古田史学会報
2002年8月8日 No.51
古田武彦
一
今年(二〇〇二)六月に上梓された佐藤弘夫氏の著作は、爽気の一書である。『偽書の精神史──神仏・異界と交感する中世──』(講談社選書メチエ)だ。題名には「偽書」の一語があるため、一見《おどろおどろしい》印象を与えるけれども、その内容はきわめて理性的。かつ筆致に人間性がこもり、読後感、きわめて涼快である。
二
わたしはかって『親鸞思想──その史料批判』(冨山房刊、今回の著作集<明石書店刊>の第二集に収録)(1)を世に問うたとき、純乎たる専修念仏と目される、あの親鸞思想の成立には、「旧仏教の思想や信仰」の広大な精神世界が背後にあった。それなしには、彼の「独自」の思想そのものは成立しえなかった。この一事をひたすら実証的に証明したのであった。
たとえば、有名な「女犯の夢告」、観世音菩薩が「玉女」として彼の前に現われ、仏教者にとってタブーであったはずの「女犯」を通じて、逆に《全衆生救済》への道を開く。この奇異な思考形態の源由するところを、立ち入って論証したのであった。
さらにすすんで、現在の本願寺教団(東西とも)等では、「正式の教義」(覚如の『伝絵』にもとづく)に入れられていない「三夢記」(高田専修寺蔵)が、実は親鸞の思想形成の秘密を解くためのキイ、まさに根本の重要文書であったことを明らかにしえたのである。
幸いにも、これに対して有力な学者、また少壮の研究者から「反論」(全否定)も出され、これに対するわたしの久しぶりの「再反論」の論文を今執筆中である。(今年の秋、刊行予定の第二集に、これに関する新、二稿を収録の予定。)(2)
佐藤氏は、これらのわたしの提起(「女犯の夢告」及び「三夢記」)を正確にうけとめられた。その上、右のような「観世音菩薩の夢告」や「聖徳太子の未来記」などの《氾濫》こそ、まさに中世の精神世界を解くキイ・ワードであることを、豊富な事例の引用と、その的確な分析によって、クールに、そしてきわめて周到にしめされたのである。
三
佐藤氏は提起される。
中世が訴訟(公事)の盛行した社会であり、中世文書を代表するものの一つに起請文があることは、著名である。
起請文とは神仏に誓約する言葉を文書にしたものだ。それは誓文の文言と、それを保証する神仏名、および自己呪詛の文言を記した「神文」からなっている。この形式をそろえた中世的起請文は、一二世紀半ばには成立し、以後戦国期に至るまで膨大な数の起請文が著されたのである。
(親鸞の有名な「善鸞(息子)義絶状」も、この時期に属する。)
ところが、「御成敗式目」(鎌倉時代)について、氏は次のように書いておられる。
「室町時代に著される『御成敗式目』の注釈書には、アマテラスを『虚言を仰 らるゝ神』(嘘をつく神)とする記述がみえる。貞永元年(一二三二)に北条泰時 が定めた『御成敗式目』の末尾には、その順守と一味同心を誓って時房・泰時ら幕府の要人が起請文に署名している。その起請文には誓約の監視者として多数の神々が勧請されているが、どういうわけか日本の最高神であると考えられていたアマテラスだけはその名をみせない。その理由として注釈書では、アマテラスが嘘を言う神だから、起請破りを監視する神々のうちに加わる資格はないのだ、という説明が加えられているのである〔新田、89〕(3)。」(五八ページ)
はじめてふれた方には、一驚に値いしよう。その主旨は
〈その一〉鎌倉期に成立した「御成敗式目」は、この時代の基本の法的ルールを定めたものだが、その末尾は「起請文」の形式をとっている。
〈その二〉ところが、そこに列示された神々(誓約の対象)の中には、(当然あるべき)「天照大神」の神名が欠けている。
〈その三〉右の事実の「理由」を説明した、室町時代の注釈書には、「天照大神はうそを突く神」であるから、除かれたもの、と解説されている。
以上だ。戦前(明治以後)の皇国史観の時代はもちろん、戦後の「象徴天皇制」の時代になってからも、各新聞・各雑誌とも、右のような「天照大神、観」を紹介しない。天皇の伊勢神宮参拝のさいにも、この種の「解説」を見たことがない。おそらくは、記事を書く「記者」自身も、知らないのであろう。
けれども、右は《酔狂な、一私人の一妄言》に非ず、当代(鎌倉・室町期以降)の「公的な基本法」の中に、明示された(欠如の)立場、そしてそれに対する「解説」なのであった。
明治以降の「国民教養」とは、全く別種の世界がそこには実在していたのである。
四
なぜ、右のような「中世的常識」が存在したか。佐藤氏は、これを明快に分析する。
鎌倉期に成立した無住の『沙石集』の冒頭に「大神宮の御事」の一節がある。
《弘長年間(一二六一〜六四)、わたし(無住)は伊勢の内宮に参詣した。そのとき、一人の社官から次の話を聞いた。
遠い昔、日本列島形成の頃、大海の底に大日如来の印文があるのを見つけた天照大神が、鉾を下ろして探ってみると、鉾の先からしたたった滴が、露のような形(日本列島)をなすに至った。
これを見ていた「第六天の魔王」(仏敵)が、その国土に仏法が広まるのを妨げようと、天から下ってきた。
そのときアマテラスは魔王に告げた。
「私は三宝の名を口にすることも、この身に近づけることもしない。どうか心安らかに天にお帰り下さい」
魔王はこの言葉を信じて天に昇った。》
というのが、大意だ。
ところが、その「両者の約束」は破られ、日本に仏教が広まった。これは「天照大神が約束を破った」からだ、というのである。それゆえ、「起請文に名を連ねえぬ、破約神の代表」ということとなったのである。
あの伊達政宗も、「天照大神」の名が書かれた起請文の受領を拒否していた、という。(五八ページ)
また逆に、織田信長は《約束を破られた》方の「第六天魔王」を自称したことが知られている。(五五ページ)
右の伊勢内宮の社官の話は、
「この約束があるために、わが神宮では仏法が社殿に近づくことを許さないのである。」(五五ページ)
という、一種の「中・近世(由来)縁起譚」の類と思われるけれども、それが「公的文書」や各「権力者の頭脳」の「通念」となっていたようである。
これを「明治以降の公的見解」の公的イデオロギーから「ふらちな妄説」ときめつけるのではなく、佐藤氏は各時代の、その時代独自のイデオロギー、それらのそれぞれの「思想史的意義」を、丁寧にそこにくみとろうとしておられる。さすがだ。
各時代の神々のイメージは、すなわち各時代の人間の頭脳による、それぞれの「造成物」だからである。
けれども、日本思想史学としての真の問題は、次の局面にあるのかもしれぬ。
先ず、彼等、鎌倉以降の権力者が、何故右のような「妄想」を信じたか、たやすく受け入れえたのか、という問題だ。
そこには、或は、その「天照大神」を最高の守護神として《宣布》してきた近畿天皇家そのものへの批判がはからずも内蔵されていたのではないか。これが論理のおもむくところ、避けがたい疑問だ。なぜなら、それなしに、ただ一社官の《面白おかしい造り話》を、うっかり信用しただけ、というのでは、わたしたちが中世の権力者たちの「頭脳」を、あまりにも見くびりすぎているのではないか。この問いである。
さらに、古事記・日本書紀・万葉集という、《見事な造成書》を作り、七世紀以前の九州王朝を「魔法」のように消し去った時代、あの八世紀という「偽作の時代」は、中世人にとって、わずか三〜四百年前の《話》だった。ちょうど、現代から見れば、「忠臣蔵の時代」(元禄。十七〜八世紀)との距離。信長・秀吉の時代より近いのだ。「公」(オフィシャル)の表向きのルールの下で、人々が何かを《嗅ぎとって》いたとしても、不思議ではない。いや、それがない方が不思議だ。
すでに、平安時代、あの紫式部が女性らしく、グサリと「日本書紀、信ずるに足らず」論をもらしていたではないか。
日本思想史学上の醍醐味が実はここからはじまるようである。
五
わたしは今年の春、「天照実在」の論証を確認することができた。五〜六月の間である。古代から現代に至る、「歴史の伝来」の原点として、その骨子を左に記そう。
(1)降臨地とされている「竺紫の日向の高千穂のクシフル岳」は、南九州の霧島連峰(宮崎県、鹿児島県)ではなく、北部九州(福岡県)の高祖山連峰(福岡市と前原市の間)である。(既述)
(2)天照大神は降臨の対象地を「葦原の千五百秋の瑞穂の国」とのべているが、右の連峰は、「縄文水田」として有名な西に菜畑(唐津市)・石崎(二丈町)、東に板付(福岡市)の間にあり、右の「天照の『瑞穂』指定」とピッタリ対応している。(南九州は対応せず。)
(3)降臨のさいの《権威と権力のシンボル物》が、いわゆる「三種の神器(宝物)」であったこと、著名である。(「八尺の勾瓊、鏡、及び草那藝劒」)
ところが、この宝物を(三種とも)内蔵する弥生遺跡は、次の五王墓のみだ。
1)吉武高木(福岡市)2)三雲(前原市)3)須玖岡本(春日市)4)井原(前原市)5)平原(同上)
右のすべてが、高祖山連峰を《取り巻いて》いる。決して南九州ではない。
(4)本居宣長は、その正面の主張(「古事記に《さかしら》を加えず、原文のままに読む」)に反し、「正史」たる日本書紀(神武紀に「日向国」とある。)の教示(「書き換え」)に従って、古事記を《訓んだ》のである。共に「皇国の聖典」であるからだ。そのため、降臨地を「南九州」(「日向国」のそば)と解した。以降、すべての国文学者、考古学者、歴史学者(及び教科書)がこれに従って今日に至っている。
しかし、宣長の時代は「考古学未熟の時代」であった。これに対し、現在は「北部九州」(福岡県)説と「南部九州」(宮崎県・鹿児島県)説と、いずれが妥当か、右によってすでに明白である。
(5)福岡県の周辺では、「前末・中初」(弥生前期末と中期初頭)の用語が(考古学上)著名である。この一線を画期として、出土遺物が一変する。「三種の神器」などは、右の画期線以降だ。この画期線が、「天孫降臨」の実年代である。(考古学編年では「BC一〇〇」、年輪年代測定によれば「BC二〇〇」前後の可能性あり。)
(6)右の降臨の出発地は「天国」である。それは対馬・壱岐を中心とする対馬海流上の島々、海人族の拠点である。
なぜなら
1). 古事記の国生み神話中の「亦の名」に「天の〜」という表記をもつ島々は、いずれも対馬海流上の島嶼である。(4)
2). 記・紀の神代巻中に頻出する「天降る」の用例では、その到着地は「筑紫・出雲・新羅」の三領域に限定されている。しかも、その間に「途中経過地」がない。すなわち、右の三領域の内側に「天国」は存在している。対馬・壱岐を中心とする海上の島々である。
異種の二つの論証が一致することとなった。(『盗まれた神話』)
以上は、既述の論証だ。 最近の論証(5)の骨子は次のようである。
「天孫降臨」の文面(古事記)を解読しよう。(天照大神のニニギの命への言葉)
「天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。」
<語釈>
(A)「天の石位を離れ」
「天」は「海人」。彼等の拠点が「海人国」である。対馬の中域、浅茅湾の北岸、豊玉町の和多都美神社に「磐座」がある。この湾の東岸(北側)には、天照大神の「原拠点」と見られる「阿麻氏*留(天照)神社」がある(延喜式)。
対馬の浅茅湾とその周辺が、この「降臨」集団の出発地であろう。
インターネット事務局注記 2002.08.01 阿麻氏*留(アマテル)のテは、氏編の下に一の字です。
(B)「天の八重多那雲を押し分けて」
「八重」は《数多くの》。「多那」は《大いなる水べりの地》を指す。「多」は《太(大いなる)》。賞美の辞。「那」は《那の津(博多)》《任那(みまな)》など。《水辺の地》。「雲」は《奇藻》。「く」は《不可思議な》《すばらしい》の意(「奇し」の語幹)。「も」は《海の藻》のように、《人間のつどう集落》の称。「津雲遺跡」(岡山県)と同じ。
(「つちぐも」は、「津」に「ち」〔神の古称〕を祭り、それを中心に形成された、すばらしい集落の意。「土蜘蛛」は卑字。字面による蔑称。)
(C)「伊都能知和岐知和岐弖」
「い津」は、厳原(対馬)の語幹であるが、むしろ《港々》の意の複数形であろう(次の動詞による)。
「ちわき」は、「道分き」(日本書紀、第九段、本文)と書かれているように、
《あちこちの港に分かれ、それぞれの道をかきわけて》
の意である。
(D)「天の浮橋に」
漁師が舟に乗るときに、陸地との間にかける板である。立てれば「立て板」となる。通例、「橋」は《固定》されているが、これは《とりはづし》自在だ。すなわち「浮橋」である。
これは漁師(海人)の生活・日用語であることを知り(島根県、美保が関〈美保神社、青柴垣神事〉)、これが今回の分析の発起点となった。
(E)「宇岐士摩理」
舟が海上にしっかりと浮かび、の意であろう。
海上に《ゆれただよう》舟の姿とは、逆のイメージである。
(F)「蘇理多多斯弖」
兵士たちが、船上に胸を張って堂々と立っているさま、の形容であろう。「し」は《使役》の用法か。
六
以上の分析のしめす帰結は次のようだ。
第一、出発点は「天国」(対馬・壱岐中心)であり、到着点は高祖山連峰である。
第二、その途中は、それぞれの港々から、九州側の各海岸へと《分れて》すすみ、上陸すること。
第三、たとえば、一隊は呼子(佐賀県)に上陸し、山々の尾根を南下し、やがて背振山脈(佐賀県と福岡県の間)の西端から東端へむかい、その終着点は高祖山連峰のクシフル岳(現存。生活・日常地名)に集結せよ。
たとえば、他の一隊は香椎(博多の東)方面に上陸し、大野城や太宰府の裏側を尾根伝いに越え、さらに油山の裏側(南側)を迂回して、同じく高祖山のクシフル岳に集結せよ。
たとえば、佐世保湾や有明海や別府湾の近辺から上陸した別の各グループは、それぞれの山々の尾根伝い(縄文ルート)に、同じ高祖山連峰のクシフル岳に集結せよ。
右のごとき「内実」をしめしているのである。
第四、この「天照の軍事指令」のしめした意志、それは《いかなるルートを通ってもよい。軍事上、戦略上の終着点は、いずれも同じ、高祖山連峰に集結せよ》この明確きわまりない、リーダーの意思が明記されていたのであった。
第五、それらの上陸点は(一般にしばしば考えられていたような)博多湾岸や糸島郡周辺ではありえない。なぜなら、先記のように、「(西)菜畑・石崎(東)板付」という稲作の先進地・中心地こそ「攻略目標」だ。その東西両側の目標地を《抑える》ための戦略上の要地、その前提をなす拠点こそが高祖山連峰だったからである。
いうなれば、この要地が「征服・侵略の海上からの来襲戦闘集団」によって征圧されたとき、東西のそれら「稲作繁栄の地」は、あたかも「一匹の大猫ににらまれた二匹のねずみ」のように、その死命は制せられるのである。
天照大神による、この決然たる意思、軍事的決断は、ここに記された文言のごとく実行された。そして成功したのである。
七
以上のような天照の企図と行動を支えたもの、それが「中国・朝鮮半島側」からもたらされた金属器(銅と鉄)の武器であった。
その間の事情を物語るものこそ、「銅戈・銅矛」を主役とした「国生み神話」である。
「舟」という、当時最大・最速の運搬手段をもっていたのが海人族であった。その中で「対馬・壱岐」を中心とする彼等は、いちはやく大陸・半島伝来の「金属の武器」を手に入れた。
ために、縄文以来、「隠岐の島(島後)の黒曜石(芸術性に満ちたデザインをもつ)」によって、中心的威厳を保持していた出雲(の神々)に対して「国ゆずり」を要求することが可能となったのである。
「国ゆずり」とは「主権奪取」の美名だ。それまで、主人は「大国主命・事代主命」の方であり、「一の家来」に当るのが「天照大神」のひきいる海人族であった。
その日本列島周辺における「権力の変動」は、中国における、周の滅亡、秦の始皇帝から漢の高祖に至る、東アジア世界の大変動の一大ドラマとおそらく無縁ではないであろう。
八
従来、すでにわたしは確信していた。──「天照実在」の一語を。
なぜなら、「天孫降臨」の降臨地が南九州ではなく、北部九州(高祖山連峰)と見なすと同時に、この連峰が「五つの『三種の神器』出土の弥生王墓」に《取り巻かれ》ているのを知り、到底これが偶然の一致・対応であるとは見なしえなかったからである。
さらに「前末・中初」問題から、この「天孫降臨」が特定の時間帯に生じた、特定の事件であることを疑いえなかった。すなわち、明確な歴史事実、いいかえれば「征服と侵略の史実」に対する、一片の美辞、それが「天孫降臨」の四字だったのである。
今日、天照大神は伊勢皇太神宮の内宮に祭られている。それは、右のような史上の事実を淵源としている。
その後の来歴はもちろん、種々存する。その点も、改めて論ずる日があろう。(6)
しかし、その淵源、そして核心をなす一事が、右の史実にあること、それをわたしには疑うことができないのである。
九
以上、わたしは古事記・日本書紀の神代巻の核心をなす「天孫降臨」がまぎれもなき史実であることを論証した。
もちろん、わたしの研究はすでに今回の方向を指向していたのであったけれど、この降臨時における「天照の言葉」の解明によって、いわば純粋な真実性(リアリティ)、十分な事実性を認識できたのである。
これは昨年来、進展してきた「神武実在」論証の指さすところ、その論理的帰結であった。(7)
では、古事記・日本書紀の記すところ、すべてが真実か。或は、古事記のみでも、その記するところは真実か。
このように問えば、遺憾ながら「否!」と答えざるをえない。なぜなら、わたしがすでにくりかえし、のべてきたように、肝心の「九州王朝」(筑紫中心)の存在が、歴史の中心軸から、スッポリと抜け落ちているからである。もちろん「故意の仕業」だ。
たとえば、本稿で問題とした高祖山連峰。これは当然ながら「九州の山」だ。その地を「天孫降臨の聖地」としている。
そのあと、「神武東進(侵)」によって、舞台は「九州から大和へ」移る。そういう《仕かけ》には、なっている。(8)
しかし、神武たちは「高祖山連峰」を《連れて》東進したわけではない。当然、その連峰は、今も現地に残っているのである。
一方、七世紀中葉の白村江の戦(六六二、或は三)以前において北・中部九州から山口県にかけて、壮大なる「神籠石」という名の軍事要塞群が形造られている。金田城(対馬)・大野城(太宰府の隣)・基肆城(同上)等と共に、「歳月」と「人力」と「経済力」を注ぎ尽くされた巨大なる痕跡である。
これらの軍事要塞群が「大和」を囲んでいるのではなく、「筑紫」(太宰府と筑後川流域)を《取り囲んで》いること、この事実をわたしはくりかえし主張してきた。
学者たち(歴史学・考古学、その他)は、同じく、くりかえしこれを「黙殺」してきた。周知の通りだ。
昨年の外人記者クラブの講演「日本の原理主義批判」に対しては、全世界から厖大なアクセスがあった(英文)。これも、右の「神籠石と、これを排除してきた日本の教科書。同じく《黙殺》しつづけてきた日本の学界」の実情報告だった。
全世界の生きた情報の飛び交う中で、日本の国民(の教科書)のみが、天皇家一元主義史観の、黒い「アイ・マスク」で、目をおおわれているのである。
さて、今の問題にかえろう。
「金田城から筑後山門まで」そして「おつぼ山(佐賀県)から石城山(山口県)まで」この南北と東西線の《交わる》ところ、それはどこか。
言うまでもない。
「高祖山連峰」だ。この「聖域」を中心として、朝鮮式山城や神籠石群が《取り巻いて》いる。延々と囲繞しているのである。これは偶然だろうか。
古事記・日本書紀という「紙の魔法」、権力者、お手製の「史書」の力によって、この「高祖山連峰」或は南九州(霧島連峰)を、近畿天皇家の「一手専売」であるかのように《書き換え》てみたとしても、事実は頑固である。
「天孫降臨地を《中心域》とした軍事要塞群(朝鮮式山城と神籠石)」が、いわゆる「神武東進(侵)」後に、九州において長年月、作られつづけている。この歴史の事実を消すことは不可能である。
日本国民の「目」をおおうことがたとえできたとしても、全世界の「目」がこれを決して許さないであろう。
十
「天照実在」の問題は、論理的に和田家文書(「東日流外三郡誌」等)の史料批判への道を開く。その大道をさししめすのである。
そこには、「安日彦・長髄彦」の兄弟が筑紫から「亡命」ないし「逃亡」してきたことが、しばしば語られている。いわば、同文書の史的叙述の一淵源をなしているのである。それは次のようだ。
(A)彼等は「稲穂」を津軽にもたらしたことが力説されている。(9)
(B)彼等は「筑紫の日向の賊」に追われて津軽へ逃げのびた、とされる。
(C)津軽(青森県)では、《稲の神》である「倉稲魂命」が今も多く祭られている。(現在の神社伝承。祭神。)
(D)中心の編者である秋田孝季は、同時代の本居宣長等の「国学派」の影響をうけ、右を「九州の中の、日向国(宮崎県)の賊」と理解した上で、多くの史論を物している。(兄弟の一人、長髄彦を、古事記・日本書紀の神武巻の「長髄彦」と同一視し、この「津軽亡命」を「神武時点」と見なした。)
右の、最後の問題(D)につき、わたしは秋田孝季と歴史学上の基本、その「史観」を異にしていた。
今日、「天照実在」の認識の確立によって、右の(B)の「筑紫の日向の賊」がやはり「ちくし(福岡県)のひなたの賊」であり、天照大神の配下の「高祖山連峰」への侵入軍(ニニギの命たち)であったことが、明確に判明し、確証されたのである。
その上、最大の縄文水田、板付遺跡が、何重もの軍事環濠(中心は、*2重V型)に囲まれていたにもかかわらず、「廃滅」され、「弥生中期初頭、以後」存続していない、という興味深い事実が報告されている。いわゆる「前末・中初」の画期線を以て「断絶」しているのである。
今回の「天照実在」論証は、必然的に次なる「安日彦・長髄彦、実在」論証への道を切り開いている。
世間をさわがした、あの「偽書」キャンペーンなど、一言率直にこれを評すれば、遺憾ながら「学問の賊」に類すると言う他はない。なぜなら研究と論理の進行への「妨害」だからである。
参考 インターネット事務局注記2002.8.6 記号を表示できないため、この説明を加えました。
*2重V型は、V字型の堀の最底部が、さらに菱形状に掘り込まれていた。(『古代史60の証言』証言5)
十一
もちろん、当和田家文書に対する「批判的考察」、それは常に歓迎する。
けれども、それはあくまで学問論争上のルールと「相互尊重」の上に立ち、クールに、そして丁寧に論争し合うものでなければならぬこと、およそ言うまでもない。
しかるに、かっては無実なる「豊島勝蔵」「和田喜八郎」の人々を以て「偽作者」として名指しに攻撃し、近来は、わたし自身を「偽作者」乃至「偽作委嘱者」として標的にしようとしている。和田喜八郎氏、すでに逝き、今後の「生きた犠牲者」を求めているのであろう。
そのための「偽、文書」まで《引用》して攻撃する。《なりふりかまわぬ》とは、まさにこのことだ。(10)
たとえば、ある芥川賞作家、或はノーベル賞作家の作品に対し、「わたしはその作家に頼まれて(何百万円の代価で)その受賞作品を書いた。」というような原稿が某氏からもたらされたとしたら、責任ある出版社が慎重に客観的な検証もせず、直ちに「面白い」と言って、その原稿を掲載するものなのであろうか。信じられない。
不徳義な「一作家」は、いつもこの世に存在するであろう。しかし、不徳義な「大手出版社」が世間に存在しつづけるとすれば、日本の社会自身のうける「被害」は、後日日本国民がその代価を必ず支払わねばならぬであろう。
十二
しかしながら、わたしは「案じて」はいない。楽観している。なぜなら、舞台裏が見えているからだ。
真の標的は、すでに和田家文書(東日流外三郡誌等)だけではない。或は、「神籠石」問題であり、或は、「万葉批判」や「壬申大乱」問題である。或は、「日出ずる処の天子」問題である。それらに対する、学問の《(する者にとって)つらい無視(シカト)》《つらい黙殺》《つらい仲間はずし》の権利、その免罪符獲得のための「運動」なのである。執筆者自身に、或はその意図はなくても、学界おかかえの出版社や、同じく大手、そして中・小の出版社の背後にある「共通の手」の目指すところは、それだ。執筆者は、いわば《あやつり人形》役を演じているにすぎないのである。
これに対して、もしわたしが「憤激」し、その「対応」に追われるならば、それこそ彼等にとって《思う壺》であろう。
和田家文書であれ、「神籠石」問題であれ、要は、明治維新以降、薩長政権の「定置」してきた、天皇家一元の「公的歴史像」に対する批判、それも実証的にして論理的な批判に対し、決して学問の場において論争せず、《背中から》切りつけること、そしてわたしのような老人に対してそれへの対応に疲れさせること、そして正々堂々たる学問上の進展をさらに行わせないこと、それが彼等の真の目標だからである。
しかし、そのような巧智なる企図も、結局、一片の無駄に終るであろう。なぜなら、すでに「晩年のシュリーマン」が、そのような「誹謗者」の「野蛮な悪口」に疲れ、もしそれらがなければ達成したであろう、数々の業跡の失われたことを、わたしたちはすでに深く熟知しているからである。
<注>
(1)二〇〇二年の秋、刊行予定。
(2)「新、親鸞の史料批判──建長二年文書(三夢記)の信憑性に関し、山田論文に答える──」
「新、親鸞伝絵の史料批判──平松令三氏に答える──」
(3)新田一郎「虚言ヲ仰ラルゝ神」『列島の文化史』六、一九八九年。
(4)ただ「天一根」(姫島)のみは、国東半島沖(大分県)。(福岡県志摩町の「姫島」は、古事記による命名。訂正する。)
ただ「女島」は、他島の可能性もある。
(5)「日本軍事史の原点──天孫降臨──」(多元No. 50、二〇〇二、六月)
(6)今、伊勢皇太神宮の「内宮・外宮の成立」問題について、とりあげてみよう。その要点は左のようだ。
(A)京都府の北辺には、「元、伊勢」を称する神社(群)が存在する。たとえば、「籠(この)神社」などは、その代表をなす。同社の奥宮には「陰陽石」「女陰石」が存在している。《五穀豊穣の神》豊受大神の淵源をなす。
(B)同じく、伊勢(三重県)の海上にある「二見ヶ浦」は、海上の陰陽神であり、古く(旧石器・縄文以来)から、海洋民の信仰対象であったと思われる。
(C)右の「古来の(現地)信仰形態」を反映し、これを《陸上化》したものが、伊勢「内宮と外宮」の淵源と見なされよう。
(D)すなわち、「九州から渡来した天皇家」の奉持した、外来の守護神たる天照大神が、ここ伊勢にもたらされるよりはるかに以前から、豊受大神(本来は「トユラヒメ」──縄文の女神が中心か──)は、この伊勢において、尊厳なる信仰対象だったのである。(いわゆる「垂仁天皇時期」の天照大神の《伝来奉祀》より、はるかに古い。)本稿でのべた「弥生人としての天照」との比較も、当然不可欠となろう。
右のような「歴史の伝来」に対し、今回の佐藤弘夫氏の場合、「内宮と外宮の確執」(六四ページ)において、
「もともとトユケはアマテラスの従僕であり、両者の間には決定的な神格の差異があった。」
にもかかわらず、
「外宮のトユケを内宮のアマテラスと同格、ないしはそれ以上の至尊神にまで引き上げようとしたのである〔高橋美由紀「伊勢神道の成立と展開」大明堂、一九九四年〕」(六七ページ)
というところに、『御鎮座伝記』(『神道五部書』の一)の「偽書」性を見ておられるようであるが、右の「歴史の伝来」を導入すれば、氏の立論はまた一段とその奥行きを深めることとなったのではあるまいか。
(7)「神武古道」(『新・古代学』第六集、二〇〇二、七月、所収)「神武実在」(『多元』No.
49、二〇〇二、五月)
(8)「神武実在」の年代は、大和盆地における「銅鐸の消滅」(弥生中期末・後期初頭)がしめす。考古学編年では、後一〇〇年、年輪年代測定では、紀元一年前後(大約)。
(9)ただ「安日彦・長髄彦」が、稲作に関する、《最初の将来者》とは限らない。逆に、「稲作のルート」によって「亡命先」をえらんだという可能性もあろう。(対馬の峰町の縄文遺跡〈佐賀貝塚、一九八九、第9集報告〉では、津軽海峡圏やその周辺との濃厚な交渉・伝来の痕跡が報告されていること、著名である。)
(10)「『偽書』誕生の心理学」(『歴史・諸君』諸君!5月臨時増刊号、二〇〇二、文芸春秋社刊)
(他に、横田健一編『日本書紀研究』第二十三冊、塙書房刊、平成十二年十一月。七七・一四八ページ、等。また三上重昭『「東日流外三郡誌」の真実』梓書院、平成十四年五月刊、等参照。)
──二〇〇二、七月十七日記──
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