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市民の古代・古田武彦とともに 第二集  1984年 6月12日 古田武彦を囲む会事務局 編集委員会

西都原古墳を訪ねて

今井久順

 一九七九年十月二十六日、会長、中谷氏そして義本氏と同行三名、西都原古墳群を訪ねました。
 宮崎空港を降りたつと、空は晴れて旅先は吉。タクシーで一路西都市の落着先の旅館へ荷物を預け、その足で、「西都原風土記の丘資料館」の向いの「御陵の茶屋」に、西都原ガイド、田辺大三郎氏を訪ね、古墳群のガイドを御願いしました。彼は、「御陵の茶屋」の入口の近くに机を一つ置いて、何か書きものをして居られましたが、気さくに立ち、吾々に茶屋のテーブルを進めました。
 お茶を注文し、早速、見学の行程を打合せ、まず吾々だけで、資料館を拝観。それを終えて、車で古墳群を一巡下見して二七日は徒歩でジックリ古墳群をガイドしていただくと云うことで打合せは、きまりました。
 「西都原風土記の丘資料館」(以後「資料館」と記します)は、新しい建物で、丘の上の斜面の松林の中に、古墳群の景観を損なわない様に配慮され、近代建造物は低くびそやかに建てられていました。中に入ると観客は四・五人、吾々はユックリ展示品を見ることが出来ました。
 展示品の主なものは、
一、子持埴輪家・竪穴式住家を囲んで母家を中心に四方に切妻と四注造の小形の家を建てそえた珍しい複雑な構造の家埴輪。
一、船埴輪、板をはぎ合わせて作った構造船で、ヘサキとトモは高く飾り両舷には六箇ずつのクラッチが付いている。
一、銅釧、貝釧その他鏡及び短甲等々

 「資料館」を出て、田辺氏のガイドで古墳群を車で、一巡、第一日を終え旅館に入る。
 第二日は、九時前に田辺氏が宿に来てくれた。軽装にて出発、先ず都万神社へ、神社は西都原古墳群のある洪積層台地の下に当る大楠林の中に、ひっそりと鎮座し、コノハナサクヤ姫命を祭る。「神名帳考證」には「抓津姫命」なっていました。
 『古事記』神阿多都比売。「大山祗神の御女に坐す。・・・天孫これを疑い吾が御子にあらず、とし給う。吾田都比売誓いて新に産宅を作り、四方戸なく塗るに土をもってしたる産室に火を付けて焼き、その中に生み給うに、御誓のごとく恙(つつが)なく御産のことあり。天孫よりて疑を解き給う。やがて三人の御子達生れ給いぬ」
 都万神社より古墳群に近づくと産宅を焼いた所とか、産湯に使ったと云う池水もありました。少し歩くと古墳群の下、ここより古墳群のある台地に向って一直線に石段があり一段一段ふみしめて上ると一面に古墳。この台地のガケに近く即ち一ッ瀬川に面した所に大型古墳があり奥に入るにしたがい小墳になっていると田辺氏の話。又、ふりかえって一ッ瀬川の向うの川岸台丘に茶臼原古墳群その南に新田原古墳群と続くと云う。「御陵の茶屋」に向って歩く、古墳群のある原は雑草は刈り取られ古墳の姿はハッキリと見られ、その間の小径をソゾロ行く。フト私は考える、「タイムマシンに乗っで六・七世紀の世界に来たのではないのだろうか」『日向国風土記』纒向(まきむく)の日代の宮に、御宇大足彦の天皇の世、児湯の郡に幸し、丹裳(にも)の小野に遊びたまひ、左右にのりたまひし、「この国の地形は、直に扶桑(ひいづるかた)へ向かへり。日向と号(なづ)くべし。」と、丹裳の小野とは、此の様な丘ではないのであらうか。
 「御陵の茶屋」の前で吾にかえる。上品な中年の夫婦が話しかけて来たから、ガイド田辺氏が、何か答えて「アア古田先生の会の会長さん達ですよ」と中谷氏を紹介、吾々も互に名刺を交換、立話も何んだからと中食をしながら話合う。えらい所で同好の人に会うものだ、名刺を見直すと小倉興産(株)の技師長、加賀美義典氏で技師長とあれば技術屋であらう。こちらも電気技術屋の端くれなので同好の人に会うのは、うれしい。
 中食の後、別れで吾々は「鬼の窟」に向う。
 「鬼の窟」は珍らしい古墳で周囲に土手を築き空堀を廻らし、中央に横穴式円墳があり、その横穴が円墳の最下位にある。神戸市東灘区の乙女塚の横穴も下位にあるが、もっと下位にある。
 「鬼の窟」をあとに丘を少し降ると御陵墓参考地として宮内庁の管理下にある男狭穂塚と女狭穂塚がある。男狭穂塚の前方部封土は一部欠損しているのは往時ここに神社を建造したためのものと云われているが、神杜建造以前、即ち女狭穂塚を築く時点でこわされたのであろう。
 次は、日向国分寺跡。(西都市大字三宅国分)日向国の国府は児湯郡三宅に置かれたのであらう国分尼寺跡と称する地も近くにある。児湯郡は、『和名抄』に、三納・穂北・大垣・三宅・覩於(とを)・韓家(餅*宅)平郡・都野の八郷よりなると記され、この三宅郷に国分が置かれたのであらう。

餅*は、并に代わりに寿。

 さて国分寺跡に入ると偉容な石造の仁王様に圧倒される御堂は昭和二十三年の建物で中に木食上人の作と伝えられる五智如来像が安置されているが、あたりは焼けた跡が見止められ赤い土器の破片が所々に見出される。二・三拾っていたら片面黒くすすけた摺石が、見つかった。記念に持ち帰る。
 ガイド・田辺氏は案内は終りと云い何か意見は無いかと問うので、私は古墳群にはガソリン車輛を入れないで、電気自動車だけ走らせたら、どうだろうか、と話して別れた。
 この旅行は晴天に恵まれ同行とも気持よく気が合い実に楽しい旅であった。


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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