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読者への回答 ーー吉村徹さんへ 古田武彦
古田武彦
一
本書は出色の報告書である。まず、明確な目的をかかげ、そのために必要にして十二分な調査発掘を行い、その結果を明確に報告する。そういう本来の報告書の首尾をもつ。
一九九五年、福岡市教育委員会の「福岡市埋蔵文化財調査報告書」第三九一集である。教育長尾花剛氏の序文が平成七年三月三一日付けで冒頭に記載されているが、調査担当は埋蔵文化財課主席文化財主事の塩屋勝利氏である。
わが国の考古学的発掘の大半の実体は、いわば「依頼発掘」である。某地域に新規の住宅開発が行われる時、そのための「予備調査」として行われる発掘、また既定の道路建設等の実施中、予期せぬ遺跡や遺物群に出会った時の緊急発掘、それらはすべて現在の「法」にかなうものであり、その「法」に従う措置だ。だから、それぞれの依頼者(会社等)から「発掘資金」が提供される。当発掘はそれらの“潤沢”な資金によって実行される。もちろん発掘の当事者から見れば、“潤沢”などとは程遠いのが常であろうけれど、ともあれ、資金源が別個に存在するのである。このようなケースが、わが国の「発掘事業」の主体を占めていること、関係者に周知である。
言葉をひるがえせば、発掘当事者自身の「意志」に基づき、その「予測」を実証的に判別すべき発掘、すなわち考古学上当然の、学問的要請に基づく調査発掘、それはわが国では“稀有”とは言わずとも、極めて乏しい。これがいつわらぬ現状だ。だが、本報告書は、さに非ず、本来の学術調査、そしてその報告書である。
二
本書の目次によれば、「第1章 はじめに」、「第2章 志賀島の地理と歴史的環境」、「第3章 分布調査の記録」、「第4章 試掘調査の記録」、「第5章志賀島 玄界島の海底調査」、「第6章 まとめ」、の六章から成っている。
けれども本書の白眉は、あの「志賀島出土」とされる金印の“真の出土地”の探究である。
著名な、甚兵衛の口上書では次のように書かれている。
「天明四年
志賀島村百姓甚兵衛金印掘出ニ付口上書
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上ル上之覚
一私抱田地 叶の崎と申所 田境之中溝水 行悪敷御座候ニ付 先月廿三日右之溝形なリ仕直シ可申迚 岸を切落シ居申候処 小キ石段々出候内 弐人持程之石有之 かなてこニ而掘り除ヶ申候処 石之間ニ 光リ候物有之ニ付 取上 水ニ而すヽき上見申候処 金之印判之様成物ニ而 御坐候(下略)」
右の基本文献と共に、志賀海神社宮司阿曇家に伝えられていた『続風土記付録』とその絵図等を参照し、中山・森二説が提出されていた。
まず、中山平次郎説では、当初「金印出土推定地発掘地点」(現在の金印発見碑建立地点)だったが、後に訂正され、「その西南側至近の水田部」が想定された。
次いで、森貞次郎説では「(中山説は)弥生時代の遺跡が立地するような地形ではない」とした上で、
「現地は絵図に比べて極めて狭隆かつ地形が急峻すぎるきらいがありどうも適合しにくい。また現地では今日では叶ノ崎の名称は用いられていない。若しこの所伝の地を離れて、弘と志賀両部落の中間に絵図に最も近似した地形を求めると、むしろ叶ノ浜の方が適しているように見られる。(下略)」
とし、絵図に描かれている金印出土地が叶ノ浜付近である可能性を指摘した。そこで報告書は
「以上のように、これまでの金印出土推定地は、叶ノ崎と叶ノ浜の2か所に絞られているようであり、今回の調査は叶ノ浜に金印に関連する遺構や遺物が存在するかどうかを確認する目的で実施した。」
とするのである。中山、やがて森学説の提案に立つ、その検証、それが今回の発掘の目的であった。
三
綿密を極めた研究調査の結果、帰結は明確だった。
「小結。
以上の調査結果から、当該地は少なくとも縄文時代後期以降は小河川の氾濫原で、集落や墓地などが形成される地形ではないことが知られ、水田あるいは畑地が造成されるようになったのは一四世紀以降と考えられる。したがって、金印に関連する遺構も全く存在しないことが明らかとなった。」(四八頁)
さらに、最後の、「第6章まとめ」の中の「金印出土地について」の「今後の課題」としては
「大正初期以来、志賀島は多くの先学や地元の識者によって研究が行われてきた。今回の調査はこれまでの成果を踏まえて行ったつもりだが、多くの点で課題を残した。
金印出土地の問題については、考古学的調査のデータと文献の記述とは全く合致せず、解明すべき新たな課題が生じたと云えるが、これについては別の機会に詳細な検討を加えたいと考えている。」(一〇二頁)
右のように、「考古学的調査のデータと文献の記述とは全く合致せず、」の一節こそ、本報告書の眼目であり、面目をなす。
四
わたし(古田)は、何回か、塩屋勝利氏の現地調査の現場を見た。従って右のような簡明な帰結を得る前に、いかに念入りな調査、苦渋の錯誤がくりかえされたか、知悉する。志賀島の海底調査をも見た。それだけに、右の一節のもつ、背後の、途方もない重味を痛感せざるをえないのである。
もちろん、塩屋氏や氏の協力者となられた方々は、この帰結を「予想」されたわけではない。否、むしろ、いわゆる「二人持ちの大石」や「三枚乃至四枚の立石」、さらにその地に散乱する「弥生の遺物」の存在を「確信」されたからこそ、このような困難な調査にとり組み、これを完遂されたのである。しかし、その帰結は
「NO!」
の一語だった。なぜか。ここに本調査書のもつ最大の問いかけがある。そしてその問いかけのもつ真の意義がやがて明らかとなる日が必ず来るであろう。そしてそのとき、真に本報告書の学問的意義は明らかとなろう。それは、次の一点だ。
「甚兵衛の口上書の信憑性、いかに。」
と。 この一語に尽きるであろう。
ーーー二〇〇七年八月十九日 記
読者への回答 ーー吉村徹さんへ 古田武彦
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