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2001年12月12日 No.47
古田史学会報 四十七号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
短里と長里の史料批判ー『三国志』中華書局本の原文改定ー 京都市 古賀達也
大阪市 三宅利喜男
一、はじめに
一九三八年(昭和十三年)の旧制中学の入学試験は(歴史一本槍と云われ)日本歴史の一科目だけであった。受験の為、小学五・六年の二年間、明治以後のこの国の歴史観を凝縮した皇国史観を学童に教え込んだ。天孫降臨・大化改新・建武の中興を三本柱として、特に建武の中興は大楠公を大々的に教え込み、七生報国の天皇に対する忠誠心を植え込む事を使命としていた。日本は天照大神による天壌無窮の神勅と、三種の神器をもとに天孫ニニギを降臨させる事によって始まり、万世一系の天皇が統治する神の国と教え込んだ。森前総理が「神の国」発言により失脚した事は、まだ耳目に新しい。 白村江敗戦・壬申の乱はカットされ、『日本書紀』本文にあるタカミムスビの命令による降臨神話は敗戦迄、国民には知らされなかった。天皇家は宮中八神の筆頭に、先祖のタカミムスビを祭っているのに。
中学時代、古本で知ったタカミムスビについて、歴史の教官に質問したところ、国体を疑うのかと卒業迄、歴史は赤点となった。学徒兵として戦場をめぐる間も、我が国の原点に対する疑問は消えず、生きて帰れたら歴史を調べ直そうと常に考えていた。
二、王権神話の二元性
『日本書紀』本文は降臨神話の命令者をタカミムスビとする。アマテラスは一書の一・二にのみ書かれている。『古事記』は両者による降臨神話である。なお、『古事記』には冒頭に天地初めて発りし時に三柱の神として、天御中主・カミムスビと共にタカミムスビをあげている。その為タカミムスビは伝承の古い神との印象をあたえられている。
我が国の神話は二つの異質な体系を組み合わせて構成されている事はよく知られている。
一方はイザナギ・イザナミに始まり─アマテラス(スサノオ)の神話、他方はタカミムスビのムスビ系神話があり、一読して異質な事は明らかである。
(1)海洋南方神話系
イザナギ・イザナミ──アマテラス(スサノオ)
(国生み→ウケヒ→岩屋戸→海幸・山幸そして八十島祭に至る)
(2)遊牧民族北方系神話
タカミムスビ(降臨神話→国譲り→九州征服〔神功・景行〕→東征〔神武・日本武〕)
匈奴に始まり、高句麗・百済・伽耶から倭国と同じモチーフの天降神話が南下する。(顕宗紀のタカミムスビは日・月の祖で天下を鎔造するとある)
アマテラスによる天降神話は(一書の一・二)金光明経の「帝王神権説」から天武朝に始まり、持統の伊勢行幸により、伊勢の男性地方神(太陽神)を追い出し、国家神としての天照大神を完成する。
アマテラスとスサノオの物実交換(ウケヒ)により生まれたオシホミミはアマテラスと血縁の親子ではない。その妻ヨロズハタヒメ(タクツハタヒメ)もタカミムスビの子ではない(伊勢神宮に岩戸神話の手力男の相殿神として祭られている機織の巫女神で、アマテラスの分身である)。一書にのみあるオシホミミからニニギへの交代はアマテラスを命令神とする為の造作である。ニニギはタカミムスビの子として降臨した。壱岐・糸島等、九州各神社にタカガミ様としての伝承が残っている(月読神社・高祖神社・高良大社)。
三、新撰姓氏録神別の分析
神別は天神・天孫・地祇に分かれている。
ーー天神二七三〈二九九〉
|
神別 四〇四ーー|ーー天孫一〇三(一一九〉
(四五五) |
ーー地祇 二八〈 三五〉
未詳(二)
※溝口氏「王権神話の二元構造」より ( )内は田中卓氏全集より。未定雑姓を含む。
天神はほとんどムスビ系で六九%、天孫は二五%、地祇は六%で、天孫の半分はホアカリで五〇%、オオクニヌシ(スサノオ)の国生み神話系は十三氏族にすぎない。
ツハヤムスビは中臣(藤原)の造った神で、本来カミムスビ系であったが、他氏族と同じ先祖となるのを嫌って造作された。
天神はほとんどムスビ系(ニギハヤヒを含む)の旧連(伴造系)である。天孫の五〇%はホアカリで、旧事本記では天照国照彦天火明櫛玉鐃速日尊とニギハヤヒと同一人として尾張氏と物部氏の合体が見られる。『古事記』と『日本書紀』の一書六・八にニニギの兄と書かれ、『日本書紀』本文と一書の二・三・五・七にはニニギの子として、さらに『播磨風土記』国ツ神として伝承の乱れが見られる。
新撰姓氏録の神別はタカミムスビが此の国の中心であった跡を示している。 四、おわりに
タカミムスビと天照による二元構造はみとめる説も多いが、なぜ二元構造かという結論は示されていない。タカミムスビーニニギの降臨神話は東アジアの匈奴から高句麗・百済・伽耶を経て倭国に至る流れを九州王朝成立に、さらに北九州征服(仲哀・神功)、そして九州征定(景行)に見ることが出来る。
一方、イザナギ・イザナミの国生みは別として、アマテラス(スサノオ)のウケヒ・岩屋戸・海幸山幸、そして八十島祭に至る神話群は近畿天皇家の改作の跡が見られる。
戦前国民にタカミムスビを教えず、アマテラスの天孫降臨のみを学ばせた事は明治以後の歴史教育の意図的な偏見を知る事が出来る。
〔参考文献〕
『王権神話の二元構造』溝口睦子
『伊勢神宮の成立』 田村圓澄
『新撰姓氏録の研究』 田中 卓
類別ー神別
天神
祖先神 代表的後裔氏族 ※は重出 氏族数
ツハヤムスビ 中臣連(藤原)・中臣酒人連 四三
カムニギハヤヒ 物部連・穂積連・巫部連・若湯巫連・※弓削連 一〇六
タカミムスビ 大伴連・佐伯連・忌部連・※弓削連・玉祖連 三二
カミムスビ 県犬養連・倭文連・瓜工連・多米連・間人連・紀直 五〇
ツノコリムスビ 額田部連・※倭文連 十四
フルムスビ 掃守連 七
ムスピ 門部連 三
アメノミナカヌシ 服部連 三
天孫
祖先神 代表的後裔氏族 ※は重出 氏族数
アメノホヒ 土師連・出雲臣 二二
ホアカリ 尾張連・倉連・伊福部連・津守連・稚犬養連・※境部連 五四
アマツヒコネ 額田部湯坐連 十九
ホノスソリ ※境部連 七
地祇
祖先神 代表的後裔氏族 ※は重出 氏族数
オオクニヌシ(スサノオ) 大三輪君・鴨君・胸方君 十三
ワタツミトヨタマビコ 安曇連・凡海連・海犬養連 七
シヒネツヒコ 倭直 六
溝口睦子「王権神話の二元構造」より
熊本市 平野雅曠
日本は神の国で、いざという時には、あの蒙古襲来の時のように“神風”が吹くのだ、と学校時代に教わったものだが、今次の太平洋戦争では、いっこうに神風の吹いたという話しを聞かぬし、私自身、現代の防人として大陸へも駆り出され、郷里の家は、四、五十発の焼夷弾を受けて焼けてしまった。
そればかりか、あべこべに、向こうから原子爆弾が飛んで来て、“神風”なんか全く当てにならないと思っていた。
でも、昔から“神風”は、伊勢の有名な枕言葉として、万葉集にも載っている。
神風の伊勢の国には沖つ藻も
なびきし波に 塩気のみ
かをれる国に (巻二、一六二)
そこで、言語学者、安田徳太郎氏の著書を見ると、成程、“神風”は当てにならんわい、とはっきりわかった。
レプチャ語で“塩”は、
第一は、シャ
第二は、ヴォム、ヴム
第三は、カム・ボ、カミ
の三つしかない。なるほどなるほど。
カミ(塩)カゼ(風)は、書いて字の如し。塩風に違いない。歌の「塩気のみかをれる国」にドン・ピシャリだった。
(註)レプチャ語は、古代の日本人たちがヒマラヤより移住の際、持ち込んだ生活語。
本年夏の全国高校野球大会で、大活躍した近江高校。その“近江”は、万葉仮名では、“淡海”と書くが、サンスクリット語では、「ア」は、「ない」という意の接頭語である。前に述べた「塩」は、ヴォム・ヴムだが、フム、フミにも変化するので、ア(ない)フミ(塩)、つまり“淡水湖”(淡海)となる訳である。
日本の地名に関する一番の決め手は、“処女地”に入植した人々の、神聖な土地に対する信仰心である。
原マレー族が、東南アジアの中心として、インドネシアや日本を含めた太平洋諸島に広がった紀元前の頃、彼等は月を崇拝する民族だったため、各地に“月の信仰”も広まった。
次に来たヒマラヤ族は太陽信仰であったためか、彼等の辿った通路には、必ず“太陽信仰”も広まったと考えてよい。
ヒマラヤのモン族が初めて上陸した北九州に、彼等は“ツクシ”と名をつけた。レプチャ語で、ツク(太陽)シ(大きい)。現在、チクシともなっているのは、後代に方言化したものであろうか。
また、“シラヌヒ”は、シラ(輝く)ヌヒ(太陽)から成っている。
モン族は、彼等の作った港町に、其頃のインド各地の都マツラーの名を借りて“マツラー”と呼んだ。これが「倭人伝」の末廬であり、今の松浦である。
太陽崇拝であるから、自分たちの部族の集落ごとに、列島各地に、幾つもの“輝く太陽”や“大きな太陽”その他の似かよった集落が生まれたことであろうが、百年千年の間には次々と変わっていったに違いない。
(二〇〇一年八月記)
歴史長編ルポ 能勢初枝著 〈有〉クレイ 発行 B6版二一六頁
高槻市 能勢初枝
江戸末期、文化十四(一八一七)年、北摂能勢の民家の屋根裏から発見された古文書は、壇ノ浦から安徳天皇を奉じて、能勢の郷まで逃れて来た藤原経房が、息子に宛てた遺書でした。発見当初から、真贋の議論はありましたが、当時の流行作家滝沢馬琴などが「つくり話」だと決めつけたことや、各地にある安徳伝承と同一視されたこともあって、その後注目されることなく山里能勢に埋もれていました。
しかし、内容の真偽は別にしても、このような古文書がこのまま忘れ去られてしまうのは、あまりにももったいないと思い、『平家物語』『吾妻鏡』などと照合し、推理をまじえてルポタージュ風にまとめました。古代史ではありませんが、興味のある方のご一読を希望いたします。
さいわい、面白かったというお便りをたくさんいただいておりますので、それも併せて紹介させていただきます。
●『ある遺書』興味深く読ませていただきました。…能勢さんの推理の仕方に大変合理性を感じました。断定をせず、読者の判断にまかせるところがよいと思いました。(Kさん・古田史学の会)
●序文に「気楽に手にとってもらえるようにつとめた」とあるように、構成の妙が生きて渋滞なく拝読することが叶いました。とりわけ、章を区切って訳文、原文、解説という仕立ては、古典、古文書に不馴れな私どもには、飽きることなく興味を次章に持ち続けられます。…推理の圧巻は、やはり「源のすけ」と「藤原経房」の存在証明で、「尊卑分脈」(恥ずかしながら小生初めて目にする史料です)を解読しての展開は、まことにスリリングでした。…(Sさん・男)
『ある遺書』能勢初枝著
書店にない場合は左記へお申し込み下さい。
〒五六九─一一二一 高槻市真上町
一─八─一 能勢初枝
価格一〇〇〇円+税(送料三一〇円)
◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』 第九話◇◇◇◇◇◇
−−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ♢♢
そんな木俣(くのまた)の相手役を、五月は自ら買って出ようとした。泥にまみれ、ボロにくるまってはいても、母譲りの美貌と気品は隠しようもなかったから、木俣がどんなに乱暴を働いても女達は好意的だった。中でも、五月は天国(あまくに)から大屋彦(おおやひこ)の許へ移り住み、木俣を紹介された途端、のぼせ上がってしまい、それからというもの、朝は侍女より早く目覚めて木俣を起こしに行く。洗面や着替えを手伝う。膳の上げ下げや給仕は元より、婢女(はしため)らと市へ出かけて肴(さかな)を見繕(みつくろ)いもする。
「姫君、そんな事は私共が致しますのに…。」
侍女達がいさめても、
「いいえ、木俣様の嗜好品(おこのみ)は、私でなければ整えられないのよ。」
傲然と言い放って鍋を火にかけ、具を刻んでは投げ込む。天国にいた時は厨(くりや 台所)へ足を踏み入れた試しがないから、野菜はいつまでたっても短冊形に切れず、長さと太さが極端に違っていたし、汁は煮だし過ぎ、肉は黒焦げ、肴は骨と皮を巧く剥がせないでどこが頭やら尻尾やら、まるで訳が判らなくなってしまった。
「こうしたらどう?」
見かねて八上(やがみ)が教え込もうとしても、
「木俣様は殿方です。義母君の味付けはいつも薄過ぎるのですわ。」
「あら、こんなにきっちりした裁(た)ち方じゃ、木俣様は汗をおかきになるだけだわ。」
いつかな改めようとしない。
それは、生まれてから自分の意志を妨げられた事のない人間のやり方だった。だから木俣が、
「こんな物が食えるか!」
と、皿やどんぶりを投げつけたり、
「何だ、この針目は? 衣服(きもの)を拵えているのか、雑巾を裁っているのか…!?」
縫いかけの布(きれ)を引き裂いたりすると、
「あんまりだわ。誰の為に人が苦労していると思うの!?」
五月は人前も阻(はば)からず、大声で泣き喚(わめ)いた。五月にとって、他人とは自分に奉仕する存在だった。自分の命令にはどんな無理難題だろうと、即座に応じねばならない。自分の造った物はどんなに出来が拙かろうが、有難がって押し頂くべきだ。
尤も、五月は自分が無能だとは思ってもいなかった。八上のいさめや侍女達の陰口、しかめっ面も、高位の者は卑しい業をすべきではないとの「常識」にのっとった行為か、木俣を自分に独占されたそねみとしか解さなかった。それだけに、当の木俣の拒絶や嘲弄(ちょうろう)が、五月には強烈に応えた。木俣といえども、自分の好意は受け入れて然(しか)るべきだ。なのに、人前で自分を罵り、辱めるとは──彼が大国(おおくに)の皇子(みこ)なら、こちらも天照(あまてる)の娘だ。父の高木王(たかぎのきみ)は、大屋彦の従兄弟(いとこ)に当たる。しかも、木俣は八千矛の嫡子ではないのに、自分は天国の直系の姫。血筋はこちらの方が尊貴だ。
何より五月が腹に据えかねたのは、木俣が妹の滾(たぎつ)に好意を抱いているらしい事だった。元々五月は姉妹の中では最も容姿に恵まれ、幼い時から天国きっての美人として自信と気位を守(もり)り育てられて来ていた。朝の紅芙蓉(べにふよう)か芍薬(しゃくやく)の花のようだといわれる自分に比べれば、妹は日陰の白萩か紫陽花(あじさい)だ。染織や調理の腕前も、自分とは比較にならない。その妹の呼びかけに木俣が素直に応じ、足まで拭かせているのを見て、五月は唖然とした。
覚えているが良い。自分は天国直系の姫ーー天照の娘を嬲(なぶ)りものにした罰を、今に思い知らせてやる・・・!。 白い紫陽花の花むらが、引きちぎられて一面に泥濘に散り敷いた。裸足で雨の中を駆け去って行く人影を、住み家を破壊された雨ガエルだけが不思議そうに眺めていた。
(続く)
〔追記〕北米のテロのおかげで、マルドリュースによる完訳『千一夜物語(アラビアン・ナイト)』(昭和四五年刊、筑摩書房)を読み返しております。この御伽話集が現存の形にまとめられたのは十五、六世紀頃との事ですが、当時まではイスラム界にもキリスト教のローマ法王に当たる、「教王(カリーファ)」(「教皇」とも書く)という存在があり、『千一夜物語』の中では大抵、九世紀に実在したハルン・アル・ラソッドに当てられています。この「教王」が現存していたら、タリバンの横暴を抑えてくれるよう直訴する事も出来た筈なのですが……又、この御伽話集にも、イスラム対クリスチャンの宗教戦争を扱った、「若者ヌールと勇ましいフランク王女の物語」、「オマル・アル・ネマン王と二人の王子の物語」(『千一夜物語』中の最長編)の二作があり、エルサレムも登場しますが、「ユダヤ人の町」(異教徒の町)として軽く触れられているだけで、現代のような、
「俺のものだ。寄こせ!」
という喚(わめ)き方は、全く感じられません。「教王」がなくなったのも、エルサレムを巡る三ツ巴の抗争が始まったのも皆、ロシア南部のバクー油田の利権(両大戦の原因の一つ。今回のテロ騒ぎも、これが発端とされる)を狙ってのイギリスのゴリ押しが原因なのでしょうか。
ちなみに、『千一夜物語』成立研究でもオリジナル重視が大勢で、マルドリュースは評判が悪いのですが、この御伽話集を最初に西洋へ翻訳・紹介したガラン(英)は、下ネタを全部カットしてしまっているそうで(日本の柳田国男と同じ)、
「これではいけない。何とかして全貌を伝えなければ。」
と、フランスのマルドリュースは、ガラン訳の基となったアレッポ写本全四巻の他、流布本をかき集め、全十六冊の完訳版(ガラン版の倍)として発表したのだそうです。
(深津)
“カメ”(犬)は「外来語」か 『東日流外三郡誌』偽作説と学問の方法 京都市 古賀達也
『「邪馬台国」はなかった』発刊三〇周年
芦屋市 安随俊昌
二〇〇一年十月八日(月)。 三七年前には東京五輪が行われた程、良い時候のハズなのに、あいにくの空模様である。前夜は、古賀・木村両氏や仙台の会の方々と一緒に会食させてもらい、心弾む余り、ちょっとオーバー気味・アフガン爆撃開始を報じる深夜テレビのせいで、睡眠不足でもあるが、大イベント当日のこととて、早目に、木村さんと会場へ向かう。
ここは、古田史学の原点となったこの本を、世に出すという重要な決定をした、朝日新聞社の東京本社(築地)別館(朝日小ホール)である。流石に瀟洒で立派な会場であり、本日のこの晴やかな行事に、名実ともに、誠に、相応しい場所である。入場受付開始の九時三〇分まで、時間が少なく、高田会長(多元/関東)の采配の下、在京の方々を中心に、アレコレの準備・対応に大童である。一方、交通至便とはいい難い場所に拘わらず、受付には、早々と長蛇の列という盛況。抽選漏れの方が二百名余りも出たという勢いを感じさせる。
十時。古賀事務局長の講演で、愈々、記念講演会の幕開けである。古田先生の色んなエピソードを織り交ぜつつ、「発刊後の三十年」だけでなく「発刊までの三十年」を回顧し、いずれの三十年にも、あの古田方式・古田説の持つ公正さ・平明さ・論理性・勇気などが根幹をなしていること、翻って、「これからの三十年」では、その重要性・不可欠性は一層大きくならざるを得ないという簡潔で要を得たものであった。
三十年前、私自身三十歳を終えたばかりの十一月、大々的な広告とともに、第一刷が店頭に並んだこと、いわゆる邪馬台国物には食傷気味で、二ヶ月程は敬遠していたことなど、今でも手にとる様に覚えている。早くも第五刷となった翌年一月末、半信半疑で一読してみて、その平明さ・論理性・あらゆる従来立論のいい加減さとの隔絶等に大感激したこと、その夜も次の夜も、日本にもこんな学者がいたのだという喜びに浸りつつ、立て続けに何度も通読したことなど、とても三十年も前のこととは思えない程である。
亦、同時に、日本の国は、政治も、役人も、大学も、報道機関もこの説を受け入れないだろう、三十年経っても駄目だろう、六十年後ならどうにかならないか等と無力感にうめき、焦燥感にジリジリしたものだが、それがそのまま今日に到ってしまっていることが、誠に無念であり、この講演を聴きながら、これからの三十年の有りように思いを馳せた。
十時三〇分。周髀算経・短里の谷本氏は初期の頃のことと最近の篠原俊次氏の反論に於ける史料批判の問題点を手短に話された。短里という“動かぬ証拠”を再認識させられた。
十一時〜十二時三〇分。 西村教授(東京学芸大)との対談。
西村先生の思い切った質問が、対談方式の面白さを一層引き立たせたと感じたが、中でも、古田先生が親鸞研究専念に転じられた際の勇気や生活問題と御家族の反応・埒外のハズの古代史の本を出版されることになった経緯(当時の大阪朝日の出版局の方の静かな執念など)・先生のこれからの重点志向などが、特に興味深かった。
十三時〜十六時十五分。古田先生記念講演“東方の史料批判─中国と日本”。
いつもの通り、あっと言う間の三時間であった。詳細は講演録等に譲りたいが、骨子は次の2点を中心とするもので、その一は、周代の、あの有名な、尚書・詩経・論語・孟子・孫子も矢張り短里で書かれているという、短里問題の決定版ともいうべき問題。その二は、万葉集中の難解・不可解歌も、九州の地名で解釈すれば、自然に歌が復活し歌旨も明瞭となり、それは、元々の作歌場所が九州・歌の成立自体も九州王朝時代に遡ることの証左であるという、具体例に基づく問題提起。尚、この点は、本日刷り上ったばかりの万葉集問題第2弾『壬申大乱』でも、触れられている由である。
亦、本日の“東方”のみならず“西方の史料批判”も着手される由で、明九日の追加講演会では、少し触れられるとのことであった。更に、和田家文書寛政原本によって、「秋田孝季」を是非書きたいとのお話が、午前中の対談でもこの講演でも、出たが、その実現を心より念願し、大いに期待もしたい。
十七時三〇分〜。記念懇親パーティー(於、築地聖路加プラザ 新阪急ホテル)。 広いスペースに置かれた6卓の大テーブルが満席の盛況。先生以下皆さん寛いだ雰囲気で、改めて、三十周年を祝った。とりわけ、八十九歳で現役の茂在先生の力の漲った祝辞や謡曲の新庄さんの“鶴亀”は一際大きな拍手に包まれた。亦、参会者は全国各地からであり、東京の皆さんは言うに及ばず、遠方からの方々とも、美酒を傾けながら、ゆっくりお話しができたことはとても楽しく素晴らしかった。全員での記念大集合写真にアレコレ総てを凝縮させて、本会も閉会となり、本日の記念行事が総て無事終了した。未だ明日の予定もあるが、実行係りの皆様の何ヶ月にも亘るご尽力に感謝したいと思います。
帰路の車中で、記念講演会のアレコレを思い出しつつ、今更ながら、古田先生なかりせばということを考えさせられた。先生の益々の御健勝と御活躍をお祈り致します。
奈良市 水野孝夫
以下の主テーマは「千里眼とは神名であり、中国・三星堆遺蹟出土の神像がそれであろう」と主張することにある。
去る十月の東京講演で、古田武彦氏は秦以前の中国古文献中の「里」単位は短里であるのに、注釈家たちはこれをすべて漢以後の長里と解釈してきたのではないかとの説を発表された。その論理の中心は、『尚書』禹貢篇の例では「中邦」、「九州」の用語があり、漢末の鄭玄注で「中邦=九州」とされているのに対して、「それなら中邦を使わずに九州と書けばよく、従って中邦は九州と違う」というものである。これは鄭玄の権威に対する挑戦である。『三国志』巻四・高貴郷公(帝)紀に、易書について孔子が分けておいた部分を鄭玄注では連続させてしまった話を思い出した。 帝は鋭く博士に質問する。「なぜ、連続させたのか」「学問の便利のためです」「本当に学問のためなら、孔子はなぜ連続させなかったのか」「聖人(孔子)は、それが謙虚な態度と考えたからです」「では鄭玄は謙虚でなかったのか」。博士は答えられなかったという。
さて、短里に帰って、関西例会で古賀氏は「千里眼」の千里は短里ではないかという説を述べられた。わたしは四川省・三星堆遺蹟の「眼が飛び出し、耳が大きい」青銅仮面(左図)を思い出した。
これは「千里眼」の神様の像ではないか? 三星堆遺蹟に関する本を見ても、この仮面は「なんだろう、わからん」という意見が多いようであるが、神像であろうことは定説のようである。文献1では、この飛び出した眼を「縦目」と解釈し『山海経』の「蚕叢(さんそう)」または「燭竜」と関連づけてある。これが多数説なのであろう。しかし「大きい耳—超能力の耳」の説明はない。
さておなじみの『西遊記』には、千里眼、順風耳という神様が登場する。私蔵の『絵本西遊記』(有朋堂文庫、翻訳は江戸時代)では、孫悟空が生まれたとき光輝いていたので、上聖玉帝が千里眼・順耳風(じゅんじふう・順風耳ではない)の両大将に命令して調査させる。「千里眼は一目に千里の外を見抜き、順耳風は居ながら世界のあらゆる事を聞き知れり」という名誉ある二神である。千里眼と対になっているから順耳風は順風耳という字順でないとおかしいと思うが、他のしっかりした『西遊記』が手許にない。陳舜臣『新・西遊記』では「順風耳」になっている。
昔、古代史に関心のなかった時代に読んだ『西遊記』も読み直すと面白くて、たとえば孫悟空は日本列島(蓬莱国)産れに描かれているのではないかとか、今年の正倉院展で評判になっている経巻「成唯識論」が玄奘三蔵法師が翻訳した当時のものであればそれが将来された経過とかへも関心がゆくが、横道はやめよう。
青銅仮面は眼が飛び出しているだけでなく、耳が異常に大きい。つまり「千里眼兼順風耳」である。像が作られた時代の神は両方の能力を兼ねておられた。後世に玉帝という上位の神が構想されると、この能力は部下の神のものとなって二神に分割されたのではないか。とにかく、この仮面を「千里眼兼順風耳」であろうとした説がありそうに思えるが、探した範囲では見つからない。わたしが提唱者であろうか?
この説が当たっているとすると、千里眼・順風耳という特異な用語が対になって伝承されているわけで、「千里眼」という用語の古さは三星堆遺蹟の時代まで遡るのではないかと思われる。周より古いことになりそうである。
文献1は三星堆遺蹟に関する最新鋭の解説書と思われ面白い。たとえば、『山海経』第十八巻・海内経にあらわれる「都広之野」を三星堆遺蹟の存在する地方にあてている。ここまでは著者に賛成したい。ところがここからおかしくなる。A「其城方三百里、蓋天地之中(心)」との記述があるという。
以下引用 “つまり、その城が四方三百里あるというのである。「方三百里」とは総面積が三百平方里と解されてよかろう。殷周時代の一里はおよそ七十メートル(後述)に相当するとされているが、かりにそうだとすれば、「一平方里」とは七十メートルの掛け算で約五千平方メートルになり、「三百里」はおよそ百五十万平方メートルに相当することになる。しかし、今の三星堆遺蹟は南北約千八百メートル、東西約二千メートルとされ、実際の面積が約三百六十万平方メートルと広く、「三百里」の二倍以上になっているのである。”
以下は筆者の意見。「方三百里」を総面積三百平方里と解釈するのは、根拠なしとはいえないかも知れないが、はじめて聞いた。例の三国志・魏志倭人伝の一大国(壱岐)が「方可三百里」となっているのと比べてもおかしい。やはり四辺おのおの三百里、面積にすれば九万平方里である。また「(後述)」とされた解説は、この本の最後までさがしても見当たらない。また「都広之野」について前記A「其城・・」と引かれた部分が、木村氏が中国で購入の『山海経』2では見当たらない。「都広之野」の記述からすこし離れて、「流黄辛氏国」の記述があり、ここは「其域中方三百里」になっている。2には『山海経白話』というのも納められているが、ここにも「都広之野」に城の記述はなく、「流黄辛氏国」について「其彊域方円三百里」となっている。この国には「巴遂山」があるから、四川省内と考えられよう。「城」と「域」の文字類似に驚く。どこかに後代の改訂があるのだろうか。調べるべきことばかり増える。ひとりで抱えておかないでみんなに考えて貰えという意見に従って発表させていただいた。
〔文献〕
1徐朝龍著『長江文明の謎---古代「蜀」王 国の遺宝』、双葉社、一九九九年七月。
2『山海経』北京・宗教文化出版社、一九九八年
日本思想史学会大会を傍聴して
生駒市 伊東義彰
長野県松本市「市民タイムス」紙(9月7日)より転載させていただきました。〔編集部〕
四季の楽章
ー北村明也
十月二七日、公明党京都府本部主催の文化講演会で古田武彦氏が「歴史と真実」と題して講演。会場のキャンパスプラザ(JR京都駅前)は主催者側の予想を上回る三百人の党員・支持者で満員となった。
内容は、歴史教科書問題・靖国参拝問題から同時多発テロ事件にまで及び、参加者からは初めて聞く内容に今まで一番面白かったという声が口々に寄せられた。中でも、「君が代」法制化時の全政党の対応を批判され、「君が代」九州王朝発生説に及んだ時は会場からどよめきが起きたほどであった。
終了後、同党国会議員・府市会議員団との懇談会がもたれた。そこでも熱心な質疑応答がなされ、古田氏の歴史的思想的視点からの説明に共感が広がった。
連立与党の公明党主催の講演会に古田氏が講師として招待されたことに、時代の変化の兆しがうかがわれた。
□□事務局だより□□□□□□
▼十数年ぶりに銀座を歩いた。パリ在住の会員、奥中氏の個展を見るためだ。邪馬壹国の「壹」の字が、感情豊かに美しい色彩で描かれていた。
▼その翌日は、多元・関東の例会で「万葉仮名と肥人」「白鳳年号の史料批判」のテーマを研究報告させていただいた。本会の関西例会とはまた違った雰囲気で楽しく発表できた。
▼明石書店より古田武彦全集の刊行が開始される。全国の図書館に完備されるよう、会員のご協力をお願い申し上げます。ご近所の図書館で、購入希望図書に是非推薦して下さい。
▼最近、沖縄や四国などの会員が少ない地域からも入会が続いている。来年も更なる飛躍の一年にしたい。皆様も良いお年をお迎え下さい。@koga
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実をめて』(明石書店)第一〜六集が適当です。(全国の主要な公立図書館に御座います。)
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