丸山晋司
倭人が紀元前二世紀の漢王朝まで、毎年貢献していたということは、一世紀の中国史書である『漢書』地理志(後漢の斑固作)に記載されており、これは倭人について伝える最古の文献であるということで、いずれの教科書にも洩らさず記述されていることは周知の事実であろう。
しかし、倭人の姿を求めて中国史書を渉猟した人なら、必らず出会う倭人史料がある。『論衡』である。そこには「周の時、天下太平、越裳白堆を献じ、倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す。」(巻八、儒僧編)とある。「成王の時、越裳雉を献じ、倭人暢を貢す。」(巻九、恢国編)とある。
いずれも同じことを伝えたものであるが、驚くなかれ、成王とは周の二代目の天子であり、紀元前一二世紀頃のことであるというのだ。縄文時代中期に倭人が周王朝へ貢献していたなどと、誰が信じ得ようか? このことを史実として教科書に記述する勇気を誰が持ち得よう?
古田武彦の理路に従うなら、少なくとも後漢代の官僚層は、周代のものといわれる倭人と前漢代の倭人を、つながったもの、同質のもの、ととらえている。現代の我々が、後漢代の官僚層と同じようには周代の倭人を史実ととらえることが出来ない理由は、縄文時代の文明に対する不信感ゆえであると云えようが、縄文時代の文明が従来いわれて来た以上に高度のものであったことが証明されつつある今、「倭人の周代貢献」は何ら不思議なことではなくなって来ているのである。
古田の理路は次の通りである。(邪馬一国への道標)
1). 『論衡』の読者層は、まず後漢の高級官僚層やインテリが予定されている。
2). そのことは『漢書地理志』「楽浪海中に倭人あり・・・」の読者層とピッタリ一致する。
3). しかも、(その読者層にとって)倭奴国王が後漢の光武帝から『漢委奴国王』の金印を下賜された事件は、つい最近のことである。
4). ということは、周王朝へ貢献していた倭人と、漢王朝へ貢献していた倭人と、つい最近金印を下賜された倭人とでは、歴史的経過以外の質的差異を(読者層にとって)感じることはない。「この前の倭人が周代にも貢献していたのだな。」と思うだけである。
5). すなわち、責任ある史官の立場から『論衡』の作者である王充は、読者層がそのように受け取っても構わないと判断していた(王充もそのように認識していた)のである。
『論衡』の作者王充のように、あるいは後漢代の『論衡』の読者層のように、素直に『論衡』を読むならば、我々は倭人の周代貢献を史実として信ずることが出来よう。最近云われ出して来た、「農耕起源を縄文時代のこととする。」「例えば信州八ケ岳山麓にみられる縄文前期前半としては例のない木造建造物遺跡・前期後半としては空前の規模の環状列石群」あるいは後述する「紀元前三千年における縄文土器南米エクアドルヘの渡来」等もまた、そのことを信じさせるに充分な事実として存在しているのである。
さて、周代に貢献していた倭人は、前述のように『漢書』地理志に「楽浪海中に倭人有り。分かれ百余国を為す。歳時を以て来り献見すと、云う」として登場して来るのであるが実は同じ『漢書』地理志の中に、別系統の日本列島住民の史料のあることが見過されて来たのであった。「楽浪海中・・・」の記事は『漢書』地理志の燕地の項にあったが、呉地の項にはこれとまったく同じスタイルで「会稽海外に東[魚是]人有。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う」とある。
[魚是]は、魚編に是。JIS第4水準ユニコード9BF7
この東[魚是]人が何故日本列島住民の史料となるかというと、再び古田武彦によってみれば、
1). 漢王朝に貢献していた「夷蛮」は数えきれぬほどいたに違いないが、『漢書』はそのすべてを記すわけではなく、そのうちのただ二つ「倭人」と「東[魚是]人」を記しているのであるから、この二つの記事をセットして理解しなければならない。
2). このことは後の『後漢書』が東[魚是]人の記事を倭伝の中に入れたことでも裏づけられる。
3). 『漢書』で「東夷天性柔順」とほめあげた上での二つの貢献記事である。
4). 「楽浪海中」とは楽浪郡統治下の楽浪郡に直面できる海の中と解されるが、「楽浪海外」なら例えぱフィリピンのようなところが楽浪郡統治下にあった時に使われるであろう。同じように「会稽海外」とは会稽郡統治下の会稽郡に直面していない所、それも東のはしっこ([魚是]の是には端という意味がある)であるから、日本列島の中心部を想定せざるを得ない。
5). 『翰苑』(七世紀張楚金書)にも三韓が東海を越えて東[魚是]人の居に連なっているという記事がある。
しかも重大なことは、考古学上で銅鐸文明が消滅したとされる、そのちょうど同じ三世紀後半に、中国の史書からも「東[魚是]人」の記事が消えていることであり、倭人=銅矛圏の人々、東[魚是]人=銅鐸圏の人々という推測も成り立たないものではないと云えそうなことである。
最後に史料的には具体的に明らかにし得ないが、今後の研究課題として触れておきたいことがある。必ずや80年代の史学論争の大きな課題となっていくべきものであろうから、教科書における無視・無関心はいつまでも許されるわけにはいかぬ、というものとして・・・。
三世紀の倭人が太平洋を南米あたりまで航海していた、と云う主張が出て来ても『倭人の周代貢献』を確認して来た我々にとって、さほど驚くべきことではない。しかし、従来の史学界やその影響を受けた一般の常識としては、破天荒な主張であり、これを聞いただけでその主張者を単なる『夢想家』『ペテン師』と思いたくなるほどのものかも知れないが、そうだとすれば、その人々は次の史料『海賦』をどう判断するかを明らかにしなくてはならないだろう。
『海賦』は六世紀の中国の梁の時の秀詩・名文集である『文選』に収められている詩であるが、作者は西晋時代の高官である木華という人で、『三国志』著者陳寿と同時代の人であり、しかも陳寿より中央に位置していた人であるという。(以上、古田著「邪馬壹国の論理」参照)その『海賦』は「急報あれば、王命により急いで馬を飛ばし、舟を急がせ、海を渡り、山を越え、順風を待ち、帆柱を上げ、大陸を離れ、鳥のように一気に三千里を越え到達した所を救済した」と詠っている。そして「舟人・漁師が南におもむき東にいたって」かの有名な「裸人国」や「黒歯邦」に至ると詠っているのだ。これらが倭人のことを詠っているのでなければ、何と判断できるのであろうか? そしてこれらがその通り倭人のことを詠っているのであれば、そこからとんでもない結論に至りつくのである。『海賦』によれば、倭人は海とかげ・海亀・巨鯨・コンドル・イースター島?等々を眼にしている。これを単に推測だとし一笑に附すか、まじめな研究課題としてとりくむかで、結論自体も大きく変ってくるであろうが、アメリカ考古学界の「もし何一つない海をへだてて二つの陸領域が相対しているならば、その分布は、真の意味では正に連続的なのである」(スティーブン・C・ジェット)等の傾向を知るならば、またスミソニアン研究所のメンバーによる紀元前三千年ごろの縄文土器の南米エクアドルヘの渡来説を知るならば、『海賦』の中身をそう簡単に否定しさってよいということにはならぬことであろう。ちなみに「アメリカ・インディアンはアジアのモンゴリアンがべーリング海峡を渡ったものである」という説は今や旧説となり、太平洋を渡ったのだという新説が力を得ているということも付記しておこう。
思えばこの「倭人も太平洋を渡った」という問題は、古田の史料批判により「正確かつリアル」なことが明らかになった『魏志』倭人伝において、すでに触れられていたのであり、史学界が盲昧にもまじめに考えて来なかっただけのことであったのだ。
『魏志』倭人伝にはこうある。「又有裸国黒歯国、復在其東南、船行一年可至」裸国、黒歯国が倭国の直線方向で東南に、船で半年で行けるところにあるというのだ。(一年というのは倭人の数え方)『海賦』とのこの不思議な一致は、両書が同一事実を基礎史料としていることの反映に他ならない。『MAN ACROSS THE SEA』を真剣に研究課題としよう。
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著者より
1979年時点の考えと、2006年時点の考えは同一ではありません。考えは変わっています。
以上