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市民の古代・古田武彦とともに 第二集  1984年 6月12日
古田武彦を囲む会事務局 編集委員会
特集二

金印『漢委奴国王』について

藤田友治

(一) 生徒のつまづきの石から学ぶ

 私達、教師は授業で何を、如何に教えるかが生命であり、どのような教材を使うかが、大切な問題となる。その際、やはり教科書は大切であり、その一字一句の持つ意味は大きい。社会科日本史の場合、年代や語句は細目にわたって問われ、従って生徒は暗記を強要される状態におかれる。この暗記ーーテストの作用についていけない生徒は、いわゆる「落ちこぼれ」となってしまう。生徒のつまづきを、「エリート」として育ってきた教師は理解できない。何故、このような簡単なことが・・・と生徒の「学力」の低さを教師は嘆く。「エリート」教師は、生徒のつまづきの石から学ぶべきものを引き出せないことが多く、教育諸制度の矛盾とともに落ちこぼれを作り出していく。杜会認識においても、しばしば意味のある「間違い」をしていることがある。その間違いを分析すれば、生徒が何故につまづいていたのか、更にどのようにすれば正しい考え方が身につくかということが明確になり、しかもその事を越えて、教師が新しい事実を学ぶことがあり得る。これについて一つのささやかな実践例を報告しよう。

 日本史の授業で、志賀島から出土された金印『漢委奴国王』の読み方について、高校二年生に、事前に何も教えないで調査をした。つまり、金印についての中学時に習った知識の定着度をみる「基礎学力調査」である。(一九七七年五月実施)結果は図1のとおりであった。

図1 金印読み方基礎調査結果

 普通、中学校で金印の読み方とその意味を教えているわけだから、「正解」(通説のA)は31パーセントであり、この三分の一弱という数字を前に教師は生徒の基礎学力の低さを嘆くこととなる。ところで、A' や∀を見ると「正解」A に近い誤答である。暗記をして記憶力の良い者のみが、「αのβのγ」(「正解」のA の場合)という三段細切れ読法(古田武彦の三宅米吉読解への命名)という大へん無理した読み方ができている。A' は、「の」を一つ忘れ、A" は「な」と「わ」の転倒をしてしまった。これらは「正解」に近いが、暗記をしようとしてもその意味が解らないままであるが故に、記憶し切れていない。いずれも無理をしている結果である。一方、A" になるとむしろBグループの率直な読み方を入れることなく、完全に習ったことを忘却してしまったもので、自分の知っている字の読みをしてしまっている)をしているのに近い。
 私達は、これまでのテストにおいて、これらのグループを完全な誤まりとして処理してきた。良心的な場合は、「かんのいとの国王」は異説として処理することもあったが、異説を掲載していない教科書では誤まりとされてきたであろう。
 しかし、よく考えてみると、通説は生徒に非常な無理を強要していることに気付く。
 まず、「委」を「倭」として人べんを補なって、原文にはない補足をし、しかもその当時の日本のこととして「」と読まねばならない。(正確に言うとそう暗記しなければならない)次に、「奴」は「な」(通説の場合)と辞書にもない読み方をしなければならないか、「ト」(異説の場合)としてもやはり辞書にもない読み方をしなければならないのは同じことである。
 これは何か誤まりを犯す必然的な根拠があると感じ始め、生徒の「裸の王様」を見抜く目に学ぶ中で、教科書のたった一行についてとりつかれたように研究を始めた。
 Bグループの「誤答」は、全て金印研究史上にこれまで主張されてきた異説であったことが解る。B1 の「いな」国説は、目が不自由な人で『まぼろしの邪馬台国』を書き、民間に古代史への情熱を高らしめた宮崎康平氏の説、イナ(ネ)国説である。B2 は、「ワド」国説として内藤文二氏がいる。B3 の「いど」国説は、『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社)以来、日本の古代史の「定説」に対して、厳密で科学的な批判を通じて鋭い問題提起をされてきた古田武彦氏の説である。B4 の「いぬ」国説は、古くは橋川時雄氏の説であり、最近では古田武彦氏の説でもある。
 つまり、生徒の「誤答」は、全て金印研究史上の異説としてあったことが解る。但し、従来までの異説である「いと」=「伊都」説はなかったことに注意すると、「奴」を「と」とは読めなかったのである。

(二) 金印ー研究史と教科書でのあつかい

 さて、これだけの異説だけではなくて、金印研究史上を探ねるとおびただしい異説に出会う。大谷光男氏の『研究史・金印ー漢委奴国王印』(吉川弘文館)によると、印文の読み方とその解釈について以下のように整理されている。
 まず江戸時代においては、(1)[石段]馭盧(おのころ)嶋説(荻生徂徠)、(2) ワヌ国説(賀茂真淵)、(3) 大和国説(亀井南冥)、(4) 伊都(恰土)国説(藤貞幹)、(5) 熊襲説(井田敬之)、(6) 蝦夷説(亀井昭陽)、(7) 日之国説(松浦道輔)、(8) オナ国説(近藤芳樹)など、明治以後には(9) ワのナ国説(三宅米吉)、(10)イド国説(高橋龍夫)、(11)ヰナ国説(福本日南)、(12)アイヌ・エタ国説(樋口銅牛)、(13)ワタ国説(中島利一郎)、(14)ヰド又はワド国説(内藤文二)、(15)ツノ(ヌ)国説(藤田元春)、(16)ワナ国説(水野祐)、(17)イヌ国説(橋川時雄)、(18)イネ国説(宮崎康平)などがある。

[石段]は、石偏に段。

 しかしこの本は、金印研究史を非常によく体系的にまとめてはいるが、一九七四年発行であるから、七三年まで発表された研究をとりあつかったものであるという制約を当然のこととして留意されなければならない。従って、それ以後の研究、とりわけ、古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかったーー解読された倭人伝の謎』(朝日新聞杜)から、『失われた九州王朝ーー天皇家以前の古代史』(同上書)で展開された「漢の委奴(いど いぬ)の国王」説はとり扱われてはいない。
 さて、これだけ研究史上の異説の多い問題を含んだ事項を次に高校教育現場においてどのように扱っているかを現行教科書の全てに目を通して検討してみよう。
 なお記号(A−O)については、別に掲示したので参照されたい、
(目次ウラ ーーインターネット上では最後)
 金印については、ほとんど全てと言って良い位に写真が入っている。(但し教科書Lを除く。他のA−Oの記号も同様。)そして、その説明には、全ての教科書が、「定説」とされる「漢の委(ワ)の奴(ナ)国王」(三宅米吉説)をあげている。その代表的な例としてAのように取り扱われている。これは「定説」のみを紹介し、学問上の異説が存在しないかの如くになっており問題である。

(参考)金印の説明の文字化
教科書A
漢の委の奴国王の印(実物大)
1784年(天明4年)に、筑前(ちくぜん)の志賀島(しかのしま)から光武帝が、奴(な)国王に与えたものと思われる「漢の委(わ 倭に同じ)の奴国王」と読まれる文字を刻んだ金印が掘り出された。(東京 黒田家蔵)

教科書B
漢の委の奴国王の印(実物大)
1784年(天明4年)に、筑前(ちくぜん)の志賀島(しかのしま)から光武帝が、奴国王に与えたと考えられる「漢委奴国王」ときざまれた金印が掘り出された。この文字の読み方について、「漢の委(わ)の奴国王」という説と、「漢の委奴(いと)国王」という説がある。(東京 黒田氏蔵)

 次に異説を紹介している教科書は、半数位があり、B、C、D、F、G、I、J、Kが、Bに見るように両説を並記してある。この異説は、「漢の委奴(いと)国王」説のみが取り扱われているのが全てに共通している。この問に、両グループの中間的表現としてH社の「通説を有力」と表現しているものがある。
 つまり、現行高校日本史の教科書においては、金印について基本的には二つのタイプに分れる。半数Aグループは「定説」のみであり、後半数Bグループは「定説」と「異説」の併記である。
 ここでの問題点を考えると、まず研究史上おびただしい異説が厳として存在するにもかかわらず、Aグループの様に「通説」のみしか教科書で採用しないことは、通説を定説扱いとし、生徒に一切の疑問をもたせることなく「絶対的なもの」として暗記させていくこととなる。次により歴史認識にとっては、本質的な事だが、日本史、とりわけ古代史は、不明の部分や異説が多いことは、生徒に混乱を与えるというよりも、むしろ今後の真実探究への研究課題であるという学習態度を生むものであることが忘れられていく。
 そこで、教育現場にいる者の責任として、このまま看過できない問題であると考え、「教科書はだれのものか −−『漢委奴国王』金印の読み方−−」を教育雑誌(『のびのび』朝日新聞社発行 一九七七年七月号)で、全国の教育現場の先生方や、学生、父母、市民の方々へ誌上で訴えた。(創刊号参照)反響は広がりと深さをもち始め、多くの方々に教えを乞うことができた。
(教育現場の教師や、市民と一緒に古代史に真実をという声は、その後、「古田武彦を囲む会」という形で結集されていく。)

(三) 教科書における異説の取り扱い

 ここでは、とくに学問的に異説をもっとも丁寧にとりあげておられる家永三郎氏の教科書(A) を、更に探く追求してみよう。
 過去から異説の多い邪馬「台」国論争では近畿説、九州説という所在地の論争にとどめず、更に「最近、『壹』は誤字ではないという説があらわれ、卑弥呼の支配する国の名と所在地をめぐり、新しい論議を生んでいる」と表現されている。これは、私達教育現場の教師や生徒達にとって、今日の学界の研究成果の前進を知らせ、かつ現在の日本史における問題提起をされることによって、真実探求への新鮮な目を持続させようとするもので高く評価できる。異説が学間的根拠をもって厳として存在する領城においては、その異説を一方的に捨象し、通説のみを採りあげることは、真の歴史認識を形成することではなくて、固定的にとらえることから、結局暗記ものとして自らの価値を低めるものである。
 しかし、全ての問題領域において、この立場を徹底するのは困難な事なのだろうか。家永氏の教科書 (A) も、金印については、先に比較考察したように、通説のみの紹介であった。教師用指導書(市販されておらず、教科書を採択した学校にのみその教科書に合う指導書を入手できるもの)にも、通説の三宅米吉説で書かれていた。
 ところが、古田武彦説の発表(『失われた九州王朝ーー天皇家以前の古代史』朝日新聞社、一九七三年)と、教育現場の私達の働きかけで、まず一九七八年版の指導書から、金印の説明部分が削除されている。この変化は、版が変って単にぺージ数の関係で割愛されたのではなくて、家永氏自身の見解の変化を物語るものである。日本史、とりわけ古代史は不明の部分が多くそれを明らかにすることこそが、今後の真実探究への課題であるという立場に家永氏が立っておられることを意味する。この立場から、家永氏は私達教育現場の者からのこの件での問い合せの手紙に対しても、多忙にもかかわらず、教科書執筆者としての良心的な返事を丁寧に書かれていた。この手紙は、文部省側への検定に対する抵抗においては、強固な意思で貫かれていた。
 又、家永氏が東京教育大学を退官された時に発行された、自らが著作兼発行の『著作目録』に「高校検定教科書」への自己評価がある。
(この資料は市販されず、退官記念論集出版記念会 一九七九年六月において、家永氏が配布されたもの。)
 それによると、周知のように、文部省側の検定があるために、教科書の記述について「相当の後退を余儀なくされる」場合が幾度と重なり、ひどい場合は「著者の真意がそこなわれている。しかし、それでもなお当時の条件下ではこれを教場に送り出す必要があると考え、不本意な修正の強制を受けて合格させたのであった。」という状況が考慮されねばならない。
 一方、学界の進歩、とりわけ古代史に関して最近の研究成果は著しいものがあり、これにも答えなければならない。金印にについては、検定不合格本 (O) も検定合格本 (A) もその記述は同じであった。ところが、最近発行された家永氏編『日本の歴史I』(ほるぷ出版)を見ると、前述したことが明確に確認されているのが解る。

「だから、『漢委奴国王』は、『漢の委の奴国王』と読むのが正しいとした。これがいまでは、ほとんど定説のようになっていて、教科書でも、みなそのように読ませている。しかし、この説に疑問をもつ人がいて、漢の時代の印章の制度を調べてみると、国名は漢のつぎは○○国とみな二字の名になっているから、これを『漢の委の奴国』と読むのはまちがいで、『漢の委奴国』とつづけて読むべきで、これを『委奴国(やまと)』と読む人と、『委奴(いと)国』と読む人にわかれている。こんなわけで、まだ確実といえる読みかたはわかっていない。将来の研究をまつよりほかにない。」

 ここでは、客観的に冷静に表現されるようになってきているが編著者の主体的な判断はまだない。しかし、少なくとも「定説」で終えていた段階から、続いて異説も紹介し、更に今後の研究課題としている点は、前進しているといえよう。ただ問題なのは「定説」を批判するに、従来の研究史上、最古の説「委奴(やまと)」=「大和」説の亀井南冥へ後退を許したことである。この説が成り立たないから、三宅米吉氏らの説が有力となり得たのであるという研究史上の流れを踏まえて紹介をされるべきであろう。しかし、家永氏は学問的に良心的であるが故にこそ、このような変化を生ぜしめるのりである。

(四) 通説ーー「ワのナ国説」・「イト国説」の批判〜金印をどう読むべきか〜

 現行検定済教科書の全てに書かれている、「漢の委(わ)の奴(な)の国説」をもっと詳細に検討しよう。金印の読解でこのように読んだ最初の人は三宅米吉氏である。明治二十五年十二月に、『史学雑誌』(第三編 第三七号)の「漢委奴国王印考」という論文で、「漢の委の奴国王の五字は宜しく委の奴の国の王と読むべし。委は倭なり、奴の国は古への儺県(ながた)今の那珂郡なり、後漢書なる倭奴国も倭の奴国なり。」とのべている。この説は、『研究史金印』(吉川弘文館)をまとめられた大谷光男氏によると、「委」は「倭」の略字で「奴」の漢音は「ナ行」の 音であって、奴国は仲哀紀八年にみえる儺県(ながた)という見解は、遠く本居宣長の音韻論の影響を受けていると指摘している。それでは、次に三宅説の原型に影響を与えた本居宣長の説を考察してみよう。
 本居宣長は、『国号考』(天明七年つまり、一七八七年以前)では、「倭奴」を「ワ」と読んでいた。十年後の『馭戎慨言(ぎょうじゅうがいげん 上)』(安永六年 一七七七年)では、「定説」(三宅説)に影響を与えた「奴」を儺県(ナノアガタ)の儺に比定している。しかし、大谷光男氏によれば、宣長は天明六年ないし七年頃のこと、貞幹・秋成の倭奴を「イト(怡土・伊都)国」とする説について、「委はゐの音、伊怡等はいの音に候へばいかがあらん、古書にいとゐと混じ候事は見えされば也」(圏点大谷氏、表示では赤色)と結んでいるが、「奴」を「ト」と読むことを是認して「然共、是は漢国にて出候し字なれば、此方の人のいとといへるを、ゐとと聞なして書つることも候べし」と、貞幹・秋成の「イト国」説を否定していない。更に大谷氏は、三宅説に影響を与えたと推測されるものに、黒川春邨(はるむら)の『北史国語考』の奴国の条を検討している。但し、黒川は本文で「倭奴国ハ諸説あれど筑前怡土郡なり」と断定してはいるものの、巻末に貼紙をして「古倭奴国と云ふ事も即是奴国にて倭国中の奴国をいふ義にもあらんか、猶考ふべし」と訂正していると大谷氏は指摘する。
 更に注意深く考察すると、黒川は本文中にも、「但奴にナノ音のある例ハいまだ明文をみずといへども」と「奴」を「ナ」と読みにくいことに既に気付いているのである。
 まとめると、三宅説に影響を与えた本居宣長にしても黒川春邨にしても「奴」を「ぬ」「の」のナ行として読んではいるが、「ナ」と読む例はないにもかかわらず、いずれも地名比定という方法によって「ナ」と結びつけていることが解る。しかしこの方法の脆弱性から本居は「奴」を「ヌ」から「儺(ナ)」としながら「ト」を否定せず、一方黒川は「奴」を「ト」としながら「ナ」も考慮せざるを得なかったものと思われる。もとより、地名比定という方法はきわめて危険性を内に含んでいる。なぜなら、一世紀〜三世紀の「奴」を読むのに七・八世紀の文献上の地名である「儺の県」などをもとに読むのであるから少なくとも、四百年間という時間の流れを無視しているという問題点である。この問題点をそもそも含んだ本居・黒川両論文に立脚した三宅説の根本を、したがってこれと同じ問題を含むことは論理上当然の事柄に属する。
 それでは、どのように読解されるべきであるのか。次にあらゆる角度から、金印の読解とその解釈を考察しよう。それらを、最も論理的に展開するには、古田武彦氏によってまとめられた次の視点が有効である。
 第一に、中国の印文の表記法のルールはどうであるか。第二に、『三国志』、『後漢書』の倭国についての文献上の記事からどう考えられるか、第三に、金印の出土地点をどう考えるのか、第四に、金印をもらった倭国の中心王朝から、いずれも適合して矛盾のない解読でなければならない。
 古田氏は、金印の解読、従来の「漢の委の奴の国」説に疑問をもったのは、あまりにも細切れな読み方(これを三段細切れ読法、と古田氏が名づける)が、本当に正しい印文の読み方だろうかということからはじまった。「わたしはそれを深い疑いとし、それを解くために、中国古代の印文の実例から一定の解読のルールを見出し、それに従って読む。 ーーそれがわたしの方法だったからである。」(『失われた九州王朝』朝日新聞社)

 まず第一に、古代中国の印文の国名表記法にどのようなルールが存在するか、古田氏は厳密で科学的な史料批判の結果、それらはすべて「二段国名」であることを確認した。つまり、最初に印を授与する中国側の国号を書き、つぎに授与される側の国号(部族名もある)を書く「AのB」という表記である。これに対し、「AのBのC」という、三段名の表記は全く存在しない。従って、志賀島出土の金印は「定説」の三宅氏のように、「漢の委の奴国王」と三段に読むことはでさい。中国古印の大量検査によれば、そのルールは「AのB」つまり「漢の委奴の国王」という二段国名に読まねばならない。

 第二に、中国史書の検証に入ろう。教科書の過半数が扱っている「旧定説」である、「漢の委奴(伊都)国説」の検討も始めよう。なぜならば、この旧「定説」は、第一で検討した表記法の「二段国名」の読み方に従っており、しかも異説の中で最も有力であったからである。
 『三国志』魏志倭人伝中、王の存在を記すのは、次の三つだけである。
 (1).南、邪馬壹国に至る。女の都する所。
 (2).(伊都国)世々有り。皆女国に統属す。
 (3).其の南に狗奴国有り。男子を王と為す。・・・女に属せず。
 (1).と(2).から、伊都国は代々すべて女王国(邪馬壹国)に統属してきた。そして統属とは、「統合下に属する」という意味である。「世々皆」とは、後漢の光武帝の時の金印授与以来、つまり代々皆伊都国は女王国に属していたということである。ここから、「一世紀の中ごろには伊都国が倭国の中心であり、倭人部族全体の王者として光武帝より金印をうけた」ということは否定される。すなわち、「委奴=伊都」説はこの点でも成立できない。もう一点は、三宅説の台頭によってすでに批判された音韻上の弱点である。要点は、二つである。第一、「委」は「ヰ」であるのに対し、「伊」は「イ」である。また「奴」は「ド」(又は「ヌ」)であるのに対し、「都」は「ト」である。すなわち、両字とも音韻が合わない。第二、『後漢書』の金印記事中、「倭奴国・・・倭国の極南界なり」とあり、伊都国は九州の北岸であるから、右の説明に合致しない。

 この二点の批判の内、第一点が、主に三宅説が学界に迎えられた大きな点であった。第二点は、今日の学問的発達の見方からすれば、倭を直ちに日本としている立場には問題がある。

 次いで、「定設」化した三宅説を批判しよう。前述の(1).〜(3).の記事は、端的につぎの事実を証明している。つまり、中国側から「王」として認識されているのは、この三者しかないこと。すなわち、少なくとも三世紀の時点においては、奴国や投馬国は戸数が巨大であるにもかかわらず、「王」の存在は記されていない。『三国志』の史料性格からすれば、「旧(漢) ーー 今(三国期)」にわたって記されている以上、三世紀時点において「王の存在」がない以上、一世紀前半においても倭国の中心国であり得ない。これが、三宅説の根底に厳存する弱点であると古田氏は指摘する。
 第三に、金印の出土地点をどう考えるかである。「委奴」を「ヤマト」と読むとすれば、「近畿大和」または「筑後山門」のいずれかと解されるが、それではその王者のもらった金印がなぜ志賀島から出土したのかという根本的事実をいずれも説明できない。これまで「隠匿」「隔離」「紛失」等の説があったがいずれも事実の上に立脚しない推論となっている。最も自然で合理的なのは、出土点周辺つまり博多湾岸に都する九州の王者と解することである。
 第四に、金印をもらった倭国の中心王朝とは、「委奴」とは倭人部族全体という意味をあらわしたと解釈されるので、光武帝から「委奴国」と呼ばれたのは、のちに魏・晋朝から「邪馬壹国」と呼ばれた国となる他はない。

(五)  結論

 これまで様々な角度から検討してきた。厳密な史料批判を通してこられた古田武彦氏の論証に依拠して得られた到達点は、金印は「漢の委奴の国王」と読み、光武帝から「委奴国」と呼ばれたのは、のちに魏・晋朝から「邪馬壹国」と呼ばれた国であり、それは博多湾岸に都する九州の王者であった。
 教科書文中のたった一行について、生徒のつまづきの石から教師が学び、研究を始めて三年間を経てきた。その間、金印「漢委奴国王」の読み方をめぐって、教科書執筆者(家永氏)や学者(古田氏)へ教えを乞いに行ったり、図書館へ通って文献を調べたり、更に実物の金印にめぐり会うのに、九州国立歴史資料館(これまで東京国立博物館に保管されていたが里帰りしていた)を見学して拝見したり、出土地点志賀島へも実地見聞した。昨年度、大阪府杜会科研究会訪中団の一員として、金印を与えた国である中国を訪れて、現地の歴史の教師に学び交流を求めた。それらの結果、古田武彦氏の読解「漢の委奴の国王」が最も自然でかつ論理的であるという結論を得ることができたのである。
 今後の課題は、この論証を一層緻密にすることと、歴史教育において更に真実を追求する立場に立って教育者自らが学び研究することである。

日本史高校教科書略号一覧
記号 表名   著者    出版社
Aー『新日本史』(家永三郎) 三省堂
Bー『日本史』(稲垣泰彦・川村善二郎・村井益男・甘柏健) 三省堂
Cー『詳説日本史』(井上光貞・笠原一男・児玉幸多) 山川出版社
Dー『高等日本史』(安田元久・佐々木潤之介ほか3名) 帝国書院
Eー『新日本史』(安田元久・大石慎二郎ほか6名) 帝国書院
Fー『新日本史』(竹内理三・田中健夫・小西四郎) 自由書房
Gー『日本史』(小葉田淳・上田正昭・山本四郎ほか6名) 清水書院
Hー『日本史』(風間泰男・菱刈隆永・尾藤正英・佐藤誠三郎) 東京書籍
Iー『日本史』(時野谷勝・原田伴彦・直木孝二郎) 実教出版
Jー『高校日本史』(宮原武夫・黒羽清隆ほか6名) 実教出版
Kー『日本史』(永原慶二・宇野俊一・原島礼二) 学校図書
Lー『高校日本史』(門脇貞二・朝尾直弘・平塚明ほか3名) 三省堂
Mー『精髄日本史』(竹内理三・小西四郎) 自由書房
Nー『NHK・高校日本史通信教育講座テキスト』(黒羽清隆ら)

Oー『検定不合格・日本史』(家永三郎) 講談社


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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