学問の方法と倫理 五 論証と傍証
古田史学会報
2000年12月12日 No.41
京都市 古賀達也
本連載の一、“『「邪馬台国」はなかった』の眼目”(三七号所収)冒頭において、小生は次のように記した。
「一部の人々が『最近の古田氏の新説は、昔と比べて論証不足である』などと、口にしたり、書いたりしているのを見るたびに、小生は深いため息を禁じ得ないのである。」
そしてその原因の一つとして、「論証責任の所在」に関する誤解というテーマを扱ったのであるが、今ひとつの問題に「論証と傍証」についての誤解がある。今回はこの問題について述べてみたい。
論証は学問の命である。そして卑近な例えで言うならば、その“命”に対して傍証は“薬”みたいなものとも言える。すなわち、ある仮説の生死は論証で決まり、生きていれば薬が有効な場合もあるが、論証が成立していなかったり不十分であった場合は、死者に薬を投与するようなものである。
日本の古代史学は学閥や国家権力に支えられて、この死者(近畿天皇家一元通念)に膨大な薬(傍証)を、しかもかなりいかがわしい薬(世界には通用しない)を大量に投与し続け、さも生きているかの様に装っている。この薬の「副作用」の被害は昨今の日本社会の現状や教育を見れば、よく判ると思う。これは、ある意味では学問・教育に対する、国家的“薬害”とも言い得よう。
小生の理解するところの傍証とは、それ自体では証明力を有せず、ある仮説が論証により成立した時にのみ、論証の成果にして対応物としての位置づけが可能となるものだ。その上で、優れた傍証は歴史の真実を生き生きと表現する役割を果たし、学問的価値を持つこととなるのである。
逆に傍証のみをいくら積み重ねても肝心の論証が成立していなければ真の学問的価値を持ち得ないし、それによって論証を成立させることもできないのである(もしできるとすれば、それは傍証ではなく、証明力を有する「直接証拠」である)。数多ある「原文改定済み邪馬台国」地名比定論などその典型だ。それでは古田説の中から具体的な例をあげて説明しよう。
現在の古田説である神武糸島発進説に対して、古田氏自身の旧説では宮崎県発進説であった。旧説は、『日本書紀』に見える「筑紫の日向」を福岡県糸島の日向と理解し、たんに「日向国」とあれば宮崎県の日向であると、『日本書紀』の記述ルールに従われたものだ。そして傍証として、宮崎県の五ヶ瀬川を神武の兄の五瀬命との関連で注目された。
その後、記紀の史料批判が進展し、神武東侵のルートなどが『日本書紀』よりも『古事記』の方が本来の姿を示していることを論証された。その『古事記』には日向からの発進とされており、それはその前に現れた「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶺」の日向と同じ日向と理解すべきという結論に至ったのである。こうして、フィロロギーの方法論と記紀の史料批判を徹底することにより、旧説を自ら否定し、神武糸島発進説という新説が生まれたわけである。そして、その傍証として糸島半島にある久米という地名に注目され、神武が率いた久米一族と関係するものとされたのであった。
概ねこの様に旧説から新説へと発展したのだが、ここで重要なことは記紀説話との類似地名(五ヶ瀬川や久米)の一致は傍証であり、それ自体から旧説や新説が成立したのではなく、あくまでも『古事記』『日本書紀』の史料批判により両説が成立したことである。ところが、こうした古田氏の学問の方法への誤解あるいは無理解から、多元史観・古田学派内部からもおかしな批判が現れたことは残念なことである。
たとえば、諏訪のシンポジウム「邪馬台国」徹底論争(注1.)でこの新説が発表された時、「久米という地名から神武出身地を糸島半島に比定することは学問の方法論上おかしい」といった批判がなされた。これは、古田氏の主張を誤解(傍証と論証の取り違え)して受け取ったため生じた批判である(注2.)。
それとは別に、旧説の否定が不十分なまま安易に新説を唱えるという批判も存在する。これなどは、論証と傍証の軽重や主従関係が理解されていないために生じた批判である。記紀の史料批判の徹底化により、旧説の論証そのものが新説の論証により否定された時点で、旧説の傍証(五ヶ瀬川などの地名と人名の一致)は全て無効となるのであり、殊更に傍証の否定作業など必要ないのである。しかも古田氏は、宮崎県の弥生時代の遺跡から三種の神器は出土せず、旧説は成立困難とする否定論をくり返し述べられており、旧説の否定が不十分という批判は事実とは異なる(注3.)。
他方、史料批判や論証を欠いたまま、自らの作業仮説に合うような「傍証」のみを羅列し、それで論証できたかの如くする論考が多元史観・古田学派内でも散見されるのであるが、傍証は論証が成立した時にのみ、その学問的価値が認められるのであり、論証に取って替えることは学問の方法上許されない。
もちろん、古代史研究の場合、史料の絶対数の少なさから、論証そのものが困難なケースが多い。その場合、どの仮説が史料(文献・考古学など)事実をよりうまく説明できるかという、ある意味では傍証の質と量により仮説の優劣が判断されることもある。しかし、この場合でも一旦論証が成立したら、百千の傍証よりも一つの論証が優先されること、言うまでもない。
私事で恐縮だが、小生は職業柄(染料開発、染色化学)、推論や仮説を証明する上で、どのような実験が必要なのか、どのような実験データが証明力を有するのかという点を、シビアに考える癖が身についてしまっている。実験そのものがうまくいっても、証明力のない実験やデータでは、学会発表において顰蹙をかうだけだし、企業では半期ごとの経営陣への成果報告会を乗り切ることはできないからだ。しかし、自然科学では当然とされる仮説と証明の因果関係への厳密な思考が、日本の古代史学界では極めて希薄のように思われるのである。してみると、自然科学の分野に古田説支持者が多いのも故あってのことではあるまいか(注4.)。
(注)
1. 一九九一年八月、昭和薬科大学諏訪校舎にて開催。東方史学会主催。その内容は、『「邪馬台国」徹底論争』全三巻として、新泉社より発刊された。
2. 同シンポジウムで、古田氏は久米の地名比定から説明を開始され、後半に「論理の連鎖」という表現で史料批判部分に触れられたため、こうした誤解が生じたものと思われる。
3. 同問題については既にシンポジウムで触れられている。
4. 自然科学と人文科学を同列に扱うことはできないが、学問の方法の論理性は全く同じと、小生は理解している。なお、法曹界に古田支持が多いのも興味深い。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
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