを文献実証史学者は忘れている。この嘘の征服史観を正史に潤色することができたのは、天武によって創出を見た大和朝廷を簒奪した藤原不比等あって初めて可能となったのである。しかし正史はこの不比等の業績をはっきりと指示表出でもって記さずに、幻想表出をもって仄めかすに留めたのは、万世一系の天皇制と矛盾したからであった。しかし文献史料を動かすまいとする文献実証史学の原則は、このタラシ系の政治的偽史を正史として確定することに加担し、今日まで大和朝廷一元史観をそそり立たせる論理的根拠を与えてきた。この矛盾からあらゆる文献実証史学は今も免れているとは私には思えない。それゆえに文献実証史学は『日本書紀』の最大の詐術が藤原鎌足の名にあることを今も見通すことができないのだ。その藤原の意味が大和朝廷の前身である倭国東朝の藤王朝の源泉に天武が立ったことを意味したことについて、私は『法隆寺の向こう側』(三一書房刊)以来たびたび触れてきたので、ここでは鎌足について語りたい。というのは我々はそれをカマタリと読んできたが、不比等はこれをカマタラシとして天皇に擬するものとして、八世紀にこの名を造作したことは、先のタラシ系征服史観からしていたことはもはや明らかである。
 このタラシの意味を、清輔道生は問題はタラだとして、上代音のa→oの母音交替から、 タラ→タヤ→トヨが成立するとし、これらを地名と見て

 多羅→多耶→豊

を導いている。かくしてタラは韓半島の任那十国の一つである多羅に行き着き、本邦の豊の国への道もついたのである。
 その豊国の地名説話が『豊後国風土記』にあるが、そこでは大足彦である景行天皇が中津郡中臣村に宿ったとき、白鳥が餅となり芋草に変わった瑞兆に因み、そこが豊国と呼ばれるに至ったという。そこにタラシ系天皇もいれば、藤原の前姓である中臣もあり、『多氏注進状』によれば中臣氏は仲津臣とあり、そこには今も中津の地名はあり、大宝二年の中津郡の戸籍には中臣部の記載も見られるというわけだ。
 その中津郡にはタラシ系天皇である応神天皇を祭祀する宇佐神宮の元宮とされる薦神社(大貞八幡宮)があり、私や大芝英雄が大和朝廷の前身であるとする倭国東朝のあった京都郡に当たるのだ。そこには藤原氏から出た最初の天皇である聖武以来、天皇から唯一即位奉告を受ける宇佐神宮がある。とするとき本邦における藤原氏の本貫は豊前の中津で、韓半島の多羅から彼らは渡来して豊国に入り、そこから大和に入ったとするほかないのだ。これは本邦の歴史をその大和を中心とする独自性の発現とするのではなく、さらに九州王朝論の枠を越えて、韓半島の伽耶に開くことによって東アジア民族移動史の上に位置づけるものである。
 この法隆寺問題に見られる九州から大和への中心移動が私の幻視に留まらないのは、大阪の河内国分の松岳山古墳から出た舟王後墓誌の銘文が、死後二十七年した天智天皇七年、つまり六六八年に、ここに改葬されたことを伝えていることによっても傍証されるのである。それはこの改葬が一族郎党の大移動であったことをはからずも明らかにしている。
 悠久の大和史観という記紀史観に乗せてこれまでの歴史学はプロクラテスの寝台よろしく、そこからはみ出した歴史的事実をあらゆる身体よろしく切り捨ててきた。しかし法隆寺の心柱の年輪年代法による測定結果は、その寝台がすでに歴史事実に堪えられないものでしかないことを如実に示すに至った。その解決は大和朝廷一元史観というプロクラテスの寝台を放棄し、新しい尺度の導入なくしてありえないであろう。
 幻想史学はその早すぎた誕生を恨むまい。ただ数十年は早いことを自覚し、次第に旗色を鮮明にしつつ九州王朝論の枠を越えて、東アジアの山海の波濤を悠然と越えて行くであろう。
(H十三・二・五)


大和島

豊中市 木村賢司

 「淡路島の岩屋に島はありますか」

 「島はないと思いますが、海岸と陸続きになった島のような岩礁はあります」

 「その岩礁の名前は何といいますか」

  「知りません」

  「大和島とか絵島という島を知りませんか」

  「知りません。岩屋には、その島のような岩礁しかないと思います。今実家に来ているので手元に地図がありません。3日に自宅に戻るので調べてお知らせ致します」

 元日の夕方、古田先生から携帯電話がかかり、前記の会話をする。
 3日に、母をシルバークレインに送ったあと自宅に戻り、淡路島の海岸回りを詳しく書いた魚釣り用イラストマップを見ると、岩屋に大和島も絵島も描かれていた。私の知っていた岩礁は大和島であった。早速先生に知らせ、参考にとそのマップのコピーを郵送しておいた。

 二〜三日して、先生からまた電話。
 
 「あの絵図は大変役に立った。是非、大和島と絵島を見たい」

 「正月は二三〜二四日にかけて淡路島に釣りに行きますので、写真を撮っておきますよ」

 「二〇日に講演会があるので、それまでに現地に行き、確認しておきたい」

 調整した結果、十三日に岩屋に案内することとなり、当日、私のポンコツ車に先生を乗せ、淡路島に向かう。
 明石海峡大橋を渡っていると大和島が見えたので、「あれですよ」と教える。海峡大橋が見える淡路I・Cのサービスエリア眺望台からも大和島を見る。絵島は前の林の蔭で見えなかった。I・C内の淡路島観光連盟に寄り、大和島・絵島に関する情報とマップを貰う。どちらも一応は名所となっていたが、絵島の方により力を入れていた。
 高速を降り、現地に向かう。先生は引き潮(播磨灘から大阪湾に流れる)を見たいと言われたので、途中釣り餌店に寄り潮暦を入手する。
 岩屋に釣り以外の目的で来たのは初めて。大和島横の漁港の駐車場に車を入れ、先生と共にじっくりと見学する。潮は満潮時であった。
 これまで何の関心もなかったこの岩礁は、南北二十メートル・東西二十メートル・高さ二十メートルの砂岩山で、下部四分の一程は波に洗われる磯であり、上部はイブキという木が群生している。そして、現在天然記念物に指定されていた。現在は陸続きであるが、万葉の当時は島であったと見られた。
 北の波止(岩屋漁港)から、南の砂丘(県民サンビーチ)から眺め、周囲を巡り歩き、すぐ近くの岩屋神社、北に二百メートル離れてある絵島も訪ねた。
 これらのことは、万葉集、柿本人麿の次の歌の真の解釈を求めるための行動で、現地を訪ね思索する、いつもの先生の研究態度である。

 256天離 夷之長道従 恋来者 自明門  倭嶋所見
あまざかる ひなのながちゆ こいくれば あかしのとより やまとしまみゆ

 303名細寸 稲見乃海乃 奥津浪     千重迩隠奴 山跡嶋根者
なぐわしき いなみのうみの おくつなみ ちえにかくりぬ やまとしまねは

 大和島には256番の歌が彫り込まれた石碑があり、その解釈、解説板(通説)もあった。先生の見解はこれとは全く異なることを知った。通説は256番の倭嶋も303番の山跡嶋も奈良の大和を指すとしているが、先生は、倭嶋は明石海峡から見える瀬戸内海の島々を注し、山跡嶋は淡路島の今回訪れた大和島のことでは、としている。
 一月の講演会では256番の歌についての説明はあったが、時間がなく、303番の説明がなかったこと、やや残念であった(内容は割愛)。
 天の邪鬼の私は、今回この島を見て、256番も303番もこの島のこと、と直感している。また岩屋神社はこの島を神島として崇めるため作られた神社では、と思うようになった。
 絵島は大和島の半分程の奇岩の小島で、絵になる島であった。観光にはこちらの島に人気があることうなづけた。でも、釣行でこの横を何度も通っているのに、これまで私は気付くことがなかった。

 先生の目的はほぼ達成されたので、淡路島の北端を回って、瀬戸内海側(播磨灘側)の震災被害のはげしかった北淡町(野島)、一宮町をドライブ。途中、尾崎の私の小屋(西海望)にも案内して休憩。ベランダから西の海に向かってツレション。さらに、郡家から淡路の国・一の宮である「いざなぎ神社」に案内して、樹齢九百年の連理の楠も見て戴く。この宮は今も皇紀二千六百年であった。
 津名一宮ICから高速に入り、今一度、明石海峡大橋の上から大和島を振り帰り
見つつ帰路についた。

・釣りでなく、古代史探訪、お手伝い、 淡路の島の大和島


◇◇連載小説『彩神』  第八話◇◇◇◇◇◇
   
 青玉(せいぎょく) (4)
 −−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−     
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美

 志々伎(シジキ)の館に来てから、奴婢達の生活は幾分楽になった。船酔いの苦しみがなくなった上、狭い所に四十人も押し込まれて屍と汚物にまみれていたのが、二、三人ずつに一室を当てがわれ、食事も内容は同じだが、日に三度配給されるようになったのだ。
 夜は、熊谷(くまがい)という監督官が、囲炉裏端で中国渡りの博打(ばくち)を披露した。熊谷は博打好きで、敗者には酒や食物を奢(おご)らせる他、身の上話をさせたり故国(くに)の歌舞を演じさせるなど工夫を凝らした。しかし、奴婢達は昼間、種まき、草刈り、水汲み、伐採と重労働に追いまくられる為、夜は食事もそこそこに寝てしまうのが常だった。八島士奴美(やしまじぬみ)と猿田彦も、熊谷の博打に加わったのは数える程しかない。
 志々伎は水田開発に力を入れており、温暖な気候を利用して初夏と秋の二度収穫を目論んでいた。この試みは成功し、末廬国の平野は四季を通じて青々と稲穂が波打っていた。けれども当時、害虫退治に効果(ききめ)のある薬などは存在していなかったから、奴婢達は虫除けとして盛んに水をまいたり、稲穂を狙う小鳥たちを鳴子を振って追い払ったりせねばならない。脱穀機もない時代で、米を選り分けるにも素手で籾殻(もみがら)を落とし、茎は乾燥させて円座や筵(むしろ)、籠を編むのに使う。尖った葉や茎に男達も存分に皮膚を裂かれ、奴婢の四肢は傷だらけだった。血が出たと獣のように傷口をなめていると、
 「こら、何を怠けてとる!?」
 容赦なくムチを浴びせられる。
 田植えや稲刈りも当時は裸足で泥水の中へ下りて行くのだから、思いがけない地底の岩に爪突いたり、泥濘(ぬかるみ)に滑ったりして、せっかくの実りが台無しになる事も少なくない。そうした場合も責任は皆、奴婢にかかって来るのだった。奴婢は家畜と同じで主人の意のままになる道具、生かさず殺さずというのが彼らを扱うコツなのだ。
 志々伎や笹部(ささべ)は、奴婢を取り締まる監督官も彼らの一部と見成しているようで、熊谷の博打の賑わいを聞きつけると、
 「うるさいぞ。今、何刻(とき)だと思っている!?」
 と、よくどなり込んで来た。
 「奴婢にも娯楽を与えてやりませんと、逃亡したり反乱を起こしたりする恐れがあります。」
 熊谷が説得しても、
 「貴様、俺に逆うのか? ここの主人を誰だと思っている!?」
 と、ムチを鳴らし、ひどい場合は酒瓶や血染めの獣の内蔵を叩きつけたりした。
 ある晩、博打の席に、白米で醸(かも)した上等の甘酒や鹿の焼き肉が並べてあるのを見咎められ、
 「道理で、厨(くりや 台所)で変な物音がすると思ったが──」
 「盗っ人猛々しいとは、貴様の事だー」
 熊谷は棍棒で袋叩きにされ、柘榴(ざくろ)のように割れた傷口には何日もウジがたかったままだった。
 「親方、これを付けなよ。」
 見かねて、八島士奴美が蜂蜜を取って来て塗ってやると、
 「あの御馳走はーー姫君がーー。」
 熊谷は呻(うめ)いた。
 「口を利かん方が良い。」
 猿田彦も制し、水を含ませてやる。
 そこへ、
 「熊谷はいて?」
 葦笛のような細く澄んだ声がして、小屋の戸口に人影が射した。
 「これは姫君・・・!」
 八島士奴美が慌てて一礼する。本来なら、末廬国の王女に頭を下げる理由(わけ)はないのだが、奴婢に身をやつしている以上、仕方なかった。
 「私の為に──」
 息絶えだえに横たわっている熊谷を見るなり、少女の目には涙が盛り上がった。
 「と、とんでもねエ・・・あっしが、早く食い物を、みんなに、分けて、やらなかったからで──」
 喘ぎつつ首を振る熊谷を、
 「口を利くなと言うのに──。」
 猿田彦がたしなめ、
 「お見舞いは嬉しゅうございますが、大王(おおきみ)は厳しいお方ですからな。見つかったら、姫君もどんな目に会わされるか判かりませんぞ。さ、早くお室へお帰り下さい。」
 八島士奴美が追いやると、
 「私の名前はみちるです。」
 少女は静かに言い、
 「お詫びに、これを熊谷にあげて下さい。田んぼの中で履くようにと。」
 タンポポと空のかけらのような濃青の花で緒を綴った、細長い二枚の板を渡した。
 「こいつは、俺の故郷に咲いている熊谷草だ。お前と同じ名だからと、お袋がよくつんで来たが・・・。」
 熊谷は濃青の花束を喜んだが、八島士奴美は板の方に首を捻(ひね)っていた。板は二枚共裏に頑丈な歯が打ち込まれており、田んぼで履くようにとみちるが言い置いて行ったからには、転倒を防ぐ為の道具なのだろう。が、こんな物を着けて田植えや刈り入れが出来るだろうか? 返って、余計な力を使う事になりはしまいか──?
 だが、実際に使ってみて、懸念は解消した。
 「俺は当分動けんから、あんた方が耕作指導してくれ。」
 熊谷に言われて、八島士奴美と猿田彦がまず高足駄(たかあしだ)を試用してみたのだが、意外と履き心地が良く、少々の水溜りも平気で踏み越えられるし、泥濘に触れてもグラつかない。
 「便利な物が出来たな。」
 「姫君のおかげだ。」
 「お願いして又、作って頂こうぜ。」
 奴婢達が交代でつっかけてはしゃいでいると、
 「具合はいかが?」
 畔道(あぜみち)から、再び葦笛の調べが湧いた。泥水がはね返っても良いように粗末な長衣に着替え、粗布(あらぬの)を被せた大きな籠を下げたみちるが立っている。
「みんな、大助かりですよ。」
 八島士奴美は思わず口元を綻ばせたが、
 「わざわざ様子を見に来て下さったのですか? 兄君に叱られはしませんか?」
 優しく咎めた。
 彼の危惧を裏書きするように、
 「姫様ア、みちる様ア!」
 呼び声が近づいて来た。
 「随分お捜し致しましたよ。兄君が狩へお出かけというのに、どこにもいらっしゃらないんですから──。」
 息を弾ませて駆け寄って来た乳母は、
 「ま! 銀シャリ寿司に山羊の乳まで──」
 みちるの籠の中味に目をむいた。獣の乳を利用して酥( チーズ)や酪(らく バター)を作る事は当時から倭地でも行われ、寿司は越(こし)攻めに伴う大和三山の争いから西へ逃れた人々により、もたらされた新たな調理方法である。
 「これを奴婢達におやりになるんですか?」
 口を尖らせる乳母に、
 「私達の生活(くらし)を支えてくれているのは、この人達ですもの。滋養になる物を食べさせて上げなくちゃ。」
 みちるは、やや震えを帯びた声ながらもはっきりと答え、
 「どうかみんなで食べて下さいな。」
 八島士奴美に籠を差出した。
 〈続く〉

【後記】
 今回はチーズにバターとお寿司、それに熊谷次郎直実(「平家物語」)の各先祖を登場させてみました。

(深津)


神武の出自と東進の謎 千歳市 今井俊圀

「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残映 京都市 古賀達也


□事務局だより □□□□□
▼本号が会員に届く頃には古田先生は中国から帰国されている。当地の大学での講演など大きな成果が期待される。それと行き違いに私も中国入りする。ただしこちらは仕事だ。
▼中国第二の大河、黄河の水が枯れて深刻な水不足らしい。聞けば、下流の泰山付近では京都の鴨川より水量が少ないらしい。
▼歴史教科書が国際政治に翻弄されている。学問と真実が政治に干渉される時代。自国の歴史教科書ぐらい、多元史観で作りたいものだが、互いに尊敬しあえる国になれるのは何時のことか。この時期先生の訪中は意義深い。koga


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)四集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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