日本思想史学会大会を傍聴して 於関西大学百周年記念会館 平成十三年十月二十日「格物致知と四代の学 古田武彦」 伊東義彰

「長野県松本市『市民タイムス』紙(2001年9月7日) リレーコラム 四季の楽章 『「邪馬台国」はなかった』三十周年」は、にあります。


古田史学会報 2001年12月12日 No.47


日本思想史学会大会を傍聴して

於関西大学百周年記念会館 平成十三年十月二十日

「格物致知と四代の学 古田武彦」

生駒市 伊東義彰

 当日の一週間ほど前に古賀さんから依頼を受け、永らくご無沙汰していた母校を思い出しました。会場になっている百周年記念会館などわたしの在校中にはなかった、なかなか洒落た立派な建物なのに驚きました。円形図書館ができて、その斬新さと珍しさがニュースになった時代に在校していましたから、歳もわかろうというものです。
 古田先生の発表は午後四時頃からと聞いていましたが、早く着いたので順番を待つ間に二人ほどの話を聴きました。研究発表ですから話の上手下手などは問題外とは言え、まことに失礼ながら、眠気を催すのをどうすることもできませんでした。お許し下さい。古田先生のお話を聴くときは心を引き締め、聞き耳を立てたことは言うまでもありません。
 余談はさておき、古田先生のお話の要旨を報告させていただきます。(「格物致知」というのは、朱子学では「外界のいろいろの事物の道理をきわめつくして、自己の知を磨ききわめる」意と解し、陽明学では「自己の心をただすことによって、先天的の自己の良知を磨くことができる」意と解するそうです。先生は、もちろん朱子学の意味で述べておられます。)

水戸学と皇国史観

 大義名分の学として生彩を放った朱子学に呼応して、日本では水戸学が大義名分の学として面目を発揮。
 明治の初めには学者の間で議論され、学校の教科書にも載っていた二中暦(九州年号)などが、明治の中葉には、水戸学派の大義名分論と共に史学会を支配した「天皇家中心の一元史観」により、排除され、それが今日にいたっている。即ち、天皇家中心の歴史でないものは歴史ではないとして排除されてきた。したがって今の人たちは九州年号など全く知らなくても済まされることになった。これは立証的にそうなったのではなく、水戸学の大義名分論からそうなったもので、わたしが何十年にわたって主張してきたテーマに対して学界から一切の反論がないのも、天皇家中心の歴史にそむくものだからというので、反論のしようがないのかも知れない。

  神籠石について

 もっとも明確な例によってそのことを申し述べたい。その明確な例の一つは神籠石である。
 神籠石は普通の石垣ではなく、岩をレンガ状に切りそろえて岩壁を組んだもので、岡山と愛媛、山口の各一カ所を除いて全て九州北部に分布している。神籠石は、古代山城、いわゆる軍事的要塞である。そして、明らかに大宰府から筑後川流域を中心に分布しており、しかも、その寸法・尺度は統一されている。この統一した寸法・尺度で造られた神籠石は、その分布の中心である大宰府・筑後川流域にいた王者によって造られたもので、決して大和や河内にいた王者が造らせたものではない。
 神籠石のことは教科書には、新しい教科書も含めて一切載っていない。何故かと言えば、それまで書いてきたことの説明がつかなくなるからである。神籠石が造られた時期は白村江の戦い(六六三年)以前であることは間違いない。何故なら白村江のあと、唐の軍隊が駐留していたのだから、その前でこんなものを造れるはずがない。現在の考古学では六世紀から七世紀に造られたとしているが、年輪年代測定法によると七、八割は年代が一世紀ほど遡るらしいとされれているから、神籠石は五世紀ごろから造られ始め、白村江の前まで造られ続けたものと考えざるを得ない。そうすると、好太王碑文に出てくる倭の中心地勢力は、大和政権ではなく、大宰府・筑後川流域に中枢をおいた政権だと言うことになり、倭の五王も五世紀の王であるから、同じ大宰府・筑後川流域の王者だと言わざるを得ない。また、これも教科書からカットされているが、「日出ずる処の天子」のところにも「阿蘇山」と書いてあり、九州の天子であることを示しているから、大宰府・筑後川流域の王者と見なさざるを得ない。大宰府の近くには「紫宸殿」や「朱雀門」の地名が残っており、これらは天子の都以外には使えないはずであるから、地名として残るはずもない。隋に使いを送った多利思北孤は男性であり、妻がいると書いてある。推古天皇は女性であるから、大和政権の推古が使いを送ったとは考えられない。もちろん聖徳太子が送ったのでもない。従来は、間違って書いたのだろう、阿蘇山もうっかり書いてしまったのだろうと、無茶苦茶な解釈をして、今日も聖徳太子が隋に使いを送ったことになっている。このような解釈のもとに書かれているから、神籠石の分布図を編集者が知らないのではなく、知っていながら教科書からカットせざるを得ないのである。即ち、天皇家中心の歴史に合わないから、知っていいるにもかかわらず教科書からカットしているのである。
 十七条の憲法も「日出ずる処の天子」が作ったものであって、聖徳太子の作ではない。内容からして、天子の作にふさわしいものであり、天子でもない近畿天皇家が作れるものではない。

 学問の自由について

 現在の日本に学問上の自由があるかと問えば、人々は、戦後は学問の自由はあると答えるだろうが、わたしはそうではないと思う。なるほど本を書いたり、こういう場で発表する自由はあるが、学界は一切応答しない。喋るだけ喋らしておいて相手にしない、一切応答しない。わたしの言っていることが間違っているなら、何故それを指摘しないのか。一切無視することが、学問の自由なのか。外人記者クラブでも講演したが、皆驚いて鋭い質問をし、反応を示してくれた。
 古田を呼んで喋らせ、とことんやっつけてやろうじゃないか、と言う男らしいというか、人間らしいと言うか、そういう人が一人でも、そういう大学が一つでもあっていいんじゃないか、と願う次第である。

以上

 古田先生のお話の要旨を述べたつもりですが、わたしの非才では、うまくまとめたとはとても思えません。足らざるところが多々あり、また間違ったところも多いと思います。遠慮なくご指弾下さいますようお願い申し上げます。
 尚、二人の方が、「神籠石」と「神の手」について質問され、先生は丁寧にお答えになっていました。

 


長野県松本市『市民タイムス』紙(2001年9月7日)より転載させていただきました[編集部]

リレーコラム 四季の楽章

『「邪馬台国」はなかった』三十周年

        

北村明也

 五十年以上も前の話でず。遠いといえば遠い、近いといえぱ未だ鮮明に昨日のことのように覚えている方もいます。
 浅間の球場で目にした高校野球の応援風景。上半身裸で熱烈な声援を送る姿が余程印象深かったのでしょう。
 後日、ある高校の校長にその人は尋ねたそうです。
 「元気な生徒がいますね」
 校長先生の答えが愉快です。
 「いや、あれはね、わが校の先生です」

 ◇
 松本ゆかりのその青年教師は、やがて『「邪馬台国」はなかった』(昭和四十六年の発刊)で学界に衝撃的な登場を果たしました。
 古田武彦先生。ことし七十五歳。旺盛な研究活動は、いささかの衰えも見せません。この三十年、先生は原史料を尊重し、権威に迎合せず真実を追求、分析し、精力的に数多くの研究論文、著書を発表し続けています。世上、広く話題に上ったものも枚挙にいとまないほどです。『失われた九州王朝』『盗まれた神話』『古代は輝いていたI〜III』『多元的古代の成立(上・下)』『古代史を疑う』『よみがえる卑弥呼』『古代は沈黙せず』『真実の東北王朝』『九州王朝の歴史学』等々。
 古田先生は『三国志』の記述を信じ、論証を積み重ねて『「邪馬台国」はなかった』を発表しましたが、その手法は変わることなく「九州王朝」実在の証明、それに先立つ「出雲王朝」の存在を明らかにし、近畿天皇家一元による歴史観を退けて「多元的古代」の概念を提唱されました。
 古代に多くの王朝があった。「そのような展望の中でこそ、近畿天皇家がその中で果した、相対的な、適正な位置、それがハッキリと浮かび上がってくるのである。そしてよき面も、悪(あ)しき面も、真実(リアル)に理解することができるのだ。そのような新鮮な目が若い人々の中に誕生したとき、新たな数々の独創の湧(わ)き上がる時代、そのような豊かな未来がわたしたちの眼前に待ちかまえていることとなろう」。先生は『日本古代新史』のあとがきで、このように若い世代に熱いメッセージを発しています。

 ◇
 先生が松本を去るとき、動き始めた列車の窓に向かって教え子(といっても、さほど年齢が違わないのですが)が大声で「堕落するなよ!」と叫んだそうです。「私が学間的良心を守り続けた原点です、あのときの“堕落するなよ!”は」と先生は、よくお話しになります。
 「古田史学」と呼ぱれる独自の世界をつくり上げた先生には全国各地に市民レベルの研究会があり活発な動きを見せています。松本にも是非「古田史学の会をつくろう」との声は長い間、消えることがありませんでした。関係者の熱意が実ってことしの三月十一日、「古田史学の会・まつもと」(住田正会長)が発足しました。六月に第二講、九月二日には第三講「正直な歴史ー火の祭りと信濃遷都」のテーマで先生の卓見が披露されました。
 三年前の師走、先生から大役を恵投いただきました。『古代に真実を求めてー古田武彦古稀記念特集』(明石書店)です。その中で私にとって驚きを禁じ得ない一文(古田史学の会事務局長古賀達也氏)がありました。私もお手伝いした蓼科でのシンポジウム「邪馬台国徹底論争」の思い出です。一週間にわたるシンポジウムは朝九時から夜遅くまで続き、先生が疲労の極に達しているのは誰の目にも明らか。夜の部の参加を一日だけでも休んでいただこうと古賀さんが進言しました。
 「ここで死んでもいいじゃないですか」とは一言のもとに斥(しりぞ)けたといいます。
 「そのときの先生は鬼だった。本当に怖かった。叱られながら、わたしも覚悟を決めた」とは古賀さんの述懐です。
 先生の古代史探求の姿勢に以来、私は脱帽しつづけています。

(エッセイスト=松本市)


これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第七集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜七集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailsinkodai@furutasigaku.jp

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