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古田武彦とともに 創刊号 1979年 7月14日 古田武彦を囲む会編集

古市城山古墳(安閑天皇陵)

中谷義夫

 近畿鉄道古市駅のプラットフォームに降り立って南の方を見ると、コンモリとした森が直ぐ側に見える。これが古市城山古墳(安閑天皇陵)である。人家を廻りめぐって前方部に近づくと、狭い国道路上に車はひっきりなしに陸続として走り去り、又来りその危なかしいこと、うつかり参拝も出来ない環境である。
 安閑天皇といえば、稲荷山古墳の鉄剣の銘によって「日本書紀」の記述が浮び上っている。武蔵国造(クニノミヤツコ)笠原直使主(カサハラノアタイノオミ)が同族の小杵(おぎ)と国造のとりあいで相争った。小杵はひそかに上毛野君小熊に通じて使主をなきものにせんとしたが、使主は大和朝廷に助けを求めて反対に小杵を殺し国造となった。その恩義に報ゆる為に使主は四ヶ処の屯倉(みやけ)を朝廷に献じた。それ以来、大和朝廷の勢力が関東を占めるに至ったというのである。その笠原直使が銘刀者の父親に当るのではないかという推理である。
 この事件は安閑元年、天皇の即位した年に当る。処が「日本書紀」には妙な記事が載っている。「或る本には継体二十八年(五三四)に継体天皇は崩じたとあるが、百済本紀には継体二十五年に当る辛亥の年(五三一)に「日本の天皇及び太子皇子倶にうせぬ」とあり、これを採用したという。どちらが正しいかということは後の人がよく調べ考えてほしいと「日本書紀」の編者はつけ加えているのである。
処が安閑紀の記事を見ると、継体天皇は安閑天皇を後つぎの天皇と定めたその日になくなったという。だから当然「継体二十五年=安閑元年」となる筈だが、
継体天皇ーー辛亥ーー五三一  かむあがりましぬ。
安閑元年ーー甲寅ーー五三四

となっている。つまり五三二年、五三三年は空位になっている。然も採用した百済本紀には「日本の天皇及び太子皇子倶にうせぬ」とあるが、これは継体天皇が自分の皇子たちと一緒に死んだということである。だが、皇子の安閑天皇、宜化天皇、欽明天皇倶に皆、生きていて即位している。これは一体どういうことなのか。日本の古代史上、誠に重大な問題である。処が明治、大正、昭和に至るまで何れの古代史家も深くこれを追求出来ず、何か天皇家に重大なことがあったと想像するだけで、結局は「百済本紀誤伝説」ということで現在に至っている。それとも歴代の古代史家は本居宣長の力説した「古典の姿が後代人の頭から見ておかしいと見えても、なまなかな判断でさかしらに疑ってはならない」という教訓を遵法しているのであろうか(呵呵)。
 ここへ来ると古田武彦氏は明解な納得のゆく説明を加えている。以下、古田氏の文章をもとにして簡略に書いて見よう。
 「日本の天皇及び太子皇子倶にうせぬ」とあるこの日本の天皇というのは、歴代の史家の頭にこびりついている近畿大和の天皇家以外に天皇はないという頑固な盲信(皇国史観)の為に解けぬ謎であったのである。大体「百済本紀」の成立は「日本書紀」より百五十年前にさかのぼる。然も日本列島外にあってそれは成立している。日本の古代史家のように近畿天皇家の大義名分論にしぼられるいわれはない。かの文明圏の中枢にあった中国ですら近畿天皇家を日本列島の主人公として認証したのは八世紀の初頭であった。だからこの「日本の天皇」の論証の帰着は近畿天皇家ではなくて九州王朝だったのである、と古田氏は力説される。
 問題なのは「日本書紀」の編者は「百済本紀」を信用して継体を二十五年で終らせた。これを或本の通り二十八年に移動すると次のようになる。

継体紀の各年別を簡略に示すと、

二十年(五二六)  磐余の玉穂に遷都       二十三年(五二九)
二十一年(五二七) 磐井征討の宣告        二十四年(五三〇)
二十二年(五二八) 磐井滅亡           二十五年(五三一)辛亥の年
二十三年(五二九) 百済王の加羅王の逸事     二十六年(五三二)
二十四年(五三〇) 継体の詔勅          二十七年(五三二)
二十五年(五三一) 継体の崩御          二十八年(五三四)

 そこで末期五年間を三年ずつあとにずらすと問題の辛亥の年「天皇及び太子皇子倶にうせぬ」という新しい継体二十五年の項目はいかなる事件のあった年となるだろうか。当然、旧継体二十二年「磐井の滅亡」の年である。
『二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子に大将軍物部大連あらかひ、親ら賊の師磐井と、筑紫の御井郡に交戦ふ。旗鼓相望みちり相つげり、機を雨つの陣の間に定めて、万死つる地を避らず遂に磐井を斬りて、果してさかひを定む。十二月に筑紫の君葛子、父のつみによりて誅せられむこと恐れて糟屋屯倉をたてまつりて、死罪をあがなはむことを求す。』「日本書紀より」

 右において「磐井の滅亡」の際、死んだのは当然磐井ひとりではない、継体天皇の子は二十一人、その九人が皇子であった。同様に磐井も又多くの男子を持っていたに違いない。そしてその多くは父磐井と運命を共にしたであろう。僅かにその子たちの中の一人であった葛子が生き残り、天皇家との和平工作に成功した。このように理解すると「百済本紀」の「日本の天皇及び太子皇子倶にうせぬ」は磐井の滅亡を指していたのである。
 前方部から濠に沿って左側をゆくと住宅がきわまで立ち並んでいる。封土全長百二十一米、後円の高さ十四米、それ程大きくは見えない。むしろ小さい。室町時代に城郭として利用されたので墳形も昔とは随分変わっているだろう。大体この古市古墳群は、考古学的に被葬者と時代があわないといわれているが、この古墳は後期に属し、安閑天皇の時代にぴったりと一致するそうだ。江戸時代中期に正倉院の宝物と同じ玉(瑠璃)碗が珍しく出土したが、現在は東博にある。これは遠くペルシャからシルクロードを通って渡ってきたに違いないが、この被葬者は生前どんな暮らしをしていたのかと思いをめぐらしながら、古墳の方円の小さい境をあきず眺めた。

(書籍商)


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