古田武彦
一
前稿(「天皇陵の軍事的基礎」)の補編を記したい。
前稿の基本テーマ、それは次のようだ。
「天皇陵などの巨大古墳にとって、“死者への祀り”は楯の一面である。他の一面の目途するところ、それは(仮想敵国に対する)軍事要塞(砦)の役割を用意するにあった。」
と。これである。
その「仮想敵国」とは誰か。
最初は、大和盆地周辺(大阪府茨木市の東奈良遺跡が中心)における銅鐸圏の勢力ーー箸墓古墳等。
次は、朝鮮半島における高句麗・新羅の勢力ーー応神陵・仁徳陵古墳等。
これらである。いったん緩急あって、これらの勢力の「反撃」ないし「侵入」をうけ、交戦状態におち入ったとき、このような“突出せる人工山地”は大きな役割を演じ、自軍を有利に導く。わたしはそう考えたのである。
山地の多い、日本列島のことであるから、それらの周辺の山々そのものには、高さ、規模ともに及びもつかないけれど、それら自然の山々と異なる点、それは「人間がその地理的位置を選択できる。」という一点にあろう。すなわち、それら巨大古墳の拠って立つ地理的位置、それが決定的な「意味」をもつ。
箸墓の場合、木津川沿いに桜井市(崇神天皇の都城)方面へと敵が「侵入」してくるとき、それを迎え撃つべく“さえぎる”もの、それが箸墓であった。ここに“見張り”や“現地の司令グループ”を置きうる。そういう地理的位置だ。
応神陵の場合、大和川沿いに大和盆地へ「侵入」しようとする敵軍があったとき、もっとも主要な「侵入口」、その地理的位置にこの巨大古墳が造成されていることに驚かされる。
同じく、仁徳陵の場合、大阪湾岸の堺港周辺という屈強の地理的位置が“えらばれ”ている。この点、わたしは堺市役所屋上の全方位ガラス張り展示室に上り、この一大状景を改めて確認することができた(二〇〇一、一月二十四日)。
これらの二巨大古墳及び周辺古墳群は、一面では「大阪湾岸」そのものを“守る”と共に、他面では、より奥の「大和盆地」を最終拠点として、断固“守る”姿勢が観取される。
いったん、この(朝鮮半島方面よりの)「侵入」軍があった場合、そこには“容易ならざる”戦況の展開されること、そしてその不可避であることを、よく洞察した「地理的位置」への配慮と思われる。
これがわたしの基本仮説であった。
二
本稿における新しい提起、第二仮説についてのべよう。それは次のようだ。
「巨大古墳において、『祀り』と『軍事』の二つの役割(機能)は対応しない。」
これである。一見、先の第一仮説と「矛盾」するかに思われよう。さに非ず、だ。これはあくまで、先の第一仮説を「大前提」とした、新たな仮説なのである。
箸墓について考えてみよう。
第一、この巨大古墳が当代(崇神天皇の時代、前後)随一の規模をもつこと、疑いがない。
第二、では、この被葬者(倭迹迹日百襲姫命)は当代最高の実力者だったのであろうか。
いいかえれば、第八代、孝元天皇(彼女の父)第九代、開化天皇(彼女の兄)、第十代、崇神天皇(彼女の甥)等に比して、彼女の方が断然、軍事的・政治的・宗教的に“抜群の実力者”だったのであろうか。ーー否。
もし、そうであったとすれば、記・紀とも、彼女に関し、“童話じみた”説話のみではなく、その「政治」的、「軍事」的実力のほどを叙述すべきであろう。しかし、それはない。
その点から(時間帯に関する「判断」と共に)この墓の「被葬者」を“崇神天皇”に当てる論者もあるようだけれど、それは「暗々裡」に
「巨大古墳の規模と、その被葬者の生前の(政治的・軍事的)実力とは対応する。」
という「公式」を建てているからではあるまいか。
もし、この「公式」を採用するならば、
「代々の天皇陵の規模と、その各天皇の(生前の)実力とは相応する。」
というテーマを「証明」せねばならぬこととなろう。
しかし、例の「応神天皇」や「仁徳天皇」といえども、果して「他の天皇とは比類を絶する実力をもっていた天皇」と言いうるのであろうか。他の天皇陵で、それほどの「巨大規模」をもたないものも、少なくはない。
もちろん、現在の「天皇陵」が、通例(宮内庁「公定」)の天皇名と一致していない可能性を説く、森浩一氏等の提起は学界に著名ではあるけれど、それとしても、果して右のテーマを「実証」することは可能であろうか。
わたしには結局、「困難」のように思われる。
第三、明らかな事実、それは次の一点だ。
「当の巨大古墳を築造したのは、その被葬者自身ではなく、その当代、あるいはそれ以降の権力者である。」
すなわち、箸墓古墳を築いたのは、当然百襲姫自身ではなく、崇神天皇(第十代)や垂仁天皇(第十一代)たちなのである。
彼等がそれを築いた目的、それは先にのべたように、その「地理的位置」の軍事性にあった。それは、第一仮説のしめすところ、疑えない。
けれども、そのための「巨大労働力動員のための大義名分」、簡単にいえば「口実」、──それが「百襲姫を祀る」ことにあった。そしてそのために、「三輪山の古来の神(蛇信仰)と“現代”の百襲姫とを結ぶ」ための“童話”めいた説話が「流布」せしめられたのではあるまいか。その「流布」の真の目的は、軍事目的だ。
おそらく、その説話は、古来の(縄文以来の)現地説話からの(女神名を取り変えた)“換言奪胎”だったのであろう。
第四、この点、一見ストレートな命名と見える「応神陵」や「仁徳陵」などの場合も、例外ではない。それらの「被葬者の名」を大義名分として、率直に言えば「口実」として、当代(築造年代)の軍事目的に“答える”ための築造だからである。
(これらの「天皇陵」築造の実年代について、かっては考古学編年の立場から疑惑が出されていたこと、著名であるが、この点、近年の「年輪年代測定法」〈光谷拓実氏による〉の立場から、これを再考する必要があろう。)
第五、このような「“祀り”と軍事とのズレ」という、新たな視点の導入によって、もっとも大きな利点、いわば「問題解決」の導入口をえることができるのは、「非、天皇名、巨大古墳」の問題であろう。
すでに若き日の森浩一氏の、小さな佳著『古墳』(昭和四五年、保育社刊)にしめされたように、「非、天皇陵」としての巨大古墳は、大和や和泉・河内(大阪湾岸)にも、決して少なくはない。たとえば
見瀬丸山古墳(大和) ・・・三一八
にさんざい古墳(和泉)・・・二九〇
仲津姫陵古墳(河内) ・・・二八九
神功皇后陵古墳(大和)・・・二七八
ウワナベ古墳(大和) ・・・二五四
室大墓(大和) ・・・二三八
メスリ山古墳(大和) ・・・二三〇
手白香姫陵古墳(大和)・・・二三〇
(メートル)
いずれも、他の多くの「天皇陵」より巨大である。たとえば、
允恭陵古墳(河内)・・・二二七
垂仁陵古墳(大和)・・・二二七
継体陵古墳(摂津)・・・二二六
なども、諸天皇陵中では決して“小さい”方ではないけれど、これらより、先の「非、天皇陵」の方が巨大なのである。
そのため、これらの「非、天皇陵」(たとえば、見瀬丸山古墳)を以て、“真の天皇陵”と見なし、これをいわば「格上げ」しようとする論者があるけれど、それは学問の方法論からいえば、「天皇陵」における
「“名”(天皇名)と“実”(規模)を一致させねばならぬ」
という、学問上いまだ「立証されたことのない公式」にもとづく提案なのではあるまいか。
そしてたとえ、この「一、見瀬丸山古墳」を「格上げ」してみたとしても、右のような、他の「非、天皇陵」の“いっせい、格上げ”が果して可能なのであろうか。 ーーわたしには疑問だ。
第六、まして他地域にも「巨大古墳」がある。
造山古墳(備中) ・・・約三五〇
作山古墳(備中) ・・・約二七〇
オサホ塚古墳(日向)・・・二一九
五色塚古墳(播磨) ・・・二一八
天神山古墳(上野) ・・・約二一〇
これらの実長は、もちろん現在では“より精密”になっているであろうけれど、いずれにせよ「多くの天皇陵より、規模が大きい」こと、疑いがない。
これらをすべて「天皇陵」へと“格上げ”することなど、とてもできない相談だ。
やはり「天皇陵か否か」を、その実長や規模によって判断する。この方法は学問上、必ずしも正しくはなかったのである。
右の「非、天皇陵古墳」は、それぞれ「某〈王〉や某〈王女〉」さらに「在地の各豪族」への美しき「追慕」を「名」として造築されたのであろう。けれども、その「実」は、やはり当築造時代における、鋭い軍事的実状勢と、“深く契合”していた。それがことの“偽わらぬ”実態だったのではあるまいか。
三
わたしは黄金塚古墳の頂上に立った。今年(二〇〇一)の一月七日である。藤田友治さん、谷本茂さんとの同行だった。
はじめてだという谷本さんの要望に導かれたのだったけれど、実は藤田さんも、わたしも「はじめて」だった。
もちろん、十数年前、藤田さんとここに御一緒したことはあった。しかしそのときは、まだ今回のような「問題意識」(「天皇陵の軍事的基礎」)がなかった。ただ、有名な「景初三年鏡」(画文帯神獣鏡)が出土した古墳として、その現地を見ていただけだった。
今回はちがった。頂上部まで大半が畑地と化している。その一画、「末永雅雄・森浩一」の名前の刻まれた記念碑のすぐそばで、周辺を一望したとき、一瞬、わたしは深い驚きを覚えたのである。
西に、眼下の大阪湾、堺港がひろがる。東に、生駒山・二上山・金剛山の列峯があざやかで、目に、あまりにも“近い”のだ。ここで“狼火”をあげれば、直ちに反応しよう。そして北には、仁徳陵などの百舌鳥古墳群が分布する。
思い出した。有名な逸話だ。森少年が土器片を発見したのは、「砲兵隊の台地作り」のさいの残欠だった、と。それを末永氏に報告したというのである。
なぜここに「砲台」を。百聞は一見にしかず。ここは軍事的に“屈強の地形”だ。信太丘陵の北端に当っている。
「敵」が襲来したとき、彼等を迎え打ち、狼火をあげるべき、絶好の地形だったのである。そのときの「仮想敵国」とは。現代のわたしたちに説明は不要だ。
これはさして「巨大古墳」とは言えないけれど、この地形(信太丘陵部北端)を“えらぶ”ことによって、最高の「軍事的位置」となりえたのである。
この地の前方(西)の大阪湾の一画には、播磨(兵庫県)最大の「巨大古墳」たる五色塚古墳がある。この古墳が明石海峡方面を眼下にする、最良の「軍事的地形」に存在していること、この事実を疑いうる人はいないであろう。
四
さらに翌日、わたしはメスリ山古墳の頂上に立った。伊東義彰さん(生駒在住、古田史学の会)の導きだった。その古墳の名前を聞くことは久しかったけれど、現地へ来たのは、文字通りはじめてだった。
この頂上に来て、再び一驚した。樹の合間から、すぐ前(西方)に見えるもの、それはあの有名な、畝傍山、そして耳梨山である。例によって「香具山」は低丘陵だから、“樹の間”からは、なかなか認識しにくい。
わたしは了解した。「低い」香具山に代って、山地上のこのメスリ山古墳が“東から”飛鳥の地を「守る」、そういう戦略的位置に、まさに築造されていたという事実を。
一方の背後(南)には、すぐ「吉野」方面が“迫って”いる。
わたしたちには「吉野」といえば、名勝だ。桜の名所である。蜻蛉の滝もある。しかし、古代人にはそのような「風流の目」だけからこの地域を“眺め”ていたわけではないであろう。
なぜなら、自分たち(近畿天皇家の人々)の祖先たる神武天皇は、この地帯(吉野山地)の一画へ、熊野を経由して「侵入」した。そういう、あざやかな軍事伝承を保持していた人々だったからである。
それ故、新たに、自分たちに対する「敵」が、或は「紀ノ川」から、或は「熊野」から、再び「侵入」してきて、ある日、自分たちを襲う、その可能性を決して“忘れ”てはいなかった。それをしめすのが、このメスリ山古墳の築造だ。わたしにはそのように思われたのである。
このメスリ山古墳から実に「数百人分」の武器類、冑や剣類が出土したこと、あまりにも著名である。
この事実ほど、「古墳のもつ軍事的意義」という、わたしの提起した命題を赤裸々に証言しているものはないであろう。
この「メスリ山古墳」の被葬者の「名」が伝わっていないこと、それにわたしたちは驚く必要はない。
ただ、その築造の当事者が「古墳時代前期」における「大和(飛鳥)の権力者」たちであったこと。その事実を確認すれば、足りうるのである。そのため、「某王への追慕」を“名”とする、この巨大古墳を、ここに築造したのだ。
わたしたちは、ほとんどの古墳の被葬者が必ずたずさえているものが、まさに「剣」という武器であること、その一事のもつ現実(リアル)な、本来の意味を、あまりにも「軽視」しすぎてきていたのではあるまいか。
〈注〉森浩一氏(毎日新聞、一九九九、二月五日〔金〕)
ーー二〇〇一、三月八日稿了ーー
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
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『古代に真実を求めて』第五集
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