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敵祭ーー松本清張さんへの書簡 第二回 へ


連載

敵祭ーー松本清張さんへの書簡

第一回

古田武彦

  一
 松本さん、久しぶりにお手紙をしたためます。いえ、「手紙」という形式では、はじめてでしたね。いつも、直接お目にかかっての交流、それがわたしの記憶には鮮烈に今も残っています。
 あれほど繁忙を極めた、地上での生活から離れ、今はゆっくりとデッキ・チェアーに坐り、思索の輪をパイプの先からゆらめかせておいでになる。そういうお姿を想像しています。
 こちらは地上で、お別れしてあと、数多くの発見に恵まれました。朝に夕に、洛西の竹林の風のそよぎの中を往き来しつつ、たびたび訪れる、新たな歴史の光と影の姿に胸を躍らせる毎日です。この地上も、なかなか捨てたものではありませんね。
 今日は、その研究の手を休め、原稿執筆の筆をとり、松本さんのもとにおとどけしてみょう。そう思ったのです。
 形式は「書簡」ですから、堅苦しい前置きなどは抜きに、イキナリ、ことの中核に迫る。そういうやり方にするつもり。松本さんも、それをお望みのはずです。
 とは言っても、もちろん、論理や論証の“手抜き”は一切無用。絶対禁物です。松本さんがそんなことを望まれないこと、百も承知です。
 松本さん御自身、晩年の講演で
「今回は、小説家としてではなく、学者として話します。」
 そう言っておられましたね。一見、“イヤミ”に聞えなくもない表現でしたが、その真意はおそらく、

「空想で、論理を“飛び越える”のではなく、論理と論証を土台とした話し方をしたい。」

 そういうところにあったのではないか、と思います。もちろん、大賛成です。
 わたしも今回は、形式こそ“お便り”の形ですが、その中味はーー 。御読了後の感想におまかせしましょう。 ーーでは。

  二

 わたしがはじめて、松本さんにお会いしたのは、昭和四十六年(一九七一)の年の暮れでした。東大の史学雑誌(九月号)に、わたしの論文「邪馬壹国」が載(の)った年です。
 確か、十一月頃だと思いますが、新潮社のSさんからお便りがありました。
  「松本清張さんが、貴方の研究に関心をもっておられます。その話を聞きたい、とおっしゃっておられますが、御自分のお仕事が忙しくて、おうかがいできません。それで、わたしが代りにおうかがいして、貴方の研究のお話をおうかがいし、松本さんにお伝えしたいと思います。いつ、おうかがいしたら、よろしいでしょうか。」

 そういう趣旨でした。先の論文が、読売新聞に、大々的に報道されたのが十月末、その中のコメントに、松本さんが大変好意的に関心をよせて下さっていた。その“つづき”だったのですね。本当に「関心」をよせて下さっていたのです。
 しかしわたしは、この御提案に対してハッキリとおことわりしました。
 「わたしは、研究者同士としてなら、誰とでもお会いします。けれども、“代理をやるから、それと会え。”というようなお申し出では、おことわりします。」
 これがわたしの立場だったのです。そのような、わたしの御返事に対する、Sさんの第二のお手紙は見事でした。
 「松本さんに申し上げたところ、“その通りだ。では、もし東京へお出での節は、是非御連絡下さるように。”とのことでした。」
 若造の生意気な応答に対し、本格的な姿勢で御返事いただきました。わたしは
 「よし、必ず、東京へ行ったとき、お会いしよう。」
 そう、決心したのです。そのときが、その年の年末に来たのです。

  三
 そのときの話に入る前に、先ず申し上げておきたいことがあります。
 それは、わたしが古代史の研究に立ち入るに至った経緯(いきさつ)です。そこですでに、深く、松本さんのおかげをこうむっていたのです。
 発端は『古代史疑』でした。昭和四十一年六月から四十二年三月まで、十回にわたって『中央公論』に連載されましたね。当時、わたしは京都市の洛陽(工業)高校の教師でした。担当は国語科でしたが、図書館の中に机がおかれていたのです。そこへ毎月来ていたのが、『中央公論』でした。その六月、松本さんの「古代史疑」が始まりました。毎号、来るのが待遠しく、先輩の社会科のIさんと先を争って読みました。そのとき感じた「熱」を、今もハッキリ覚えています。最近、文庫本や単行本、また全集などで、サッと読むことのできる読者には、思い及ばない読書、その醍醐味だったと思います。
 その連載が翌年の三月号で終ったとき、わたしの中には、一つのハッキリした「?」が生れていました。それは次のようです。

 「なぜ、『邪馬台国』のままなのだ?」

 と。松本さんが、今まで主張しておられたところ、そこから見て、それは“信じられない”帰結だったからです。

  四
 松本さんの名作「陸行水行」には、次の一節があります。

 「・・・・・大体『魏志倭人伝」の記事は、見方によっては大へん意地悪い記述です。そこから解釈の混乱が起こるのですね。各人各説で面白いのですが、どの学者も自分に都合の悪い点は『魏志』の記述が間違っているとか、誤写だとか、錯覚だとか言って切り捨てています。(下略)」
そして
 「また、問題の投馬国から邪馬台国へ行くのに南水行十日はいいとして、陸行一月はあまりに長くかかりすぎる。一月は一日の誤写ではないかというのも、自分の理論に都合が悪いからあっさりと『誤写』にきめてしまっているといわれても仕方がありません。少なくとも『魏志』の誤記が科学的に立証できない限り、やはり学者の都合勝手な歪曲というほかはありませんな」
 「いや、学者というものは身勝手なものですよ。のちの時代になって文献も豊富になり、いろいろと遺物、遺跡などが発見されれば、それに拘束されて大胆な飛躍はできないのですが、この『魏志倭人伝』に関する限りは立証文献がほかに無いものですから、中国ののちの典拠などを持出して勝手な熱を吹いています。(下略)」
 このように、松本さんは登場人物の浜中浩三に語らせましたね。四国の郷土史家という「肩書き」でした。彼は醤油屋の主人と共に、大分県の国東半島の尖端の富来という海岸に溺死体となって漂着した。そのように、推理小説らしい結末とされています。
 しかし、右の浜中説は卓見です。推理小説じたての短編の中で、松本さんの語りたかった、メイン・メッセージだったのですね。見事です。わたしは感嘆しました。
 というのは、わたし自身、三十歳代(一九五六〜六六)を中心に、没頭していた親鸞研究の中で、右の「真理」を痛感していたからです。
 もっとも有名な例は、「主上・臣下」問題です。
 親鸞の主著『教行信証』の後序に書かれた、迫真の一節
 「主上・臣下、法に背(そむ)き義に違(い)す。」
の段が、戦時中は削除された「版」が作られました。もちろん、これは“政治的判断”からです。親鸞の若き日、彼の盟友、住蓮・安楽を斬り、師の法然や親鸞自身を流罪に処した、当時の権力者、後鳥羽上皇・土御門天皇や配下の貴族たちを指した言葉が、右の「主上・臣下」です。
 この「主上」の二字が“不当”として、戦時中は“削られた”のです。
 これは、あまりにも明白な、「原文改削」ですが、これとは異なる形の「改定」も少なくありません。
 たとえば、有名な『歎異抄』について、最古の写本である「蓮如本」は、“あやまり、多し。”とされてきました。たとえば、この蓮如本で
 「ヨクヨク案(あん)ジミレバ、天ニオドリ地ニオドルホドニヨロコブベキコトヲヨロコバヌニテ、イヨイヨ往生ハ一定(いちじょう)オモヒタマフナリ」とあるのを、現代の学者は、
 「オモヒタマフベキナリ」
と「改定」していました。後代の写本の方を「是」としたのです。しかし、この「改定」はまちがっていました。
 なぜなら、
(A)蓮如本(終止形に接続)
「(わたし ーー親鸞ーー は)思っています。」(「たまふ」は、自己の意思をしめす謙譲語)
(B)「改定」文(連体形に接続)
「あなたがた ーー門弟ーー は)思っておられるべきです。」(「たまふ」は尊敬)

となり、( (A)が「鎌倉時代の用法」であるのに対し、(B)は江戸時代にも用いられていた「断定」の用法です。もちろん、現代にも、よく知られています。その「用法」に立って、(A)の原文面を「改定」したわけです。
 けれども、(A)の方が親鸞自身の、さりげない、そしてスッキリした口吻(ふ)んそのものの表記なのに対し、(B)の方は、いかにも「後代の教団」の中で「教祖」と“されて”あとの、「親鸞観」にふさわしい「改定」です。
 右は、ほんの一例。これと同類の「原文改定」を、いわゆる「後代写本」の中で、また「現代の学者の手」によって、わたしはくりかえし、くりかえし、対面させられてきました。それらのすべて、本来の「原本」または「最古写本」のもっていた姿が、後代の書写者や学者の「手」によって、書き変えられた。そういう“やり方”です。
 ですが、いずれの場合も、そのような「原文改定」は非。本来の「原文」が重んじられる。それが当然です。
 ですから、わたしは右の浜中説を見たとき、
 「これこそ、真実。」
と驚嘆しました。そしてそれを主人公に語らせた、松本さんに深い敬意を覚えたのです。
 この「陸行水行」の初出雑誌は、『週刊文春』。一九六二年十二月三十一日号から、一九六四年四月二十日号まで、連載の「別冊黒い画集」に収録されたようですから、わたしがこれにふれたのは、かなりあと、単行本化されてのことだったかもしれません。

  五
 わたしがはじめて「邪馬台国」問題に気付いたのは、それよりずっと前でした。昭和二十三年に東北大学の日本思想史(学)科を卒業し、信州(長野県)の県立松本深志高等学校に社会科の教師として就任して、後のことです。一年経(た)って、校長の要請で、国語科に「転科」させられました。
 就任は二十一歳。「転科」は二十二歳の、新米教師でした。大学が「国文」や「国語」でなかった、わたしですから、国語科は“素人”。それでも、意気だけは軒昂(けんこう)として、毎日の授業に臨んでいました。その“未熟”を補うかのように、「最近、出版された本」の紹介をするのを「得手えて」としていたようです。その一つが、岩波文庫の

『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』

という小冊子でした。和田清・石原道博編訳とされた本です。
 その中で、問題の
 「南、邪馬壹国に至る。」
の「邪馬壹」に「注三」とあり、その注として、
 「邪馬国の誤。」
と記せられています。従って先頭の解説の文中では、
 「帯方郡と邪馬臺国とのあいだの里数については」(二〇ぺージ)といった風に、
すべて原文の表記の「邪馬壹国」ではなく、解説の学者による「改定」の「邪馬臺国」がすでに使われています。
 「これで、いいのか。」
 若手教師のわたしは、単純にそのように感じた。それで、次の日の教壇で、おそらく「読書紹介」の形で、その感想を語ったようです。おそらく、えらそうに、自分の疑問を「力説」したのでしょう。
 「力説」はしたものの、それは到底「邪馬台国」問題などというレベルではなかったと思います。ですから、そのときのことを、教師の、わたしの方は忘れていました。
 覚えていたのは、生徒の方で、もう彼等は六十代から七十代に至る、いい紳士。その同窓会の席で、わたしが、“聞かされ”たことです。生涯の中の「事件」でした。
 この岩波文庫第一刷は
 「一九五一年一一月五日」
 おそらく右の「事件」は、翌年(一九五二年、昭和二十七年)あたりのことと思います。
 若造の新米教師、二十五〜六歳頃のことです。

  六
 ですから、「古代史疑」を読みはじめたとき、わたしの期待は次のようでした。
 あの、松本さんだから、きっと書くにちがいない。

 「原文は、邪馬壹国である。それを後世の学者が『邪馬臺(台)国』と直しておいて、自分の好きなところ、たとえば“大和”や“山門”へ、各自もっていって論ずるのでは、きまった『答』が出るはずがない。」と。
 そして言われるであろう。
 「自分の理論に都合が悪いからあっさりと(『壹』は『臺』の)『誤写』にきめてしまっているといわれても仕方がありません。」
 だから
 「学者というものは身勝手なものですよ。」と。
 かっては、登場人物、浜中浩三をして語らせていたところを、直接、松本さんの「地の声」で聞くことができよう。 ーーこれが毎号来る『中央公論』を開くときの、楽しみだったのです。
 しかし、一年近く経たって連載が終ったとき、はや、ハッキリとわたしは、自分の期待が“裏切られた”ことを感ぜざるをえませんでした。
 なぜなら、松本さんは終始「邪馬台国」という、「改定本文」に依拠されたまま。原文の「邪馬壹国」には、見向きもしておられなかったからです。
 「これは、自分でやるしかないな。」
 わたしは心の底に、そう思いきめたのです。昭和四十二年の早春、四十歳のことでした。(以下次号)


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