「二倍年暦の世界」3 孔子の二倍年暦 へ(古田史学会報53号)
孔子の二倍年暦についての小異見
福岡市 棟上寅七
はじめに
古田史学の会のホームページの、「闘論」に二倍年暦についていろいろな意見が出されていて興味深く読ませてもらっています。小生は、自分のホームページで、常識・理性から見た歴史本の批判な
どをやっていますが、つい習い性となったのか、この二倍年暦でもつい????というところが目に付いてしまいます。その後、史学の会の内部で討論されているのかどうかわかりませんが、気になったところと、それについて調べた結果を報告し、以って闘論の深まりに資するところがあれば幸甚と思い小論にまとめてみました。
古賀達也 新古典批判
「二倍年暦の世界」3 孔子の二倍年暦
古賀さんのこの論文の中で、『論語』の二倍年暦について気になったこと、調べてみた結果について報告します。ここで古賀さんは、管子、列子が共に二倍年暦を用いたとすれば、この間に位置する孔子も二倍年暦の時代になるが、『論語』にもその痕跡が散見される、と前おきをされて論語の二倍年暦の例を説明していかれます。
有名な「吾十有五にして学にこころざし・・・・」論語為政の文を取り上げています。この文章を二倍年暦という概念を当てはめると孔子像が一変する、とこの文章を二倍年暦で解釈されます。そして、二倍年暦で見直すことこそ真の孔子を理解する道である、と結んでいらっしゃいます。小生が引っかかりましたのは、人間の寿命の限界として、【孔子の時代よりも七百年後の三国志の時代の平均没年齢は約五十歳であり、多くは三十代四十代で亡くなっている。従って孔子の時代が『三国志』よりも長命であったとは考えられず、とすれば四十歳五十歳という年齢は当時の人間の寿命の限界であり、・・・・】というところです。
この論法は、考古学をかじった方には受け入れられない論法ではないでしょうか。まず第一に、古代人骨の年齢判定しその分類をするにあたって、壮・熟・老と大まかに分けるそうです。老というのは六十歳以上、つまり「大まかに分けるだけの六十歳以上の人骨が存在する」というのが考古学上の常識となっているようです。 (注1)
たしかに、日本の弥生時代の平均寿命は二十~二十五歳くらいのようです。しかし、幼年時を生き延びた生存者の分布は、五十歳以上が二十%にも及ぶという報告がなされています。(注2) 以上のことからして、五十歳を寿命の限界として二倍年暦を論証されるのはちょっと無理があるのではないか、と思います。もし、それでも五十歳が限界と主張するのであれば、形質人類学の死亡時年齢判定基準が間違っていることを証明する必要があろうかと思われます。
また、列子の年齢記述の百歳の例を挙げられ、二倍年暦の証とされます。しかし、古代人が五十歳以上生きる例が二十%近くあれば、二倍年暦でしたら、百二十歳、百三十歳くらいの記事が出ていて当たり前と思います。何故それらは列子には出てこないのか、という推論を付け加えなければ、立証は片手落ちではないでしょうか。
孔子の論語の当該句が、後世一倍年暦に合わせて修正されている可能性もあろうかとは思います。『礼記』曲礼上篇、での二倍年暦の例では百歳以上を期といって[臣頁](やしな)うということも二倍年暦の例とされます。しかし、百歳以上についてはお調べになったのでしょうが、何も書かれていません。つまり百歳以上についての記述は列子にも孔子にもなかったのでしょう。とすれば、「孔子の二倍年暦はなかった」ということになってしまいます。願わくば、百二十歳にして孫に教わり云々、とか言うような片言が書かれた磚でも見つかればいいですね、としか言いようがありません。
[臣頁](やしな)うの[臣頁]は、頁編に臣。JIS第三水準ユニコード9823。
もう一箇所引っかかったところがあります。【『礼記』内則篇の「夫婦の礼は、ただ七十に及べば同じく蔵じて間なし。故に妾は老ゆといえども、年いまだ五十に満たざれば云々」、これは説明を要さないであろう、やはり二倍年暦である】、と断定的にのべられているところです。
原文【夫婦之禮,唯及七十,同藏無間。故妾雖老,年未滿五十,必與五日之御。將御者,齊,漱浣,慎衣服,櫛縦笄,總角,拂髦,衿纓?僂*。雖婢妾,衣服飲食必後長者。妻不在,妾御莫敢當夕。】
?僂*の、?は表示できず。僂*は、尸編に行人偏の僂。JIS第四水準ユニコード5C64。論証に影響するか不明。
小生の感じから言うと、これは反対に、一倍年暦の証明ともなりうる例と思われるのですが、会員の皆さんのご意見や如何に。ただ、この論文の最後に述べられている周王朝の二倍年暦の着眼には感心しました。しかし、周王朝の歴代の王達の、長すぎる在位年数の一覧表について、棟上寅七などの粗忽者は、ああそうか、と鵜呑みしそうですが、今回この小論のために一応ざっとですが調べてみました。
その結果、古賀さんが、在位が長すぎるとされる王たちのうち、
(1) 成王・昭王・穆王・萬*王の在位年数については異論があること。
萬*厂(がんだれ)編に萬。JIS第四水準ユニコード53B2
(2) 平王や顕王は在位が長すぎたため孫に譲位したこと。
など、二倍年暦に不利な情報を出していらっしゃらないことは、少しアンフエアーな進め方のように感じられました。
折角の周王朝の長すぎる在位年数という手がかりを得た、古代中国における二倍年暦探求の道が、上記の論語・礼記の(小生が見るところの)不十分と思われる例示や、周王達の在位年数の不十分な情報開示によって、その全体の道が歪められて受け取られることを心配します。
この小論は、古代中国の二倍年暦探求の深化を願ってのものであり、意のあるところをお汲み取りいただければ、と願うばかりです。
以上
注1 日本人と弥生人 人類学ミュージアム館長 松下孝幸 一九九四・二 祥伝社
p一六九~p一七二 死亡時年齢の推定 要旨
【骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい。基本的には、壮年(二〇~四〇)、熟年(四〇~六〇)、老年(六〇~ )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度だと思った方がよい。ただし、十五歳くらいまでは一歳単位で推定することも可能。子供の年齢判定でもっとも有効な武器は歯である。一般的に大人の年齢判定でもっとも頼りにされているのは頭蓋である。頭蓋には縫合という部分がある。縫合は年齢と共に癒合していって閉鎖してしまう。その閉鎖の度合いによって先ほど上げた三つのグループに分類するのである。これは単に壮・熟・老というだけではなく、「熟年に近い壮年」、「老年に近い熟年」といったレベルまでは推定することができる。
注2 日本人の起源 古代人骨からルーツを探る 中橋孝博 講談社 選書メチエ 二〇〇五・一
中橋氏はこの本の中で、「弥生人の寿命」という項で大約次のように言います。
『人の寿命の長短は子供の死亡率に左右される。古代人の子供の死亡状況を再現することは特に難しい作業である。寿命の算出には生命表という、各年齢層の死亡者数をもとにした手法が一般的に用いられるが、骨質の薄い幼小児骨の殆どは地中で消えてしまうために、その正確な死亡者数が掴めない。中略 甕棺には小児用の甕棺が用いられ、中に骨が残っていなくても子供の死亡者数だけは割り出せる。図はこのような検討を経て算出した弥生人の平均寿命である。もっとも危険な乳幼児期を乗り越えれば十五歳時の平均余命も三十年はありそうである。』
この生存者の年齢推移図からは、弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています。
p二一七 生存者数の年齢推移図
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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