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市民の古代・古田武彦とともに 第二集  1984年 6月12日
古田武彦を囲む会事務局・編集委員会
特集三

「邪馬台国」から邪馬壹国へ

百崎大次

 「邪馬台国」についての単行本が何点あるか正確に数えたことはないが、学術的なものからキワものまで、おびただしい数なので全てに眼を通すことは困難であろう。『研究史邪馬台国』『研究史戦後の邪馬台国』『邪馬台国論争』『まぼろしの邪馬台国』『邪馬台国の政治構造』『邪馬台国の言語』・・・ついには『邪馬台国は沈んだ』と『邪馬台国は沈まず』とが書店の同一コーナーに並んでいる。盛況の「邪馬台国」ブームの中で、「邪馬台国」研究にデカルト的疑問をつきつけ、コペルニクス的転回を与えた(山田宗睦)のが、古田武彦の『「邪馬台国」はなかった』(一九七一年初版)である。いささかジャーナリステックな書名であるが、同時に事の本質を衝いた書名でもある。
 『魏志倭人伝』原本には、「邪馬国」ではなく、「邪馬国」と記されている! これを「壹」は「臺」の誤りである。と後世が共同改定 ーー『倭人伝』には誤りか多いとして、従来のどの「邪馬台国」学者も共通して「ここは原文の誤り」ときめつけた箇所ーー したものであることを古田は克明に実証した(後に詳述)。その反響はかなり大きく、古代史学界に衝撃を与え ーー「結論的には賛成しかねるが、新しい研究方向を示し、大きな波紋を投ずるものと思う」(東大榎教授)、「三国志自体の信憑性という問題は残る。しかし従来の研究の重大な弱点を指摘してくれた」(京大上田教授)ーー 、アマチュア古代史家たちの中に多くの古田フアンを生みだした。(「古田武彦を囲む会」の一員でも私はある。)古代史に関してはアマチュアではあるが深い造詣をもつ山田宗睦はその著『魏志倭人伝の世界』(一九七九年)の中で、ほぼ古田説を踏襲し、「邪馬壹国」表記で一貫している。
 高校日本史の教科書では、この問題をめぐってどう書かれているだろうか。まず次の3つの教科書記述を比較検討してみよう。

(イ)
邪馬台国
四〇〇年にわたって中国を支配し、近隣諸民族に大きな影響をあたえていた漢王朝は、紀元二二〇年に滅亡し、かわって魏・呉・蜀がならびたつ三国時代となった。「魏志(ぎし)」の倭人伝(わじんでん)には、このころ倭は2世紀後半の混乱がおさまって邪馬台国(やまたいこく やまとこく)を盟主とする約30の小国の統合体ができていたことが記されている。呪力に長じ、宗教的権威をもっていた邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)は、二二九年、魏の皇帝に使いを送り、『親魏倭王(しんぎわおう)』の称号と金印・絹織物・銅鏡などをうけ、その権威を背景にして国内に君臨したという。
邪馬台国では租税の制がみられ、身分秩序・政治組織も強化されつつあったようである。卑弥呼は、対立していた狗奴国との抗争の決着がつかぬまま3世紀半ばに死んだ。ついで男王がたったが国内が混乱し、そのため卑弥呼の宗女壱与が王となり、ようやく平和になったと伝えている。これは、男子による王権世襲制がまだ確立していなかったことを示している。
倭の女王(壱与か)が二六六年に洛陽へ遣使した記事1.をもって以後約一五〇年間、倭に関する記録は中国の歴史書から姿をけすが、この間に日本では大和朝廷による国土の統一がすすめられていった。


1.邪馬台国の位置については、畿内説と九州説とがある。畿内説をとれば、すでに3世紀には、大和朝廷が西日本全体を統一していたことになり、九州説をとれば、この統合体は九州北部を領域とする小規模なもので、日本の統一の時期はこれ以後のこととなる。

(ロ)
邪馬台国(やまたいこく)
3世紀のはじめに、中国では後漢が滅び、魏・呉・蜀の3国が対立していた。3世紀後半につくられた中国の歴史書「魏志」の倭人伝によると、日本では2世紀の末ごろに大乱がおこって、卑弥呼(ひみこ ひめこ)という女王をいただく邪馬台国3.が30近い小国を統合するようになった。卑弥呼は魏の朝廷にもたびたび使を送り、「親魏倭王」の称号をえた。
邪馬台国の所在地については、九州地方とする説と畿内(きない)の大和(やまと)とする説とが対立して明らかでないが、いずれにしても、3世紀の日本では、小国が有力な国に統合されつつあったことがわかる。

「魏志」倭人伝にみられる社会と生活
卑弥呼は宮殿の奥深く住み、呪術よって政治をした。死んだときには、径一〇〇余歩(約一五〇m)の墓がつくられ、奴卑(ぬひ)一〇〇余人が殉死したという。上下の身分の差別はきびしく、租税の制度もあった。民衆は、稲や麻の栽培や、養蚕をおこなっていた。諸国には市があって、交易もおこなわれた。


3. 今日伝わる文献のうち、「後漢書」「梁書」「隋書」などには邪馬臺国とあり、「魏志」倭人伝では、邪馬台国を邪馬壹国と記すが、邪馬(台)国が正しいとする説が有力である。

(ハ)
卑弥呼
それらの小国は、やがてそのうちの有力なものに統合され、しだいに統一国家を形成する方向に進んでいったらしい、中国の正史「魏志」の倭人伝には、紀元3世紀のころ、倭に卑弥呼という女王が出て、魏の朝廷に入貢し、周囲の多くの小国の上に立ってこれを支配していたことがしるされている〔史料1参照〕

〔史料1〕
卑弥呼は、「魏志」の本文によれば、「邪馬壹国」の女王であったとしるされている。従来はこれを「後漢書」により「邪馬臺国」(臺は台)の誤りと考え、国名をヤマトと読み、そのヤマトが九州のヤマトであるか、いまの奈良県のヤマトであるかについて、長年月にわたり、学界で論争がつづけられてきた。最近「壹」は誤字ではないという説があらわれ、卑弥呼の支配する国の名と所在地をめぐり、新しい論議を生んでいる。

 (イ) が代表的な、いわゆる通説である。16種類の日本史教科書のうち13種がこのタイプである。全部の教科書が「邪馬台国」の位置について、畿内説と九州説の両説を併載し、どちらとも決めがたい、と結んでいる。その上で (イ) のように「畿内説をとれば、すでに3世紀には大和朝廷が西日本を統一していたことになり、九州説をとれば、この統合体は九州北部を領域とする小規模なもので、日本統一の時期はこれ以後のこととなる」と指摘してある教科書が数冊ある。(C・D・F・Mなど)Kは「その位置をどうみるかは国土統一の時期や性格を考える上で重要な意味をもっている」と問題の重要性をアピールしている。
(ロ) のタイプの教科書はわずか2種類である。欄外の注にしろ、かっこの中にしろ「邪馬壹国」表記がでてくる。 (ロ) の脚注に「今日伝わる文献のうち、『後漢書』『梁書』『隋書』などには邪馬臺国とあり、『魏志倭人伝』では、邪馬台国を邪馬壹国と記すが、邪馬臺(台)が正しいとする説が有力である。」とある。教科書Lでは本文中に「各地約30の小国を統合し、支配組織をより大きくととのえた国家が出現した。中国の『魏志倭人伝』に記された邪馬臺国(以下、邪馬台国と書く。邪馬「壹」説もある)である。」というふうに、かっこの中に「邪馬壹国」表記がある。 (ロ) の教科書の場合、『魏志』の方が先に史書としてあり、『後漢書』その他は『魏志』の後にできたものというふうに『魏志』の位置づけをもっと明瞭に書いてくれたら、と思うのだが。
(ハ) このタイプの教科書はこれ一つしかない。すでに第2章で指摘のあったように、ここでも家永氏の教科書が最も良心的に書かれているようだ。本文の中に、「卑弥呼は『魏志』の本文によれば、「邪馬壹国」の女王であったとしるされている。従来はこれを『後漢書』により「邪馬臺国」(臺は台)の誤りと考え、国名をヤマトと読み、そのヤマトが九州のヤマトであるか、今の奈良県のヤマトであるかについて、長年月にわたり学界で論争が続けられてきた。最近「壹」は誤字ではないという説があらわれ、卑弥呼の支配する国の名と所在地をめぐり、新しい論議を生んでいる」と書いてある。こう教科書に書いてあると授業の時に教師はいやでも「邪馬壹国」説について説明せざるを得ない。むろん、「教科書を教える」のではなく、「教科書で教える」ことは百も承知であるが、やはり (イ) の教科書を使っている教師=生徒と、 (ハ) の教科書を使っている教師=生徒とでは、「邪馬台国」「邪馬壹国」問題の認識が異ってくるだろう。
 ちなみに、現状では (イ) のタイプの教科書が圧倒的に多いことはすでに述べたが、 (イ) がいわゆる一流校・受験校では最も多く採用されていることをつけ加えておく。
 教科書ではないが、かなり影響力があると思われるテキストにNHKの通信高校講座の日本史テキストがある。このテキストは、家永教科書に準じて作成された、と断り書があるように、かなり早い段階  一九七二年以来ーー から「邪馬壹国」について脚注でふれていた。一九七九年度のテキストを見ると「邪馬壹国」と表記している。つまり文字は「壹」にしておいて、それに「(たい)」とルビをふっているのである。一種の妥協であろうか。山田宗睦は前記の著書の中で、洛陽古音の研究にもとづいているとして、「邪馬壹(ゆつ)国」と表記している。

 以上、現行教科書を中心に「邪馬台国」と「邪馬壹国」の表記のちがいについてみてきたが、この問題は古代日本史の根本的書きかえに通じている。「邪馬台国」であるならばせいぜい九州か畿内かのどちらか分らないという不可知論であり、不可知論は結局のところ体制に順応する。3世紀における近畿天皇家の日本統一という体制に。
 「邪馬壹国」が九州の王朝であり、近畿天皇家の統一はもっと遅れることを古田説によって証明してみよう。次の史料は、さきの教科書 (イ) に載っているものである。まず左の注6.に注目されたい。

「魏志倭人伝」読み下し画像

「魏志」倭人伝 1.
倭人は帯方2.の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見する3.者有り、今使訳4.通ずる所三十国。郡5.より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、・・・邪馬壹国6.に至る7.。女王の都する所なり。・・・女王国より以北には、特に一大率8.を置き、諸国を検察せしむ・・・下戸、大人と道路に相逢へば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或は蹲り或は跪き、両手は地に拠り之が恭敬を為す。・・・其の国、本亦男子を以って王と為す。住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を歴たり、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰ふ。鬼道9.を事とし、能く衆を惑はす。年己に長大なるも、夫壻10.無し。男弟有り、佐けて国を治む。・・・景初二年11.六月、倭の女王、大夫難升米等を遣はし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。・・・卑弥呼以って死す。大いに冢12.を作る。径百余歩、殉葬13.する者、奴碑百余人。更に男王を立てしも、国中服せず、更々相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の14.宗女壹与15.の年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる(原漢文)

(注)
1. 紀元三世紀、三国時代の歴史書「三国志」魏書の東夷伝倭人の条。
2. 後漢末に楽浪の南半を割いて設けた郡。
3. 朝貢し謁見する。
4. 使節。
5. 帯方郡。
6. 壹(壱)は臺(台)の誤りか。
7. 下図参照。(邪馬台国への里程 図参照)
8. 役職の一つと推定される。
9. 呪術。
10. 夫。
11. 三年(二三九年)の誤り。
12. 墳丘。
13. 殉死。
14. 一族の女。
15. 臺与(とよ)の誤りか。

「 6. 壹(壱)は臺(台)の誤りか」とある。教科書本文では何もふれず、史料の注にちょこっとふれている。周知の通り『魏志倭人伝』二千字の中で「邪馬壹国」というふうに国名表記がでてくるのはここ一箇所だけである。だからこそ従来は「壹」は「臺」の誤り、と共同改定してすましてきたのである。
 古田は『魏志』の全文を克明に調べた結果、陳寿 ーー『魏志』の著者ーー は「壹」と「臺」とを全く書き誤ってはいないことを実証した。そもそも「臺」は貴字である。「邪馬○国」とか「卑弥呼」とかいうふうに、中国人以外の民族に対しては卑字を使う中国人史官陳寿が、『倭人伝』の中に「臺」という貴字を使うはずがない。古田は当時の中国人史官の内面に入って、こう論証したのである。
 次に注11. を見てみよう。史料本文には「景初二年」とあるのを、11. 三年(二三九年)の誤り、としている。「景初三年」の誤り、というのも共同改定の一つである。これについても古田は、何故従来「景初三年の誤り」と共同改定してきたかの内面的理由を明らかにしつつ、原文通り「景初二年」で誤りではないことを証明した。
 「景初二年」六月は、魏の司馬軍が遼東の公孫渕軍を壤平城に包囲している最中 ーー『魏志』によるーー であった。そういう戦時中に倭の使者が行くはずはない、という理由で「景初三年」の誤り、と新井白石以来共同改定してきたのである。新井白石は『古史通或問』で「遼東の公孫渕滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず」と書いている。明治以後、「邪馬台国」、大和説をとる内藤湖南も、九州説の白鳥庫吉もこれに同意し、「景初三年の誤り」は学界共有の定説となった。
 古田は二つの点で戦時使者 ーー景初二年正月ーー を証明した。第一点は、景初三年正月に魏の皇帝(明帝)が死に、一年間の服喪で全ての公務 ーー倭使への賜物も含めてーー が停止されていたこと。従って倭使が、この景初三年に賜物をもらうことはあり得ない。もう一点は、倭からの貢物 ーー男生口四人、女生口六人、斑布二匹二丈が貧弱なのに対して、魏からの賜物 ーー親魏倭王の位と金印紫綬、白絹五十匹、金八両、銅鏡百枚、真珠五十斤などなど不釣合に豪華であった事実(NHKのテキストにはこの不釣合な事実についての指摘がある)である。これは倭からの戦時使者を魏朝がいたく喜んで、不釣合に豪華な賜物を倭使に与えたものであると古田は歴史の内面に入って証明した。「景初二年」もやはり『倭人伝』原文が正しかった。とすると、いわゆる「景初三年鏡」がおかしなことになる。大阪府和泉市の黄金塚から出土した鏡のことである。それには「景初三年・・・」という銘文がある。この鏡こそ、魏から卑弥呼に与えられた「銅鏡百枚」の中の一枚ではないか、という説は幻と化す。
 次に「邪馬壹国」への里程問題をとりあげよう。さきの史料(読み下し画像)左下に、榎説 ーー伊都国からの里程を放射状に考えたーー を含めた里程の模式図がある。『倭人伝』原文の伊都国以後の里程 ーー伊都国までの里程は全員一致だから省くーー を次に書く。「・・・東南して奴国に至るまで百里。東行して不弥国に至るまで百里。南のかた投馬国に至る水行二十日。南のかた邪馬壹国に至る、女王の都する所にして、水行十日・陸行一月。郡より女王国に至るまで、万二千余里。」古田は『魏志』全文にわたって方向・距離の書き方を調べ、次のような模式図を作り、「邪馬壹国」が北九州筑前にあることを証明した。

      奴国
  東南百里|
      | 東行百里     (0)
  ーーーー伊都国ーーーー不弥国ーーーー邪馬壹国
      |
南水行二十日|
      投馬国

『魏志』全体の書き方から、「南のかた邪馬壹国に至る」は一つ前の不弥国に続く。伊都国ーーー不弥国ーーー邪馬壹国が主線である。かつ不弥国と邪馬壹国は接している。両者の間に距離の表示がないからである。最後の方の「水行十日・陸行一月」は、帯方郡から邪馬壹国への全行程である。従来はこの「水行十日・陸行一月」は投馬国から邪馬壹国までの行程と解釈されてきた。しかしこれは文脈の上から全行程をあらわすもの、と考えるべきである。そして帯方郡から邪馬壹国への全距離は「万二千余里」これも従来、いろいろと解釈があったが、古田は魏朝短里説でズバリと乱麻を断った。すなわち、魏朝時代では一里=75〜90メートルである。従って「万二千余里」は約千キロメートル ーー帯方郡から北九州筑前の邪馬壹国の距離の実測に近似している。この千キロメートル ーー帯方郡から北九州筑前までーー を当時の交通事情で行けば、ちょうど水行計十日、陸行計一月ぐらいになる。ぴったり合っている。
 さて、卑弥呼の墓が明らかになれば、「邪馬台国」論争も終りになる。そこで従来、卑弥呼の墓探しが行なわれ、これぞ卑弥呼の墓だと名のる候補者(墓)に事欠かない。原田大六はその著『卑弥呼の墓』(一九七七年刊)で、それら候補者の墓一つずつ当っていって、それらが虚偽であることを証明(?)し、原田自身は、奈良県三輪山のふもとの箸墓(全長二七三メートル)を卑弥呼の墓と比定した。この、卑弥呼の墓問題にも古田が新たな光をなげかけた。さきの史料本文終りから四〜五行目に「卑弥呼以って死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩」とある。これまで「百余歩」は漢の長里で考えての一五〇〜一八○メートル説と、大人の歩幅と考えての七・八○メートル説があった。教科書向には「径百余歩(一五〇メートル)の墓がつくられ」た、とある。(卑弥呼の墓にふれているのはこの教科書だけである。)
 古田はこの「百余歩」をさきの魏朝短里で考え、三百歩=一里、一里は75〜90メートル、従って「百余歩」は三〇メートル前後であるとした。三世紀半ばという時代的背景を考えても「三〇メートル」の墓は女王の墓にふさわしい大きさである。古田は、筑前の須久岡本遺跡のどこかに卑弥呼の墓がある、と推定している。原田自身「実はそれを支持できなかった」「かたくなに抵抗を感じていた」箸墓を、長い思索と探索の後であれ、卑弥呼の墓とするにはあまりに巨大でありすぎる。
 卑弥呼とはどんな女性であったろうか。「呪力に長じ、宗教的権威をもっていた女王」(教科書 (イ) )「宮殿の奥深く住み、呪術によって政治をしていた」(同 (ロ) )「祭祀者としての性格が強く」(同D)などと教科書に書いてある。年令については書いてないが、「呪術を行う老婆」のイメージがおのずとただよっている。『倭人伝』には「鬼道を事とし、能く衆を惑はす」(さきの史料本文真中左)とある。『倭人伝』はこれに続けて「年己に長大」と書いている。このへんから卑弥呼を「老婆のシャーマン」と共同推定していた。原田はさきの著書の中で九十才に近い「老処女の巫女」であるとしている。古田は、この、卑弥呼像にも新しい光をあてた。『倭人伝』にある「年己に長大」という表現を『魏志』全文の中でよく調べてみたら、二十代後半から三十代の人物の年令を表わすのに用いられていることを、古田は発見した。落雷に頭を痛撃されたようであるが、反論はない。卑弥呼の宮殿の中が何やら明るくなまめかしくなった。
 以上、古田説に従って、「邪馬壹国」表記が正しいこと、原文通り景初二年(二三八年)の戦時使者が正しいこと、「邪馬壹国」への里程及びその位置、卑弥呼の墓と卑弥呼自身についての新しい発見などをみてきた。「邪馬壹国」説は、こうも新しく豊かな発見を含んでいる。「邪馬台国」から「邪馬壹国」への道のりは少しずつではあるが、前者から後者へと進んでいる。E・H・カーは『歴史とは何か』の中で、歴史的事実が確立する過程を次のように描いている。「・・・過去に関する単なる事実が・・・論文や書物の中で初めは脚注に、次いで本文に現われる。二・三十年後には確実な歴史的事実になる」と。
  (イ) 段階では「邪馬壹国」について教科書に何も書かれていない状態、 (ロ) 段階では「邪馬壹国」が脚注やかっこにあらわれる状態、 (ハ) 段階では教科書本文に正面から「邪台萱国」があらわれる状態へと進んで行き、二・三十年後には ーーいやもっと短期間でーー あらゆる教科書に「邪馬壹国」があらわれる状態になっていき、古代日本史が書き換えられるであろう。


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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