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古田武彦とともに 創刊号 1979年 7月14日 古田武彦を囲む会編集 ●会員のひろば

『北九州見て歩き』

(大津市)中谷義夫

 せんだって「邪馬台国の謎を探る」というテーマで、横浜の朝日旅行会が催したグループに私も参加して北九州を旅した。講師は九州王朝説の古田武彦氏である。
 第一日目は伊都国考古資料館を訪ずれた。この日は秋晴れの上天気で、博多の街並を過ぎてのどかな田園風景が眼に映る頃、古田さんはこの辺が下山門(しもやまと)といって宇(あざ)からゆくと山門(やまと)です。博多湾岸です、と冗談のように仰言る(古田さんの邪馬台国は博多湾岸説)。
 資料館で印象に残ったのは玉壁である。こんなものが権力のシンボルとはどうしても考えられない。昔はもっと色鮮やかなものだったに違いないが、現代の目からはほんの土塊にすぎない。一体家のどこに飾ったのか、など思う。もう一つは、五尺の鉄刀である。卑弥呼が魏帝から貰った二ふりの中のその一つだという。畿内説では天理の東大寺山古墳から出土した中平の銘のある鉄刀が頭に浮ぶ。
 平原遺跡は畑中を割って細い道が続いていた。方形周溝墓と十六人の殉死溝と窯跡があるので有名だ。周溝墓は現在板囲いがしてあって、発掘中八つの柱の跡が出て来たので「もがりの跡」ではないかという説も出たそうだ。しかし「もがり」という言葉は五、六世紀に使われているのでその説はひっこんだようだ。古田さんの見解ではこの平原遺跡は弥生時代の終末期ではないかという。又、殉死溝に就いては、九州には殉死の風習があったが記紀に書かれている殉死は実は近畿にはなく、その代り埴輪の使用は近畿よりも遅れたという説明であった。
 次に三雲南小路遺跡を訪ずれた。原田大六氏によると、ここは伊都国、日本国家の創生地だという。神武東征論の考古学的な根拠地であるともいう。現在、何次かの発掘中で新しい周溝墓を掘り当てているところだった。古田さんの話によると、この三雲南小路近辺には神話が現代にも生きているそうだ。
 高祖山の山麓にある高祖(す)神杜の玉依姫(たまよりひめ 娘)が三雲遺跡のすぐ隣りにある細石(さざれいし)神杜の木花咲耶姫(このはなさくやひめ 母)に会いにゆく、毎年十月二十六日の日に御輿をかついで村人の行列が続くそうだ。玉依姫とは神武の母であり木花咲耶姫とはニニギノミコトの奥さんである。面白いことにその行列を行奉(ぎょうこう)といい、御與をひつぎという。ひつぎとは枢の意味でなく日嗣だと古田さんは説明された。
 第二日目、今日はあいにくと雨。博多から南へ南へと岩戸山古墳に向った。ここは古田さんの独壇場だ。九州王朝磐井の君の陵墓である。日本書紀には磐井の叛乱という一豪族の謀反のように書かれているが、もう少し深く読みくだくと、継体は麁鹿火(あらかひ)にこういっている。「長門より東をば朕が制(と)らむ、筑紫より西を汝制れ」と、つまり九州は天皇家の支配領域ではなかったのである。だから、この戦いは天皇家にとって天下分け目の戦いだったのである。
 埼玉の稲荷山古墳出土の鉄刀の銘から既に雄略が東西を統一していたかのような解釈をする古代史家が多いが、そんな簡略に日本の大王は近畿天皇家だけだという一元的を解釈ですむものだろうか。それよりこの鉄刀の銘から記紀以外にひそむ日本史をかい間見た方向に研究を進めるのがよいのではないか。そこへゆくと朝鮮の学者は近畿天皇家ばなれをしている。江田船山古墳の銘刀の字が稲荷山古墳の鉄刀の字に似ているところからこれは九州王朝が関東を支紀していたのではないかと推定している。古田さんも装飾古墳が近畿をとんで関東にある現状から何らかの関係が推定出来るといっていられる。それと雄略=武の問題だが、文献史学界ではこれが定説となっているが考古学界では近畿の五・六世紀の古墳の出土物に南宋の影響が皆無だといわれている。ところが九州圏ではどうであろうか。石人石馬そして装飾古墳という、近畿と対比して異状な文化を示している。果して倭の五王の貢献した南宋はどうであったか。この時代は石人石獣墳墓の最盛期であったという。つまり石像芸術をもって墳墓を飾るという一点に於いて九州王朝は南朝の直属下にあったことを証明していると古田さんは説かれる(関野勇「墳墓の構造」「世界考古学大系」7巻参照)。
 私のような素人にとって、日本の文献や考古学的な証明がないのに「武」は雄略であるとは、推理小説以外の何ものでもないと思うのは無理からぬことであろう。
 岩戸山古墳の周濠は広々とした草原になっている。三々五々と歩く人々の群は小さい。見上げる古墳の雄大さ、雨は静かに辺りを包んでいた。この古墳は未発堀だ。必ずや素晴らしい装飾壁画が眠っていることだろう。石人山古墳でば、グループの中の勇気ある女性が石棺の中にはいって報告をしてくれた。やはり、うっすらと装飾の跡が残っているということだった。
 次に女山だ。神寵石(こうごいし)か山城かの論争の末に山城説が勝ったようであるが、水門の近くに立派なネックレスや広形銅矛が出て来たので、かつては聖域であったのであろう。しかし、古田さんの説では、山城と考えると神籠石の分布が福岡県をぐるりと取り囲んでいるのでその中心には王朝が存在したことが推定出来るという,ことだった。ここの瀬高という町は.町を挙げて耶馬台国はここだと宣伝しているらしく、案内の人は雨でぬかるみの山道をものともせず、口を極めてここが耶馬台国だと力説した。
 第三日目は晴。志賀島の金印発見の地を訪ずれて、次に宗像大杜の宝物拝観をすまし、そして太宰府資料館へと急いだ。左に都府楼跡が見えた時、古田さんは説明された。
 現在までの発掘に就いて森貞次郎さんの説によると、上層礎石が大体十世紀頃、それから下の下層礎石で七世紀から八世紀の初頭、といったところであったが、又その下を掘り起すと掘立柱が出て来たようだ。これは不明ということになっているが、現在ではこの掘立柱も七世紀におしこめようとする傾向が出ているということだ。
 古田さんの考えでは神籠石(六〜七世紀)以前か、同時代と考えるとつけ加えられた。さてこの太宰府という名称だが、日本書紀では天智時代に急に飛び出るのであってその出現のわけがわからない。天智が建てたものではないし、とにかく大和朝廷の出先機関というのが定説である。しかし、倭の五王の「武」の上表文を見ると「開府儀同三司」と自称しでいる箇所がある。この三司とは太宰(だざい)一人、太伝(たいふ)一人、太保(たいほ)一人、の意味である。つまり天子の家来百官の中のベストスリーだ。この称号を受けると自分の在地(都)に役所(府)を開く権限が出来る。倭王「武」の都は太宰府だったのである。これは古田さんが漢籍に対していかに造詣が深いかを物語るものである。そこで素人の私は、この掘立柱こそは、「武」の宮跡ではなかったかという推定である。
それから最後に春日公民館を訪ずれた。今日は休館日であるというのに館長の亀井勇氏が古田さんと旧知の間柄ということで開館して私たちを待っていて下すった。亀井さんは九州考古学界の生き字引のような方だと紹介された。私たちはかめ棺の素晴らしい集積に全く圧倒されてしまったのである。


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