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市民の古代・古田武彦とともに 第二集  1984年 6月12日 古田武彦を囲む会事務局 編集委員会
 特集十
 歴史教育へ市民からの問いかけ

「邪馬壹国」への遍歴

~なぜ歴史にかかわるかー

広岡重二

 宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」を手にしたのは昭和四十二年の春だった。魏志倭人伝の卑弥呼の国を知ったのはこの時である。
 天孫降臨による豊葦原瑞穂の国の歴史を教え込まれた明治生れには誠に衝撃であった。
日本民族の優秀性を過信し、万世一系の天皇の命に依り、大東亜共栄圏に八紘一宇を実現せんと、不幸にも突入した太平洋戦争のあの悲惨な結果を考えれば、改めて日本の根元を探究し皇国史観を糺さねばと思い立った。
津田左右吉氏の著書を始め、戦後現れ初めた批判的な歴史書をむさぽり求めた。四十五年頃に知ったのが京都に在る「朝鮮文化社」である。その行事に参加したり、金達寿氏の「日本の中の朝鮮文化」により、関東・関西・九州といわず到る処に高句麗・新羅・百済の遺跡が有る事、その人達が、石器、縄文時代と未開のこの国に鉄を伴う高度の文化をもたらし、各地に定着して共に日本を筑いた事を知らされたのは全く意外の事だった。
 江戸時代より邪馬台を「ヤマト」と読み、明治に入るや東大閥は九州の山門説を、京大閥は近畿大和説を説き所在を求めている。
 後漢の光武帝による漢委奴国王の印綬があり、邪馬壹国の卑弥呼は二三九年に魏へ朝貢している。旧唐書によれば同一の国であり、帯方郡よりこの国への道程は陳寿によって実に具体的、詳細に示されているのにいまだに所在地は結論に達してないという。
 完全な筈の天皇陵も森浩一氏によれば日本一の仁徳陵を含めて大部分が正確とは思えないとの事で、古墳の発掘出土品によっても仲々に判断が下せられないと云う。
 「近畿文化会」や「東アジアの古代文化を考える会」にも入り、多くの講師により得る処も多かったが、鈴木武樹氏の皇国史観に対する反撥と、古代の真実を知るためには中国、朝鮮の様に天皇陵の発掘調査が絶対に必要だとの提案には胸うつものが有った。
 宮内庁は皇室の尊厳にかかわると発掘を断ったというが考えて見れぱ当然かも知れない。大海人皇子と大友皇子による壬申の乱は、新羅系と百済系の戦いだとも謂われ、桓武天皇の生母、高野新笠は百済系の出身との事である。一番困るのは天皇家では無いだろうか。太平洋戦争の開戦を承認し幾百万の人達を滅亡の渕に落し入れながら、未だに責任を執らない天皇が今こそ東アジアの古代史の解明と日本民族の起源に関する学術的研究のため、更に自己の贖罪のためにも天皇陵発掘調査の許可を与えるべき時ではないだろうか。
 こんな事を考えていた時、「失われた九州王朝」の広告を見た。著者の古田武彦氏は未知の人だが習慣的に買い求めた。驚ろいた事に一枚一枚煉瓦をはずして積み換へる様な、実に気の遠くなる職人的努力により魏志倭人伝の原本である彪大な「三国志」を分解して邪馬壹国を邪馬台国にかえた中国に於ける歴史的経過を解明し、倭人伝の「邪馬壹国」が正確である事を証明している。次に魏朝の「短里」を算出して、「万二千余里、水行十日、陸行一月」の道程を明快に示し見事な論理の流れにより必然的な帰結として、遂に築紫平野に「邪馬壹国」と「卑弥呼の王域」を発見している。
 古田氏の第一著書として「『邪馬台国』は無かった」という本を知り、魅せられた様に読みふけり、今では同氏の著書の総てを読破し、その研究方法が執念の様な緻密、的確さに驚き入っている。その「邪馬台国」の謎解きを知り得た感激から、知りあった諸先生方に講演の時や遺跡廻りの折にふれ、「古田武彦氏の邪馬壹国説と九州王朝説をどう思われるか」と質問して来たが、総て「あの人はなァー」という簡単な返事しか貰えなかった。
 私は素人だから倭人伝の解読は古田氏の説が正解と確信して晴れ晴れと謎の解けた喜びを話しているが、諸先生方にすれば若し古田氏の説が正しいと認めれば自分の多年に亘る研究の不足と誤りを認める事に成り大変な事だろう。併し今は異議が有れば大いに討論し、若し無ければ率直に反省して今迄の歴史書の改訂に努力して貰わねばならない。
 皇国史観にとらわれて二度と悲惨な戦争を起してはならないのである。ドイツでもヒットラーがゲルマン民族の優秀性を過信した事が、あのナチスを生み世界を破滅に陥れたのである。
 兎角、今の日本は余りにも無責任時代に成り過ぎている。政界・財界・学界の首脳は天皇の権威による勲章に憧れ、敗戦直後は公僕と称して謙恭であった官公吏は、宛ら封建制の武士階級の如く国民の血税を恣にし、高級官僚の天下り、高額退職金の取得は目に余るものがある。更に連日新聞種の空出張や空残業手当による公金の窃取は、実に言語道断である。
 会計検査院に不正を摘発せられるや厚顔にも官公労組は労使協議による正当な権利だと揚言しており、政府首脳も同類なのか曖昧にしかけている。是を最有力の支援団体とする総評は寂として声なく、日本の良心と自称する革新政党も逃げ腰なのか。一体誰が日本の道義を護るのか。天皇の権威の袖に逃げ込む事は許されない。
 騎馬民族説がある。遙か満蒙からツングース族が、朝鮮を経て渡来しただろうし、南方洋上から黒潮に乗って幾多の海洋民族も渡来した事だろう。その接点に倭国が出来たのも偶然ではない。山陰・北陸に上陸して中部・関東地方へと希望の天地を求めた夥しい渡来人の群は各地に残る多くの遺跡の通りである。
 稲荷山古墳出土の鉄刀銘文により一躍有名になった大王も大和王朝と関係の無い関東王朝の首領であったかも知れない。倭の武王を雄略天皇だと称していた御用学者が、この大王も雄略天皇だと言っている。
 「宋書」の倭国伝にのる「倭の五王」、即ち讃・珍・済・興・武の五王も大和王朝の天皇家に比定しては家族関係にも年代的にも不合理であり、最も確実とされていた「武」即ち「雄略天皇」という説も崩れてきているのである。倭の五王より宋朝への上表文より見て九州王朝の系譜と考えて始めて合理的に理解出来るのである。
 十年来の遍歴も古田氏の真しな研究にみちびかれて「邪馬壹国」の所在が判明した今、家内と共にその筑紫の国を訪ねる事にした。先ず背振山地の金山の麓に在る千石荘に泊り筑紫平野と遙か玄界灘を眺め、翌日は金印が出た志賀島から大宰府へかけての遺跡廻りをして来た。二・三千年も昔に渡来し、遠く故国を偲んで付けたと思われる背振山・可也山・高祖山等の名前が未だに現存している事に倭国の生成の重さを知った。
 更に曾て九州王朝の政庁のあったと思われる太宰府の都府楼跡に立てば、東・南・西と山地に囲まれ、殊に南北相対する基山と大野山の山頂には堅固な朝鮮式山城が築かれ、北に開けて玄界灘を望む雄大な展望を眺める時、二千五百年の昔、孔子が信義の厚い国とたたえた倭人の国がここに栄えたかと想を新にした。
 更に、記紀による架空の神功皇后の三韓征伐を始め、一九一〇年の日韓併合という植民政策により三十六年の長い間、朝鮮の人々を圧制の下に押し込めて来た皇国史観の限り無い弊害が、どれ程朝鮮の人々に苦悩と屈辱をしいて来た事か、深く反省すると共に、相互理解による融和の回復を念願しつつ卑弥呼の国と別れる事にした。
           一九七九・一〇・八記


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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