藤田友治
「偶然は、人を思いがけないところへ導くものである」とは、古田武彦氏が古代史に関する処女作『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)を一九七一年に世に問うた冒頭の言葉である。親鸞研究者として、既に幾多の業績をあげておられたが、限られた学者、研究者にしか知られていなかった古田氏が、古代史そのものを根底(語の厳密な意味で根本において)から問う「邪馬壹国」の発見、更にその後の巨大な歩みを古田氏にとって謙虚にいわれた言葉である。
しかし、私達はその後、古田氏の歩みは決して「偶然」ではなくて、むしろ「必然」の道を歩まれていたことを知る。親鸞研究においてなされた方法論、厳密で科学的な史料批判のメスを、どこまでも徹底して古代史においてなされているのだ。又、古田氏は教育現場を離れ、前人未踏の新たなる地平へ学問を真摯に切り開いておられるが故に、かえって教育現場にいる私達に、根底において新鮮な心をよみがえらせてくれるのだ。
「偶然は人を思いがけないところへ導くものである」とは、私にとってもあてはまる。私は、大学、大学院までずっと哲学(ヘーゲルからマルクス)を専攻しており、教育現場にいても研究成果は貧しいが、つねに研究心だけはたえることなく、研究会や学会で学んできた。
(『へーゲル・フォイエルバッハ・マルクスの苦悩の概念について』一九七七年、『へーゲル弁証法の生成と構造について』一九七八年、大阪府高等学校社会科研究会誌)
その私にとって、親鸞ならびに古代史の分野は何故に古田説であるのか、又そうでなければならないのかを自問自答してみよう。
それには、資料1). の教育雑誌『のびのび』(一九七七年七月号)の文章をお読みいただきたい。
資料1). (朝日新聞社発行・教育雑誌「のぴのび」一九七七年七月号)
教科書はだれのものか ーー「漢委奴国王」金印の読み方ーー 藤田友治
教師にとっで教科書はやはり大切で、教科書を教えるのではなくて、教科書で教えるものであるとよくいわれます。私達高校現場の教師は、その意味を、一字一句を金科玉上の如く扱うのではなくて、真実への史料の一つとして教えるべきものであると把握しています。この立場から、「検定不合格」となった日本史教科書も、「資料」として使用したいと私は考えています。
さて家永三郎氏は、最近の『新日本史』で有名な邪馬台(壹)国論争にふれ、九州説と近畿説とを紹介した後に、今日の研究成果の前進をとりあげています。同書には「最近、「壹」は誤字ではないという説があらわれ、卑弥呼の支配する国の名と所在地をめぐり、新しい論議を生んでいる」との文章が挿入されています。この文章は本文中とはいえ、わずか二行です。しかし私は授業で、このわずかな二行がどうして挿入されるに至ったかを古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった」(朝日新聞社刊)の本から説明しますと、生徒は「不思議に思う心」と「なっとくする心」の前に目を輝かせ、ふだんの授業では見られない大きな感銘を受けています。それには、古田氏が、学者ではなくて工業高校の現場の先生であったという親近感も作用しているでしょう。
私の職場は工業高校で、普通高校と比べてのびのびと教えることができやすい教育現場です。それは、生徒にとって日本史が「受験勉強」ではなくして、日本の歴史への興味となっとくする心からのみ教わることができる場であるわけです。暗記を強要する必要もなく、また強要しても出来ないどころか、授業が成立しません。
このような精神で教えていますと、後漢の光武帝から建武中元二年(五七年)に授与された金印「漢倭奴国王」の読み方があまりにも不思議なことに、気になりだしました。通常は、“ご存知のように金印を「漢の委の奴の国王」と読んでいます。(いや、読ませているといった方が正確ですが)
私の高校は、いわゆる「学力」が低い生徒がいて、委を「わ」とは読めずに「い」と読んでしまいます。私は、今まではテスト時おいて「定説」と違う読み方をした生徒の答えを、誤りとしてきました。しかし、どう考えても、おかしな読み方であると思い、調べてみますと、委は「い」であって、「わ」とは決して読めず、今も昔も読めないことを古田氏が主張していると知りました。今までの私の方が誤っていたのではないかと自責の念にとらわれます。委は、「倭」の略字か「倭」と同じとして読ませてきたのですが、たとえ「倭」にしても、その当時の読み方(上古音)は「ゐ」であって、「わ」ではないのです。そこで金印の読み方とその意味をめぐって文献を探すうちに、なんと二十数説もの解釈があることを学びました。
これだけの諸説がある問題を、ほとんどの教科書では「定説」(これは三宅説で明治二十五年発表のもの)扱いとしていますが、少なくとも異説ものせておくべき問題ではないでしょうか。いま、全国の高校・中学現場の先生へ、さらに学生・父母の皆さんへ誌上で訴えます。教科書は「学界」だけのものではなくて、何よりも真実を探求する者(教師・字生)に開かれるべきではないでしょうか。
私は、これから、「漢委奴国王」(古田説が最も正しいと思われる)の意味と読み方について、教科書のたった一行について研究をつづけたいと思っています。
この『のびのび』への投稿後「教科書のたった一行について」の研究、生徒のつまづきの石から学びはじめることをとりつかれたようにやりだす。中之島図書館通いから、二十数説もの異説を知ってこれまで誤答としてきたほとんどのケースが、異説としてあることを知る。さて、これだけの異説があるなかで「通説」のみ教科書にのせている問題はまず第一に「通説」を定説扱いとすることで、生徒に疑問をもたせることなく「暗記」させていたこと。第二に日本史、とりわけ古代史は不明の部分が多く、それを明らかにすることは今後の真実探求への課題であると教えることが重要であるにもかかわらず、それを欠落させてしまうことになる。私をも含めて、教育現場にいるものの根底的な反省を迫らなければならない。
そこで、教科書の出版社(三省堂)と編者の家永三郎氏へ手紙を差し出した。先学の古田氏へ手紙を出し、自宅へも学びにいかせていただいた。そして、古田説に確信を深め、私の職場、又研究会へ大阪での囲む会の参加を呼びかけた。(それ以後については「古田武彦氏を囲む会の歩み」に詳しいので割愛)
家永三郎氏は、多忙にもかかわらず、出版社を通じてわざわざ返事をいただいた。文部省側への抵抗においては、強固な意志をもって、逆に真実への探求心においては柔軟な姿勢で貫かれていた。資料2).をお読みいただきたい。誠意ある御返事は、出版社から速達扱いと確認の東京からの電話でも充分解った。
資料2). 家永三郎氏よりの手紙(原文のまま)
拝復 たいへんおくれましたが、三省堂から同送されてまいりました御葉書ありがたく拝誦、御高見を賜りましたこと、平素拙著、教科書御使用下さいますことに対し厚く御礼申しあげます。
「通説を固定的にとらえること」が「結局暗記」に流れるという御高見は全く賛成で、通説であろうとなかろうと、私は自分の納得できない説は採りませんし、教えるべきだと思うことは、必ず書くという方針で教科書執筆を続けてきました。しかし裁判で文部省は、検定基準にさえないことですが、教科書は通説によって書くべきだと強く主張しています。それが、教科書は面白くないものという結果をうむ元兇と思います。
具体的な御例示の問題について、古田氏の「邪馬壹国」説をあえて紹介したのは、別に新しいものに飛びついたのではなく、従来の通説が魏志の本文をみだりに改めて平然としてきたことの誤りを自己批判をふくめて確認し、少くとも現行魏志に「邪馬壹国」と書くテキストが一も存在しないこと、史料を読み易くするためにテキスト上の根拠なくして文字を変改するのは邪道であること等の私の文献学的信念により、古田氏の説が終局的に正しいか否か、全体として賛成できるかどうかは別として、魏志の本文に「臺」ではなく「壹」とあることにまちがいないので、ぜひ教科書に紹介すべきであると考えたからであります。しかし、私は文献学にはいささか経験がありますが、音韻学には全く門外漢であり、私の守備範囲外です。したがって、「委」「奴」の読み方については、厳格にいずれの説が正しいか判断する能力がなく、私がいちばんすなおと思われる旧説をいまもなお採っているにすぎません。この点は今後もう少し勉強して考えてみますが、御教示の「イヌ」に今ただちに同意はいたしかねます。(中略)
しかし、学界はきわめて流動的ですので、十分検討した上で、今後は拙著説明の表現等くふうを試みたいと思っております。今後ともお気付の点よろしく御叱正の程お願い申しあげます。
七月八日
家永三郎
藤田友治先生
さて、古田氏からのお手紙は、多忙をきわめられている中(東京講演会、原稿執筆、研究)で、私のような未熟な者へもあたたかい配慮のもとで書かれていた。古田氏のお人柄を知る上で、参考になろうかとも思い次に記しておきたい。
「洛西、春たけなわ、お忙しい毎日と存じ上げます。一二月中にお更りいただきながら、原稿執筆中にひきつづき、旅行相次ぎ、御返報おくれ失礼いたしました。わたしの洛陽工高時代と同じく、工業高校にて教鞭をとっておられるとのこと、なつかしく感じました。若い青年に向って、邪馬壹国九州王朝について話して下さっているとのこと、うれしく有難く感じます。どうか一度こちらへ遊びにいらっしゃって下さい。五月になると筍の季節がすぎたそばの竹林が青々と美しく照り映えていますから。御尊父様(今井氏ーー引用者注ーー)の御研究の一端、拝見いたしました。大変着実な手法でおすすめの様子、敬服しつつ読ませていただきました。このような手法で全面的におしすすめられましたら、面白き結実をうる日あらむと存じます。鏡味完治氏なきあと、日本に地名学の発展なきを患えておりましたが、若い人の中から後継研究者をと望んでおりました所、このような御年配の方にと深い感概があります。最近、定年をむかえた方々の中で、古代史に強い興味をもたれる方の多いこと、各所の講演会などで痛感しています。この方々は、いわゆる『専門家』でないため、かえって学界の老大家(年齢的には近似)とは異ったフレッシュな発想で歴史に迫ろうとしておられる場合も多いようです。
このお便りと同時に、御尊父様にもお便りさせていただきますが何とぞ御壮健の上、貴重な御研究を大成されますよう、当方の願いをお伝え下さらば幸いです。
一九七七年四月二十二日 古田武彦
藤田友治様
「御多忙の中で、わざわざ父と小生にまで御返事をくださり、ありがたく読ませていただきました。東京御出張・原稿執筆等、本当に大変な御苦労の中でも、小生達のような未熟な者へのお手紙、感謝に耐えません。三月二十一日のお手紙では、まだ先生の「『邪馬台国』はなかった、及び『親鸞』(清水書院のものーーこれは河田光夫氏夫人より贈られたもので、実は河田氏とは五年前から教育現場の実践・研究交流で親しくしていただいており、先生とのつながりに小生も驚いている位です。)のみしか、読んでいないため、恥ずかしい主張「先生は可能性としての推定論の域をこえて、先生自身もっと主張なされるべきであると考えます」ということをのべました。
春休み中の課題として、先生のお書きになった本(非常に多く、かつ専門外にとっては難解な部分もあるのですが・・・)を購入して『失われた九州王朝ーー天皇家以前の古代史』の第一章、志賀島金印の謎において旧説のすべてを徹底的に根本から批料されておられるのを読み、論理のいきつく先とその情熱にうたれると同時に、私の不勉強をおわびするものです。
さらに『親鸞思想ーーその史料批判ーー』(冨山房)を購入して、最初に「家永三郎の序」を読んで、又恥ずかしく思いました。私は、金印の読み方について古田説の正しさを家永氏に向けて主張し、ついに「本山に弓をむける」行為をしたようにも感じたわけで、これも事情の知らないところとはいえ、私の不勉強のいたすところです。しかし、真理への探求者である限り、教科書及び指導書(教師用)についての古田説採用への訴えは、現場にいる者の責任でもあり、誰であろうとも訴え続けることは変りません。
御参考に、本年度版「三省堂・家永氏著、新日本史」及び指導書を持参致します。実は、私自身について前の手紙では何もふれていなかったことを少々書かせていただくことをお許し下さい。高校教育現場の優れた教育実践家でもあり、又親鸞研究者としてもユニークな労作のある河田光夫氏とは、五年前から、教育実践活動を通じて知っており、又家族的なおつきあいもさせていただいています。実は、先生にはじめてお手紙を差し出すときも、河田氏ならびに夫人に相談致し、(古田氏は河田氏夫婦の仲人)出来れば「紹介状」のような一文を書いて下さるように依頼したわけですが、河田氏からは、先生のお人柄で、そのような「形式」ぱったことは不要であると教わり、又内容そのものの検討が大切ですから、あえて何もふれなかったわけです。事実、先生は一面識もない私達に御多忙の中で、わざわざお手紙を下さり、温かい配慮をなされたわけです。
さて、河田氏との出合いは、教育現場で河田氏らが呼びかけた「大阪高校解放教育実践交流集会」への参加(第一回一九七四年、以後毎年大会一回、現在五回まで続く)からであり、「われわれの出発点であり帰着点である具体的な教育実践を持ち寄り交流しよう」としたわけです。
更に河田氏の親鸞研究に接して、とくに「東京本願寺報」ーー「親鸞の平等観」(河田氏自身の表題は、「親鸞と被差別民」)に接して、「苦悩の共有」という概念及び被差別者の苦悩(煩悩)からの解放という観点は鋭く貴重なものです。これらは、学問分野は異なれども小生が五年前から修士論文(とくに「へーゲル・フォイエルバッハ・マルクスの苦悩の概念について」ー大阪府社会科研究会発表)で苦悩の概念分析から、ほぼ同一の思想、つまり苦悩の共有(ドイツ語でmitleiden)として提示していたのであり、この点は、今年の春休み中に河田宅へ訪問させていただいた際に気付き、両者の研究対象は異なれども、マルクスと親鸞という偉大な思想家・実践家の思惟の同一性に注目していたところであります。この意味で小生の貧しき研究成果も何らかの御参考になればということで、論文を持参させていただきます。なお、目下、河田氏はマルクスを、小生は親鸞を読んでいるという「おかしな」交流になっていることも申し添えておきます。
項目ごとに要点を整理してのべたつもりですが、金印から親鸞・教育現場と色々と多方面にわたってしまいましたが、これも先生の多方面の御活躍のなせるわざとしてお許し下さい。やはり、どうしても直接教えを乞いたくて、先生が御好意で「遊びに来て下さい」の通り、うかがわせていただきたく存じますので、御多忙中誠に申し分けなく思いますが、よろしくお願い致します。小生としては、先生にお会いするまでの土、日は必死で先生のお書きになった本の勉強と、又、父との検討会を済ませ、メモをもって要点をうかがわせていただきたいと思っています。父も先生のお手紙をありがたく受け取り、目下それを励みに研究に打ち込んでいます。それでは、先生の一層の御活躍と御家族の皆様の御健康をお祈り致してペンを置きます。
藤田友治
古田武彦先生へ
一九七七年四月二十五日
追伸 東京読者の会のような組織が、地元大阪にあるのでしょうか。あれば是非教えて下さい。
さて・古代史についてまだまだ素人の私が、専門分野で専門家の学説をのりこえることはできないが、何が真実か、私よりも素人の生徒たちから、学習過程上のつまづきの石から学ぶことができ、つねにその限りで新鮮な心を持続しうる。今、生徒と同じく「漢委奴国王」を卒直に読み、その意味と解釈を求めて古代と志賀島へ旅をつづけたい。
〔追記〕
一九七七年八月二十日〜二十五日で、四泊五日、志賀島・歴史資料館・太宰府・志登支石墓所・宗像大社等、九州王朝論による地域を今井氏とめぐってきた。丁度、金印の実物が東京国立博物館から、里帰りしていて(もっとも九州志賀島から出土したのだから、現地においておくべきだが)実物を拝見することができた。
又、最近発行された家永三郎編「日本の歴史」」(ほるぷ出版)では、金印について次のように表現されるようになってきている。
「だから、『漢委奴国王』は、「漢の委の奴国王」と読むのが正しいとした。これがいまでは、ほとんど定説のようになっていて、教科書でも、みなそのように読ませている。しかし、この説に疑問をもつ人がいて、漢の時代の印章の制度を調べてみると、国名は漢のつぎは○○国とみな2字の名になっているから、これを、『漢の委の奴国』と読むのはまちがいで、『漢の委奴国』とつづけて読むべきで、これを「委奴(やまて)国」とよむ人と、「委奴(いど)国」と読む人にわかれている。
こんなわけで、まだ確実といえる読みかたはわかっていない。将来の研究をまつよりほかにない。」
客観的に冷静に表現されるようになってきているが、著者の主体的な判断はまだない。しかし、少くとも「定説」で終えていた段階から、続いて異説も紹介し、更に今後の研究課題としている点は、前進しているといえよう。さあ、次の段階へ更に歩みを続けようではないか。「偶然は人を思いがけないところへ導くものである。」
(大阪府茨木市高校社会科教員三十一歳)