水野孝夫
私は昭和十六年に、新しい制度になった、国民学校に入学。途中で敗戦。小学校と名が変って卒業。新制中学校の初年度生というように、学制のかわりめにあたる教育をうけてきた。神話を史実として教えられてきたのが、終戦と共に逆転した、その時代のまさに第一年目の教科書による教育をうけたのである。そういう意味では、古田説をすなおに受入れやすい読者であるかも知れない。私の愛読書のひとつに「通俗三国志」がある。小学五年のとき、祖父の書棚から見つけた有朋堂文庫本である。明治四五年発行、漢文読下し調であるが、吉川英治著や柴田錬三郎著の本のように孔明の死で終っておらず、卑弥呼第一回遣使の時代の背景も理解できる。また、昭和四十一年ごろに、僅か五〇円で古本屋で掘り出した「通俗続三国志」もある。明治四十四年、早稲田大学出版部発行のものである。
「海賦」の作者、木華の時代がわかるのだが、木華が該当する筈の「楊駿府の主簿」(邪馬壹国の論理三二二ぺージ)の名は「朱振」となっている。
「邪馬台国」問題に興味をもったのは、宮崎康平氏の著書を読んでからであるが、古田説に接したのは、ふとしたきっかけからである。勤務先の仕事で千葉県へ行き、仕事が終ったので、大阪までの帰路の車中の読みものにと買ったのが、『邪馬台国はなかった』であった。第十一刷である。新鮮な驚ろきであり、面白く、また「倭国には女子多し」とした萢曄の誤解のところは笑いがおさえられなかった。しかし、第2作「失われた九州王朝」は、本屋で見た時には、あまりに常識をはずれていると思い、また定価一五〇〇円に対してフトコロが寒かったせいもあり、買わなかったのである。「盗まれた神話」が出たとき、やはり第3作を読む前には第2作を読まねばと同時に買い、大阪から東京へ向う寝台列車のベッドで徹夜で読んだ。「盗まれた神話」以後は「関東に大王あり」まで、第一刷が揃った。古田説は根拠をあげての論証のつみ重ねであり、学問、科学の正当な方法論を実践されており将来万人の承認するところとなるであろうと信じる。そうなると初版本の値うちが増すだろうに、第一・二作が初版が揃えられなかったのが惜しい気がする。
そんなわけで、古田説の中心をなす結論の数々には驚ろきながらも納得できる。枝葉末節の問題に至って、いくつかの疑問を先生及び会員の方々に聞いてみたい。
ひとつは、古事記中の肥国の「亦の名」建日向日豊久士比泥別の解釈である。古田説では、久士比(奇し火=不知火)・泥別(=分国)と解されているが(盗まれた神話三八二ぺージ)「白日別」などとの形式上の対等からも、久士比泥・別と解し、久士比泥=奇し火峯=阿蘇山”のことと解した方が面白いのではなかろうか。
次の疑問は「韓当字は義公」(『邪馬一国への道標』二五四ぺージおよび『関東に大王あり』一一〇ぺージ)である。先にのべた通俗三国志では、字が公義になっている。なにしろ通俗三国志の方は歴史小説であり誤字も多いだろうけれど、「赤壁の戦」で水中に落ちた黄蓋が韓当に「公義、吾を救え」と呼びかける名場面が、義公ではシックリこないのである。ついでに調べてみたら、呉の武将の字には公瑾、公覆、公続などと公がつくのが多かった。