『なかった ーー真実の歴史学』第四号 へ
『志賀島・玄界島』(福岡市埋蔵文化財調査報告書第三九一集)を読む  へ


読者へ

読者への回答 ーー吉村徹さんへ

古田武彦

________________________________________________

 志賀島(福岡市)で発見された金印について質問します。
 私が福岡市博物館に展示の金印から得るイメージでは、とても畑の中に埋もれ、発見される物ではないように思います。志賀島の金印にはいろいろと説がありますが、厳密な考証がありません。
 最近、先生から金印は前原まえばるの細石さざれいし神社の御神体だった可能性があると聞きました。なぜ、細石神社にあったのでしょうか? もし御神体だったとすれば、金印の印面「漢倭奴国王」の読み方に、ひとつの答えが導き出されるように思えます。
 あと、私の推測では亀井南冥とその父の聴因、そして福岡藩とが密接に関係してきます。父の聴因は、細石神社の社領で恰土郡三雲村の出身。金印は、南冥が福岡藩の藩校「甘棠かんとう館」の館長に就任して、四日後に発見されています。何か偶然ではないような気がするのですが、先生のお考えを教えてください。
  平成十九年七月十九日夜
                   吉村徹

________________________________________________

 

     一

 いいご質問、ありがとう。ちょうど、わたしは今、この金印問題に没頭しているところです。まだ、研究が「終結」したわけではありませんが、お問いかけを“きっかけ”として、問題の現況をストレートに申し上げましょう。
 第一に、この問題をわたしに“投げかけ”て下さったのは、荻上紘一氏です。数学者で、東京都立大学の元総長です。昨年、博多へ行き、福岡市の市立博物館の展示の「目玉」となっている金印を見て来られ、
 「千何百年も、地中に埋もれていたにしては、“傷いたみ”がない。あれはおかしい、と思います。」
と言われました。それまで、わたしは観察力が乏しく、そういう問題を考えたことがなく、「?」という問題意識だけが残りました。
 第二、そこで大下隆司氏が九州(鹿児島)へ行かれ、その途次、博多へ行くとのことで、金印をその目で観察してきていただきたい、と依頼しました。大下さんは今年の二月、南米のエクアドルヘご一緒し、そのスペイン語力で、大活躍してくださった方です。
 大下さんのご報告では、「いや、下の台に傷きずがついていましたよ。」とのことでした。
 第三、しかし、これは「視点」のちがいで、大下さんが注目されたのは、台座の「傷きず」で“印を押した”ときに付いた「傷」のようです。一方、荻上さんの方の「目」は、印全体に対する観察です。それが右の「千何百年も、云々」の発言となったのです。やはり「荻上疑問」は生きている。それが現在です。
 第四、この点、今年の七月六日、私自身がこの問題意識をもって、じっくりと「見た」ところ、右の「荻上疑問」は、“正確”だったのです。
 幸いなことに、そのさい、二人の土木工学の専門家が御一緒でした。力石巌さんと中村通敏さんです。力石さんは瀬戸内海の架橋に三橋ともかかわった方。特に、広島から松山への瀬戸大橋の架橋には苦辛されたようです。中村さんは井戸のような、地中掘削専門の会社の会長、そして暦年の技術者です。
 お二方の見解は、「荻上疑問」と一致しました。特に、力石さんによると、
「波が数千年にわたって押し寄せていると、一回一回は微力でも、全体としてはすさまじい破壊力をもちます。あの“単位”の品質の金であれば、必ずその影響は出るはずです。」
 とのことでした。アメリカや日本で、そのような「架橋のための基礎計算」に専念してこられた方だけに、熱心な、その御議論には強い説得力がありました。三人とも、長時間、あの金印を、見て、見て、見抜いたのです。

 

    二

 第五、これとは全く別の方面から、思いがけない「情報」がもたらされました。
 「あの金印は、本来細石神社(前原市)の宝物として存在していたものなのである。」
との証言です。証言者は、現在の宮司の徳安正大まさとも氏。二年前に九十歳で亡くなられた徳安正彦さんの「伝承」つまり“言い伝え”です。徳安正彦さんには、わたしも何回かお会いしたことがありますが、(この金印問題にはふれられたことはありませんが)いつも、的確な、そして意表を衡く「証言」に驚かされました。ハッキリ言えば、深く「感服」してきた方です。
 現在の宮司はその息子さんで、元大坂府警の警官、十年余り前に帰って来られて、父親の宮司を補佐しておられました。正彦さんが二年前に亡くなられてから、正式に宮司を継がれたとのことです。やはり、実直に「事実を事実として述べる」ことに徹した方とお見受けしました。
 この方の「証言」にふれえたのは、松山の合田洋一さんのおかげです。合田さんは、松山の会(古田史学の会)の大政就平さんが現宮司さんから聞かれたことを、わたしに伝え、是非直接お聞きになるように、とすすめて下さったのです。わたしが博多の力石さんのお宅に泊めていただいたとき、(昼間は御繁忙のため)宮司さん御自身が来訪していただき、一時間半にわたって、詳しくお聞きしました。「詳しく」と言っても、宮司さんは
 「父親から、そう聞いている。」
その一点にしぼった、ケレン味の全くないお話でした。

 

    三

 第六、右のテーマについて、わたしには思い当る一点がありました。福岡市教育委員会の塩屋勝利氏が学芸員や関係の方々の協力のもとに、永年「志賀島の金印の出土地」の検証のために苦辛をつづけられたこと、わたしはそれをよく知っていました。その中の何回か、研究調査の“現場”を見させていただいたこともあります。しかし、結局「なかった」のです。
 あの甚兵衛が、二人持ちの巨石を金(かな)てこでこじあけて「発見」した、という、その遺構を“見出す”ために百方手を尽くされたのですが、結局「なかった」のです。「叶崎」と「叶浜」に当る地域を、それこそ“掘り抜かれ”たけれども、結局「なかった」のです。この点、福岡市教委の報告書(『志賀島・玄海島』第三九一集、一九九五年)について、あえて異例ながら「書評」の形をとって本号に掲載しました。御覧下さい。
 第七、右の状況が明らかになった頃、内倉武久さん(当時、朝日新聞記者)から、“奇抜な”提案がありました。「甚兵衛は叶崎で『発見』したのではなく、志賀海神社の階段の途中にある印鑰(いんやく)神社から“盗み出した”のではないか。」というアイデアです。まことに“奇抜”ながら、一笑に付しがたいものを含む提案でした。
 第八、今回は、右のような「ひとつのアイデア」ではありません。実在の神社、今は小さくても、往年は壮大だったという神社の宮司さんが、父親からの「伝承」として、「あの実物は、細石神社にあったもの。」と「証言」されたのですから、これは「無視」できません。もちろん「一笑」に付することなど、困難だと思います。

 

    四

 第九、重要なポイントがあります。細石神社は「三雲」にあり、その隣は「井原」です。いずれも「戦国式鏡、前漢式鏡」(三雲)「後漢式鏡」(井原)の大量出土地です。
 三雲の南小路では、甕棺・銅剣・銅弋・銅矛・銅鏡三五面・玉類・璧(へき)等が文政五年(一八二二)に出土しました。右の三雲遺跡の南一〇〇メートルの井原村と三雲村の境界の、井原村鑓溝であり、天明年間(一七八一〜八八)、壷(甕棺か)の中から古鏡片数十個と鎧の板状のもの、前漢中期から後漢前半の方格規矩四神鏡類三五面、巴形銅器三個等が出土しています(青柳種信『柳園古器略考』、森貞次郎『北部九州の古代文化』等)。
 要は、次の点です。この地帯、この領域なら、例の「(志賀島の)金印」の出土地として、この上なく“ふさわしい”と、これは誰人にも動かせぬ事実です。なぜなら
 (A) 天子から授与された「印」は、その被授与者の「墓」に埋めるのが通則です。(三国志に、当人の死後、汚職が顕われ、天子が怒ってその墓を掘り、「印」をとりかえさせた、という例があります。また、中国周辺の「金印」出土の事例も、これと同じ、墓中出土です。)
 (B) 後漢初期の「金印の授与者の墓」として、この三雲・井原周辺以上の地帯はない、とさえ言えましょう。ことに「天明年間」に発見された「井原(鑓溝)遺跡」の場合、後漢前期の鏡が多量に出土していますから、まさにピッタリ、と言えるかもしれません。

 

    五

 第十、最後の興味深いテーマ、それは「亀井南冥と三雲のかかわり」です。この金印について、最初の、もっともすぐれた解説者が亀井南冥であることは有名ですが、その南冥が博多の姪の浜の生れ、その父が当の三雲の出身、というのは、何か話が“合い”すぎて“気味が悪い”感じですね。しかし、今は推理小説風の想像には深入りせず、まず手もとにおかれた『亀井南冥・昭陽全集』全九冊(第八巻が上・下)を、じっくりと味わわせてもらいましょう。その結果は、改めて報告します。では。
 (この全集は、滋賀県立図書館からお借りすることができました。感謝します。)


『なかった 真実の歴史学』第四号 目次 へ

『志賀島・玄界島』(福岡市埋蔵文化財調査報告書第三九一集)を読む  へ

ホームページ へ


新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。

Created & Maintaince by“ Yukio Yokota“