◇『古田武彦とともに』創刊第一集は、会員・読者の皆さんの温い励ましを受け、近畿だけでなく、九州から関東まで広く交流を始めました。古田武彦氏の諸著作の読者から、読者から著者へ、更に読者相互の交流へという役割を果しました。幸いなことに、反響が大きく、囲む会会員頒布のワクをつき破り、新たな研究者や仲間に広がりました。
第一集で、一部に誤植、乱丁があったことをお詫び致します。市民が本業をもちながら、夜や日曜日を使って、必死に努力を続けています。第二集は、それを防ぐのに三回もの校正作業を行ないました。特集号ということで、課題をハッキリとさせる目的のため、会員ひろばの原稿の一部を割愛せざを得ませんでした。第三集へと続けていきます。
◇第二集の「教科書に書かれた古代史~戦前・戦後の歴史教育を問う」は難産でした。
なにしろ、現行教科書の全てに目を通し問題点を検討し、資料を作成の上、討議し執筆するという基礎作業を経たからです。
半年の歳月と手弁当を持って、深夜に及ぶ作業も苦しみを通して、より大きなエネルギーを形成しました。
「教科書は次代に渡す遺言書である」にもかかわらず、現行教科書の叙述の誤りと歴史観の歪みは大きく、ここにメスを入れる必要があること。更に古代史は最近の学説が進歩しているにもかかわらず、それが反映されていないことが多く、とリわけ古田説を真正面から扱いきれていないことに対する教育現場の教師の良心と既「定説」を“つめこむ”教育ではなく、あくまで歴史の真実を追求する必要が生みだしたものです。
◇この書は、「歴史ブーム」といわれる中で、これまでの教養を求める単なる文化の受け手ではなくて、新たな文化の創造の主体を求めるものです。学界・教育現場・市民の真実の歴史を求める探究者が、この試みを今後も支えることを切望します。
『市民の古代・古田武彦とともに』編集委員会
(後藤茂樹・義本満・佐野博・児玉奈翁一・丸山晋司・藤田友治)
市民の古代・古田武彦とともに』第二集増補版
編 集 古田武彦を囲む会事務局・編集委員会
郵便番号・住所は省略 藤田友治方
表紙デザイン 後藤茂樹・義本満
発 行 中谷義夫 一九八四年六月十二日
印 刷 茨木教材社
古田武彦氏の学説にふれて従来の教科書に書かれた古代史を根本的に問う、市民と教育現場の教師達の共同作業の結果生みだされたのが本書である。
ささやかな出版活動であったが、大きな反響をよび、教師や市民、更に図書館等関係機関の問い合わせから、教科書・問題が世間の関心を集める以前に、本書は既になくなっていた。一九八二年の「侵略」論争については「歴史教育における『侵略』論争と皇国史観について」として藤田がまとめているのを参照していただきたい。(一九八三年大阪府社会科研究会誌)
一九八四年、一月に家永氏は第三次教科書訴訟をおこなった。この訴訟の大きな柱の一つに、親鸞が天皇批判を行った「主上臣下法違・・・」という歴史的真実を、文部省が「資料的根拠がない」として抑圧したことに対する抗議がある。これについては、既に古田武彦氏が『親鸞』(冨山房)であますところなく学問的に論証しているところであるが、この局面を迎えるにあたり、新しく書き下ろされたのが、「家永第三次訴訟と親鸞の奏状」である。本書が世に問う最初の玉稿である。
増補版では新しくこの一篇を追加したが、旧版で提起したことは基本的には現在も何ら変っていない。
ただ特集五「好太王碑にみる日朝関係」については、本書発表後、新しい進展を得ることができた。
古田武彦氏の「画期に立つ好太王碑」や、中国側学者との対談で得た新知見を「好太王碑の開改を求めて」(藤田)『市民の古代』第四集において提起しており、更に第五集において「好太王碑『改削』説への反証」が藤田によって引き続きなされた。
更に一九八三年暮れから、一九八四年新年にかけて、中国側現地調査、王健群論文の発表により、「李仮説は明確に誤まりであり、拓工達による誤鈎であった」という見解が提起され、従来からの古田説を裏付ける論文として注目される。(第六集参照)
このように、旧版以後の新しい局面を経た状況で、古田説の一層の進展を得て、新たな書きおろしを含めた本増補版は、旧版以上に多くの識者・読者のご検討をいただきたい。
一九八四年五月二十九日、『市民の古代』編集委員会