古田史学会報
2000年12月12日 No.41
古田史学会報四十一号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
天皇陵の軍事的基礎 古田武彦
日進市 洞田一典
<> 岩波古典文学大系『古代歌謡集』の「催馬楽」の部に、つぎの歌が載っています。
「難波の海 難波の海 漕ぎもて上る 小舟大船 筑紫津までに 今少(すこ)い上れ 山崎までに」
(名无波乃宇美 名无波乃宇美 己支毛天乃保留 乎不祢於保不祢 川久之川万天尓 以末須己伊乃保礼 也万左支万天尓)
編者である小西甚一氏は頭注において、難波の海=大阪湾。筑紫津=筑紫国の港ではなく、淀川から難波までの間にあった地名とする入文の説(橘守部の『催馬楽譜入文』—洞田注)の説がよい。(中略)「筑紫へ出発する津」の意味かもしれない。山崎=淀川を上って、京の近くまで来た所。土佐日記に「山崎の橋見ゆ」とある。筑紫津は、そのすこし下流らしい、と述べておられます。
いくら北九州との舟航が多くても、港に筑紫の名をつけるのは変ですし、淀川にそのような地名があった話も聞きません。この歌が頭の端っこに引っかかっていたのですが、インターネットで東京古田会のホームページを拝見していましたところ、厚木市の平松幸一氏による『新北(にぎた)が津であった時』に、文章といっしょに遠賀川流域の美しい地図が示されていました。その地名表示の中に「山崎」・「新山崎」を見つけたときはビックリしました。ただし、山崎の読みは、「やまのさき」らしいのですが。
最近、「にきた津」をめぐり遠賀川説と筑後川説とが両々相譲らずにぎやかです。その一方に肩入れすることになるかも知れませんが、難波の海の所在について少々考えてみました。武光誠氏『テラスで読む邪馬台国の謎』の一三三ページから引用させてもらいます。
「現在の遠賀川や筑後川の流域をみてしまうと、その川が水運に用いられたことを想像しにくい。川と同方向に走る国道を走るトラックがひっきりなしに往来しているからだ。しかし、江戸時代まではその二本の河川が、重要な交通路であった。遠賀川には、タイと呼ばれる川船が運行していた。その大きさは、長さ約九メートル、巾約二・五メートル、深さ約五十センチメートルに及び、五トン近くの荷を積めた。上流や支流でもその半分ないし三分の一の川船が運行していた。福岡藩の許可を受けた船だけが、貨物の輸送に従事できた。宝永年間(一七〇四‐一七一〇)には十三の船場に属する風のあとでもない限り、船を使えば比三百六十五艘の船があったという。台較的楽に河川をのぼれる。(以下略)」
山崎はだいぶん川上にあり、新北津はほぼその中間あたりです。歌がこの辺の風景を写したものとすれば、難波の海は遠賀川河口に近い一帯の海を指して言ったと思われます。書紀の孝徳天皇白雉二年条にある巨勢大臣の言、「難波津より筑紫海の裏に至るまで相つぎてふねを浮べ云々」にある難波津は、新北津にぴったりではありませんか。筑紫海の裏は博多湾になります。催馬楽は民衆の歌ですから、筑紫で生まれ歌い継がれて近畿まで伝わるうちに、新北津は筑紫津という広域名に訛っていったのでしょう。
盛況!発刊三十年記念福岡講演会
事務局長 古賀達也
一九六九年、『史学雑誌』を飾った衝撃の論文「邪馬壹国」により、日本の古代史は一新されました。古田史学の誕生の瞬間でした。そして七一年、『「邪馬台国」はなかった』の発刊によ、それは万人の前に登場。それまでの非論理的な邪馬台国論争に終止符が打たれたのです。しかし、古田氏の学問は、更に『失われた九州王朝』『盗まれた神話』と、初期三部作として発展し、多元史観・九州王朝説の幕が切って落とされました。
『「邪馬台国」はなかった』が発刊されて、来年は三十周年。記念行事の先頭をきって、十一月十一日、金印を蔵する福岡市博物館で記念講演会を開催。予想を上回る百二十名以上のご来場いただきました。遠く仙台の会からは佐々木広堂さん、青田勝彦さんらが駆けつけて来られ、関西から来た私や水野代表、木村さん、横田さんと本会の全国世話人が集いました。関東からは東京古田会の田島さん、多元・関東の下山事務局長らも見えられ、古田学派の同窓会のようでした。
御来賓の祝辞も素晴らしかった。桑原博物館々長(前福岡市長)、柳澤義幸氏(二日市病院長、九州王朝の王冠を所蔵)、北村泰一氏(九大名誉教授、地球物理学)、内山信氏(松本深志高校での教え子、音楽家)という、地元福岡の良き理解者の方々。次いで司会の力石さんの粋なはからいで、高校生の生熊由美さんから古田先生への花束贈呈。そして私は「浮羽郡天の長者伝説と九州王朝」のテーマで研究報告。上村正康先生(九大教授、物理学)からは、「日中物理学合同シンポジウム(甘粛省)」にて英語で紹介された古田説(穆天子伝と倭人伝)を、日本語で再演していただきました。
休憩を挟んで、いよいよ古田先生の記念講演。「君が代」は卑弥呼へ捧げられた歌、巨大天皇陵は軍事要塞、といった驚愕すべき最新のテーマが情熱的に次々と語られました。こうして三〇年記念の最初のイベントは成功裏に終わることができ、福岡の会員のご協力に深く感謝。
来年は友好団体と共に東京での記念イベントを企画中です。明石書店からは古田武彦全集の刊行が開始されます。本会としては、『「邪馬台国」はなかった』の贈呈を海外の日本史研究者・機関へインターネットを通じて行います。また古田先生へパソコンの寄贈も検討中です。
十九世紀、ドイツのアウグスト・ベエクにより提唱された学問、フィロロギー学は極東の島国、日本において村岡典嗣先生から古田武彦先生へと受け継がれ、二十世紀末、古田史学として豊かに結実しました。来る二十一世紀は古田史学の世紀です。全ての古田学派、会員の皆様のご協力をお願い申し上げる次第です。
小金井市 斎藤里喜代
「カメレオン」が「小さいライオン」という意味だというのをテレビのクイズ番組「ふしぎ発見」で初めて知った。マダガスカル島の現地語で「カメ」は「小さい」とか「陸上の」とかいう意味だという。この「カメ」が、古賀達也さんが展開した『「犬」をカメというのは外来語ではなく、古くからの方言だ』というのに結びつかないかと思い、辞典を再点検してみた。
まずカメレオンの方だが、角川書店の『外来語辞典』では(地上のライオンの義)とある。しかし、本物のライオンも地上で生活していて、むしろ樹上にいるのはカメレオンの方である。「カメ」を「陸上の」と解するのはおかしいので、もう一つの意味の「小さい」と解すれば「小さいライオン」としてカメレオンの名にふさわしい。ここで、マダガスカル語の「カメ」は「小さい」と固定する。
さて日本語の「カメ」を小学館の『日本方言大辞典』で引くと「カメ」も「カメいぬ」も意味は「洋犬」である。他に青森県三戸郡では「カメ」も「カメいぬ」も「小さい洋犬に似た犬」とある。ここでマダガスカル語と同じ「小さい」という意味が出てきた。島根県鹿足郡では「カメ」は「子牛」のことである。他に「蚊」を「カメ」というところもある。「蚊」も「子牛」も「小さい」のである。
細かいところは辞典でみてもらうように、カメには小さいという意味が透けてみえる。カメいぬの「カメ」が犬なら「犬犬」という名になり少し変である。「カメ」が「小さい」という意味なら「カメいぬ」は「小さい犬」となり、犬を呼ぶ語「カメカメ」は「犬犬」ではなく「ちびちび」となり、「カメいぬ」から「いぬ」が省略されて「カメ」のみでも、「小さい犬」を表すようになる。つまり矢印は「カメいぬ」→「カメカメ」→「カメ」となる。
そうなれば各種辞典の語源説話に出てくる「カム・ヒヤー」の略「カメヤ」というどこでも使っていない中継語の出番はまったく無くなる。
さて日本語とマダガスカル語の「カメ」が「小さい」という意味になったが、日本とマダガスカルの接点はあるのか。答えは「有る」である。
マダガスカル島はアフリカ大陸の東にあり、対岸にはローデシア人のみつかったザンベジ川の河口と、アウストロピテクスのみつかったリンポポ川の河口がある。人類発生の地である。そして驚くべきことに、縄文時代前期(六千年前)以前に、アフリカから日本にひょうたんが来ているのだ。 若狭の鳥浜貝塚では、アフリカ原産のひょうたんの皮と多数の種が出土していて、すでに栽培がされていた(注1.)。しかしどういうルートでアフリカから来たのかは不明とされている。ともかく、ひょうたんは日本とアフリカの接点をつくった。つまりマダガスカルと日本の接点はひょうたんである。それは海を越えてやってきた。
ひょうたんは水筒や液体を持ち運ぶ容器になり、舟のまわりに沢山並べれば浮輪のかわりになる(注2.)。また、杉の木製の丸木舟が鳥浜貝塚から二隻、すぐ近くのユリ遺跡から一隻出土している。うち鳥浜貝塚の一隻は日本最古の舟で、縄文時代前期(六千年前)であり、長さ六メートル、舟べりは浅く、杉の木製で軽くスピードが出る(注3.)。他の二隻は縄文後期(四千年前)で、やはり舟べりは浅く、スピードが出る。また木の櫂は六十本以
上出土していて、舟の利用の多かったことを物語っている。
杉の木の舟は珍しく、また杉の歴史は古くなく、鳥浜貝塚出土の舟が杉を使ったはしりであろう(注4.)。
杉といえば、アフリカから日本への中継点レバノン杉が有名な海洋民族のフェニキア人が活躍していたのは三五〇〇年前から二六七二年前である。
そしてフェニキア人と同じころ、隣接する地域で多倍年暦のヘブライ人・イスラエルユダが栄えていた。つまり、旧約聖書創世記にある多倍年暦がフェニキアにも有ったのではないか。海の上も砂漠の中も頼りは月と星と太陽である。月の満ち欠けで年を数えるのは一番解りやすい。一年で六歳か十二歳か二十四歳年を取る。
鳥浜貝塚のある若狭湾岸にも多倍年暦がある。丹後の浦島太郎の竜宮城に居た年月、八百比丘尼の年齢、はやり正月のことは多元二二号(注5.)の「はやり正月と多倍年暦」に書いた。八百比丘尼の年令は二百余歳・四百余歳・八百余歳。月をかまわぬはやり正月も多倍年暦の名残であろう。
鳥浜貝塚にはインド原産の緑豆が出土する。緑豆もひょうたんも縄文時代から栽培されている(注6.)。インド原産のハスも仏教と一緒に渡来した地域ももちろんあったと思うが、それ以前に、弥生の大賀ハスよりもっと古い時代に日本に入っていた可能性大である。
このインドもアフリカから日本への舟の旅の中継点であり、日本地名と同じ地名がある。五千年前(日本の縄文中期)のインダス文明ドーラビラ遺跡のあるカッチ湿原は日本地名の河内の方言カッチと同じである。ドーラビラのビラは北海道の赤平(あかびら)・糠平(ぬかびら)のビラと同系統の地名ではないだろうか。また現在パキスタン領のモヘンジョダロと並ぶインダス文明の地、ハラッパーは、日本語の「原っぱ」ではないだろうか。
マダガスカルと日本の「カメ」から、こうも話が大きくなると、ちょっと収拾がつかなくなるが、まずランダムに話を持っていくしかない。話を整理しよう。
若狭の鳥浜貝塚から、アフリカ原産のひょうたん、インド原産の緑豆(これらは栽培されている)と日本最古の丸木舟(杉材製)が出土していることは事実である。
五・六千年前以前にアフリカ→シナイ半島→インド→日本海→若狭湾という舟のルートがあった。
舟は六メートル前後で小さく、スピードが出るように舟べりを低くして吃水を浅くし、軽い杉材を使った。そして重い品物を運ぶために、舟や品物のまわりに浮輪として中味をくり抜いたひょうたんを沢山並べた。もっと昔は舟ではなくいかだを使っていたかも知れない。
このように古くなると外洋用か内海用かを判断するのに竜骨があるかないかとか、大小は関係なくなる。気候を考えて海に出れば、季節風や海流が舟を運んでくれて、アフリカからインド・東南アジア経由で日本海に来るのに体が濡れても寒くないし、体力はあまり消耗しないであろう。
ということで、多倍年暦や地名の一致などの傍証もあり、マダガスカルの「カメ」と日本の方言の「カメ」の意味は「小さい」で一致し、関係は充分にあると結論した。もちろん明治に入ってから渡来した外来語説はアウトである。
1. 『ふくいの古代』白崎昭一郎著、野の花文庫4(財)福井県文化振興事業団発行、平成三年三月三十日発行。
2. 同右
3. 『万葉集』巻第十四 東歌三三六七番歌
百つ島 足柄小舟 歩き多み
目こそ離るらめ 心は思えど
※足柄小舟:足柄山の杉材で作った舟。舟足の軽さが貴ばれた。
4. 同、注1.
5. 一九九七年十二月号。
6. 同、注1.
〈二〇〇〇年十月十三日記〉
◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』 第八話◇◇◇◇◇◇
−−古武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ♢♢
◇ ◇ s
呼子を出て五日目----
凄惨な船旅は、ようやく終了した。
二人が乗り組んだ時、四十人はいた奴婢達も三分の二以下に減ってしまっていた。かろうじて永ら得た者達も、引き出されて来た時は壁にすがって立っているのが精一杯という有様だった。それでも、懸命に踏み堪えていないと、
「こら、志々伎様の前でその態度は何だ?!」
商人のムチが飛んで来る。
一度、猿田彦の首にもムチが絡みつきそうになり、すかさず頭を出した八島士奴美の左頬に先が命中した。既に何人かの肩や背に食い入って血に染まっていた為、当たりはさして強くはなかったが、血糊はべっとりと八島士奴美の半面にこびり付いてしまい、商人も奴婢達も無遠慮に笑い出した。
「どこまでも爺さんを庇うとは、健気な小僧よ。」
二人を連れて来た鞍手の親方が、半ば感心して頭を振り、
「小僧、名は?」
志々伎が聞いた。八島士奴美とほぼ同年の、ススキのように背のヒョロ高い若者である。しかし、満月を迎えて露しげき秋の野に白萩や女郎花とさやぐ風情ではなく、吹き晒しの荒れ野に一本、頼りなげに震えている枯れススキだ。なのに、ムチを握った片手を腰に松の大木然と人を見下しているのは、己れの分を弁えない者にありがちの態度である。
(こういう輩には、何度かお目にかかったな。)
越(現福井〜新潟)攻めや三朝一族との戦いを思い出しながら、
「八島といいます。」
八島士奴美が名乗ると、
「申します、と言えよ。」
志々伎と並んで立っていた色の黒いずんぐりした若者が、舌先で転がしていた干棗を、いきなり八島士奴美の顔に吐きかけた。
「おい、鞍手、今度連れて来た奴婢は、どいつもこいつもやせっぽちで礼儀知らずの役立たずだな。」
横柄に商人を振り向く。
苦労して運んで来た「品物」を引き取って貰えないのか、と一瞬、商人は青くなったが、
「待て々々、笹部。ここの主人は俺だ。役に立つかどうかは俺が決める事だぞ。」
志々伎が制し、
「どうだ、貴様、これを持ち上げられるか?」
丁度足下に置いてあった大葛籠を指さした。中国渡りの品らしく、編み目の上一面に黒漆を塗り、四方を燦然たる金の松飾りでしっかりと留めてある。
嵩高なのは表向きと思いきや、両手をかけてみて八島士奴美は、中に石か金属が詰まっているのを察した。さっきのムチ同様、栄養不良の奴婢に恐ろしく目方のある品を持たせて、よろめき倒れるところを嘲笑しようとの魂胆なのだろう。
(なめるなよーー)
八島士奴美の目に、怒りの炎が現れた。
両腕に筋肉が盛り上がり、膝が徐々に葛籠を押し上げて行く。金の松飾りが八島士奴美の腕に達した時、男達からやや離れてこちらを美少女が、両手で口を覆うのが判った。彼女が志々伎の妹にして、笹部の許嫁であるに相違ない。
八島士奴美が、少女に微笑を投げかける。次の瞬間、低い気合いと共に葛籠は彼の頭上高く掲げられていた。
奴婢も商人も歓声を上げ、少女も交えて一斉に拍手が湧き起こる。
八島士奴美は掲げた葛籠を、叩きつけるように志々伎の足元に投げ下ろした。思わず志々伎は、笹部共々後ずさりする。
「いかがでございますかな?」
呼吸を整えながら、八島士奴美は不敵な視線を二人に据えた。
志々伎の歯が下唇に食い込む。
「熊谷、鞍手と一緒にこいつらを裏小屋へ連れて行け。」
志々伎は監督者に命じて、館の方へ引き返して行ってしまった。笹部も干棗の残りをかみヽヽ、後を追う。大国や木の国では自分達以外の勢力を「土蜘蛛」と呼んでいたが、笹部の姿はずんぐりした背格好といいガニ股といい、ヒョロ長い手足を自身、持て余し気味に地を這う大蜘蛛そっくりだった。
その傍らに、志々伎の妹と乳母らしい中年女が付添う。乳母はしきりに愛想笑いして、笹部に美少女の腕を取らせようとしている。少女は俯き加減に歩いていたが、八島士奴美を振り返った視線には、彼が兄達の嬲り物にされた事への同情と共に、心から笹部や乳母を嫌悪している色が浮かんでいた。
「おかしなものですな。極道揃いの中にも名花が咲き出るとは……。」
猿田彦が、八島士奴美にだけ聞こえる声で呟いた。
(続く)
〔後記〕会報三九号の、室伏氏による「九州王朝論者の試金石」、筑紫都督府問題については平野雅曠氏(『市民の古代』誌第七号)初め何人かの方が既に触れておられますし、「日鮮同祖論」も、両国を含む東アジア一帯は人種的にはモンゴロイドですから、あながち間違いとは言い切れません。大野晋氏が提唱していた「古代朝鮮語問題」は、日本よりもドラヴィダ(=南インド)との関係を明白にすべきでしょう。柳田国男の言う「海の道」(=海のシルクロード)は東端を日本とし、西端のローマにまで確かに通じていたようですし、ドラヴィダ語と現韓国語は発音もアクセントも瓜二つなのです。私がテレビ映画で見聞きした限りでは。
(深津)
つばする天空 古田武彦
□□事務局だより□□□□□□
▼ようやく『古代に真実を求めて』三集を一年遅れで九九年度賛助会員へ送付。掲載された古田論文「日本に問う…ローマ法王に応じて」「原爆投下の倫理責任について…アメリカ大統領の前に」は古田思想史を知る上で注目すべき内容。一般会員は書店、本会書籍部でお求め下さい。
▼二一世紀最初の古田講演会を関西例会で開催します。新年会参加希望者は水野代表まで予約を。
▼箕面市の地元ラジオ番組に古田先生が三回にわたり生出演。電波が届く地域の人が羨ましい。
▼パリ在住の日本人画家O・Sさんが入会。オランダの難波さんについで二人目の海外会員誕生。本会のインターネット英文ホームページへのアクセスも二万件を突破。古田史学の国際化も着実に進んでいる。古田論文の英訳も順次進めたい。英語に堪能な会員のご協力を請う。
▼近年、戦後史学を否定する意見が華やかだが、いずれも一元通念の焼き直し。二一世紀は古田史学・多元史観の世紀だ。
koga
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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