「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残映

古田史学会報
2001年 4月22日 No.43


「三笠山」新考

和歌に見える九州王朝の残映

京都市 古賀達也


   一

 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも (『古今和歌集』巻九)

 阿倍仲麻呂のこの歌に詠まれている「三笠山」が奈良県の御蓋山(標高約二八三メートル)ではなく、福岡県の三笠山(宝満山、標高八六九メートル)であることを古田氏が論証された。そのキーポイントの一つは、奈良県の御蓋山とした場合、低すぎて月は背後の春日山連峰(東隣の花山は四九八メートル、更にその東の連峯は約六〇〇〜七〇〇メートル)から出るため、このような歌が当地の人々の自然地形の共通 認識からは発生困難であるという点である。
 奈良県の御蓋山がこの歌にふさわしくないことは、当地でも早くから問題視されていたためか、御蓋山より高い若草山(三四二メートル)を三笠山とする見解さえ近世に発生した。すなわち、それほど奈良県御蓋山説は不自然なのである。この点、福岡県の三笠山なら自然地形上からは全く問題ない。


    二

 一方、古田説への批判として、春日市は那珂郡にあり御笠郡ではない、従って「春日なる三笠の山」という表現は福岡県の三笠山の場合不適当であるとする意見も出されている。わたしは「かすが」という地名は、福岡県の糟屋郡などに見られる「かす」という共通 広域地名を背景として成立した可能性があり、「春日なる三笠の山」という表現が福岡県の場合でも不適当とは言えないと考えている。
 また、現在の行政地名の春日市は確かに旧那珂郡に所属するが、この春日という地名は当地の春日神社から発生したとされ、その春日神社は御笠郡の大城山にあった神社を勧請したという記録が見える。次の通 りだ。

○那珂郡春日村に春日神社とてあり古キ社なり此社に因て村名をもしか負せたりと聞ゆ
(『太宰管内志』筑前之七那珂郡)
○春日神社 春日村にあり。此神社あるによりて名つけたり。
(『筑前國続風土記』巻之六 那珂郡下)
○春日神社 春日四所大神を祀る。武甕槌命 斎主命 天兒屋根命 姫大神なり。當社はむかし御笠郡大城山の上に鎮座し給へり。後に爰に奉?といへり。
(『筑前國続風土記拾遺』巻之十一那珂郡)

 このように、太宰管内志と筑前二地誌によれば「春日」の地名の淵源は御笠郡大城山にあった春日神社に由来していたこととなり、現存地名所在地による古田説批判は、その根拠が極めて脆弱であったようである。


   三

 古田説に対する今ひとつの批判に、「三笠の山にいでし月かも」とあるのだから、必ずしも三笠山から月は出ていなくともよい、というものがある。これは冒頭述べたように、自然地形に対する共通 認識からして、奈良県御蓋山説は発生困難という論点への有効な反論にはなっていない。しかし、この問題について重要な史料事実を紹介し、再批判を行おう。それはこの歌を「三笠の山をいでし月かも」とする『古今和歌集』古写 本の存在についてである。
 延喜五年(九〇五)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』は、貫之による自筆原本が三本あったとされている。残念ながらいずれも現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹自筆本の書写 本(新院御本)にて校合した二つの古写本の存在が知られている。
 一つは前田家尊経閣文庫所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、一一五七年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長著『古今和歌集註』(治承元年、一一七七年成立)である。清輔本は通 宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写したもの)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。また、教長本は「みかさの山を」と書かれており、これもまた新院御本により校合されている。これら両古写 本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、一二二三年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる(注1)
 これら古写本と流布本の異同は、貫之自筆原本では「みかさの山を」となっていたものが、後に「みかさの山に」と改変されたという史料状況を示しており、このことは後代の近畿のインテリ達にとって「みかさの山を」という歌では奈良の自然地形から見て極めて不自然であり、それゆえ意図的に「みかさの山に」と改変されたことを示すのである。もっとも、「に」に代えても不自然であることに変わりはない。すなわち、仲麻呂の歌の三笠山を奈良県の御蓋山と理解してしまっていた後代の近畿のインテリ達による原文改訂の痕跡が、古田説に有利であること、歴然としている。なお、この問題については古田氏により詳細な報告がなされるであろう。


   四

 以上論じてきたように、仲麻呂の歌の三笠山が福岡県三笠山であることは、まず動かないと思われるが、そうすると万葉集などに見える三笠山も同様に福岡県三笠山である可能性が高い。もちろん、双方の可能性を歌毎に個別 に検証しなければならないが、従来説のように全て奈良県御蓋山とする理解は次の史料状況からも成立困難である。
 例えば万葉集に見える筑紫の山を詠み込んだ歌は、私の調査によれば次の通りである。

○ 二三五〈巻三〉 大君は神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも (柿本人麻呂、雷山955メートル)※古田説による。
○ 五七六〈巻四〉 今よりは城の山道は不楽しけむわが通はむと思ひしものを (筑後守葛井連大成、基山405メートル)
○ 七九九〈巻五〉 大野山霧立ちわたるわが嘆くおきその風に霧立ちわたる (山上憶良、大野山〔四王寺山〕400メートル)
○ 八二三〈巻五〉 梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ (大伴百代、基山405メートル)
○ 八六八〈巻五〉 松浦縣佐用比売の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつをらむ (山上憶良、鏡山284メートル)
○ 九六三〈巻六〉 大汝少彦名の神こそは名づけ始めけめ名のみを名児山と負ひてわが恋の千重の一重も慰めなくに (大伴坂上郎女)
○一四七四〈巻八〉 今もかも大城の山にほととぎす鳴き響むらむ吾無けれども (大伴坂上郎女、大城山410メートル)
○三六七四〈巻十五〉 草まくら旅を苦しみ恋ひをれば可也の山べにさを鹿鳴くも (作者不明、可也山365メートル)

 以上のようであるが、筑前を代表する三笠山(宝満山、八六九メートル)が詠まれていないのである。もちろん「三笠山」を詠み込んだ歌は十六首ほど万葉集には存在するが(注2)、通 説ではいずれも奈良県御蓋山とされており、その結果、筑前を代表する三笠山がゼロとなるのだ。これはかなり不自然な解釈である。太宰府の官僚や歌人達が目の前の秀峰三笠山を歌わずに、他の山だけを歌ったなどとは到底考えられないからだ。
 ちなみに、福岡県の「三笠の杜」を詠んだ歌は万葉集に存在する。

○ 五六一〈巻四〉 思はぬを思うといはば大野なる三笠の杜の神し知らさむ (大伴宿禰百代、大野山〔四王寺山〕400メートル)

 このように「三笠の杜」は詠まれているにもかかわらず、「三笠山」は詠まれていないとする通 説は、やはり不自然であり、歌の内容そのものの論証から導き出されたものではないことは明らかである。「三笠山」とあれば、奈良の御蓋山のことと論証抜きで断定する近畿一元通 念というイデオロギーの上に従来の万葉学は成り立っていたのではあるまいか。
 従って、万葉集中の「三笠山」のいくつかは福岡県三笠山である可能性が高いのである。そして、そうした筑紫歌謡の教養を背景に阿倍仲麻呂の歌は成立したのであろう。


   五

 以上、仲麻呂の歌の三笠山を奈良県御蓋山とすることが困難であり、福岡県三笠山が穏当であること論証してきたが、この点、更に検証を深めるため、わたしが現在取り組んでいるテーマを紹介したい。それは『万葉集』ならびに『古今和歌集』から『新古今和歌集』に至る勅撰和歌集「八代集」に、奈良の御蓋山のような低い山から月が出ることを詠った歌が、「三笠山」以外にも存在するかという調査である。検証の方法は単純である。それら歌集から月と山の双方を詠み込んだ歌を検索し、それらの山を現地あるいは地図で確認するという方法だ。時間さえ許せば誰にでも検証可能な方法であり、恣意性を極めて小さくできる客観的検証方法である。現在のところ、ほぼ検索作業が終了し、個別 の山の調査を進めている段階ではあるが、その概要の中間報告を行おう。
 本調査の対象とした歌は、『万葉集』四五一六首、『古今和歌集』一一〇〇首、『後撰和歌集』一四二五首、『拾遺和歌集』一三五一首、『後拾遺和歌集』一二二九首(異本歌を含む)、『金葉和歌集』七一七首(補遺を含む)、『詞歌和歌集』四一五首、『千載和歌集』一二八八首、『新古今和歌集』一九七八首、の合計一四〇一九首である。テキストとして、『万葉集』は日本古典文学大系(岩波書店)を、八代集は新日本古典文学大系(同)を用いた。仮名遣い表記、各歌番号はそれらのものを採用した。検索は古賀が行い、あわせて『万葉集』は水野孝夫氏によるパソコン検索結果 を、八代集は深津栄美氏による検索結果を参照し遺漏無きよう努めた(注3)
 現時点に於ける「結論」のみ要約すれば、それら一万四千余首中、山と月の双方が詠み込まれた歌は約八十首あり(題詞、注等は除く)、背後により高い山が存在し、月がその背後の山から出るにもかかわらず、月の出等が詠まれている山のケースは、「奈良の御蓋山」のみのようである。すなわち、万葉から平安時代にかけて、自然地形を無視した、あるいは自然地形からは発生困難な「月の出」が詠まれているのは「みかさ山」のみという史料状況を呈しているのだ。この点、調査分析中であるのでまだ断定はしないが、やはり「みかさ山」は他に例を見ないような不自然な史料状況である。なお、本調査最終報告は検索結果 の詳細も含めて、後日、『古代に真実を求めて』等に発表する予定である(多くのデータを含み、本会報には掲載困難のため)。


   六

 このような「みかさ山」の史料状況は、従来の一元通念からは理解困難であり、近畿天皇家に先立つ九州王朝歌謡の存在を背景にした時、初めてリーズナブルな理解が得られる。すなわち、自然地形に適した福岡県三笠山からの月の出などをテーマとした柿本人麿や阿倍仲麻呂の歌が先に成立し、その後、その影響下に近畿の地(本テーマでは奈良)で同類の歌が近畿のインテリ達により詠まれたというケースである。従って、こうした和歌の分野における九州王朝歌謡の影響という視点は、今後の万葉学や八代集研究にとって必要にして欠くべからざる重要問題なのである。この事を強調しておきたい。
 今回の八代集検索作業において、「みかさ山」のケースと同様に、九州王朝の歌謡や文化の影響を帯びている和歌を少なからず発見し得たのであるが、その中の一つだけを紹介して、本稿を締めくくりたい。
 それは『金葉和歌集』五二七番の次の歌である。

○隆家卿大宰帥にふたヽびなりて、のちのたび香椎社に参りたりけるに、神主ことのもとと杉の葉をとりて帥の冠りに挿すとてよめる 神主大膳武忠
 ちはやぶる香椎の宮の杉の葉をふたヽびかざすわが君ぞきみ

 この歌が詠まれたのは長暦元年(一〇三七)だが、近畿天皇家が任命した大宰府官僚のトップである大宰帥を、香椎宮の神主が「わが君」と呼び、古い習慣(ことのもと)に基づいて杉の葉を冠に挿すという儀式を詠ったものである。
 九州王朝においては『隋書』*イ妥 国伝に見えるように、その天子の多利思北孤が「阿輩*鷄彌」と呼ばれ、これが倭語の「わがきみ」に相当すること、古田氏が論証されたところだが、この歌に見えるように、大宰府の最高官僚に対して、九州を代表する古社の一つである香椎宮の神主が「わが君」と呼んでいることは大層興味深い。これは九州王朝内での呼称や儀式が、十一世紀においてもなお継承されていた痕跡と思われるのである。

*イ妥:タイを表します。タイ国伝です。
*鷄:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」
(以上 インターネット事務局による変更 2001.7.20)

八代集中に使用されている「わが君」という語句はわたしの検索でも四例を数えるだけで、極めて用例が少ないのである(注4)。今後の再検索において若干は増えるかもしれないが、非常にまれな語句であることには変わりない。そのまれな例中、著名なものが『古今和歌集』三四三番の「君が代」の歌である。

○わが君は千世に八千世にさゞれ石の巖となりて苔のむすまで 読み人知らず

 「君が代」が現代に置いても志賀島志賀海神社の山誉め祭りにて述べられており、その中で、香椎から船で来る「わがきみ」を待っているという台詞が使用されているが、志賀島にて今も使れている「わが君」と香椎宮の神主が詠った「わが君」とは共に九州王朝の王に対して使用されていたことをその淵源に持つと思われる。この件については、いずれ稿を改めて詳論したい。
(注)
(1) 杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、一九六八年。
(2) 水野孝夫氏の検索によれば、歌番二三二、二三四、三七二、三七三、九八〇、九八七、一一〇二、一二九五、一五五三、一五五四、一八六一、一八八七、二二一二、二六七五、三〇六六、三二〇九に「三笠山」が詠み込まれている(左注・題詞等は除く)。なお、遺漏あればそれはわたしの責任であるが、本稿論旨には本質的に影響ないと思われる。
3)水野孝夫氏(古田史学の会代表、奈良市)、深津栄美氏(古田史学の会会員、町田市)のご協力に感謝申し上げたい。
4) 『万葉集』においても、「吾君」等の表記で「わが君」とも読みうる歌が七首ほど見える。水野孝夫氏の検索による。>

 インターネット事務局注記2004.6.20
[イ妥] (タイ)は人編に 妥です。
[奚隹](キ)は奚編に隹です。


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