偽書の史料批判──二つの偽書論──(古田史学会報51号)
タッキー816 みのおエフエム提供 古田武彦ラジオ講演
みちばたサミット第3回 老年のための古代史
二〇〇二年二月十四日放送
(こんにちは。水曜日のみのお道ばたサミットは、森藤裕子の担当でお送りします。これからの五十分間、どうぞ、ご一緒におつき合いください。)
(こんにちは。水曜日のみちばたサミット。きょうスタジオにお出でくださいましたのは、古田武彦さんです。きょうで三回目のお話ということになります。、きょうは老年期のかたがた、熟年の方を対象にお話をしていただけるとのことで楽しみにしております。)
(先生、どうも忙しいところ、有り難うございます。)
きょうは、わたしと同じ老年期の方がたをイメージしながら、しかし内容は過激な内容を含んでおりますが、祝詞について。みなさん神社でおこなう祝詞(のりと)についてお話したいとまいりました。
(そうですか。その祝詞とひとくちに言いますが、いろいろあると思うのですが。どんなお話から、うかがえるのでしょうか。)
その祝詞(のりと)ですが、わたしは、これは縄文時代からあったものと思っています。わたしが信州の松本におりましたときですが。青年時代ですが、浅間温泉におりまして、そこの下宿の開く窓から、障子(しょうじ)を開きますと、目の前に乗鞍(のりくら)岳というひじょうに美しい山がそびえていたのです。アルプス連峰のなかに。アルプス連峰の中で一番高い山は穂高岳ですが、そのアルプス連峰の中で、第二峰・第三峰にあたる山ですが、ひじょうに姿が美しい山でございました。
この「乗鞍(のりくら)」。字をかきますと乗馬の「乗」と、革偏に安いの、馬の「鞍」と書きますが。なにか乗馬のための山のようなイメージを持ちますが。これはやはり当て字でして、この「乗(ノリ)」は祝詞の「ノリ」です。当て字です。
(当て字なのですか。)
そうです。「鞍(クラ)」もやはり当て字でして、祭りの場を「くら」と言います。祝詞(のりと)を捧げる祭りの場という名前をもった山なのです。これは、どこに捧げるかというと、とうぜんアルプス最高の穂高岳。
現在は、穂高岳をのぼって征服したなんて威張っていますが、これは明治以後のヨーロッパ流の登山家達の考え方でありまして。古代の人にとっては神聖な最高の山は登る山ではなくて、むしろ第二峰、第三峰でそれを祭る対象、神様の居られる山と、こう考えられて来ておった。それで「乗鞍(のりくら)」という名前がついた。
それがなぜ縄文かと言いますと、実はご存じかと思いますが黒曜石。この黒曜石が縄文時代には、ひじょうに貴重なものとされておりました。なぜかと言いますと、これはひじょうに堅くて、ひじょうに割れやすい。ですから鏃(やじり)とか、その他切るものに最高である。だから金属器がなくて、まだ知られていない弥生以前の時代には、現在でいえば金とダイヤモンドを合わせたようなすばらしい価値を持っていたのです。
(それは装飾品としての価値ではなくてということですか?)
装飾品としての価値ではなくて、最高の実用品としてですね。黒曜石というのはもちろん中国語です。漢語です。縄文時代は何と言っていたのか。わたしが探し求めておりましたら、ちょうど九州の腰岳。この山は九州最大の純黒の黒曜石がでる山なのですが。伊万里という町の近くにあります。伊万里富士とも呼ばれたりしております。ここへ行って聞きまして、黒曜石のことを「からすんまくら」と言っていると、お聞きしました。
(それは色がまっくろだからですか)
そのように思いましたが、あとで考えてみましたら、そうばかりではなくて、むしろ「カ」は神様の意の「神聖な」。「ラ」は、空・村というような日本語によくある接尾語。「ス」は住まいの意で、たくさんあるところ。神聖な住まいのたくさんあるところが「カラス」で。「マ」は、真実の意で、「クラ」は先ほど言いました祭の場の「くら」。そうしますと「神聖な住まいのたくさんある祭の場」が「からすんまくら」。これが黒曜石のことを言っています。
この黒曜石は、弥生以後は、いっきょに主役の座からすべりおちる。金属器が入ってきましたので。金属器がだんぜん堅いし、銅や鉄のように自由に作れますし、縄文のような神聖な最高の地位を失ってきた。それで「神聖な祭の場」にあるものだという「からすんまくら」という表現は縄文時代でないと言えない表現なのです。
(そうですね。金属のほうが、もっと良いものですから。そんなに神聖視しなくて。)
弥生以後では、そんなに出てこない表現です。すなわち、そこに使われているのをみると「くら」という表現は縄文語である。かって縄文語とはなにか。そう考えて探していて、やっと見つけた。少なくとも「くら」という地名は縄文語である。そういう発見がありまして、その後も「くら」という地名の付いた日本全国の山を歴訪した時代があったのでよ。
(そうなんですか。)
いずれも「くら」は、「神聖な祭の場」のところに付いています。この話もはじめるとおもしろいですが、「サクラ」という地名は、けっこう字地名にありまして千葉県の国立民族学博物館のある佐倉は、佐倉惣五郎の「佐倉」。私が以前町田の東京昭和薬科大学に居ましたとき、その前大学があったのが渋谷の近いところの桜新町。「さくら」という地名は、実はけっこうあります。「サ」は接頭語でして、「くら」は祭の場です。
(「さくら」というのは花の桜では、なかったのですか。)
後でけっこうチェリーなどを植えたりしていますが。「神聖な祭の場」を意味する「さくら」が日本語の字地名にずいぶん残っています。
とにかく元にかえりますと、「ノリクラ」の「クラ」は、縄文の祭の場を意味する「くら」である。そこで祝詞を唱える。穂高なる最高の山の神に向かって。その神を賛えたり祈ったり願ったりする言葉を唱える場所として、第二峰・三峰が唱える場所として使われていたから、姿の美しい乗鞍岳が、「乗鞍(のりくら)」という名前が付いた。ということで祝詞(のりと)の「のり」という表現は、縄文時代にすでに使われていた。そのように、わたしは考えています。
(そうしたら縄文時代の信仰は、すでに出来上がっていたということなのでしょうか。)
そうなのです。縄文時代のはじめは一六五〇〇年前ということになっています。一万年以上あるわけですから。そのあいだに言葉もなく、信仰もなく、ただ土器だけを作っていたということはありえない。とうぜん言葉があり、言葉のなかにはとうぜん信仰の言葉があり、また信仰する神々が居られた。そういうことだと思います。
それで祝詞(のりと)という言葉は、由緒の古い言葉である。そういうことをまずお話させていただいたわけです。
(縄文語という言葉をはじめて聞いたわけですが、日本語の中にでも、ちゃんと縄文語はのこっている。いわゆる、いまの日本語とはすこし違っているのでは。今お話を聞きましたら。)
縄文語というものは、いまの日本語の基盤になっている。文字通り祖先になっている。
言葉の問題と言いますと、それだけで時間がたっぷり欲しいのですが。今日は祝詞の一般論はそれぐらいにして、祝詞の中のひとつの特徴のあるものを取りあげて、祝詞というものはどういうものか、考えてみたいと思います。よろしいでしょうか。
(よろしく、お願いします。)
ここで取りあげる祝詞は、「六月晦大祓祝詞(ミナズキのツゴモリのオオハラヘのノリト)」、つまり「大祓(オオハラヘ)の祝詞(ノリト)」というものです。日本人は誰でも大晦におおはらい大掃除をおこないます。そして気持ち良く正月をむかえるという習わしなのです。
ところが、この祝詞には「六月晦大祓祝詞(ミナズキのツゴモリのオオハラヘのノリト)」とあります。「ミナヅキ」というのは、六月です。晦(ツゴモリ)というのは、三十日です。この「六月晦大祓祝詞」というものがありまして「十二月(シハス)はこれに准(ナラ)へ。」と、このように書いてある。
これをくわしく知りたいかたは、たとえば岩波の日本文学古典体系という赤っぽい本がありますが、その中に『古事記祝詞』などをご覧になられ、終りのほうを見られたら『祝詞』がたくさん載っております。
(図書館に行かれたら借りることができるわけですね。)
さて、この「大祓(オオハラヘ)の祝詞(ノリト)」についておもしろいのは、十二月と六月の二つあるということが、まず分かる。
(師走というのは十二月だけだと思っていたのですが、六月もですか。)
そうそう六月と(一年に)二回することになっています。
(ふしぎですね)
これも非常に重要なことです。実は『古事記』などで、天皇の寿命がたいへん長い。百二十歳とか、百三十歳とか書かれていたので、あんなものはインチキだと言われていた時期がある。実はそうではなくて、これは「二倍年暦」。六ヶ月を一年と考える。そういう暦があったのです。
(それは縄文にあったのですか。)
すくなくとも弥生にあった。おそらく縄文にさかのぼると考えられます。実はこれを証明しているのは、第一回目に言いました『三国志魏志倭人伝』。その中に倭人の寿命は九十歳ぐらいだということが書いてある。べらぼうに長いではないか。そうお思いかも知れませんが、じつは、それは半年を一年とする暦。実は四十五歳。かれらは四十五歳まで生きるということを表現している。『魏志倭人伝』に「二倍年暦」の倭人のすがたが示されている。『古事記』『日本書紀』の天皇の寿命が、百二十・三十になっているというのも、やはり二分の一にしますと、四十すこしになる。だから非常にリアリティーがあり、信用できる。そういう「二倍年暦」というおもしろい問題が、実はなんのことはない。「大祓の祝詞」をみれば、すぐ分かる。六月と十二月の大祓。
(そうですね。これは「六月晦大祓祝詞」と書かれてありますが、抜粋して下さったのは、どの本ですか。)
先ほど言いました岩波の日本文学古典体系『古事記祝詞』の中からコピーしております。
(そうですか、手元にいただいております。ここでは「六月晦(ミナヅキのツゴモリ)大祓(オオハラヘ)の祝詞(ノリト)」と書いてありますので、これはこれは一年を二つに分けたということですか。私たちの感覚では。おもしろいですね。)
その点でも、おもしろい。つぎに内容に入っていきます。ぜんぶお読みする時間はありませんので、いちばん重要なところ、興味深いところを読んでみますと、
六月晦大祓祝詞(岩波日本文学古典体系『古事記祝詞』より引用、読み上げる。)
・・・高天の原に神留りまし、皇親神ろき・神ろきの命もちて、八百萬の神等を神集へ集めたまひ、神議り議りたまひて、『我が皇御孫の命は、豊蘆原の水穂の國の、安國と平らけくしろしめせ』と事依しまつき。・・・
ーちょっと、途中を抜かしましてー
天の磐座放れ、天八重雲をいつの千別きに千別きて、天降し依さしまつりき。
・・・
これはなんのことを言っているか。要点は、戦前はよく言われ、老年の方はよくご存知の、「天孫降臨」ということを言っています。つまり出発点は高天原。アマクニと呼ばれる「天国」というところが出発点となり、そこに天照大神。有名な神様ですが、孫のニニギノ命(迩迩芸命)に、これから筑紫の日向の高千穂のクシフル岳、そこに行け。と言われて、孫のニニギノ命が言う通り降っていった。そういう一節が、『古事記』にもある。『日本書紀』にもある。
祝詞にも、たいていこれが出てくる。この前、青森県の神社でも祝詞で「筑紫の日向の高千穂のクシフル岳」と聞きまして、青森県でもやっているんだと思ったわけです。
この「天高原」をなにか宇宙船がとんでいる天上かなにかと考えておられるかたが居ますがとんでもないことです。そんなところから古代に降りてこれるはずがない。戦後はぎゃくに、あれは作り話だ。津田左右吉などの説によって、そう言われてきました。戦後の若い人はそう習ってきた人が多いはずです。
(「高天原はなかった」ということが、今は通説になっていると言うことですか。)
わたしは、これは両方とも間違っている。戦前の皇国史観の考えも間違いだし、戦後の津田左右吉などの言ったような、これはみな作り話である。この考え方も正しくないと思っています。
じゃあ!なにか、と言いますと高天原(あまたかはら)・天国(あまくに)。これは「アマ」を「天(テン)」という字を書くから、字にだまされるので、今でも海に潜って貝をとる女性のことを海女(あま)と言いますが、その海人(あま)です。要するに現代人の言い方をすると海洋民族です。海の人々、海の国という意味が、天国(海人国、アマクニ)です。
『古事記』などで対馬海流上、朝鮮半島と九州の間にある島々は「天の○○」、「天の○○○」とみな呼ばれている。
(それは、いつの時代から、そう呼ばれているのでしょうか。)
『古事記』のあるのは弥生時代。弥生時代以前から、そういう古い呼び方があったということが『古事記』の先頭に書かれています。
それともう一つおもしろいのは、「天降(アマクダル)」と言われている神話がありますが、天降った場所が三ヶ所しかない。一ヶ所は筑紫(現地の人はチクシと呼んでいます)、今の福岡県。もう一つは出雲、島根県です。もう一つは新羅、朝鮮半島です。この三ヶ所しか天降っていない。
(全部、海に面したところばかりですか。)
つまり、対馬海峡の壱岐・対馬を原点にした、その周辺なのです。つまり現在の福岡県も島根県も韓国新羅も。どこから天降ったかというと壱岐・対馬。つまり海上の国、海洋民族の国。その天国(アマクニ)から、天降った。このように理解すると、ひじょうにスッキリ理解できる。現に壱岐・対馬の、今の壱岐島の対馬に相対したところに天原(あまのはら)という地名がある。
(どんな字を書くのですか。)
「天(テン)」の「原(ハラ)」という字を書きます。その壱岐(島)の「天原」から銅鉾が何本か出ているところです。「天原(あまのはら)」という地名まであります。そういうことで天国・高天原は壱岐・対馬の海上の島々。これを中心にする場所を天国と言います。「高(タカ)」は尊敬の言葉で、高天原(タカアマハラ)を、このように呼んでいます。
(「高(タカ)」は尊敬の字で、高い、低いの意味ではないわけですね。そうですか)
つぎは、今言った「天孫降臨」はどこへ降りたか。
これは「筑紫の日向の高千穂のクシフルダケ」と出ております。
筑紫(ツクシ)はどう読んでも福岡県で、福岡県のなかで「日向(ひなた)」と字を書いている場所がありまして、これは「ヒュウガ」ではなくて「ヒナタ」と読みます。博多の西の端のほうに室見川という川がありますが、この室見川の上流に近いところに「日向(ひなた)」という字地名がある。
(今でも残っているわけですか。その地名は。)
今でもあります。その西側に高祖山連峰というものがあります。「高い祖」と書いて高祖(タカス)と読みます。そこには日向(ひなた)山があり、その隣に日向(ひなた)峠がある。日ひなた向峠のほうから、東のほうへ流れている川が日ひなた向川。その日向川が室見川に合流した平地のところが字日向(ヒナタ)。ヒナタだらけ。
(おもしろいですね。今でも、そのあたり一帯をヒナタと呼んでいるわけですか。)
ですから「筑紫の日向」と呼んでいるわけですから、他にも日向(ヒナタ)とよぶところは日本中あるでしょうが「筑紫の日向」と言えばそこしかない。しかも、そこが決定的なのは高祖山連峰のところにクシフルダケというところがある。
(どんな字を書くのでしょうか。)
漢字ではいろいろな字を書きますが、カタカナで「クシフルダケ」と考えていただいたら良いと思いますが。その「クシフルダケ」というところに天降ったと『古事記』『日本書紀』でも言われています。博多(福岡市)と前原市とのあいだに、高祖山連峰のところに「クシフルダケ」というところがあるのです。場所はちゃんと筑紫のなかです。ですから筑紫があり、日向(ヒナタ)があり、高千穂としての高祖(タカス)山連峰があり、クシフルダケがあり、(『古事記』『日本書紀』では)「筑紫の日向の高千穂のクシフルダケ」へ、そこへ天降ったと言っているのです。
ですから天照(あまてらす)の孫は、もちろん軍勢を引き連れてそこを占領したと言っているのです。
(今まで地名がいっぱい出てきて、たぶん聞いておられる方も夢の中で、地図を想い浮かべて地形を思い起こしておられると思いますので、ここでちょっと音楽をはさんでみたいと思います。よろしいでしょうか。)
・・・(音楽はカット)・・・
(水曜日道ばたサミット、今日はスタジオに歴史学者の古田武彦さんをおまねきしています。今まで「大祓(オオハラヘ)の祝詞(ノリト)」について、お伺いしていたのですが、「祓(はら)う」ともうしますが、何を祓うのでしょうか。「罪(つみ)を祓(はら)う」ということなのでしょうか。)
その前に、先ほどのことをまとめさせていただきたいのですが。先ほどの「大祓(オオハラヘ)の祝詞(ノリト)」。
ほかの祝詞でもそうですが、「天孫降臨」という事件が語られております。それはわたしの理解では、歴史的事件であって、けっして単なるおとぎ話や想像ではない。
どういう事件かと言いますと、原点になっているのは、壱岐・対馬の天国(あまくに 海士国)。大陸からの金属器を、最初に手に入れた人たちのいるところです。その人たちが縄文稲作で有名な博多湾岸。そこを支配しようとして侵入軍を派遣した。それが高祖(たかす)山。そこは砦であると思いますが、そこを支配して、日本列島の西日本を支配するにいたった。そういうことを述べているのが、「天孫降臨」という名の事件だと思うのです。
『日本書紀』などでは、これを南九州のような感じで書いてありますが、そう理解すると全然だめで、矛盾を生じて空想話に、せざるを得なくなる。
早い話が「三種の神器」をもったお墓が集中して出てくるのが、今の高祖山連峰の東側と西側なのです。(遺跡例、吉武高木、三雲、須玖岡本、平原)南九州にはまったく出てきません。
それと弥生時代の前期の終り、中期の初め。それは紀元前二〇〇年頃ですが、福岡県では出土物が一変します。「三種の神器」が出てくるのは、紀元前二〇〇年以後しか出てきません。出土物が一変しますので、やはり征服と被征服がおこなわれた証拠と考えているわけです。
そういうことから見ますと、「大祓(オオハラヘ)の祝詞(ノリト)」で見ました罪。「大祓祝詞」ではらう罪がづらづらと書いてありますが、ゆっくり図書館でごらん下さい。
それで罪に二種類あって、「天つ罪」と「国つ罪」と二つに分けて書いてある。
「天つ罪」というのは比較的へいぼんな罪。田んぼの溝をこわすとか、田んぼの溝を埋めるとか。水を流す樋を壊して他のところへ水を持っていってしまう罪など、農業生活では罪としてはありがちな罪。してはいけないこと、それをタブーというか罪としてあげてあります。
ところが「国つ罪」のほうには、たくさん罪がありますが奇怪な罪があります。たくさんは時間の関係であげることは出来ませんので、ひとつ特徴のある罪を言いますと、老年者を対象だから、あげやすいとも言えるのですが。「母と子とを犯せる罪」「子と母とを犯せる罪」。
(これは母と子と、子と母と、反対になっているわけですね。)
これは一体なんだろう、というわけです。お母さんと子供。言葉から見ますと、これは両方とも女性だと思います。子供のほうも女性です。女の子です。娘です。お母さんも女性です。これを両方とも犯したる罪と言っています。ですから犯すほうは男性です。とうぜん男性がお母さんと娘を一緒に犯す。そういう罪があげられています。
ちょっと、ふつうでは考えにくいことなのです。ところがこういうことが起こりうる時期があるわけです。要するに戦争。征服と被征服という大激変がありますと、征服者が被征服者の娘や母を犯すという行為。あってならないことですが起きる。日常生活では、ないとは言えないが、まあない。ところが、いまの戦争という直後の状況では、こういうことが、しばしば起こりうる。
(縄文時代がすごく永く続いたということは、比較的平和だった時代だと思うのですが。それが一変して大戦争が、とつぜんドカンと来たと言うことなのでしょうか。)
そうそう。「前末中初」と言っていますが、弥生時代前期の終り、中期の初め。BC二〇〇年前後の弥生時代中期の初まりの時期に。すくなくとも福岡県あたりで大激変があった。その背景になったのは、壱岐・対馬の人々が大陸・朝鮮半島から金属器を手に入れた。金属器を持っているほうと持っていないほうとでは、ぜんぜん武力が段違いに違うわけです。もちろん彼らは海洋民ですから、当時でいちばん早く物や人を運ぶ船というものを持っている。そこに鉄や銅の武器を持っていると圧倒的な武力の差を生じた。その中での征服・被征服。
「天孫降臨」と美しく言っているけれども、歴史上の事実としては征服・被征服だった。ところが征服・被征服と、言葉で言えば簡単ですが、その中でいろいろな悲劇が起きている。それが「国つ罪」として、あげてある。
全部ひとつひとつあげて説明すればおもしろいのですが、今はひとつだけ例を挙げておきます。被征服民、負けたほうの悲劇。男は殺されているわけです。夫や父親は殺されているわけです。残された女性は犯される。征服者から言えば犯す。それを罪と言って、その罪をチャラにする祭祀。それが「大祓(おおはらい)」。
(ということは、それだけ大きな戦争を行なうということは、同一民族ではなかったということですか。)
広い意味では同一民族でしょうが、同一民族の中でもいろいろ種族が違いますから、その意味では同じ種族ではない。
(おなじ種族ではなくて、それがその時に大きな戦争が起きて、それがこうして、ずっと語り継がれてきてるというのは、とてもショッキングな・・・うむ)
そうですね。それに、この祝詞は犯したほうの征服者の立場で作っています。
(征服者の立場で作ったから残ったのでしょうか。)
しかし、その場合、負けたほうで民衆は存在しています。その場で、祝詞が唱えられる。そうすると、罪を犯したけれども、言いようのない罪だったけれども、大祓の祭祀でそれを消してしまいたい。平時になれば、そんなことはそうありませんから。和解をしようではないか。そういう意味・なまなましい内容を持ったものがこの祝詞(のりと)なのです。
(それではある意味で謝罪の気持ちを持っているという文章なのでしょうか。祝詞というのは。)
もちろんそうです。だから負けた側の民衆のほうでは、征服者があのような祭祀の場で、征服者がちゃんと自分たちの犯したことを罪として挙げ、悔いているというか謝罪している。まあ!しょうがないか。そういう感じを持つかも知れませんね。
それと、もう一つ注目すべきところは、「この罪を川に流し・・・」とあり、実際は祭祀に使った榊(さかき)などいろいろなものを、川に流すのかも知れませんが。それが海に出ます。それが、ずっと流れ着いて根の国、底の国に行くと。こう祝詞で言っています。「根の國、底の國に坐す速さすらひめという神、持ちさすらひ失ひてむ。」と書かれていますが、「根の国、底の国」というと出雲です。
『古事記』『日本書紀』に何回も「根の国、底の国」という言葉が出てきます。それが出雲の方角を指しているようです。それで海流にのって出雲にながれるということは、博多湾岸であれば、海流にのって出雲に流れていく。ですからこの祝詞の表現自身が、舞台が福岡県で作られたことが分かるわけです。
それを後に、九州の分家になる(近畿天皇家)。この前、私が言ったと思いますがイギリスとアメリカのような関係で、本家がイギリスで分家がアメリカ合衆国。日本では、本家が北部九州。同じ三種の神器をいだいた分家が近畿天皇家。という関係になるのですが、その近畿天皇家が大和中心に読み替えて使って現在に至っている。
これが祝詞というものの、おおきな性格で、『古事記』を読んでいくとそのように理解せざるを得ないようですが、ところが『祝詞(のりと)』には、その時のいま言ったなまなましい記録が、声が残っている。
『古事記』『日本書紀』をいくら読んでも、いま言ったような生々しい記録は出てきません。もっと上品なことば。これに比べれば。『祝詞』というのは『古事記』『日本書紀』には、書くのをはばかるような記録が幾らもある。
もう一つだけ例をあげれば、生きた人間・死んだ人間の肌を断つ罪(生膚断ち・死膚断ち)と書いてある。つまり刺青というのは身分をあらわしていた。貴重な、後の家紋のようなもので、からだに家紋を付けているようなものである。それを負けたほうの膚を切り取ってしまう。だから負けたほうに対する最高の侮辱である。それも罪として、大祓(おおはらい)ではらいましょう。ホントになまなましい表現が祝詞(のりと)の中にあふれている。われわれは、それを知らずに祝詞を聞いているが、すごい歴史の痕跡。人々の指紋のように込められている。人々の嘆きや悲しみが、怒りや滅んでいった人々の声もそこから知ることができる。そういう感じでございます。
(そうですか。神社でお祝い事などでも祝詞をあげることがよくありますが、その中身としてはけっこう過激で柔らかな話の内容ではない。)
そうです。めでたい。めでたいというばかりのものではない。そういう意味では、深みがあるというか、忘れずというか、歴史の経験を伝えている。そういうものが祝詞である。今日あげた祝詞以外も、いろいろな深い歴史の生の声として残しているのが『祝詞(のりと)』だと思うのです。
(歴史というのは、どうしても先ほど言われたように勝者側のものが残ってしまうのですが、祝詞というものはぎゃくに、勝者側ではないほうの声が残っているのでしょうか。)
そうですね。これも同じく勝者側が文面をつくっている。しかし敗者側の悲しみや恨みが、ひしひし聞こえる形で勝者側が作っている。ぜんぶ勝者側で「天孫降臨」という言葉にしてしまいますと、砂糖菓子のように消えてしまう。ところが祝詞はそれを美化してしまわないで、その時のトゲをしっかり棘とげとして伝えている。これが『祝詞(のりと)』のすばらしいところだと思います。
(わたしたちは祝詞を七五三とか、正月はもちろんそうですが、車が交通事故を起こさないようにとか、あげていて、内容をたしかに聞いているかたは少ないのではないか。先生のご著書に『まぼろしの祝詞誕生』新泉社ー古代史の実像を追うーとあります。先生はこれをいつ出されたのですか。)
だいぶ前に一九八八年に、新泉社から出しました。注文されていただければ読むことができます。
(『まぼろしの祝詞誕生』は新泉社から出されており、時間的にたりなくて今日お話できなかったことがいっぱい入っており、ご興味のある方はまたお読みください。)
まだ時間があるようですから、最近発見したおもしろい問題について、お話したいと思います。
いまもうした「天孫降臨」の高祖山連峰に関係する事なのですが、高句麗の好太王碑文というものがありまして、今でいう北朝鮮と中国の境に鴨緑江という川が流れていまして、ちょうど真ん中あたりに集安という街がある。そこに、「好太王碑」というりっぱな高い石碑がありまして、これは四面びっしり文字が書かれている。「倭」という字がたくさん出てくるというので有名になったものですが。
実は第一面の初めのところに難しい漢字で「鄒牟(すうぼう)王」、やさしい言葉で言いますと東明王。後で東明王という名前をおくられましたので。そのBC三〇年ごろの王様である東明王、その人のことが書いてある。その王様の仕事として集安に都を造った。その側に、山の上に城を造った。順序としては最初に山の上に城を造り、その下、平地に都を建てたとある。
これを見てみますと、東明王というとBC三〇年ごろですから、日本でいうと弥生中期です。と言いますと「天孫降臨」と同じ時期。ちょっと一〇〇年ぐらい早いですが弥生中期という意味では同じ時期の話です。
そうすると「天孫降臨」が、なぜ同じ山の上に来たという形で書かれてあるか。そういう疑問があったのですが、実は集安のそば、丸頭(がんとう)山上と呼ばれているところに砦が築かれている。その平地の川べりのところに都がある。一対になっている。これは中国の場合なら大平原です。西安(シーアン)・洛陽(ラクヨウ)も壁で囲む。ところが朝鮮半島の場合は山が多いですから、平地を塀で囲むということはあまり意味がない。それで、その代わりに山の上に砦を造って、平地にふだん住む都を造る。山の上の城と平地の都をセットに造る。そういうやりかたが示されている。じつは高句麗や百済なども、そのスタイルです。その今の高祖山連峰の西の下、吉武高木という日本で最古の「三種の神器」が出てきたお墓がある。そのすぐ側がなんと「都地(トジ)」、都の地という地名なのです。
(なにか、お話が佳境に入り、今からもっと聞きたいと思いますが、時間になりすみません!)
はい、どうも。
(先生のお話、ぜひうかがいたいと思いますので、また一度お越し下さい。申し訳ないですが、おこし願えますか。どうもありがとうございました。水曜日、みのお道ばたサミットは、きょうは歴史学者の古田武彦さんにお話しをしていただきました。担当は森藤裕子でお送り致しました。)
お断り:これ以後のラジオ講演はございません。
関連リンク
日本のはじまり(古田史学の会・北海道ニュース第五号 1996年 7月)
偽書の史料批判──二つの偽書論──(古田史学会報51号)
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