今井久順
吾妹子に猪名野は見せつ名次(ナスギ)山角(ツヌ)の松原いつかしめさん
天乙女いさりたく火の多くして、都努(ツヌ)の松おもほゆるかな
『万』高市連黒人。
この歌に三つの地名が書かれています。「猪名野」は、兵庫県伊丹市の猪名川を中心とする総稱と思います。「名次山」「都努(ツヌ)」は、兵庫県西宮市にあり、先に「角(ツヌ)」の地名について私の考えを申します。
始めに古書に記された神名、人名を書きますと、「角材(ツヌクイ)神」『記』「角織*(ツヌクイ)尊『紀』都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」『紀』「都怒郎女(ツヌノイラツメ)」(反正天皇の后)、『紀』同人「津野(ツヌ)媛『紀』等と書かれています。
織*(クイ)は、織の糸偏の代わりに、木。JIS第4水準ユニコード番号6A34
次に地名では『和名類聚抄郷名考證』池辺弥著によりますと、「敦賀郡」福井県敦賀市。「都宇郡」岡山県、「都宇」広島県沼隈郡津乃郷?、「都農、都於」島根県江津市の江川以西、「都農郡」山口県、「都野」宮崎県児湯郡都農町等であります。
次に「ツヌ」地名の意味を考えてみます。
『続日本紀』「稱徳天皇、天平神護二年六月二十八日(七六六)に「豊章纂基之後。讃を以て横に福言を殺す。唐兵之を聞て復た州柔(ツヌ)を攻む。……-」とあり、「州柔」をツヌと訓じ、『紀』では、天智天皇(六六二ー六七一)の(六六三)の白村江の敗戦の前に「福信唾唯於執得・・・斬而醢首」と百三年の差はありますが、地名は「州柔」で、豊章王、福信も同じく書かれています。
百済は始め、十の部族が集り、国を建て十済と言い後、四囲の部族を統合して百済となったと言われています。我が旧の書では、先の「都怒我阿羅斯等」のことを額に角の生じた人と戯れて記されていますが、なんぼ昔でも、額に角を生やした人が、いたわけがありません。
「ツヌ」とは、百済人のことを唐の人も、我が国の人も、このように呼んだ、と言うことを前提として、最初の「高市連黒人」の歌から西宮市の古代を深ってみましよう。
高市連黒人は持統、文武両朝(六八七ー七〇〇)に仕えた歌人であります。名次山は東海道線西宮駅、西北二キロメートルに現在、名次町、北名次町、そして名次神社があります
この高台から北を望みますと、山頂から大阪湾銅戈を出土しました秀麗な甲山が拝されます。この甲山は昔はムコ(武庫)山、即ち迎(ムコ)う山と言われ神(風神)を、お迎えする山であり、大和の二上山と同じように古代人の必需品であった石器の原料サヌカイトの山です。迎う山か武庫山となり武庫は兵庫(ヒョウコ)だからと、兵庫県の県名が生まれます。これはさておき、名次山の地名ですが、名次は恐らく奴敷(ヌシキ)が、なまったと思われます。新幹線、新神戸駅付近は『和名類蒙抄』に「布敷」と記され、同じく奴の敷で、現在は布引(ヌノビキ)の滝の名所に名を残しています。また、その「布敷」の東は「天敷」で、神戸市項磨区と東灘区に「綱敷(ツナシキ)天満宮」が、祀られていますが、これも「チヌシキ、テンマ」であり、山の信仰、山に神を迎える信仰の祭の場であった「敷(シキ)」地名と思われます。
「角材神」こと「ツヌクヒのクヒは「大山咋」「三冊溝咋耳命」等、見受けられますが、「クヒ」には意味がございません。朝鮮語では、神のことを「クヒシン」と言います。即ち「角材神」とは、「百済・神」になります。
『新撰姓氏録』
牟古首出百済国入片礼吉後也。津門首神饒速日命六世係伊香我色男命之後也。又、天孫十三世孫、物部建彦連、高橋連、立野連、都刀連、藤井連、伊勢荒比田連、小野連同祖。
とも記され、百済系の人びとが住んだことが解ります。
そして、この人びとは『夫木集』に“柴小船まほにかけなせ ゆふしてて 西の宮人風まつりし”と歌われていますように「風神」を祭っています。この風神を祭るのは百済系の「都努」だけではありません。この西宮市「都努」の北方二キロメートル、京阪神急行電鉄の西宮北口駅北側(西宮球場北方)に野間町の町名が見受けられます。
この「野間」は古代には「奴間」と稱され沖縄県から干葉県、新潟県に位び、特に兵庫県に多い地名です。『魏志倭人伝』に書かれています倭国国名と思われる二十一国中の八国に「何々奴国」とあり、単に「奴国」が二つ記されています。
例えば鹿児島県能毛郡種ヶ島中種子町野間は、能満郡多[イ執](タネ)(天平五、六、二)で、九州の西南端、いわゆる天孫の上陸したという笠沙崎(野間崎)があり、野間山に野間神仕があり、現在の祭神は「コノハナサクヤ姫」ですが、明治時代以前は「姥媽(ノウマ)神(中国福建省付近では媽祖神)広東省付近では天后(テンゴウ)天妃(テンピ)と言う」が祀られていました。
愛媛県今治市(古代は能萬郡)兵庫県淡路島、『万葉集』二四九、二五〇の柿本朝臣人麻呂の歌
三津崎 浪牟恐 隠江乃 舟公宣奴島爾
珠藻苅 敏馬乎過 夏草之 野島之崎爾 舟近著奴
のように「奴島」であり、淡路島の「松帆の浦」は媽祖の浦であったと思われ、このように、西宮市野間町も古代にあっては南方系の「奴」で、「間」は島と言うように占有地を意味する語でありますから、「野間」は「奴の占有地」と言うことになります。
この西宮市野間町の東、武庫川を渡りますと、伊丹市野間村が、国宝昆陽寺の南にあり、この西宮市、伊丹市の両市、「野間」一帯が奴間と言われたのではないでしようか。
話が横道に外れました。「州柔の松原」にもどります。この「州柔の松原」には戦後にも古墳が二基見られました。戦前には「銅鐸」も出土したと言われ、その南は“天乙女いさりたく火の多くして・・・”と歌われていますように、海岸であります。そしてこの「州柔の松原」北方二キロメートルに、海民の住んだ「野間」の地が、より古代の海岸であったとしますと、「州柔の松原」と歌われた七世紀、古墳の築造が五、六世紀、銅鐸の埋められたのが四世紀といたしまして、陸が海に進むのは一年に平均何メートルくらい進むものでしようか。武庫川は急流で、川底の石に苔も生えないと言われ、相当土砂を運ぶ速度が速いと思いますが、弥生時代を紀元前二百年とし、「州柔の松原」が陸になったのを紀元三百年として計五百年、そして二キロメートルを割ると年平均四メートルになります。そこで逆に言えば「野間(奴間)」の地名は、弥生初期からの地名ということになります。