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市民の古代・古田武彦とともに 第二集  1984年 6月12日 古田武彦を囲む会事務局 編集委員会
 歴史への旅

中国の歴史を訪ねて

藤田友治

 私は、この夏休みを利用して大阪府社会科研究会の企画した訪中団の一員として、半月程(七月二十九日から八月十二日まで)中華人民共和国を友好研修訪問をした。私たちのコースは、香港から広州・上海・武漢・開封・洛陽、そして北京と七つの都市を訪ねた。普通、中国の受け入れる「観光旅行」では、4つの基本コース、4つの都市位であるが、最近の「自由化」の流れと、社会科教師の研修ということ、そして中国側の厚意とで、かなりの都市・遺跡・博物館を見学することができたのは幸いであった。
 香港は自由に行けるのと、既に行かれた方が多いので省略して、国境の羅湖を越えてから、広州へ汽車で向い、広州から中国民航(400便)で上海へ着いたところから詳述したい。
 上海は、政治・思想・文化・風俗等あらゆる面で、中国でもっとも進歩的な都市である。大阪と上海は姉妹都市であるが、丁度中之島の周辺を歩いているような観を受ける。周知の様に、革命の流れをはじめて築く、中国共産党第一回大会が開催されたのも上海である。又、プロレタリア文化大革命も、最近までの四人組の活躍もここを拠点にしていた。
 夜の町を散歩すると、気候のせいで熱い(38℃ ー夜でも)だけでなく、夜の港を眺めるアベックが大変多くて、「熱い」のかもしれない。しかし中国全体ではこのようなアベック姿は上海を除いてほとんど見ることはない。
 さて、彰浦新村を見学後、『阿Q正伝』で日本の読者も多い魯迅記念館と墓へ訪ねた。中国の記念館や博物館をこれからかなり歴訪するわけであるが、そのほとんどには最初の説明部分に毛沢東によるそれらを位置づけをした文を掲げている。「魯迅は中国の文化革命の主将であり、かれは偉大な文学者であったばかりでなく、偉大な思想家、偉大な革命家であった。」彼は、現代中国の知識人によって、最も高い評価を与えられた文学者であろうし、彼の作品だけではなくて、生き方からも学ぶことが、配慮されている。一枚の魯迅の日本留学中の写真(資料○.1)の前で足がとまる。一九〇三年(明治36年)とある彼の二十三歳の時だ。学生服を着て、まだどこかあどけない表情すらある彼の頭髪を見てハッとした。

 まだ辮髪であった当時、彼はそれを嫌い無辮髪である。この姿で、孫中山(文)が指導する清朝政府反対の中国人留学生の革命運動に参加したのだろう。帰国後、彼は逝江省両級師学校で、この無辮髪、洋服を「にせ毛唐」と罵られたと以前、高橋和己の本で読んだが、我が日本の「ざん切り頭をたたいてみれば、文明開化の音がする」と民衆に受け入れられた西洋風俗のことを考え、中国の「中華思想」故の頑強さと、日本の文化がそもそももっている許容量(模倣性)とを比較して興味が尽きなかった。
 彼は、日本に留学していてなじみが深いというだけではなく、中国人にとって日本及び日本人が何たるかを知らせている記念館でもある。彼が日本の仙台にある医学専門学校で医学を学んでいたときの先生、藤野厳九郎氏の肖像写真と、「惜別」と毛筆書きされた、藤野氏が魯迅に贈った書もあった。彼は非常に藤野先生のことを尊敬し、机上に先生の写真を立て、寸暇をおしんで勉学に打ち込み、自己の弱い心と闘ったと通訳が説明してくれていた。しかし、彼にとって悩める中国を考えるとき、医学は緊急の仕事ではなく、肉体がいかに頑強でも、悩み苦しむ中国を救うのは精神の改変、つまり文学であるとして医学を捨てる。
 さて、彼は一九三六年十月十九日に世を去るが、十七日、つまり死去する二日前まで病と闘いながらも執筆し、克明に日記を書いていた。何と強靱な精神力であり、意志力であろうか・・・。私は、この日記及び彼の妻の追悼文を通訳から訳し聞いている内に、感動がこみあげてき目頭が熱くなるのを禁じ得なかった。記念に彼の筆名印譜の絵葉書を購入する。
 さて上海を飛行機で飛びたち武漢へ着く。機上、たいへん暑いので、扇子が配られ、又アイスクリームの機上サービスを受ける。アイスクリームは、日本のそれと違い、ベタベタせずあっさりとして美味であり、雄大な中国大陸を流れる長蛇の長江(揚子江)を望見しながら味わう。夏の武漢(うーはん)は、たいへんな猛暑である。私達が滞在した時は、特に暑くて、日中は42℃にもなり、夜中でも34℃を下らず、従って扇風機をかけたままにして寝るが、中国人のように屋外で簡単なベッドを出して寝る方がよい。武漢は、中国の大鉄鋼コンビナートの三つの内の一つであり、又三大猛暑の内の一つでもある。それも一番の盛夏に訪れたのだから、「飛んで火に入る夏の虫」である。まるで、「溶鉱炉」に入れられたみたいで。これは誇張としても、大陸性気候で、湿度は少なく、夜は底冷えすると教えてきた私などは、地理の教師は失格だ。さて、この酷暑の中、日中の高校の教師の懇談会が私達の宿舎で催された。夏休み中にもかかわらず、私達との会談の為わざわざ7人も来ていただいた。彼らはいう、「武漢の暑さはたいへん暑いですが、中国人民のあなた方への友情は、この暑さよりもはるかに厚いです」と。何と表現がうまいあいさつであろうか。メンバーは、市教育委員会・歴史・地理・政治担当の高校の先生方であった。ここでは、歴史教育について触れておこう。周先生は、「プロ文革前は、中国の歴史教育は、中国から世界史までを含めて小学校から高校まで教えていました。中学・高校でそれぞれ週3時間の授業時間でした。それがプロ文革中では、歴史も地理の授業もなくなりました。けれど、今は歴史の授業は復活していますが、小学校ではまだありません。中学校の2年ー3年生は歴史、といっても主に中国史で、高校で世界史の勉強をやっています。今は現代史と近代史に力を入れています。古代史はふれるだけです」と語る。
 今日まで激動した中国の教育改革の流れをふり返る。もっと具体的に何を教えているかについて率直に質問をする。「原始・奴隷・封建杜会というようにやっていますが、古代史はギリシア・ローマのことが主であり、世界史として日本・アラビア・朝鮮のことも教えています。」「近代史では、資本主義社会について教えています。イギリスのブルジョア革命後、アメリカ・フランスの近代(それぞれ名誉革命・独立宣言・フランス革命をさすーー執筆者)、日本の明治維新のことを教えています。日本の大化の改新は封建社会としてやっています。」 ーー農民反乱についてとのように教えていますか?ーー 「農民蜂起ということは、唯物史観によって、農民を中心におさえます。封建時代は、当然農民蜂起はたくさんおこったわけです。人物よりも社会における推進力を教えています。この中で資料として『スローガン』を読みとって、それらが進歩していることを教えます。このような農民蜂起があってこそ、社会は進歩していくことを教えています。」ーーもっと具体的に展開して下さい。「例えば、黄巾の乱・太平天国の乱の蜂起を例として説明しますと、二つとも宗教的スローガンができましたがキリス教の表現をとりながらリーダー達は、農民の土地問題の具体的要求をそこに入るように配慮したため、農民達は立ち上ったわけです。」
 会談は相互に質問を入れて3時間にわたって率直かつ友好的雰囲気のもとで行なわれた。漢陽の帰元禅寺を見学の後、いよいよこの旅行で一番強く訪問を望んでいた洛陽入りの交渉がうまくいって、汽車に乗る。猛暑の大陸を「直快」(急行)でひたすら走る。華中の米作地帯から北上するにつけ、とうもろこし、あわなどの畑作が目立つ。そしていよいよ古都洛陽である。洛陽の歴史は長くて古い。紀元前七七〇年から東周・東漢(日本では後漢と表記)魏・西晋・北魏・隋・唐・後梁・後唐など九つの王朝があいついで王朝をおいたことから、「九朝の古都」として昔から中国人に知られている。この洛陽の東、昔の洛陽城の西にある中国で最初の寺である白馬寺へと向う。永平十八年というから紀元七四年(中国では紀元を公元と表記する)に後漢の明帝が建立した。ところで、バスの中で通訳から説明を受けているとき、白馬寺の由来を聞いたのでふれておこう。明帝が永平十一年に夢の中で金色に輝く人間が頭から光を放ちながら宮殿の中に飛んできたのを見た。翌日、群臣に、天子は「この夢はどのような意味か」と占いごとをさせた。彼らは、「仏さまのことである」と答えた。そこで使者の蔡音、秦京らを派遣して天竺(インド)へ仏教を求めさせにいかせた。彼等は白い馬に乗って、3年間を経過して、四二書の経典をもって帰った。これが今の白馬寺の由来であるという。
 さてこれは感夢求法説の原型であり、この伝説は劉宋の范曄(はんよう)の『後漢書』西域伝、天竺国の条にも引用され、さらに三国初め頃、牟子(ぼうし)が撰した『理惑論』には増補された形で説かれている。(参考資料・岩波講座『世界歴史6』古代6、ーー「中国仏教の展開と東アジア仏教国の成立」鎌田茂雄)
 更に時代が下ると仏教資料(『梁伝』巻一・摂摩騰伝)には、使者が天竺に行った時、迦摂摩騰(かしょうまとう)・竺法蘭(じくほうらん)にあい、二人を伴って洛陽にかえり、二人が住するための白馬寺を建てたといわれる。この二人は訳経に従事し、白馬寺に葬られていると通訳が説明してくれた。
 これらの説明を聞いている内に、私の心の中に重大な疑問が生じはじめた。それは、この時代の白馬寺建立が歴史的事実であれば、有名な『魏志倭人伝』の卑弥呼の使者は洛陽に行っているのであるから寺院を見ている可能性があるということである。少なくとも、「仏教初伝」と呼ばれる『日本書紀』の五五二年或は五三八年の六世紀ではおかしい。このことをもう少し立ち入って考証したい。
 まず『魏志倭人伝』を考えよう。「景初二年六月、倭の女王大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む、吏を遣わし、将て送りて京都に詣らしむ。」(岩波文庫四九頁)である。景初二年は、これまで三年の二三九年の誤りとされてきたが、古田武彦氏の厳密で科学的かつ精級な史料批判によって原文通り正しい。それは邪馬「台」国と同様の原文共同改定である。(詳細は古田武彦「『邪馬台国』はなかった」朝日新聞杜)最近発行された山田宗睦氏の『魏志倭人伝の世界ーー邪馬壹国と卑弥呼』(教育社歴史新書)も古田説を支持し具体的に資料によって展開されておられるのでここでは割愛しよう。郡とは、朝鮮の帯方郡の郡治(今の京城付近)である。卑弥呼の使いは、京都つまり洛陽に行き魏の天子に朝見せんことを求めた。そして景初二年十二月に明帝は、卑弥呼に詔書を送り、「親魏倭王」の金印紫綬を与えるのである。すると使者難升米らは、すくなくとも数ケ月、この記事通りだと半年は洛陽に滞在していたわけである。そうすれば、彼らは洛陽で何を見たのだろうか。ここで白馬寺を、或は仏教を、更に通訳を通じて当然漢字を知っていたと考えられる。こう考える方が、自然であって、使者は漢字も知らず、従って仏教も寺も知らないと考える方が不思議であろう。
 ところが、「仏教初伝」(最近、豪族などを媒介とした交流はこれ以前にもありえたとして「公伝」と呼んでいるようであるが)の五三八年は、全く「日本古代史上の大きな謎」となろう。この謎は、『日本書紀』を唯一の資料とする限り解くことはできず、古田武彦氏の九州王朝の概念を認知しないと合理的に説明できない。(古田武彦『失なわれた九州王朝』朝日新聞杜参照)
 倭人は漢字を知っていたであろうか。これについても、帰国後、山田宗睦氏の前掲書に次のように説得力ある記述がなされており、納得できた。「漢鏡には漢字の銘文の入ったものが多い。このことは倭国、倭人が早くから漢字に接したことを意味する。いや、そんな遠まわしに言わなくとも、倭人伝の外交記事がそのことを明示している。魏の明帝の堂々たる『詔書』が卑弥呼のもとにもたらされ、卑弥呼は斉王に『上表』している。『上表』については、のち倭五王 ーーこれも九州王であるーー の一人である武の『上表文』が、『宋書』に記録されている。堂々とした漢文である、それほどではないにしても、卑弥呼も『上表文』を奉ったことは、ここに明記されている。漢字は、大和朝廷の欽明の時に入ってきたのではない。三世紀、すでに倭人は、漢字。漢文をものにしていたのである。」(傍点引用者)
 この最後の一句を読んだとき、これまでの謎が氷解する。山田氏の結論部分だけ読んだ人は意外な事実の前に驚くであろうが、厳密で科学的史料批判を踏まえた古田史学の徹底的な方法論に依拠して論をすすめられた山田氏(同書「はじめに」は、「第一の『邪馬壹国』表記の問題からはじまり、古田武彦の研究に負うところがじつに大きかった。この本は古田説の試験答案のようなものだ。ただし盲従はしなかった」とハッキリと記されていることからも解る。)にとって論理の従うところの結論であった。
 考えてみると、志賀島から出土した金印は、「漢倭奴国王」(この読み方については後述)建武中元二年(五七年)である。後漢の光武帝から倭人に授けられた金印の字の意味も解らなく、ただ金のみの価値のありがたさしか評価しなかったというのであろうか。当然通訳を通して意味を解って政治的にも権威の象徴として利用されたと考えるのが自然である。これは、一世紀のことであるが、その後も倭人は朝貢をしているのである。漢字を知っていた倭人は、白馬寺及び仏典を知り得ている。そうであるならば、使者は帰国後、卑弥呼にそれらを報告していたであろう。これらは、今、古田説に基づいて可能性としての推定論と又、実際に洛陽に行って得た心証であるが、恐らく古田武彦氏自身が「卑弥呼は仏教を知り得ていた」という新説を厳格な史料批判を通して提起される日が来るであろう。それは古田史学の方法論の応用である。
 さて旅行記という性格から、ここでは中国の現地及び人々との出会いに話をすすめよう。私は以前から「漢委奴国王」を「カンのワのナのコクオウ」と読む「定説」を授業で教えていて、それは生徒に暗記を要求しない限り読み得ないことに気付いて、古田氏の説に出会いようやく古代史の真実へひき入れられた一人である。(詳細は、「漢委奴国王」金印の読み方 ーー『のびのび』一九七七年七月号朝日新聞社発行、「教育現場に新鮮な心をよみがえらせる古田氏との出合い」(『古田武彦とともに』創刊第一集所載)
 使用していた教科書が三省堂の家永三郎氏のものであったので、家永氏へも教えを乞うた。家永氏は、「日本の歴史上」(ほるぷ出版)で、「だから、『漢委奴国王』は、「漢の委の奴国王」と読むのが正しいとした、これがいまでは、ほとんと定説のようになっていて、教科書でも、みなそのように読ませている。しかし、この説に疑問をもつ人がいて、漢の時代の印章の制度を調べてみると、国名は漢のつぎは○○国とみな2字の名になっているから、これを『漢の委の奴国王』と読むのはまちがいで、『漢の委奴国』とつづけて読むべきで・・・(中略)こんなわけで、まだ確実といえる読みかたはわかっていない。将来の研究をまつよりほかにない」こと客観的に表記されるようになってきておられる。
 そこで、香港で中文大学研究員の梁国豪氏(京大東洋史学大学院博士課程専攻卒業)に聞くと、「漢委奴」と読んでくれた。又、大連大学外国語学部教師張志強氏(私達の二週間の旅の全行程通訳をしていただいた)もそのように発音された。勿論、現代音が、すぐに古音に結びつくとは考えないが、今後の研究、少なくとも「定説」を仮説とし、現在ある異説二十数説(『研究史金印』大谷光男)を上古音・洛陽古音等の研究によって解明されなければならない課題を明確にし得た。このことも、旅行の当初から、私が中国人に直接聞きたかったことであり、今回の旅で課題をハッキリとさせ得た。このようなことを想いながら、洛陽の静かな街を歩き、ふと足をとめて頭上を見上げると、見事な満月であった。満月に、子供達の顔が浮ぶ。望郷の想いも洛陽ならではという感を強くする。更にはるかに遠き所から道中、筆舌に尽しがたき苦労を強いられ、卑弥呼によって物として貢献された「生口」達のその後の身を想う。



 龍門石窟は、さすがに中国の三大著名石窟芸術の一つであると言われるだけあって素晴しいものである。石窟は自然の中に、山の崖を掘って北魏時代の紀元四九四年から彫り始められた。全長一〇〇〇メートル、仏洞は一三五二、そして仏像はなんと一〇万をこえるという。とても半日位では全部見ることができない。奉先寺の鎮座した仏像は堂々としていて威圧的でさえあるが、面影がどこか人間的である。(資料○.2)やはりガンダーラの影響を日本の仏像よりも色濃く受けているからであろう。洞窟の中に十ケ所程入ったがほとんどの仏像は顔の部分がノミで削り取られた跡がある。(資料○.3)その理由を通訳に聞いたが、歴史専攻でなかったためもあり詳しく知らないようであった。外からの侵略と商人が削りとって売ったのではないかと、推測した。これも帰国後、疑問に思って文献を調べると、「一時太武帝によって、道教国教化のため廃仏が行なわれたが、仏教復興後、大月雲崗・洛陽竜門の石窟などの石窟寺院が建てられ、文化史上の光彩を放ち、北魏洛陽における仏教文化の隆盛期をつくった。この北朝仏教は一時北周武帝(紀元五六一年 ーー引用者注)によって廃絶される。」(鎌田茂雄「中国仏教め展開と東アジア仏教圏の成立」『世界歴史6』岩波講座)とあった。




 やはり徹底的な排仏運動がおこなわれた歴史的なツメ跡であった。現代中国の革命、そしてプロレタリア文化大革命という激動を経たにしては、それら仏像に一切手を加えず、むしろ保存し、遺跡発掘を人民の力に依拠しながら進めてきたのに感心させられた。
 武漢での酷暑にまいっていたのに対し洛陽はすごしやすく、急に行動的となり、斉雲塔を回り、旧市街通りの散策、洛陽博物館、王城公園、白楽天の墓と動き回り、動物園でパンダの見物もした。もっとも中国の動物園では日本のパンダと違い、中国人はほとんど見ず、もっぱらサルの方に人気があり、様子が違っていた。
 鄭州では、河南省歴史博物館見学の後、大河村の仰韻文化遺跡の見学へ向う。とくに後者は行かれた方がまだ少ないであろうと思われるので少し詳しく語る必要があろう。バスで鄭州より五十分近く乗り、そして農道を歩き、畑作業をしている人民公杜員に挨拶をしながら歩く。小川のせせらぎと水が清い。さて大河村遺跡は、一九六四年に発掘を始め、一九七二年に本格的に作業が進んだ南北六〇〇m、東西五〇〇mの大きな遺跡である。現代より五〇四〇年+ー 一〇〇年と推定される。新石器時代の遺跡六つ、商(紀元前千六〇〇年 ーー 一〇六六年)の時代一つの村落の部分に分かれる。中国の時代区分では、原始杜会から奴隷杜会への丁度、別れ目にあたっていて興味深い。埋葬は二二〇ケ所あり、老人・大人・青年・幼児とありまだ階級分化は進んでいない。商代のものになると、彩陶が見事である。黄河流域の文化である。やはり、大へんな文明発祥の地だと実感する。
 最後に北京だが、さすがに、見学先があまりにも多いので四日間滞在した。万里の長城・故宮博物館・毛主席記念館・[臣頁]和園・明の十三陵等へ見学した。中国歴史博物館は見事なもので歴史の古い大河のような国だけあって実に素晴しく、とても半日位では見学できない。とりわけ、青銅器の展示はすさまじい質量をもつている。一部は「中華人民共和国展」として日本でも見ることができたものもあるが、これだけズラリと並んで展示されると圧倒されてしまいツてうになる。時代区分では、封建時代が戦国(紀元前四七五年-)から清朝(紀元一六四四-一八四〇年)まで延々と続くことに、私達日本の時代区分と全く違うのに気付く。そこに中国の歴史の古さと「アジア的生産様式」の停滞があり、ここに現代中国の「四つの現代化」政策を理解するカギがありそうに思われる。

[臣頁]は、JIS第4水準、ユニコード番号9823


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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