藤田友治
『古田武彦とともに』(第一集、一九七九年七月十四日発行)で緊急報告として、私は宮内庁に行き書陵部の「陵墓地形図目録」の入手経過について報告した。その後、「陵墓地形図目録」についてのコピーの依頼が殺到し、いかに市民の側から「陵墓」に関する真実探求が高いかを知った。「天皇陵」に対する研究が、戦前の「タブー」視から解き放たれ、又戦後の「学界」だけのものからも今、解き放たれ、万人のものとなる兆候すら感じる。
一九七五年(一月二十二日付)古田武彦氏は宮内庁書陵部へ質問状を送った。そして、「天皇陵」への科学的調査を日本古代史の一探究者として迫った。「それは万人、全国民に共通の関心事であると共に、わたしの古代史探究にとっても、それは今、回避できぬ緊急の課題となっているからです。」の趣旨に基づいていた。
従って、この質問状は、一探究者個人のものに端を発しているが、志を同じくする万人に共通することとして、事後の経過を含めて公表された。これが、考古学に関する書の中で、「異例の一章」となった古田武彦『ここに古代王朝ありき〜邪馬一国の考古学〜』(朝日新聞社、一九七九年六月十日発行)の「天皇への問い」である。
この公開質問状に対する回答は、東京〜京都(古田氏自宅)の何回もの電話での交渉の後、ようやく一九七五年六月二六日付文書として示されたのである。この段階では、市民の古代史に関する熱意の盛り上りの初期ではあるが、確実に「天皇陵」への科学的調査の声があったにもかかわらず、宮内庁の書陵部陵墓課長の回答は、「過去に総合的調査団による科学的調査のお申し入れがありましたが ーーこのことについては、記憶がありません。」となっている。この宮内庁の書陵部陵墓課長の言う通りであるならば(追記参照)日本の考古学界を中心とした歴史学界は、戦後三十年間も「天皇陵」に関する科学的メスを放置したままとなる。これは一九四五年の敗戦、そして天皇の「人間宣言」、主権在民の日本国憲法と戦後の民主主義の根本にかかわって、あまりにも遅きに失っしたといっても過言ではない。このような状況の中で、古田武彦氏の質問状が道理をもって書かれたのである。
さて、「陵墓」指定古墳への立入調査の早期実現を目ざすとりくみは、ようやく一九七六年五月に、第一回対宮内庁交渉が学会連合として始まる。そして、七八年三月十三日に第二回、第三回は七九年二月五日になされた。七六年は、日本古考学協会をはじめとした十団体が連名で陵墓古墳の保存と公開を要求する声明を宮内庁へ出した。七九年は学会連合として「陵墓」指定古墳の保存と公開を要求する共同行動に参加している団体としては、考古学研究会、古代学研究会、日本考古学協会、文化財保存全国協議会(以上考古学関係四学会)日本史研究会、歴史学協議会、史学会、地方史研究協議会、奈良歴史研究会、歴史教育者協議会、大阪歴史学会の十二学会であった。
これは学界の側の要求であるが、国民の世論を背景としている。しかし、全国の郷土史研究会や民間、市民の研究会は、まだ主体的に取り組み得ていないのが現状である。この運動は学界だけの取り組みであってはならない。それは、単に学界の取り組みを支持する広範なスソ野を構成するという意味でのことではなく、国民(市民)こそが、正しい歴史観の確立を求める権利を有しており、学界はその当然の要求を支持して研究がなされなければならないからである。
宮内長長官は国会において、「天皇陵に対する総合的調査団による科学的調査の要求を宮内庁は受入れる可能性がありますか?」の問いに、「陵墓は、天皇、皇族を葬る所でありその静安を保ち、追慕尊崇対象として永く祭祀を行うものであり、一般のいわば生きている墓に相当するものである。従って発掘調査の対象とすべきではないと考えている。」(傍点引用者 インターネット上では、赤色表示)と答弁している。
この答弁は、次のような論理矛盾をもっている。第一に「陵墓」は「天皇、皇族を葬る所」と絶対視しているが発掘してもいないものを、江戸末期から明治時代に、宮内庁が推定したものであって証明できていない事は今や自明である。これについては、考古学者の森浩一氏が主張されている如くである。
(陵墓一覧表)
開化→坂上山
崇神→行燈山
垂仁→宝来山
景行→渋谷・向山
成務→佐紀・石塚山
仲哀→岡・みさんざい
応神→誉田山
仁徳→大山
履中→百舌鳥・陵山
反正→田出井山
弁恭→市の山
雄略→高鷲・丸山
清寧→白髪山
仁賢→ぼけ山
継体→太田・茶臼山
神功→五社神
仲ッ媛→仲ッ山
安閑→古市・城山
宣化→鳥屋・みさんざい
欽明→梅山
敏達→太子・西山
用明→春日・向山
推古→山田・高塚
舒明→段の塚
孝徳→上の山
斉明→奥谷山
天智→御廟野
弘文→長良山
天武・持統→野口王墓
称徳→佐紀・高塚
平城→市庭
手白香→西殿塚
磐之姫→ひしあげ
日葉酢→佐紀陵山
第二に、「陵墓」に対して「追慕尊崇の対象として、永く祭祀を行うもの」との考え方だが、これは、偏狭なナショナリズムと「皇国大日本帝国」の亡霊にのみ必死にしがみついているにすぎない姿がそこにあり、現行憲法の国民主権と相入れない。しかも百歩譲って「追慕している人」に対して言えば、中国(たとえば馬王堆)や韓国(武寧王陵)の様に東アジアの人民と政府は、彼等の祖先の歴史探求の過程において発掘していることで、彼等の「民族愛」と真実への愛がいささかでも変質したであろうか。
第三に、「陵墓」は「一般の生きている墓に相当する」という主張であるが、これは一見説得力をもつ様に聞える。だが考えてみると、我々「一般人」の墓は、「陵墓」の様に広くはなく、大きくはなく、古くはなく、しかもそのささやかな墓さえ立てられない人もいる。石部正志氏は、「今日『地域開発』と称される土木事業によって、日本中の古墳群や、中近世の墓地遺跡はどんどん破壊されている。そればかりか、現に祭祀が続いている町や村の墓地さえも、取りつぶされている。第二次大戦中、「大君の醜(しこ)の御楯(みたて)しとかりだされた兵士たちに至っては、大海の底や南方の山野に、文字通り、「水浸(みず)く屍(かばね)」、草むす屍」として朽ち果てたまま放置されているではないか」(『日本史研究』 204号49頁)と鋭く指摘する。古田氏が考古学に、「開眼」させられた「事件」、つまり古田氏の子息が小学生の頃、近所の住宅開発にともなう遺跡や古墳の発掘がつづき、それを見ていたであろう子息が、「天皇陵は、どうして掘らへんのや」という根源的な問いである。
この宮内庁の答弁は「いわば一般人の・・・」という苦しまぎれの官僚的答弁のように見えるが、非常に事態の本質を明らかにし始める。一般人の場所も時問も限定された「生きている墓」は、自己の祖先への追慕となるように、それと同じように、「陵墓」も「万世一系の日本民族の祖先である天皇家の生きている墓」なのだということを示したいのである。従って、「天皇陵」発掘公開運動は、「生きている亡霊」 ーー日本人の意識構造としてある「天皇制」を問題にしなければならない。
ここで、第一及び第二の所で明らかになった様に、発掘の論理は第三の箇所では実はそうスッキリとはいかない問題に出合うこととなる。この論理構造に迫ったのが、梅川邦夫氏の「教科書における天皇陵古墳と象徴天皇の問題」(『市民の古代』第二集)である。「象徴である天皇が、主権者である国民と等置されている。ここから、天皇を敬愛しない者は日本国を敬愛しないという論理的飛躍がなされている。天皇を敬愛しないものは日本国を敬愛しない非国民であるという戦前の考えと同一線上に来ていることがわかる。」(同67頁)
権力の象徴としての「天皇陵」は、天皇と同じ人間である国民に公開されず、国民を寄せつけない「聖域」化されている。しかも、「一方、我々の心中にも聖域が隠されている。権力への志向がある、痛いけれども自分の中の聖域も同時にえぐり出さなければならない。」と梅川氏は主体的に主張する。
ここに「天皇陵」発掘公開運動の主体の側を問題としてきた拙論が主張する最も苦渋に満ちた回路が現われ出てくるのである。即ち、「学界」は戦前の「大東亜共栄圏」なるものに対していかに弾圧されても、一部の果敢な人を除き)天皇制ファシズムに抵抗したであろうか。「仏教者」の多くも、「わたしたちは、アミダ仏と同じように天皇を信仰しよう。」という運動を起こしこそすれ、『靖国神社』などに抵抗することもしなかった。しかもそれに代って、『教行信証』の版本の中から、最も親鸞が鋭く書き記していた『主上臣下背法違義』の『主上』の文字を時局の体制に都合が悪いとして、文字を削りとったのである。古田氏は、親鸞研究においてその実例を写真で示したように(『親鸞』清水書院 108頁)。
つまり、「知識人」でなく、「学者」でなく、「ただの人」として生きて研究する、古田氏の立場に、(『わたしひとりの親鸞』)つまり国民の側の自覚的、主体的な真実追求の立場に立ちきって運動することが、今、最も求められていることなのである
次に「陵墓」側定事業が、どのような日本の歴史的状況の中でおこなわれていったかを追跡してみよう。この考察は、一般に「陵墓」の実側という行為は、「地道で、科学的なことがら」という把握が、果して正しいかどうかということを明るみに出すであろう。
史料は、宮内庁書陵部陵墓課の『書陵部紀要30号』 ーー「陵墓地形図目録」であり、それには地形図名の他、縮尺、測量年次、サイズがそれぞれ示されている。今、測量年次を全てとり出して整理し年代順にしてみよう。この年代の日本及びアジアを中心とした歴史を考え合せながら、「陵墓」測量事業のもつ意味を追求してみたい。
一九一九年の測量開始までの前史として、二、三年前の世界史から振り返ってみる、一九一七年(大正六年)有名なロシア革命の年、ペトログラードの労働者のストライキから、ついで労働者・兵士ソビエトによって皇帝(ツアーリー)を打倒し、ロマノフ王朝は亡びる。(二月革命)そして、レーニンの指導のもとでボルシェビキが世界史上初めて社会主義政権を樹立する。(十月革命)世界史は激動を強める。
翌一九一八年(大正七年)、日本はアメリカ、イギリス軍に加わってシベリアに出兵する。そのねらいは次のようだ。ソビエト内の反革命軍を援助し、そのことによってソビエト革命政府を打倒させ、日本国内における支配体制(天皇制と資本主義)の動揺を防ごうとしたのである。しかし、結果は、いたずらに人命と軍事費を費やすのみで、国際的には勿論、国内からも反対の声が強く、一九二二年(大正十一年)にシベリアから撤兵をよぎなくされた。
一九一八年は、ドイツでもキール軍港の水兵が反乱をおこし、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が退位し、オランダヘ逃亡するという事態になり、ドイツは連合国と休戦協定を結び、第一次世界大戦が終了する。この休戦によって、日本の国内は、造船所の閉鎖が続出し、不況が目立ち、社会主義、労働運動の高揚期をむかえ、ストライキが急速に増える。(表 2参照)
更に世界大戦によって、一方では物価の高騰をまねき、米騒動がおこる(表 3参照)。
寺内内閣は軍隊を出動させて、これを鎮圧するが、武力で押えても民の声は押え切れず、結局そのために総辞職をせまられる。
一九一九年(大正八年)、アジアでは、朝鮮の独立運動(三一運動万才事件)、北京では山東問題に対する反日抗議運動(五・四運動)がおこる。
このような、内外の危機的様相は、日本帝国主義の侵略政策に基づくものであるが、支配階級としては、何としてもこの危機を乗り切る必要に迫られるわけである、イタリアでは、ムッソリーニが「戦闘者ファッショ」を結成する。日本はどう対応すべきか。
(ここにおいて、日本は明治維新期の天皇制(王政復古)を、新しく一層強めなければならない必然性をもったのである)丁度、徳川幕府の幕末期における急激な尊王嬢夷の風潮に対して、幕府による文久の陵墓修築が行なわれた様に、この時期において「天皇陵」が国民の前に一層「リアル」なものとして現出せんがために、実際に測量し、その「偉大さ」を誇示しなければならなくなったのである。これが、「史蹟名勝天然記念物保存法」の施行というそれ自体は抵抗のない文化財保存と合せて、「最高の史蹟」という「陵墓」の測量を開始したのである。
「陵墓」測量の消長を宮内庁の書陵部の史料によって次に図示する。(表四参照)
一九一九年から一九二一年まで、測量は漸次行なわれ、五三の「陵墓」に及んだ。だが、表四で明らかなように、一九二二年(大正十一年)※で、「陵墓」の測量が急に中断された。そして、この中断が翌年まで続いたことを考えてみよう。
この中断は単なる偶然ではなくて、次のような状況における「やむを得ない」中断であったことが解る。
この時期は、いわゆる大正デモクラシーの高揚期であり、従って普通選挙の要求がかってなく高まった。又、京都で全国水平社の創立大会が開かれ、更に日本共産党が非合法に結成される。しかも、日本帝国主義のシベリア干渉軍のみじめな敗北の結果、シベリアから撤退した年でもある。
引きつづく翌二三年(大正十二年)は、関東大震災である。しかも前に見たように、朝鮮の独立運動、つまり一九一九年の三・一蜂起は、日本帝国主義の根底をゆさぶる大闘争にまで発展し、熾烈な闘争となって、日本のシベリア出兵軍を迎え撃っていた朝鮮人ゲリラ部隊の状況があったのである。従って日本人の側の意識に、「不逞鮮人が爆弾を投ず」となって当時の新聞は報道し、これが関東大震災時における朝鮮人虐殺事件の異常な事態の深層心理を形成したのである。従来、この視点での論述があまりにも少ないので(日本人の側での)あえて述べておく必要があろう。そうでないと、姜徳相(カン・トクサン)氏の『関東大震災』(中公新書)が主張するように、「この事件は日本史上の単なる一惨酷物語、あわれむべき朝鮮人の悲劇として、せいぜい同情の涙をしぼる物語になってしまうであろう」ことになる。又、労働運動の指導者十人が亀戸署で軍隊に殺され、更に大杉栄らが憲兵に殺された真の理由が理解できないであろう。即ち、体制側は、労働運動→社会主義→朝鮮人の独立運動とつながる糸をきっちりと見すえた上で、大震災という混乱に乗じて、この糸をたち切ったのである。それはシベリア出兵のみじめな敗北、つまり一方のソビエト社会主義兵士と一方の朝鮮の独立を願うゲリラ兵の挾撃に対する、日本国内での労働運動と朝鮮人に対する弾圧として用意されたのである。
しかも、この年難波大助が、病弱の大正天皇の摂政裕仁を射つ虎の門事件がおこり、内閣が総辞職している。このような混沌とした背景の中で、日本の天皇制フアッシズムの思想的支柱となった、北一輝の『日本改造法案大綱』が刊行される。
つまり、「陵墓」測量はこの激動の中で、中断されざるを得なかったのである。そして、関東大震災時における弾圧後、一九二四年(大正十三年)より再び始まる。一九二五年、普通選挙法と同時に治安維持法が、可決され、京城に朝鮮神宮を建てる。祭神は天照大神と明治天皇である。翌年、治安維持法の適用の始めとして、全国の社会科学研究会の学生が検挙される。
そして、「陵墓」測量は、翌二六年には急速にふえて二ケタ台となってくる。二七年(昭和二年)には、日本は歴史の曲り角といってよい岐路に立つ、羽仁五郎が「昭和二年、日本の恐慌は、日本資本主義の危機を完全に暴露した。当時、日本には二つの道があった。その第一の道は、ブルジョア民主主義の道であり(中略〕、もう一つは天皇制ファッシズム(天皇制半封建的帝国主義)である」と主張する如くである。(『羽仁五郎著作集』 ーー「日本歴史の特殊性」青木書店刊所収ーー 一九四六年三月三日)
一九二七年(昭和二年)の危機の後、「陵墓」の測量は、最大の測量値を示し始め、翌二八年から二九年に最高に達する。アメリカは、ルーズヴェルト大統領による、ニューディール政策において失業者を救ったのに対し、一方日本は、「陵墓」測定に人民を使役したのである。この両者の違いが、アメリカの経済自立強化の道と日本の精神主義との違いとなって、その後の第二次世界大戦における雌雄を決した「帝国主義間戦争」における質的差異をつくり、日本の敗戦を帰結させていった一つの原因となるものである。
「陵墓」測量は、二九年九一という驚くべき測量を行なった後、急速に終焉を迎える。この時期文部省は積極的に学生、生徒の思想対策即ち「国民精神作興」にのりだす。
そして、一九三六年(昭和十一年)には、文部省は中等学校の修身、公民、国史の標準教科書編さんに着手し、翌三七年、国体明徴の観点から中学校、高等学校の教授要目を大幅に改訂して、そして思想局を拡充し教学局をおく。映画のタイトルに「挙国一致」、「銃後を護れ」などを入れさせて国民精神総動員をさせる。
ここに、「陵墓」測量はその任を終えるのである。丁度、五○万分の一の地図が、日木帝国陸軍参謀本部の手によって、「満州」や中国で作成され、測量の後、陸軍の侵略政策に「極秘」扱いで使われたように、「陵墓」測量は、国民精神総動員の日に、その任を終えたのである。
一九四五年八月十五日の敗戦の日より、一九五四年までの十年間は、「陵墓」は一切手をつけられていない。周知の様に、戦後、文部省そのものが教育勅語、招書の奉読や神あつかいをやめるように通達したり、『あたらしい憲法のはなし』を小・中学校の副教科書にしている時期に、天皇制や天皇の戦争責任が民間でさかんに議論され、「陵墓」は一般に忘れさられ、意識においては「死んで」いた。
いつ、又、「陵墓」の測量が開始させられることとなりたのであろうか。一九五四年(昭和二九年)から再び測量が始まったが、その前年、学校教育法を「改正」し文部大臣が教科書の検定権をにぎる。そして文部省は「道徳・地理・歴史教育」を再び強調し始める。それは、学問の真の意味においてではなく、戦前への逆戻りコースの復活の意図をもつ。
測量が始まった年には、自衛隊法を施行し、陸、海、空 ーー自衛隊が識者の反対にあうが、発足した年である。その後の歩みはあまりにも自明なことであろう。
結局、この考察によって明らかになったことは、「陵墓」測量という一見、「非政治的」かつ「文化的」な事業と思われてきたことが、実はそうではなくて、「政治的」「非科学的」、かつ「皇国史観イデオロギー」の生産であったということである。今、「天皇陵」の発掘調査要求運動は、学問的意義とともに、日本のこれからの進む道を決める一つの大事な国民的、民主主義的運動となるべき意義がここに存在しよう。
従って、これを学界だけの要求運動に限定せず、国民(市民)が自らの権利、即ち国民主権に属する権利の名において、断固として主張すべき緊急のことがらであろう。
この運動が成就しない限り、真に一九四五年八月十五日は終っていないのである。
本拙論脱稿後、国会における「天皇陵」発掘調査要求に関する議事録を、国立国会図書館において、一九八○年十二月八日〜十日の間に、全て閲覧し、コピーを入手した、陵墓課長の前述の発言 ーー「記憶がありません」ーー は虚偽に満ちているか、「健忘症」かいずれかであることは、次の新聞報道によっても明白である。
作成者
藤田友治
藤田美代子
次の資料は、国立国会図書館の「新聞切抜資料室」(3F)にある過去十年間の「考古学・遺跡発掘」のテーマから全て抜き出したものです。ここでは“意外”な事実が読みとれます。かつて“超党派”で申し入れていたことや、大阪府教委まで・・・と。今、私達は何をなすべきでしょうか。
今後の歩みを確かなものとするために、ご活用下さい。
今、その主なテーマを報告します。(詳細は縮小版を利用すればよい)
請求記号930.26.国立国会図書館
整理番号 主なテーマ 新聞社 年月日
1、文化財発掘かお墓の修築か。
公開を迫る学者 宮内庁へ 景行陵工事(崇仁陵・崇神陵・清寧陵の宮内庁やってる) 朝日 72.2.13
2、自民党総務会(中曽根会長)「御陵も掘れば」
高松塚古墳に関連して「皇室の陵墓を丁寧に扱うことと、学術的な研究対象とすることは何ら矛盾しない」と主張する 日経 72.3.29
3、大阪府教委「天皇陵も学術調査を」
一九七二年3月二九日大阪府教委は、府議会文教常任委員会で「調査の対象にした」とし、今後、文化庁とともに宮内庁へ働きかける、 朝日 72.3.30
4、字佐美宮内庁長官「陵墓の発掘応じられぬ」
三月三十日衆院内閣委貝会、木原実氏(社会)の質問に答えて宇佐美長官の弁(注 ーー別資料) 朝日72.3.31
5、天皇陵修補の今城塚古墳
「天皇陵の文化財調査したい」玉田府教委教育長 朝日 72・4・12
6、陵墓発掘「天皇のご意思きく」衆院文教委貝会
超党派で天皇陵の発掘調査要求 朝日 72.4.14
7、社説「天皇陵を発掘調査する前提条件」 朝日 72.4.17
8、「陵墓に文化財保護法適用を」考古学協会が決議 朝日 72.5.5
9、古墳と年代(上)森浩一 読売 74.1.22
10、天皇陵古墳への提言 読売 74.6.24
11、コンピューターによる古墳の形態研究
小沢一雄(大阪電気通信大学助教授・情報工学)
「応神・弁恭陵は同一の設計計画」 朝日 75.8.27
12,仁徳陵で新説“初めから三重塚” 日経 76.4.24
13,御陵調査 タブー挑戦すれ逆い
野本松彦書陵部長,「九団体の方も学術調査を要求されたものの発掘調査までは要求しない」とのことでした 朝日 76.5.30
14,斉明天皇陵、牽牛子塚古墳か
関大の網干教授・解説「尊厳」重視のあまり、真実から目を離すな 毎日 77.3.26
15,終末期古墳と天皇陵 朝日夕 78.3.1
16,べールをぬぐか「天皇陵」 日経 79.6.18
17,一九七九年六月十日古田武彦 『ここに古代王朝ありき』=天皇の問い= 朝日新聞社刊1979年 6・10
18,関東に大王あり古田武彦 朝日 79.9.30
19,天皇陵に学問の光を 大塚初重〔明大〕 朝日夕 80.4.14
10頁〜17頁 国立国会図書館 昭和47年3月30日
↓請求記号
BZ, 7,13で申し込めば入手可(8頁分)(法令議会資料室5F ーー当時)
○木原委員
その次にもう一つお伺いをしておきたいことがあるのです。
御承知のように、ごく最近、例の奈良県の明日香村で古墳の発掘が行なわれまして、まことにすばらしい古代美術というものに接することができた。こうニュースが伝わっておるわけであります。それに関連をいたしまして、私どものところにもたいへん篤実な考古学者の方々がいろいろなお話をしに見えました際に、宮内庁のほうで所管をいたしておる歴史的な陵墓、皇室あるいは天皇の陵等の調査あるいは発掘等についてもあらためて考える時期が来ているように思う。こういうような話がございました。宮内庁の立場では、歴代の天皇の陵墓を守る。それが基本的な任務だと思います。しかし、やはり明日香村で偶然の機会にすばらしい歴史のあかしになるようなものが発掘されますと、一面では、やや便乗してムード的にあそこもここもと発掘のブームが出るのを戒める声も強いわけでありますけれども、しかしながら、同時に、国会の中でもすでに定説になりつつあるような幾つかの、歴史的というよりも文化的な価値の高いと思われる陵墓等について、言うまでもなく、国の仕事として適切な方法を持って調査あるいは発掘の事業、こういうものをやるという場合に、これは一体どういうふうに対処をされるのか。宮内庁の所管にかかわることであると同時に、他の分野にも大きくかかわる問題なのですが、そういう問題についての長官の御見解をひとつ承っておきたいと思うのですけれども、いかがでしょう。
○宇佐美説明員
陵墓というのは、私がいまさら申し上げるまでもなく、陵は天皇、皇后、皇太后、太皇大后のお墓で、それからその他の墓というのは皇族のお墓でございます。要するに、御遺骸を納め、御冥福を祈り、そうして後世の人が御祖先をを祭るという精神のものでございまして、非常に精神的な意味が強いものであると私は思います。普通の史跡やなにかのように、公開し、調査し、発掘しという考えはとうてい考えられません。調査というようなことは、あるいは限度によってあり得るかもしれませんけれども、そういうような発掘をしてあばくというような感じは、現在の私どもの範囲においてはとうてい考えられないことだと思います。
ただ私どもも、陵墓というものを管理し、あるいは修理をするのでございますが、何か大きくくずれたような場合には手をつけるについても、一応詳細は準備をして、学会のそういう専門家にも御相談をしてやっておりますし、特殊なことがありますれば、これを宮内庁が出版をいたしております雑誌にも調査報告を出して公開をしているわけでございます。それ意外に特殊な意味でこれを公開し、興味を持ってやるというようなことは、私どもはとうてい考えられないというふうに考えておるわけでございます。
○砂田政府委員
ただいま木原先生のお話の、明日香の今回発掘された非常に貴重な場所は、宮内庁の陵墓ではございません。宮内庁の予算の中には、皇室の陵墓につきましては、維持管理費、改修費等が計上されているわけでございますけれども、明日香のあの場所はそうでない場所でございます。まだ詳細は伺っておりませんけれども、考古学的にとか美術的にとかいうことだけではなく、出てまいりましたあの壁画には当時の星座がかかれていて、天文学的にも非常に貴重なもののようでございますので、明日香村の支出し得る費用だけでこれを保護し、管理し、また研究するわけにはまいりませんことは、もう当然のことでありますので、政府といたしましては、文部省の予算を使うか、あるいは予備費を計上するか、何らかの政府としての予算措置をいたしまして、管理、調査等に十分考慮していきたい、かように考えております。
↓請求記号
〔BZ・7・13〕上と同様
昭和四七年四月十三日(全文13頁)
○並木説明員
先ほど先生から、こういう質問は陛下の耳に達しておるかという御質問でありましたが、この間衆議院の内閣委員会で木原実先生でしたか、その方も先生と同じような意見を申されまして、陛下の墓を発掘するということは影響するところ甚大であろう、だから、特定の一つか二つ発掘いたしまして、先生のおっしゃられましたように学術調査の資料にしたらどうかという御意見でありました。それに対して宮内庁長官は、やはり私が申し上げるのと同じことを答えておりましたが、その後木原先生は、こういうことは陛下の耳に入るのかという同じことを質問されました。そこで、長官が、それに答えて言われて、長官が国会に呼ばれると、きょう長官が国会へ呼ばれたがどういう質問があったかということを、必ず陛下は長官を召してお聞きになるわけです。だから、木原実先生がどういう御質問をなさったかということはその日か次の日に陛下のお耳に入っておる。だから陛下は、この問題は、高松塚古墳をテレビでごらんになっておりますし、それはお耳に入っておることは確かだと思います。ただでは陛下が一つ二つ掘ってみるかということは全然聞いておりません。
〔「どういうふうにお耳に入れたかだ」と呼ぶ者あり〕
○中山(正)小委員
いまうしろから不規則発言でおしゃっておりますけれども、全くそのとおりで、どういうふうに・・・ほんとうに陛下のお耳に人っておるのか、国会の他の話がなされて、そのことについては言われていないかもしれませんし、きょう並木部長は国会へ行ってきたが、どんな質問であったかという御下問があるでしようが・・・。それは冗談といたしましても、私はとにかくいろいろ歴史上はっきりしている時代はいいと思うのです。その歴代百二十四代おありになる天皇陛下の陵墓は、歴史的ないろいろな資料で明らかになっておる部庁は私はいいと思うのですが、歴史的にはっきりしていない部分については、当然日本の象徴、日本国憲法でも象徴であらせられる天皇陛下が、私は日本のわからない部分、日本の歴史の学術的に追及でき得ない部分に対しての、それを右にするか左にするかの大きな権限を御自分の天皇陛下の陵墓として持っていらっしゃる。ご自分の御判断としてそれに貢献ができるわけでございますから、その辺、ひとつもしそういう御下問がございましたら、臣中山正輝よりよろしくということを申し上げていただきたいと思うのでございます。
《中略》
○小林(信)小委員
わかりました。かくもあろうということを国民に言っていたら、国民は天皇制に対して不信を持ちますよ。天皇に聞いたらいいじゃないですか。天皇に聞いたらかくかくお答えになりました、私どもはそのおことばを信じましてかくかくいたしております。であろう推測をしておるから、ますます国民といまの天皇家は遊離されるような気がいたします。
それが証拠には、私は長い間宮内庁に行って、桂離宮を見せていただきたい、あるいは宮内庁所管のところに立ち入らせてもらいたいというような許可を得に参りますと、ここ十年ばかりの間にがらっと変わっていますよ。もとはまことにサービスがよかった。最近は非常に権威を持ちまして、おそるおそる行かなければ許可がとれない桂離宮の問題なんかでは一喝なんです。もちろん私は電話をかけて参ったこともありますよ。電話をかけて言いますと、一言でもってばんとけられる。実に最近の宮内庁のあり方というものはますます昔の宮内庁に返ってきておるような気がします。
(ーは藤田。 インターネット上では赤色表示)
国会における「天皇陵」関係議事録
資料3 第68国会衆議院議録内閣委員会(3頁分)
資料4 第80国会参議院議録内閣委員会議録8号(16頁分)
資料5 第84国会参議院決算委員会 第4号(3頁分)