米田保
サーッと俄かに降り出した雨足をよけて駆けこんだ京都東寺の近くのさる軒先で、私はしばらくの間、空を見上げていた。晩秋特有の通り雨らしい。昭和四十四年十一月の午後、もう十年も昔のことになる。
これから訪ねて行こうとする落陽高校はすぐそこだと教えられていた。高校に別に用事があるわけではない。そこにいる古田という先生が最近発表した変わった論説が、二・三日前から頭に引っかかっていたのだ。
最近出た東京大学の『史学雑誌』で、従来の邪馬台国説は根底的に重大な誤謬の上に立っている、という重大指摘が行われたという。随分大胆な意見の発表を、しかも歴史学研究の専門雑誌でなさるとは、どんな人だろう。話によっては、面白い本ができるかも・・・。
雨は幸いにして数分でやんだ。さわやかに濡れた道を急いで、私は高校の校庭を斜めに横切り、校舎へ入っていった。
通されたところは、職員室の隣りの図書室だった。古田武彦先生が出てきた。
峻烈な異説の調子から抱いていたイメージとはほど遠く、慇懃丁重な、感触のやわらかな人だった。
「邪馬台国ではなくて、邪馬壱国だそうですね」
「はい、そういうことになります。じつは私もはじめは写本の誤りかと思ったのですが、念のため壱と毫の誤りの例がほかにないかと『三国志』全部にわたって丹念に調べてみたんです。その結果やはりほかに誤っている例はみつかりませんでした。それに文字の用例からしても・・・」
さっそく独特の熱のこもった解説がくりひろげられた。が、さきの一言で私はもう圧倒されてしまっていた。あの浩澣な『三国志』から、たった一字を識別するために何十万字を点検するという粘り強い意欲、なんという凄いエネルギーだろう!
同時に、これこそまさに科学的論証といえるのではないか、と直感した。
「おねがいします。そのプロセスをできるだけやわらかく原稿にして下さい。一般書として売出しましょう」
私は叫んでいた。何にもまして、そこから導き出された結論によれば、これまで定説化されていた邪馬台国=ヤマト(大和)説が微塵に打ち砕かれるというスリリングな魅力があった。きっとこの企画は成功するぞ!と、はやばやと自信めいたものが心の底にわいていた・・・。
こうして約一時間後、古田氏のOKを得た私は高校を辞した。帰りの国電西大路駅の階段を昇るときの足取りが、はずむように軽かったことが、今もあざやかな記憶のなかにある。
今日、当時の製作ノートを引っくり返してみると、
四六・七・二四(水)
古田氏宅訪問、原稿全部受領。
(四〇〇字換算、六七〇枚)
と記入されている。あの俄か雨の日から一年半余を経過しているわけだが、その間に氏は高校教諭の職を辞し、いわば背水の陣をもってこの一冊に取り組んでおられたのである。そして、私のノートはその間にうけた何回もの講義メモのため、まっ黒になっている。
原稿から活字に移すまでの間にも、私はいくたび向日市物集女(もずめ)のお宅へ出向き、原稿上の不備な点や表現の工夫などで念入りに打合せを重ねた。いうなればこれは“読者第一号”としての責任であり、読みやすく、誤りのない本の製作を志す私の編集者としての当然の仕事であったが、氏はいつの場合も不快の色をいささかも見せず、絶えずにこやかに、不勉強な私にいろいろと教示を賜わることが多かった。
こうして四十六年十一月、歴史的著作『「邪馬台国」はなかった』ができあがった。
題名についではすこしばかり苦労をした。
本は題名によって運命の八割方を決定される。それだけにいつも朝日社内においても、題名決定にさいしては慎重に検討を重ねていた。いかにして内容を効果的に打ち出し、読者にアピールするか? この本の場合、内容は高度であり、かつ中国史書への体当たり的考証というハードな内容の本である。これをどう書名に表現するかが問題であった。私案としては『邪馬台国と邪馬壱国』あるいは『それは邪馬台国ではなかった』などを考えてみたが、いずれも弱い。結局ズバリ『邪馬台国はなかった』に決まりかけた。しかし、いかにも少し行過ぎ的で、浮ついた感じがあり、私は躊躇せざるを得なかった。そこで「ーーいわゆる邪馬台国」という意味の「」を邪馬台国につけることにして落ちついたのである。著者においても異見をお持ちだったご様子であるが、あえて諒解していただいた。
反響は予想を通り越して凄じいものであった。
十一月十五日第一刷が出るとほとんど同時に、もう第二刷が決まった。つづいて十二月には第三刷と第四刷、翌年一月にも矢継早やに第五刷、第六刷、二月にも二度にわたる増刷と好調がつづき、もちろん書店調べのベストセラーに名をつらねた。井上光貞、和歌森太郎、安本美典、直木孝次郎ほかの諸氏の書評が新聞、雑誌を賑わした。
こうして図書は結局第十五刷を突破し、つづけて油ののった同氏による第二作『失われた九州王朝』(四十八年)第三作『盗まれた神話』(五十年二月)第四作『邪馬壱国の論理』(同年十月)と巨弾が続々と打ち出され、ここに名実ともに古田史学の巨峰群の実現をみたのである。(元朝日新聞社出版編集部員)