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市民の古代・古田武彦とともに 第二集  1984年 6月12日 古田武彦を囲む会事務局 編集委員会

五色塚古墳

中谷義夫

 五色塚古墳は日本書紀の神功摂政元年春二月の条に「播磨にいりて山陵を赤石にたつ」と書かれ、四世紀から五世紀はじめに築造されたと推測されている。先年神戸市が国の補助金を得て二億五千万円の費用をかけ十年の歳月を費やして復元したそうである。又葺石の一つ一つに市民の善意のこもる寄附がよせられたとも聞いている。墳丘の全長約二百米、三段に築かれ大体高さは二十米あるようだ。空から撮った写真を見ると全く手鏡式だ。現在私たちの見る前方後円墳はウッソウと樹木が生え、恰も小山のような姿をしているが元々築造された当時の古墳はこのようであったのだろう。
 常々一度見たいと思っていた矢先、東京の演劇学校にいる十九の娘が久しぶりに帰って来たので一緒に連れだってゆくことにした。古代史には余り興味のない娘だが北九州のカメ棺の中に屈葬されている人間を見て、これは赤チャンが胎内にいる姿と同じで人間はそれで終始しているのではないかと話したことがある。
 国鉄「垂水駅」を下車して坂を上りつめて左に折れると真正面に巨大な後円部が私たちの前に立ちはだかった。案内の立札の向側は周壕で深い空堀になっている。後円部の上二段は葺石がぎっしりと敷きつめられ、この模様が強烈な印象で迫ってくる。
 「未知との遭遇だわ…・-」と娘は思わずつぶやく。私も又古墳は見馴れているが、こんな真裸の古墳は見始めだ。娘と私は見上げる後円部の美しさに魅かれ乍ら小道をゆくと右に円墳の小壷古墳が現われる、まろやかな青草のしとねの感じで寝ころがりたいような誘惑にかられる。五色塚の陪家でもあろうか。五色塚の周堤帯にはいると事務所がある。そこから丁度、古墳のくびれの処に墳丘へ上る石段が設けられてある。先ず後円部の頂上に上る。周りには形の変った円筒はにわが夫々取りめぐらされている。江戸時代の記録ではここに石棺が埋まっていたという。
 前方部を見下すと明石海峡がぐんと近くまで迫って来ている。その向うは淡路島だ。大小の漁船、シヨウシャな白い客船が太陽に輝き乍ら波をけたてている。



 ふと私は・・・この古墳の被葬者は誰であったかという疑問が頭をかすめた。そうだ漁民の首長だったに違いない、死んでも自分の海域を眺めていたいという、そしてこの海に突出した山際の道は摂津の国から播磨の国へ通ずる要衝なのである。それから思いは更に昔にさかのぼる。弥生期の時代はこの当りは銅鐸文化圏に属していたに違いない。そしてこの文化圏の中心である大阪湾に侵入する他部族を警戒していたに違いない。
 私は後円部に立って手にとるように見える明石海峡を眺めて神武東征を遙かに思い浮べた。戦後史学による天皇九代までの否定は果してそれでいいのか、古事記の伝承には今日でも肯定出来る部分がある。
 私は娘に神武東征の話をした。日本書紀では神武が日向を発して直ぐ「速吸の門」という難関を案内する珍彦が豊予海峡に現われる、これは本居宣長が強力に支持した。然しこの地域は波静かで速吸の門に該当しないという世界的なヨットマンの青木洋氏の言証がある。古事記では吉備の高島宮を出発して「速吸の門」に出遇うが唯、国つ神と称する者が海路を案内することになっている。又この古事記の「速吸の門」を明石海峡とする久米邦武と、二説は早くから対立していた。けれども二説とも「速吸の門」という汐の満干の荒い地域にはふさわしくない。ここで史学者古田武彦さんの御登場を願う。
 明石海峡は波おだやかで大阪湾にはいるには都合はよいが、今私の立っている地域は銅鐸圏の豪族が船の出入りを警固しているから危険である。遠廻りになるが鳴門海峡を渡るのが安全である。然しそこは汐の干満(みちひき)の劇しい処、つまりいわゆる「速吸の門」と称するゆえんである。ここにこそ水先案内が必要だ。こう解釈してこそ古事記の伝承の正しさが解明する。この水先案内をした国つ神は論功行賞で大和の国造に任じられている。
 然し娘は私の話が信じられないらしく
「神武天皇ってほんとにいらっしゃったのかしら」とぽつんと私の顔を外らしていった。
「うんそういう名前だったのかどうか九州から東へ瀬戸内海を通って小部隊の探検隊が次から次へ現われたんだろうね、その成功者の一群が後にそういう名前で呼ばれたんだろう」
 私は瀬戸内海沿岸の高地性集落を思い浮べた。
「けれど神武天皇ってお母さんが海神の娘で祖母はワニザメだっていうじゃない」
 なる程、私は娘がそんなことまで知っていたのかとまじまじ顔を眺めた。
「そう津田左右吉を始め戦後の体制的古代史家は神武が架空である証拠の一つをそこに求めていたね。」
「だから私、実在って気がしないわ。」
 それはまことに現代っ子だ、無理はない。ここで又古田さんの御登場を願う。
「シュリーマンという人をお前は知っているかい。」
「ええ、聞いたことがあるわ、大変なお金持で発掘に一生を捧げた人」
「うんそう、その発掘の動機は小さい時にホメロスの「イリアス」「オデュッセイァ」を読んでトロヤ戦争は架空でないと確信したんだな、この物語の花形ヘレナは父がゼウスの神、母レダは彼を愛しその卵からヘレナは生れたという、トロヤ戦争に登場する英雄はみな神々の血脈を引いている。だから十八世紀の学者達はこれを架空だと信じたのだ。然しシュリーマンはこのトロヤ戦争が史実であったことを発掘によって立証した。だから神武の場合も神々の血縁や母の神秘な出生を理由として架空だという証明にはならないよ。」
 娘は黙りこくっていた。しばらくして娘は微笑み乍ら
「でもトロヤ戦争は発掘によって証拠が出たけれど、神武天皇の実在はどうして証明出来るの・・・、発掘によってわかるの。」
「いやそれは・・・、神武天皇陵を掘った処で明治政府がにわかに橿原附近で手頃な古墳を選んだのだから実在の証拠は出っこないよ」
 私は娘の質問に少々当惑し乍ら、するどい問いかけだと思った。
「然し神武の証明にはならないけれど古事記の東征伝承の正しさを実証することは出来ると思う」と私はいった。娘は私との間隔をせばめて「どういうことなの」と詰めよった。
「神武が鳴門海峡を経て大阪湾にはいり盾津に上陸して那賀須泥毘古(ながすねひこ)の一軍と戦ったことは知っているだろう、然しこの緒戦によって神武の兄五ツ瀬命が流れ矢に当って傷ついてしまう。そこで一まず引き上げることになるが、古事記にはこう記されている、『南方よりめぐり出でましし時、血沼(ちぬ)の海に到りて云々・・・』と書いてある。これを従来の史学者は南の方面にめぐり出でてと解釈している。これを実際の地図によると盾津から南の方角というと八尾柏原に当っていて、ちぬの海という大阪湾には程遠いことになる」

 なるほどと娘は合点し乍ら私の話を促した。




「大体弥生期の大阪の地勢は中心に南北の台地が連なっていて、別名大阪の山脈とも呼ばれているのだが、南は住吉、北は今の新大阪駅附近まで延びていたそうだ。だから大阪はそれを背景にして西は大阪湾の海が迫り、東は生駒山の麓、盾津辺りまで河内潟という入海に広がっていたんだ、丁度大阪は東西の海につかっていたといってもいい。その河内潟へはいる入口が新大阪駅附近にあったらしいその土地を今も南方(みなみかた)といっている。最近の新聞によると町名改正でその名はやがて消えるだろうけれど、地下鉄の駅名は「西中島南方」と呼んでいる。だから神武は船で南方を経て大阪湾に敗退したという伝承をもとに古事記は書かれたものなのだ。古事記が著わされた八世紀にはその地勢は今と変らぬ程変っていた筈だから作り話でないことがわかる。これも古田さんの発見されたことだがね」
 娘は私の話のどこまでわかったのか神妙な顔をしていた。
「そうね、新大阪駅附近が海の入口だったとは今じゃ思いもよらないわね」
と少さい声でつぶやいた。
 いつの間にか二人は前方部の先端に立っていた。娘も私もここへ来ると海の情景に呑まれたようにだまりこくった。波はおだやかにきらめいて、直ぐ向うに淡路島が青くかすんでいた。

     ー完ー
  (五五・一・一〇)


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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