古田武彦
一
「邪馬壹国」の信憑性を探る。 ーーこの探究の旅に出ようとしたわたしが、先ずお訪ねしたところ、それは同じ京都に住む上田正昭さんのお宅でした。
上田さんは鴨折(おうき)、わたしは洛陽。京都の北と南ながら、高等学校の教師として、何回かお会いしたことがありました。上田さんは、同和教育研修の全国大会でも、颯爽(さっそう)たる議長役などをつとめている方でした。学問研究の分野でも、井上光貞・直木孝次郎氏等につづき、新鋭の力作が注目されていました。わたしと同世代、一歳年下ですが、國學院で折口信夫の薫陶を受けたのち、京都大学へと進まれたのです。
わたしには「邪馬壹国」という表記の可否を上田さんに問い質す、そんな気持は全くありませんでした。それは、わたし自身のなすべき研究課題です。では、何を。
それはただ一つ、三国志の版本の認識、それがえたかったのです。
もちろん、松本さんも、上田さんにお会いになり、古代史上の諸問題について、会話や討論を交わしたことがおありになると思います。ですが、わたしのこの上田家訪問は、それよりはるかに前のことでした。
上田さんはそのとき快く、わたしを部屋に通して下さったのです。
二
けれども、会話はなかなか、思うようにはすすみませんでした。わたしの質問は、
「三国志の写本や版本には、どんなものがあるのでしょうか。」
というにあったのです。有名な、宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』などはもちろん、井上さんや直木さん、榎一雄さんなど、学界の第一線に登場してきた人々の論文を見ても、この写本や版本問題を論じたものを見たことがなかったのです。ですが、わたしにとってこの「邪馬壹国」問題を論ずる前に、どうしても不可欠なところ、それがこの写本もしくは版本問題だったのです。そのための、今回の訪問でした。
けれども、上田さんの「回答」は、わたしの質問そのものに対してではありませんでした。
「古田さんは、邪馬台国問題の研究など、やめられた方がいい、と思います。」
驚きました。わたしは「邪馬台国」の研究をしたいが、それは果していいか、悪いか。そんな御相談にあがったわけではなかったからです。
「古田さんは、親鸞の研究をしておられるのですから、それをやられたらいい。わたしはそう思います。」
「いや、親鸞の研究は、やめるつもりではありません。」
すでに東大の『史学雑誌』等に、親鸞研究の論文の数々を出していたこと、当然上田さんは御承知でした。その研究をつづけよ、との御忠告でした。
わたしにとって、親鸞研究は確かに、一つのテーマを書き終え、次のテーマに移るための一休息点、といった状況でしたが、それはそれとしても、自分には同じ、史料批判の方法の問題です。学問としての史料に対する姿勢、それをわたしは確かめたかったのです。
「親鸞をやりながら、邪馬台国もやる。古代史はそんな甘いもんじゃあリません。親鸞一本にされるべきです。」
「いえ、わたしにとっては、親鸞も、古代史も、同じ学問の方法の問題ですから。」
それからあと、いささか“押し問答”気味に、一時間近い時間が経過したあと、わたしが改めて、三国志の版本を何かお持ちでしたら、拝見させて下さい、とお願いすると、上田さんはあきらめたように、二階へあがり、江戸時代の和本をもってこられました。残念ながら、それはわたしの目標とするところ、「最古の版本へとさかのぼる」、そういった資料とは、全く別のものでした。わたしは一時間半近くも、お時間をさいていただいたことに厚く御礼を申しのべ、上田さんのお宅を辞去させていただきました。
三
上田さんにはすでに「邪馬台国問題の再検討」という著名な論文がありました。昭和三十三年十一月に、『日本史研究』(三十九)に発表されたものです。
近畿説の立場から倭人伝を分析した気鋭の論究でした。
こういった諸論文を提出しておられた方だけに、それらの問題の検討にさいし、当然その基礎をなす「版本」の問題にも、すでに御検討ずみ。その一端の御教導にあずかりたい。わたしはそう思っていたのです。
けれども、古代史学界の実状は、必ずしもそうではなかったようです。端的にいえば、
「三国志の版本は、中国書誌学にとっての対象。日本の歴史学、その古代史研究者の専門分野ではない。」
これが、ありていな学界状況、その「専門分野」の“住みわけ”だったようです。
この点、わたしの親鸞研究はちがいました。神戸から京都へ出てきた、その一つの目的、それは親鸞研究のための古写本や版本の探究だったのです。
そのため、龍谷大学の宮崎円遵(えんじゅん)さんや、大谷大学の藤島達朗さんのところへおうかがいし、親鸞文献の版本その古写本から、さらに自筆本へ、次々と御質問の矢をはなち、倦むこととてありませんでした。歎異抄や教行信証などです。全く門外漢の青二才に対して、お二方とも、何の忌憚もなく、一つ、ひとつ、親切に教え、また西本願寺や東本願寺、そして高田専修寺等の写本類に対して、「見る」ために力を尽くし、他へ御紹介下さったのです。このような方々のお力添えなしに、わたしの研究はその大道を歩むことは全く不可能でした。その御恩誼をつくづくと思いおこさざるをえません。
四
「なぜ、古写本や版本などに、そんなにこだわるのか。」
松本さんの声が聞えてきそうです。古代史の文献や三角縁神獣鏡などの考古学的遺物、さらに現代では二・二六事件の資料研究など、行くとして可ならざることのなかった松本さんにも、古写本や版本の研究などには手を染められた形跡がありませんから、或いは右のように問われるかもしれません。
それに対する、十二分なお答は、いささか長くなるかもしれませんから、別の機会にゆずらせていただきます。
この書簡では、はじめにお約束しました通り、ズバリ、そのキイ・ポイントを書きます。
一つは、昭和二十年(一九四五)の敗戦。八月十五日の詔勅を境にして、日本の雰囲気は一変しました。昨日までは、皇国至上主義。今日からは、アメリカ式の民主主義の立場。それがクッキリと色別けされました。政治家は言わずもがな、学者も教師も、一般の大人も、全く同じ口で全く別の主張をしはじめたのです。
青年はそのような、大人たちの上手な対応に絶望しました。「人間とは、しょせん、そんなものか。」「そんな世の中に生きていても、しようがない。」事実、自殺をえらんだ若者も、稀ではありませんでした。わたしも、その危機の断崖に立ちました。
二つは、歎異抄の親鸞。「親鸞は弟子一人も、もたずさふらう」「たとひ法然聖人にすかされまひらせて念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」このような言葉をのべた親鸞もまた、時代の変り目の前と後で、自分の言葉を一変させたのか。 ーーこの疑問です。
もし、この人もそうなら、人間とはしょせん、そんなもの。青年らしい思いこみと短絡(たんらく 独りぎめ)で、わたしはそう考えたのです。
三つは、親鸞研究。少なくとも、敗戦前と敗戦後で、両者の親鸞観は一変しました。かっては、「念仏より、国家を第一とされた高僧」、今回は「民主主義の念仏者」。全く別の角度から、同じ学者、同じ発信元が国民に対してメッセージを発信しているのです。到底、信用できませんでした。
四つは、版本。前回にものべましたように、親鸞の主著、教行信証も、戦前には、「改削」されていました。ですから、版本ではなく、古写本へ。わたしの探究は向いました。その古写本にも、古・中・新の各種があり、次々と各時代の「手」によって書き変えられています。その最初の出発点は、当然、自筆本です。それが親鸞の筆跡による自筆、すなわち真蹟本であることが確認されれば、これが原点となりうるからです。
このようにしてわたしは三十歳代、自分の研究の基本を、版本・古写本・自筆本の探究においていました。
これがわたしの、上田さんを訪ねた目的だったのです。
わたしの古代史探究は、まだ緒(ちょ)についたばかりでした。
五
わたしが最古の版本、紹煕(しょうき)本にめぐり合ったのは、その後の古版本探究の渉猟(しょうりょう)の旅の収穫でした。その経緯は改めて筆にしますが、今は松本さんにお会いした、あのさわやかな日のことを思い出しています。最近、家の中の書類を整理しているうちに、あの新潮社のSさんの手紙を見出し、なつかしい思いにひたされました。
昭和四十六年末、わたしは東京へ行き、Sさんの招きに応じ、松本さんにお会いしましたね。たしか、新潮社の社の家屋といったところ、その一室だったと思います。Sさんに導かれて、そこに参りました。その部屋に松本さんが待っておられました。恰好のよい、和服姿でした。
わたしに対して、失礼した旨の、短い、しかし丁重なあいさつをのべられたあと、早速わたしがなぜ、あのような研究に入ったか、お聞きしたい、と単刀直入に聞かれたのです。答えました。
「わたしは中世の研究者です。それも、親鸞研究に集中してきました。その中で、自筆本や古写本、また版本を探究するうちに、一つの基本態度を学びました。それは、
『安易に、原本、またより古い写本を、書き直す、つまり改定してはいけない。』
ということです。それをやる人は、当然、良かれ、と思ってやるわけですが、結局、自分の時代の常識、いわゆる通念ですが、それで古い、本来の時代の姿を書き変える。そういう結果におちいっています。
ですから、よっぽど確実な論証なしには、それをやってはいけない。これが、わたしのえた、基本ルールです。
ところが、いわゆる『邪馬台国』問題を見ていますと、原文、つまり自分たちの依拠している版本には、『邪馬壹国』とあるものを、簡単に『邪馬台国』へと書き変えている。そのための慎重な論証がない。果してこれでいいのか。この疑問でした。」
わたしは、さっきからおかれていたお茶でのどをしめしました。
「調べてみますと、三国志の古い版本は紹煕(しょうき)本と紹興(しょうこう)本でした。いずれも、十二〜三世紀の中国の南宋時代の版本です。その成立はわずかに紹興本が古いのですが、実質内容は紹煕本が先でした。より古い版本の復刻本ですから。これは何と、日本の皇室の書陵部に存在しました。江戸の将軍家や大名からの伝来だったようです。
肝心なこと、それはその紹煕本・紹興本とも『邪馬壹国』です。まちがいありません。このような版本状況の中で、自分に都合のよい、『邪馬台国』へと書き変える。そんなことは、わたしの古写本・版本処理のルールに立つ限り、できることではありません。」
わたしは、先をうながす松本さんの短い言葉を継ぎ目に、次のテーマに移りました。
「もう一つ、わたしにとって決定的だったのは、三国志全体に出現する『壹』と『臺』」の調査です。その中には、『臺』を『壹』とまちがえたもの、あるいはその逆が見つかるにちがいない。だが、念のため。そう思ってはじめた調査だったのですが、結果は意外。全くありませんでした。」
“それは大変な苦労だ。”といった言葉を松本さんはさしはさまれました。が、わたしには、親鸞研究で学んだ、いつもの自分流の手法だったのです。(この点については改めてのべることにします。)
「ともかく、このような版本状況、そして原本状況から見ると、このままで、邪馬壹国を邪馬臺国へと書き変えることはできない。これがわたしの結論です。」
このような、わたしの言葉を静かに聞いていた松本さんは、先をうながされました。右の話は、東大の『史学雑誌』に発表した論文「邪馬壹国」の中の主張そのものですから、松本さんにはすでに“折りこみずみ”だったのですね。
「それで、その邪馬壹国はどこにあるとお考えですか。」
時間的には、かなり長い、そして気負(きお)いこんだ、わたしの長弁舌を、がまん強く聞いておられた松本さんが、一番知りたかった問い、それはこの一言だったのかもしれません。
しかし、わたしは答えました。
「わかりません。」
すでに用意していた、というより、わたしの方法、その立場からは、この答しかありませんでした。
そして従来の研究者や一般の古代史通がやってきたような、地名との“音当て”、あのやり方の長所と短所。ことに「やまと」という、中心国名を「改定」した読みを先にきめておいて、そこから近畿の大和や九州の山門(やまと)などに当てるやり方。あれは危ない。厳正な学問、文献研究の立場からはなすべき道、否、とりうる道ではない。その道理を、待ってましたとばかり、とうとうとのべたのです。その立場からは、わたしにとっての女王国の位置は、
「分らない。」
この一言しかなかったのです。堂々と、それを主張するのに対して、松本さんは感心したというより、ガッカリされたことでしょう。しかし、わたしは一歩も引きませんでした。
『「邪馬台国」はなかった』で展開した論証、博多湾岸とその周辺説は、いまだわたしの頭にはありませんでした。わたしがそれを「発見」したのは、翌年の夏。あの決定的な一瞬は、まだ来ていませんでした。
わたしは、ひたすら自分の無知を誇りにしていたのです。
「テープをとめて下さい。」
わたしは突然、松本さんに言いました。松本さんはうなずき、Sさんにとっていたテープをストップするように求められたのです。
このとき、わたしははじめて未知の世界について一歩を踏み出そうとしていたのです。(以下次号)
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