短里と長里の史料批判 『三国志』中華書局本の原文改定
古田史学会報
2001年12月12日 No.47
京都市 古賀達也
『「邪馬台国」はなかった』発刊三十周年記念講演会(1)にて、古田武彦氏は周代に成立した四書五経などが短里で記載されているとする説を用例を示して発表された。これは『「邪馬台国」はなかった』において、『三国志』に現れる里単位は全て短里(一里約七五メートル)であることを指摘され、従って魏・西晋朝が漢代の長里(一里約四〇〇〜五〇〇メートル)ではなく、周代に淵源を持つ短里を採用したとされて以来、論理的必然性を持つ到達点であった。このことは谷本茂氏による『周髀算経』の研究(2)によっても裏づけられていたのであるが、さすがに周代成立文書全てが基本的に短里と断定するまでには至っておられなかった。したがって今回の発表により、その論理性の徹底化が進められたとも言えよう。
わたしも今までに成語中の短里について論じたことがあり、それらを今回改めてご紹介するとともに新たに発見した問題についても触れてみたい。
『魏書』(北魏)楊逸伝に「楊使君千里眼あり」という表現が見えるが、北魏の時代であるから、長里使用時代の例であるが、「千里眼」という言葉自体の成立は更に古い時代と思われる。この千里が短里であれば約七六キロメートルであり、長里であればその六倍の約五〇〇キロメートルとなろう。もしこの千里が具体的な人間の「視力」の表現であるなら、それは短里の方が妥当だ。
なぜなら、地表には球面視差という問題があり、水平線の先はどんな望遠鏡でも物理的に見ることが困難である。人間の場合、その目の位置が約一・五メートルの高さとすれば、球面視差の限界範囲は約三キロメートルほどで、標高五百メートルなら千里(短里)先の五百メートル程度の山や島の頂が何とか見える。これが長里であれば、不可能である。もっとも、高い山の頂部分は、球面視差を超えていれば見える。一例を挙げれば、韓国南岸から対馬は約千里(魏志倭人伝)であり、現在でも韓国南岸から対馬の山頂を肉眼で見ることができる。このように、球面視差ぎりぎりの遠方が見える視力の持ち主を、本来の意味で千里眼と呼んだのではあるまいか。
こうした観点から、千里眼という成語の成立は短里の時代であったと理解されるのである。千里という表現を単なる遠い彼方という抽象的なものとする捉え方もあるかもしれないが、そうであれば千里眼ではなく万里眼でも億里眼でもよいはずだが、そうした成語は聞いたことがない。やはり、千里眼は短里であれば見える具体的な距離に基いた成語と思われるのである(3)。
辞典などの解説では、五里四方の霧がかかった状態と説明されているが、これもこの用語使用のあり方からすると、素直に納得できるものではない。五里霧中とは深い霧の中で先が見えずに困窮している状態を指す用語であるのだから、五里先が霧で見えない状態を意味する言葉と考える方が妥当である。そもそも、霧の中で先が見えずに困っている人にとって、その霧の範囲が五里四方かどうかわかるはずもない。
そうすると、この五里は短里だろうか長里だろうか。当然、短里のはずだ。長里とすれば二〜二・五キロメートル先が霧で見えないこととなり、これだけ先が見えれば別に問題となるような霧ではない。もっとはっきり言えば、その程度の霧であれば、はたして霧と呼べるのだろうか。やはり、呼べないと思う。せいぜいモヤかカスミであろう。これが短里であれば、四〇〇メートル先が見えない状態であり、霧と呼ぶにふさわしい。したがって、五里霧中も短里の時代に成立した成語と思われるのである。
なお、『後漢書』張楷伝に「張楷、字は公超、性道術を好む。能く五里の霧をなす。」とあるが、この場合は霧の中で困惑しているような場合の五里霧中という成語とは異なり、五里四方の霧をかける能力を述べている記事なので、ただちに短里か長里かは判断しにくい。『後漢書』記述対象の後漢時代であれば長里ということになろうが、道術士の能力表現としての成語であれば、その成立は更に遡り、したがって短里の可能性も出てこよう(4)。
冒頭述べた記念講演会において、古田武彦氏が紹介された周代の短里の例として、『周易』中の「震驚百里」という記事があった。これは短里であれば百里先の雷に驚くが、長里では離れすぎていて妥当ではないため、短里の適切な表現であるとされたのであるが、これと相対応する例が王充の『論衡』に見える。
「千里風を同じうせず、百里雷を共にせず。」
この場合の千里と百里は長里と思われる。特に「百里雷を共にせず」は、先の『周易』の場合とは逆に、百里離れた雷は聞こえないという比喩だ。長里
であれば五〇キロメートルも離れていることになり、これでは雷も聞こえない。また、王充は後漢の人だから、時代的にも長里使用時期であり、矛盾はない。このように、短里と長里に対応した類似表現があることは興味深い。
千里の馬という成語が短里を背景として成立した用語であり、実際の駿馬の走行可能距離に対応していることについては、古田武彦氏が『「邪馬台国」はなかった』において、既に触れておられるところであるが、『資治通鑑綱目』(5)孝文紀(北魏)に次のような記事が見える。
「時に千里の馬を献ずる者あり。帝曰く、鸞旗前に在り、属車後に在り、吉行には五十里、師行には三十里。朕千里の馬に乗じて独り安(な)んぞこれ
に先んぜんやと。(中略)詔を下して曰く、朕は献を受けざるなり。」
ここでの五十里・三十里は当然長里であり、千里の馬とは本来短里として成立した駿馬の表現だが、孝文帝は長里の千里と理解し、そのような馬はいらないと拒絶している。これなどは短里と長里の存在が前提として初めて発生しうるエピソードであろう。
孔子の弟子、子路が貧しい中、親に孝養を尽くす説話が『孔子家語(けご)』致思篇(6) に紹介されている。
「仲由、字は子路。(中略)昔、由の二親に事(つか)えし時、常に藜霍*(れいかく)の実を食い、親のために米を百里の外に負いたりき。」
百里の遠き所より(あるいは、所へ)米を背負って運んだというのであるから、長里(約五〇キロメートル)でも日数はかかるが運べないことはない。しかし、やはりここは短里(約八キロメートル)であれば親孝行の例として、よりリーズナブルである。また、孔子の時代であれば当然短里だし、『孔子家語』編纂時期も魏の時代であり、短里が穏当であろう。
藜霍*(れいかく)のカクは草冠に霍
『三国志』蜀志の广龍*統伝に「百里の才」という表現が見える。『三国志』であるから短里と考えるのが、まずは道理であるが、これについては長里の可能性もありそうである。ちなみに、广龍*統(ほうとう)は諸葛孔明と並ぶ蜀の名参謀だ。
「統を以て、郊*陽(らいよう)の令となす。縣に在りて治めず、免官さる。呉の将、魯粛(ろしゅく)、先主(劉備)に書を遣(おく)りて曰く、『广龍*士元は百里の才に非ず。治中別駕(じちゅうべつが)の任に処(お)らしめば、始めて当にその驥足(きそく)を展(のば)すのみと。』」
郊*陽(らいよう)のライは、郊の字の交編を來。
广龍*統(ほうとう)のホウは、广編に龍
わずか百里四方の郊*陽の県令に任ぜられた广龍*統(ほうとう)は不満だったようで、「不治」により免官されるが、呉の将軍魯粛が劉備に手紙を出し、广龍*統は百里の才ではなく、もっと重要な地位(治中別駕:地方官の職名)につけるべきと進言した記事だ。この百里は果たして短里だろうか。もし短里とすれば、約八キロメートル四方の地となり、「縣」としては狭すぎるのではあるまいか。また、呉の魯粛が劉備に宛てた手紙の文面であるから、彼らは長里を使用していたのではあるまいか。何故なら、短里は宿敵の魏が制定した里単位であり、その短里を魯粛や劉備が使用したとは思われないからだ。
『三国志』の著者、陳寿は長里での記事も短里に書き改めたと思われるが、こうした手紙の文面に現れる成語の可能性を持つ「百里の才」という表現をも短里に書き改めたとは、ちょっと考えにくいように思われる。もし、本来長里で書かれていた文を短里に換算して百里としたのであれば、もともとの文面はその六分の一に当たる「十六里の才」とでも書いてあったことになる。これでは比喩としては不自然である。やはり、当時の?陽縣の面積にほぼ匹敵する比喩、長里による「百里の才」と表現されていたのではあるまいか。
この件については、郊*陽縣の広さが不明なので、ただちに断言するものではないが、『三国志』に現れた長里の可能性を持つ例として、指摘しておきたい。
同じく『三国志』广龍*統伝中の裴松之注に「駑牛一日行三十里」とあり、当初、これも長里の例ではないかと注目したのだが、とんでもない間違いであることが判明した。というのも、わたしが見た『三国志』は本年九月上海の書店(上海書城)で購入した中華書局本(一九八二年第二版・二〇〇〇年一〇月北京第十五次印刷)であるが、古田氏にお尋ねしたところ、氏の所有する同書局本一九五九年第一版では「駑牛一日行三百里」とある他、最も優れた『三国志』版本である南宋紹煕本(百衲本二四史所収)でも「三百里」であった。なんと、中華書局本は「三十里」へと第二版で原文改定をしていたのだ。しかも、何の注も説明もなしに改定がなされており、「不用意」という他ない。中華書局本に問題が多いことは既に聞き及んでもいたが(7)、今回のような露骨な改悪は初めてのことだ。
これは、現代中国の学者たちの短里認識の欠落を示す典型的事例ではあるまいか。必要にして十分な論証なしに現代人の認識によって原文を改めてならないという、フィロロギーの学問的原則を今一度思い起こさせるものであった。
本稿は、十月二十日に行われた古田史学の会・関西例会にて発表したものをまとめたものであるが、中国文献の史料批判をテーマにしたのは久しぶりのことで、誤解や間違いも少なくないのではと危惧している。御教正並びに各成語のより古い出典などを御教示いただけれは幸いである。最後に、例会において鋭いご指摘や質問をしていただいた参加者の皆様に感謝申し上げたい。
(注)
1 古田武彦講演「東方の史料批判─中国と日本─」。二〇〇一年十月八日、朝日ホール(東京)にて開催。古田史学の会、多元的古代研究会・関東、古田武彦と古代史を研究する会の主催。
2 谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』一九七八年三月所収。周代に淵源を持つ『周髀算経』(成立は三世紀初頭)に記されている「一寸千里の法」の計算により、そこで使用されている一里が七六〜七七メートルであることを証明された。
3「千里眼」「順耳風」という神名が『絵本西遊記』などにあり、三星堆遺跡から出土した目が飛び出た仮面がそれに当たるのではないかとのご指摘を水野孝夫氏より得た。氏はそれを根拠に、千里眼という用語成立が三星堆以前であり、周代より古い可能性もあるとされた。大変興味深く重要な指摘と思われる。
4 この点、古田史学の会・関西例会(十月二十日)にて西村秀己氏の御教示を得た。
5 南宋の朱熹が、司馬光の『資治通鑑』を要約し、別に義例を作って完成したもの。五九巻。
6 三国魏の王粛が、孔子の言行及び門人との論議などを収録したもの。十卷。
7 中華書局本『旧唐書』貞元二十一年(八〇五)条に、「日本国王ならびに妻蕃に還る」という記事があり、従来から注目していたが、古田氏の研究により、これは中華書局本の「誤読」であり、「方(まさ)に釋(ゆる)すの日、本国王(吐蕃国王)ならびに妻(め)とり蕃(吐蕃)に還る。」と読むのが「正解」であることが判明した。古田武彦「歴史ビッグバン」『学士会会報』第八一六号、一九九七年所収。