『市民の古代』 第三集 へ

ホームページへ


市民の古代・古田武彦とともに 第3集 1981年 古田武彦を囲む会編
古田武彦を囲む会「市民の古代」編集委員会 編集

古田史学論序説

その思想と方法論の生成について

藤田友治

一、はじめに 〜古田説をめぐって〜

 「倭製シュリーマン」とは、古田武彦氏に寄せられた世論の声を受けて、一部マスコミが賞賛を表した彼への名である。一方、「空論、邪説、詐話と詭弁を展開し、中学生の物笑いのタネ」(『邪馬壹国の陰謀』)とは、「盗用」を指摘された高木彬光氏の誹誇の言、そして最近の「『「邪馬壹国」はなかった』 ー古田武彦説の崩壊ー」で安本美典氏は「古田氏は、科学にあらざる科学、論理にあらざる論理を縦横に駆使して、独断を、地に広めんとされている」と非難のボルテージをあげている。
 古田史学は、「一方で熱烈な支援をうけ、一方では、痛烈な批判をうけ」(安本美典氏の言葉)ているが、今が論争の正念場であり、最近刊行されている『季刊、邪馬台国』(梓書院)も創刊号から、第5号までずっと古田説の賛否をめぐって続けられてきたといっても過言ではない。その理由は、一つには今は残念なことに逝去された作家(責任編集者)の野呂邦暢氏の編集方針にあっただろう。
 「『季刊、邪馬台国』は古代史に興味を持つすべての人に論文発表の場を提供したい。」「理想は学界としろうとと研究者の世界との間に存在する深い溝に橋をかけることである。」
(『邪馬台国論争は終ったか』毎日新聞より)
 そして、この言は、“在野の精神”を持続されておられる古田氏の説を橋として、議論が実際に展開された。そして、古代史学界の状況は変りつつある。かつて、古田説に対する学界の「冷たさ」を野呂氏はこう主張されておられた。
 「学界の諸先生にたずねたい。すべての論議はおたがいに正面からつきあわされ、問題点が一つずつ検証されたかどうか。たとえば古田武彦氏の『九州王朝説』は、単にしろうとの思いつきというにはあまりにも学問的方法論にのっとり文献の裏付けがありすぎる。専門家は古田氏の『九州王朝説』をどのように見ているのだろうか」(同引用文より)
 ところが、最近では学際的分野における支持ないし、理解者の広がりと深さがきっちりと現われ始めた。初期において鋭く格調高い書評を書かれた河野喜雄氏(電気タイムス主幹)は、「一口に言って、古代史研究に一新紀元を画するところの、傾聴すべき業績(「『邪馬台国』はなかった」『失なわれた九州王朝』「盗まれた神話』の三部作の段階において ーー引用者注)であり、ことにその独特の論理の、科学的峻厳かつ尖鋭性に一驚せざるを得ず、真に教示せらるるもの多々存することを、認めざるを得ない。」(「図書新聞」一九七五・三・二九、週刊一三〇六号)と言われた。哲学者の山田宗睦氏の(『歴史読本』昭和五十二年八月号)は、サブタイトルの「古田史学の意義」を日本思想史の流れにおいて深く把捉された。「論敵」安本氏も「公正」に引用しておられたが、「わたしは古田史学は、津田左右吉の上代史、神話研究にとってかわる、とみている、津田史学は戦後の日本古代史・神話研究の理論的前提であった。これにとってかわって、古田史学が現在以降、一九七〇年代前後の、日本古代史・神話研究の理論的前提となる、このことを、古田説についていぜん『黙殺』『無視』をつづけている日本古代史家たちに、明言しておきたい。」と語調強く明言された。山田氏は、10年早く先を見通しておられた。一方、古代史学界は、「衝撃」を受けた『「邪馬台国」はなかった」(一九七一年)から十年間も黙殺と無視を一部の学者を除き続けられたのである。
 時は、一九八○年代になって、おびただしく、「批判」の幸運に出合うこととなった。「黙殺」・「無視」より、古田氏はこのような「批判」を待望して、喜んで正面から受けてたたれる。
 また「文献統計学の安本美典氏との論争も、わたしにとって楽しき収獲を生んだ。たとえば。『周朝の短里』の発見などがそれである。」(『歴史と人物』昭和五十五年七月号)
 『意見の対立はよい。正面からの論争、それはさらによい』(『邪馬一国の証明」角川文庫)で言われる。それは、「黙 殺」・「無 視」よりはるかに学問にとって、「楽しき収穫」を生むものであるから。
 しかし、安本氏にとっては当の古田氏との論争に専念されるならば、もっと実りの多い論争となろうが、「八つ当り」的に古田説支持者にまで論難されるのであれば、新たな間題を生もう。例えば、哲学者山田氏に「山田宗睦氏は、古田氏の著書のどこを読まれたのであろうか」「山田氏は、学者ではないのか」「こうなると、学問というよりも、信仰に近い」(以上『「邪馬壹国」はなかった』)の「批判」(これはもう批判というより、明らかに節度を越えた中傷に属すると思われる)である。私など、哲学、歴史学を学んできた者にとって、又一般に戦後の日本の思想界における山田宗睦氏の諸労作を高く評価するものにとって、古田氏への論難以上に、強い義憤にかられる。ましてや、「古田説を支持する方は、邪馬台国問題を読者として楽しもうとする立場の人に多く、批判する人には、邪馬台国問題を、みずから研究してみようとする立場の方に多い」と何の根拠も示さず、専門の「統計的処理」を一切されることもなく、自己にとっての不利な説(=古田説)の支持者に、こうも非難の矢をはなたれた「学者」は未だかつてなかったし、これが「文章心理学入門」かとも思いたくなる。
 この安本氏の言は、ちょっと考えてもおかしなことに気付くであろう。まず形式論理的だが、古田説支持者は、邪馬壹国であって、邪馬台国ではない。安本氏のパロデイーにならえば、古田説支持者にとって、「『邪馬台国』間題はなかった」のであるから、楽しもうにも楽しめないのである。
 さて、真剣に議論させていただこう、安本氏は、書の「はじめに」の部分で、自分自身、「古代史のファンが、もっとふえて欲しいという私の願いがあります。喧嘩というと、ワッと人があつまります。(中略)古代史の問題を考えることの中にも、知的ゲームの面白さがあります。推理を楽しむ喜びがあります。(中略)では、邪馬台国をめぐる論戦を、ゆっくりお楽しみ下さい。」(同上書3〜4頁)と主張していることを忘れておられる。そして、「おわり」の部分に至っては、ファッシズムを支持した「修練を必要としない」(「教養をもたない」と受け取れる)衆愚にたとえる。このような安本氏の論難は事実がどうであるか客観的に判断していただいた方には、いかに矛盾しているか明らかだ。
 古田氏の読者の会が、東京では「古田武彦と古代史を研究する会」として、大阪では「古田武彦を囲む会」(古田氏の業績は古代史に限らず、親鸞研究もあるので、古田説の多方面の業績を含める意味で名付けられている。)として、そして九州では、北九州・下関地区と博多地区の複眼「古田武彦をかこむ会」としてそれぞれが自然発生的で、かつ自立して、長所を交流しながらその輪を日々広げている。
 講演会(それぞれ基本は、年二回ずつ)や機関誌『市民の古代ーー古田武彦とともに』や講演録(「信州の古代文明と歴史学の未来」長野県松本深志高校とんぼ祭記念溝演)やニュースの発刊を続け、又地道な研究会(「歴史を語る会」ー大阪、月例第三土曜夕)や古墳探訪(大阪月例日曜日)を着実に続け歩んでいる。そのことは、「新たな歴史像を市民で! ーー独自の実証主義に共感ーー 『一方交通』破る交流」として朝日新聞の「ゆうかんレーダー」(一九七七年七月十三日)にも報道されているのでご存知かとも思われる。何よりも、安本氏自身が、東京で催された溝演会(一九八〇年四月十二日、恵比寿区民会館にて)に出席され、「質問」をされておられるので、どのような会かは知っておられるはずである。
 又、高校教育現場の教師達と市民が、現行の日本史教科書の全てに目を通し問題点を検討し、「半年の歳月と手弁当を持って、深夜に及ぶ作業も苦しみを通して、より大きなエネルキーを形成しました」(『市民の古代・古田武彦とともに』ーー戦前・戦後の歴史教育を問うーー 第二集編集後記より、一九八○年四月十日発行)と、「楽しむ」どころではなかったことを示している。もう一歩積極的に考えていただきたい。なぜ、「苦しみ」を通して、このような書が生まれたのであろうか。
 「古代史は最近の学説が進歩しているにもかかわらず、それが反映されていないことが多く、とりわけ古田説を真正面から扱いきれていないことに対する教育現場の教師の良心と『定説』をつめこむ教育でなく、あくまで歴史の真実を追求する必要が生みだしたものです。」(同上書より)
 安本氏は、このような事実を冷静に見ていただきたく思う。安本氏の支持者は、どうかとは言わない。両者は堂々と議論され、議論がかみあうことによって、新たなる問題領域、新しい弁証法的発展、発見が続けば学問にとって素晴しきことなのだから。丁度、古田説が、旧来の「邪馬台国」近畿説対九州説の対立を根底的に超え出でた(内在的超出、止揚)ように。
 私はこれまでの古田氏の諸論文(雑誌、学会誌、新聞等全て約一二〇篇)と諸労作(最近の『邪馬一国の証明』角川文庫を含め、著書十冊、訳書一冊)のほとんどを読了させていただいたが、その立場から古田説の意義と古田史学の思想と方法論の生成について考えていこう。そのことは、現代において、つまり一九八〇年代における「ソクラテス、親鸞」たるべき思想の系譜をもった人物を語る知的な「修練を必要とする」「楽しみ」があるからである。

二、学界に「市民権」を得るとは・・・

 かつて、考古学者の森浩一氏は、「古田武彦氏の九州王朝説がたまたま話題になった。大和政権のほかにも、強力な政権が併立していたというユニークな、しかも充分傾聴するに足る仮説と私はみているが、古代史の学界ではまだあまり市民権をえてはいない。O氏(東大で森氏の深く接触する人)は、『ある仮説が市民権をうるまでの過程は』とにこにこしながら続けた。『その仮説はだめだと冷笑されるのが第一段階。次にはその説が一部成立しても体勢に影響しないと予防線をはる段階。そうして第三段階には、その説なら昔の学者がいっていた、つまり先行学説にあるという形で認めてしまう。その意味では、認めないといっている人も、先行学説があるといいだしているのだから、古田説は第三段階まできて、市民権はえたとみてよいのではないでしょうか。』(『日記から』朝日新聞。一九七七年五月二日)と述懐されておられた。実際に、学界における市民権を得ることは、いよいよ一九八〇年代の課題となってこようが、それに先立っての、一九七五年頃より急速に市民(読者)の間で市民権を古田説は得てきた。学界より早く、語の厳密な意味(本来の用法)で市民権を得た古田説に対し、学界は真撃な対応を今求められているのである。
 それ故、哲学者の山田宗睦氏が、盲従はされずにしかも古田説の根本を認められ(『魏志倭人伝の世界』教育社、及び『日本古代史』筑摩書房参照されたい)、又考古学者の森浩一氏も前に見た様に客観的に評価されておられるのである。更に、日本古代史を専攻された京大の上田正昭氏は、最近、「古田武彦さんが『邪馬壹国』という新しい問題を提起されてから、論議はさらに深まってきましたが、『魏志』だけで論ずるのではなく、まして倭人の条だけで論ずるのは問題があって、やはり考古学の成果とか、あるいは当時の東アジアの情勢などのなかで位置づけて考えるべきだと思います。古田さんは最近、考古学の分野についても問題を提起されていますが、山田さんの『魏志倭人伝の世界』も楽しみにしています。」(『日本古代史』上田正昭、森浩一、山田宗睦、筑摩書房、一九八○年七月三十日刊)と論じておられ、きっちりと古田説を受け取めておられるのが解る。
 市民権を得るとは、本来的にその個人の居住権を含め諸権利を認められることだが、市民と学問の意味を考えるのにもう一歩、「市民」の意味を考えてみよう。「市民」の概念は、遠く古代ギリシアのポリス(都市国家)の「市民」(ポリテス)に由来する。それは「自由で独立した(奴隷でない)」ということを意味した。アテネにおける学問は、このような「市民」の間に全面的開花期を迎えたのであった。現在の市民概念は、近代市民社会の成立によって、奴隷社会の市民とは異なるが、「一人々が独立して自由な」という意味は保持せられていると見てよい。それ故、そのような個人々が、今、古田説を承認し、支持が広がっているのであって、安本氏の言われるように「修練を必要としない」「衆愚」が支持しているのでは決してない。しかも、この市民権の考察の中で、安本氏の理解しておられる古代ギリシア哲学への考えが、極めて浅薄なものであることが解る。その浅薄さの上に立って、古田説及び哲学者山田宗陸氏を批判されておられるのである。次にそれをみよう。
 安本氏は、市民の間に広がったギリシアのソフィストの中で、「人間は万物の尺度である」と主張した説をのべた後に、「古田氏はさらに一歩すすめ、古田氏が万物をはかる尺度とされているかのようである」と非難されておられる。これは、「ソフィスト」を通俗的な意味においてとらえ、しかもプロタゴラスの主張した「人間は万物の尺度である」を狭い近代的な「主観」の意味でのみとらえ、古田氏に非難を向けられようとされている、例を出されて批判されようとする場合、その例が、きっちりと理解されたものの上に立ってなされなければならないのは申すまでもない自明のことであるが、安本氏の場合そうではなかった。
 プロタゴラスの名誉のために一言すれば、哲学史をひもとけば解るように安本氏の理解はいかに浅薄かは明らかになる。古代から近世までの哲学史をまとめたへーゲルによれぱ、「プロタゴラスは他のソフィストたちのような単に教育するだけの教師であったのではなく、全く普遍的な根本的諸規定について。反省をおこなった深い徹底的な思想家であり、哲学者でもあった。」(『へーゲル全集12』ーー『哲学史中巻の一』ーー真下信一訳 岩波書店34頁)のである。つまり、人聞の意識作用が、あらゆる客観的なものをとらえる(認識する)のであるから、それは「理性が万物の目標であること」を意味し、我欲(自分がこう思いたい)や主観が尺度ではない。このように解すると(安本氏の言われる意味)「これこそまさにソフィスト派の主として責められるべき悪い意味であり、謬見に外ならない」(同上書)ことになるのである。
 安本氏は、俗にいわれるソフィストの中にプロタゴラスを描き、そして古田氏をそれにイメージさせる手法である。あらかじめデフォルメしたものに、批判者をおとし入れようとされているわけであり、このような「批判」は安本氏の哲学への理解が如何に浅薄かを衆目にさらすだけで、批判になり得ないばかりか、「通俗性」つまリ、「偏見」の固定化の作用を果すことになって危険である。もっとも、危険ということを更に一歩進めて考えると、逆の意味で真実が表現されてくる。
 古田氏は『親鸞』(清水書院)の中で、人間の歴史をふりかえろう。『学問』や『科学』が誕生したころ、それは荒野の中にあった。だから、だれの保証もなかった。体制から、しばしば危険視されたアレキサンドリアの町の中で八つ裂きにされた女数学者もあった。ソクラテスも、同時代の『雲』という劇の中で、嘲笑のまとにされた。だが、それでも、何物も、『学問』を停止することはできなかった。人間の精神の中から、つきあげるもの、『精神の解放への願い』が『学問』や『科学』をしゃにむにつきすすめてきたのだ。(同上書 227頁− 228頁)と主張した。ここには、古田氏の尽きることのない学問(Wissenschaftードイツ語では、学問も科学もこの語である)への愛がある。この愛は、古田氏にとって若きころからの大きなテーマとなるので、詳細は、「五、思想形式の視角から」において追求する。古田氏の学問への愛は、哲学の根源である愛知(フイローソフィア)である、家永三郎氏はかつて、「歴史家出身の思想家は大てい哲学的教養に乏しく、哲学者出身の思想史家は歴史的視野に欠けるところが多かった」(『日本思想史の諸問題』 236頁)と反省しておられるが、古田氏ほど深い哲学的教養を持ちかつ鋭い歴史的視野と実証的方法論をかね備えておられる古代史家、思想家は数少い。哲学者の山田宗睦氏が高く評価されているゆえんである。安本氏は、ここのところを全く理解されておられないばかりか、愛知者としての古田氏を、「信仰者」として歪曲しておられるのである。しかも、安本氏の議論の根底は、「市民」を一段低いものとし、「学問」を高尚なものとしておられるのである。ところで、愛知者のソクラテスは、アテネの「市民」や「政治家」が殺したといってもよい悲劇的な最後をとげた。我々は、現代のソクラテスを市民の名において、再び殺してはならない。これが、語の根本的な意味における「市民権」を得るということであろう。
 従って、私達、市民は古田史学の誕生からその形式過程を、古田武彦その人の生きてきた家庭、環境から掘りおこしながら、一層深く考えていくこととしよう。
 安本氏に対して、私達をして一層深く、古田氏と古田説研究へと向かわしめてくれたことに感謝したい。

三、古田武彦を誕生させた「家庭」

 「邪馬台(壹)国」問題は、一九七〇年代において、古田史学の登場によって研究史上の急転回をなし、一九七〇年の『盗まれた神話ー記、紀の秘密』による三部作の完結によって、日本古代史は新しい夜明けをつげたと言ってよい。このような古田説の誕生にとって、多くの読者、支持者は次の様に問う。
 「古田先生の様に考えられるのは、どの様な環境、教育から生まれてくるのでしょうか。三人の子供の母親として、先生の様な考え方を身につけるには、どの様にすればいいのかしらと思うこの頃です。」(『古田武彦とともに』第一集 ー一母親三木カヨ子さんの問い)
 
 それでは、この問いに答えていこう。私自身も高校教師として、又父親として非常に興味ある問いとしてあることがらであると思うからである。
 古田武彦氏の父、貞衛(さだえ)氏は、高知市一宮(いっく)の中谷(なかや)家の出である。祖父の代々の姓をつぎ、長男であったにもかかわらず古田姓を名乗って分家される。(徴兵関係とも考えられるが詳細は解らない。)父は苦労して、広島高師を卒業、旧制中学校教師(英語)の後、長女を生まれた夫人が産後の経過が悪くなくなられた。困っていたとき、母、玉意(たまい)さんは高知県安芸郡伊尾木村(今の安芸市)農業川島家に生まれ、再婚される。新婚生活は山梨県の甲府市、ついで福井県小浜中学へ、ここで二女と長男が生まれる。さらに奈良県畝傍中学へ転勤、ついで福島県喜多市中学へ、ここで次男の武彦氏が誕生された。(一九二六年八月八日生誕)武彦氏が生後八ヶ月の時、父は広島県呉二中の教頭となられたため、引越し、以後広島内の三次高女校長、府中高女校長、広島二中校長と歴任される。とくに、広島二中時代、一九四五年(昭和20年)、八月六日、原爆当時、校長官舎は爆心から二キロの円に接し、母とともに原爆で死んだ遺骨や生き残った父母への世話活動が忙しく、又、原爆で体も弱っていた母は、十月より寝つくようになり、一九四八年(昭和23年)3月25日、56歳で死去される。
 父の特徴は、生活信条を立て、根気強く、又ガンコであったという。例えば、武彦氏は、よく父にしかられたが、彼が「一高」そして東京帝国大学法学部への道を希望したところ(中学二〜三年時そのために猛烈な勉強をする)父は「反対した」のである。どうやら、祖父がハデ好みで、その為生活の苦しみを味わった父が、経済的問題と、広島において教育者として生活をしたところから息子を離れさせるのに反対されたのであろうが、武彦氏にとってはくやしい思いであったろう。けれども、もし東京帝国大学へ進学していたならば、恐らく今日の古田武彦氏は、全くあり得なかったであろうと思われる。教育者としての父の授業を、松本深志高校教諭となった武彦氏が「先輩」に学ぶため見学されて、「名人の授業」としてポイントをおさえた姿 ーー退職後鈴峰学園で英語講師としてーー に、深く胸を打たれる。この頃、ふつふつと学問(知)への愛が湧きおこってくる。
 さて、古田武彦氏に人格上の決定的影響を与えた人は、母、玉意さんである。
 「情熱家で理想主義、目前の打算を忘れる。わたしにも以た要素があり、母はわたしの行く末を信じていた。死後も深いところで支えてくれているように思えて仕方がない」(「母ありき」 一九七六年( 昭和51年)3月27日新聞より)
 母は、次男の武彦氏を含め四人の幼子を伴いながら、父の転勤(当時、文部省の意向で日本列島のあちこちを転任させられる)のつど荷仕たくをするのにもたいへんであったろう。たいへんな働きもので、父の呉時代からお手伝いさんがいたのにもかかわらず、指図をするというより、一緒になって働き、「つけものも自分でつける」のである。しかも、単に仕事が好きだということよりも、力をこめて農村夫人がどんなに苦しいかを武彦氏にもよく話しているところから察すると、働く者への優しさであっただろう。しかもこの優しさは、強きもの、つまり権力者への批判となっていた。「母はとくに政治欄をよく読んでいた」という。新聞の政治面を読む婦人は、当時の封建的家庭の中ではめずらしい。それは、土佐の風土、つまり自由民権の地、坂本竜馬、板垣退助が敬愛される地として、とくに母は「徳富蘇峰が好きで、国民新聞を愛読し、彼について、若いころの自由民権時代、政府にズケズケいっていたことが母の頭にあり、愛読した」(同上より引用、一部略)のであろう。
 又、「古 武 士 的」ともいえる礼儀を子供達に躾けた。「父が家を出るときは子供達を玄関に並べ、イッテイラッシャイマセのあいさつ。帰宅の時は、オカエリアソバシマセと声をそろえていわせた」と古田氏は述懐される。このことは、多くの人の証言があるが、末だに古田氏に会われたり、訪問されたら気付かれることであるが、名声を得られた「歴史家」と「弁護士」が、玄関先で並ばれて、深々と礼をされながら見送られる姿に出合って恐縮する。これが、あの「論敵を非難攻撃してやまない古田氏の真の姿であろうか」という驚きさえもつ。
 だが、古田氏にとって学問という真剣な道の故であって、「含むところがあるから批判するのではなく、含むところなどないから安心して批判」されるものである。これは、古田氏の師、村岡典嗣氏の「師の説にななづみそ。」(本居宣長の言葉で、先生の説にとらわれるなという意味)の“戦闘性”故にである。学問的厳しさと、人格的優しさ、礼儀をわきまえられた態度、ここにその根源が存するのである。

四、恩師・村岡典嗣教授を思慕して
村岡史学の二人の「弟子」ー古田氏と家永氏ー

 古田武彦氏は、非常な情熱家である。しかも感性的な意味での情熱家であるということと、知的な意味における情熱が見事に統一されている。つまり、学究的であること、語の根本的意味における「知への愛」(フイロ・ソフィア、哲学の語源)を徹底して貰かれている。私が秘かに、古田氏をソクラテスと呼んでいる所以である。
 古田史学誕生の「父の国」は村岡史学である。一九四五年(昭和二十年)、四月、敗戦の色濃い中で、古田武彦氏は東北大学の日本思想史料の村岡教授を思慕していく。
 経過については、古田氏に会見を求め、テープにも録音してあるが、既に最近古田氏自身も発表しておられるのでそれを参照されたい。
  (『わたしの学問研究方法について』ー『季刊邪馬台国』3号梓書院)
 敗戦直前の四月末から六月始めまでの、「足かけ三ヶ月」、実際は一ヶ月強の恩師との出合いは、戦争中のこと、勤労動員で授業中止となった。しかし、この短い間に、古田氏は村岡史学とそのあり様を深くとらえるのである。恩師は、勤労動員へ行く学生のお別れ会において、「青年は情熱をもって学問を愛する。」(フィヒテの言葉)と。
 戦争中、軍国主義、皇国史観の中で、日本思想史を学ぶ意味を、村岡氏は、「学問の本道は、あくまでソクラテス、プラトンの学問とその方法にある。その方法から『日本の思想』を見る」ことを示されていたのである。
 ここではもう一人の歴史家をとりあげて、村岡史学の意義を追究してみよう。村岡史学に深く領倒した歴史家は、古田氏以外に、家永三郎氏がいる。所属大学(家永氏は東京帝国大学)が違うので意外と感じられるであろうが、直接村岡氏に教わっている。
 経過を含めて考察しよう。家永氏は次の様に述べておられる。
 「東大在学中にいちばん私にとって感銘の深かったのは、村岡典嗣先生が東北帝国大学からわざわざ出講されまして、隔週に土曜日の午後に四時間づつ講義をされたことです。四時間たっぷりのノートするだけで腕が痛くなるような密度の濃い講義でした。私は思想史をやりたいと思っていましたので、これがいちばん感銘が深いです。それから村岡先生の『本居宣長』という本も私の学生時代に読んだ中では感動した本です。私が個人研究の著作をするときには、ひそかに『本居宣長』の塁に少しでも接近したいというおこがましい気持でやりました。(中略、東大の教授、和辻氏を高校時代には魅せられていたが『風土』は非科学的であり、文章はすぐれているが講義は熱がなくおもしろくなかったと述懐された後)東大でいちばん印象深かったのが専任教官でない、しかも国史学でない倫理学の講師としての村岡先生だったということになります。」(『古代・中世の社会と思想』家永三郎教授東京教育大学退官記念論集刊行委員会編、三省堂 304頁)
 このように述べられた家永氏は、村岡氏の主著『本居宣長』(一九二八年)の日本思想史学における方法論の基礎をきずいた功績を高く評価し、「思想史研究にとって特に必要なるは哲学的教養であること」とする。
 別個にそれぞれが学んだ村岡史学とその方法論は、村岡氏が逝去された後に、両者は深く邂逅することとなる。古田武彦氏の大作『親鸞思想ーその史料批判ー』(冨山房)における「序」で次の様に家永三郎氏が贈っておられる言葉からも解るであろう。
 「本書の著者は東北大学に学び故村岡典嗣先生に就いて日本思想史学を専攻し、近年まで育英の業に従事しつつその専攻の研究にいそしみ、めざましい業績を次々とあげてこられた篤学の士である。たまたま私が村岡先生逝去直後東北大に出講したという縁故により、著者は二十年後の今日まで上京されるごとに陋屋を訪れて研究の成果を私に話されるのであるが、そのたびにいつも学界の通念を根本から破る新説をもたらすのを常とした。その精進ぶりには舌を捲かないでいられないばかりでなく、研究を語るときの著者のつかれたような情熱に接すると、怠惰な私など完全に圧倒させられてしまうのであった。(中略)そのような精緻な考証が、実証学者の往々にして陥りがちな、些末な事実のせんさく、考証のための考証に終ることなく、それぞれがいずれも親鸞の思想における根本問題は何かを改めて考え直すための重大な問題提起につらなっているのである。手堅い文献学を通して歴史上の思想の内奥に迫ろうとする村岡思想史学の、最良の開花の一典型をここに見ようとする」(同上書)
 このようにして、村岡史学は、一方において戦後の「教科書裁判」に至る家永史学と、更に根底的な従って「教科書に登場し切れない」古田史学を生み出したのである。(古田史学の教科書への登場については、第二集『市民の古代』の「特集教科書に書かれた古代史」参照されたい。)

五、思想形成の視角から
ーー未発表論文を中心としてーー
 ここでは、未だ発表されていない古田武彦氏の「卒業論文ーー道元にをける利他思想の徹底」(一九四八年三月)を考察することから始める。
 「独創は義務である。それなしでは生きれない」一九七九年松本深志高校にて『信州の古代文明と歴史学の未来』の講演録より)と鋭く言い放った古田史学の萌芽は、この学士論文の冒頭に現われ出でているのに驚く。既成の、常識」をひっくり返す力で始まっている。(引用は元のママ)

「はじめの言葉 ーー道元の宗教は自力の宗教だと言はれる。が、それはあやまりだ。人間的で愛の思想に乏しいといはれる。が、大きなあやまりだ。少くとも道元に関するかぎり愛の宗教である。しかもその愛の理想は他に比ないほどの純粋さと高まりに置かれた。今、そのやうな事柄について論証したい。」
 ここで、「他力の宗教」・「愛」・「理想」.「純粋さ」と格調高く説かれる用法に注目してみよう。それらが独特のリズムを形成していることに気付くであろう。つまり、論文の意図せんとしたことは、今、「わたしの民族は深い失意と絶望に沈んでゐ(ママ)る。少なくとも過去の自己の文化所産については、全く自信を失ひ(ママ)つつある。
 けれども、わたしらは真実を欲する。それ故、わたしらの民族の生んだこの偉大な思想を世界に告げるのに恥じてはならない。むしろ、それは人類に対する義務であろう。
 今や世界と人類が限りないにくしみとたたかい、と世俗性、物質主義中に沈んでいくとき、このや(ママ)うな、きはまりもなく純粋な愛の魂の光を見出すことは何という喜びであろうか。世界が物質主義と卑俗性のみちみちてゐるとき、人類が絶望と不安になやんでゐるとき、このひそやかに記(しる)された道元の愛の思想が、二十世紀のあるささやかな人の胸に火を点じ、世界への精神的原子爆弾とならんと誰が言へよう。」(結びのことばより引用)

 敗戦後の打ちひしがれた民衆の精神構造、それは「絶望」と「不安」であり、戦後の精神的状況であった。価値観の急激な転倒、混乱、その状況を前にして、若き古田氏は自らの体験、世界観を踏まえて強力に主張しなければならない気持に襲われるのである。
 「愛の願いへの強い関心、否熱情はながらくの私の体験のさぐりきたった問題だった。わたしのまはりの尊上師、美しき魂がそれをうながしたのである。このテーマは、道元の宗教の中の愛の思想について明めることは、彼の大乗仏教、禅宗に村する歴史的役割を定める重要なものであるとの客観的意義以外に、わたしの体験、従ってわたしの世界観に大きな理由をもつ。」
 では、この卒業論文において、どうして道元をテーマに選んだのか考えてみよう。古田氏としては、本来は日本思想史学上の方法論の研究をテーマにして論じたかった様であるか、それは次の様な理由で断念された。
 「わたしは大学生活を方法論の研究についやしたかった。それ故卒業論文もアウグスト・ベイクのフィロロギー(文献学ーー引用者注)方法論について書きたかった。けれどもそれは直接日本思想史に関係がないからどんなものかとの忠告が、尊敬する人によりあって、ついに断念した。」(本書「はじめの言葉」よリ)
 ここでは、学問研究としての方法論の確立を目標とされながら、時代状況、時間がそれを許さなかったようである。日本思想史は、学問として歴史が浅く、又、「皇国史観」及び「精神主義的主観主義」にわざわいされていた時、このような学問の方法論の基礎を築きたいとされた意図はすぐれている。又、断念の理由とその事実を冒頭にハッキリと記すこと自体が、強い抵抗の姿勢が表われているのである。同時代、つまり一九四八年、家永氏も次のように論じている。
 「これは又日本の昔の思想界の特殊な事情にも起因しているのであって、純理論的哲学の成長しなかった東洋諸国の例に漏れず、日本に於いても思想は大てい宗派的色彩を帯び、特定の思想に対し、権威としてこれに盲従するか、異端邪説としてこれを排斥するか、何れかでしかあり得ない場合が多く、客観的にいろいろな思想を公平に観察する余裕に乏しく、いわんやその間に成長発展を認めて、思想の歴史を認識するが如きは思ひ(ママ)もよらなかったのである。」「日本思想史学の過去と将来」 ーー『日本思想史の諸問題』一五二頁より)
 このような時代において、古田氏の21歳の若き精神は見事にそれを克服しようとしていた。それは、次の目次を見ていただければ解ろう。()は四〇〇字の枚数である。

道元にをける利多思想の徹底

    目次             古田武彦

「はじめの言葉」              (三枚)
第一章、大乗仏数の成立とその発展
    ー利他の愛、法華経、涅槃経    (一九枚)
第二章、中華民国における禅の伝統
    ー達摩、祖師達、如浄      (二十三枚)
第三章、道元の形成を取りまいてゐた思想界
    ー本地垂迩説、尚古主義、無常感 (二十五枚)
第四章、道元を導いた人々
    ー栄西、如浄          (二十三枚)
第五章、道元の帰郷と信仰の宗教
    ー仏祖の道            (十一枚)
第六章、利他の思想の道元にをける決定的形式。
    ー今、無所得の利他、伝導形式  (二十七枚)

「結びのことば」              (三枚)
 註                    (五枚)
                   (計一三九枚)

 ここでは、既に気付かれた様に、道元を単に論じるのではなくて、大乗仏教の成立とその発展過程から、「利他の愛」という概念を引き出し、インドから中国の仏教運動の源流を考察しようとしている。そして、目次では表現されていないが、道元だけでなく親鸞にもきっちりと焦点が合されて論述されている。
 
「(前略)この思想(大悲の思想、常楽我浄説をさす ーー引用者注)を地盤として真に仏教に生き生きとした呼吸をふきこみ、罪に悩む人々にやさしい慰めと輝かしい将来を約束する東洋の福音が生れたのだった。実践宗教家として全仏教中にも特異な位置をしめる ーーと言っていいとわたしは思う。又それはこの論文で何位か明かにされるだろうが、ーー 日本の宗教改革者達(親鸞、道元)も、この偉大な宗教的高揚をもつ章々に感激して大きな影響をうけたのだった。」(第一章より)

 時間が許さなかったのであろう、原稿は清書されてはおらず、しかも、誤字もそのままにされている。だが、この論文は21歳という年齢、時代状況を考慮すれば、非常に水準の高い視点と独創性、思想性を保持しつつ、全章に強い問題意識でつらぬかれ、情熱的ですらある文章は文学的な格調を織なして人の心をハッと撃つ。近代的合理主義が忘れ去ろうとしている、古代、中世のリアルな心を正確にありのまま把捉しようとする観点が、明らかに主張されている。

「わたしらは二十世紀に住む。啓蒙思想と理性の信仰の洗礼を受けた。わたしらは合理の眼鏡をとほさなければそれから決定的な影響を受けることをこばもうとする。そして過去の時代の人々が大きな妄想と迷信によって動かされ、そこから幾多の偉大な思想と行事が生まれたことを忘れようとする。が、明らかにそれはあやまっている。勿倫、妄想それ自身に力があるわけではない。それを受け取る人々が純粋な熱情に動かされていたことに重点があるのだ。」(第三章より、末法思想の状況について)

 当時の知識青年にとって、『歎異抄』や『正法眼蔵随聞記』を読むことは、仏教の入門書としてかなり読まれてはいた様だが、(家永三郎「歴史学者のあゆみ」『古代、中世の社会と思想』所収三省堂)古田氏のように、「阿含経」「法華経」「大般若経」「祖堂集」「正法眼(げん)蔵」「教行信証」等がおびただしい文献を渉猟(しょうりよう)している。ここにも古田史学の方法論の特徴が萌芽形態としてはっきりと現われていることに、改ためて驚嘆する。
 そして、個人と時代について古田氏は、もっと表現すれば、個人の独創性と時代精神(へーゲルの言葉)の見事な緊張における相互関連を把握している。次に引用して、この事を終えるが、私達は、「個人」を一般的にとらえるだけでなく、古田氏そのものとして理解することが、今や許されるであろう。

「それ故、時代の個人にもたらした影響を軽視してはならない。いかに天才的な人物の思想といえどもばらばらの要素に分析すれば彼以前の時代の必然的結果にすぎぬことを見出す。それ故個人の思想をすべて社会と進化の必然と見倣すことは許される。しかし、それは決して個人の独創性を軽視することにはならない。。それどころか、時代の必要は最も高い個人の自由な独創的な能力によってのみ予知され、意識の明るみと行為の中にもたらされるのである。」(第三章より)

 この若き古田氏の主張は、次に親鸞研究において古田史学の実証的で厳密な方法論の生成を生みだしていく。古田史学の意義については、他日、本論として完成を期したい

追記
 本稿は、一九八○年十一月十六日、「歴史を語る会」(古田武彦を囲む会主催)大阪、なにわ会館にて、及び十二月八日東京恵比須社会教育館での「古田武彦氏と古代史を語る会」の世話人の交流会で発表したものを、古田氏及び関係者の証言を含めてまとめたものである。古田氏の歩みについては巻頭の著作一覧を参照されたい。又、未発表論文の『道元にをける利多思想の徹底』(東北大学日本思想史料卒業論文)は、研究者のため読んでいただけるよう古田氏の了解を得て複写し入手した。その際、コピーでは判読不能となるため、直接手書きによる労をいとわなかった、私の教え子、大島直子さんに深く感謝したい。古田武彦研究の一層の前進のために、研究資料として事務局に保管しています。


 これは参加者と遺族の同意を得た会報の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailsinkodai@furutasigaku.jp

『市民の古代』 第三集 へ

ホームページへ


Created & Maintaince by“ Yukio Yokota“