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市民の古代・古田武彦とともに 第3集 1981年
古田武彦を囲む会「市民の古代」編集委員会 編集

紀ノ川の神武

義本 満

 和泉山脈、またの名は紀泉アルブス。大阪府と和歌山児の境にある山並みで、その西端は大阪湾に落ち込んでいる。主峰は和泉葛城山(八六五・七m)である。
 私はこの山に過去二回登山している。一回目は、四十年以上も前の少年の頃、今は亡き親父と二人で、尾根伝いの険しい道を、喘ぎながら登ったことを記憶している.親父はこの麓の塔原という山村の生れで、葛城山は小供の頃の遊び場の一つであつたらしい。二回目は、十四、五年前、頂上近くまで車で行けるようになり、前回とは比較にならない楽な登山を楽しむことができた。
 葛城山の頂上に立って南方を見下すと、眼下に広がる紀州平野の真ん中を、紀ノ川がゆったりと流れている。和歌山市から五条方面に向う国鉄の和歌山線が、当時まだ機関車がS・Lで、煙を吐きながら川岸を走つているのが、小さくけぶって見える。正面は両岸の平野を隔てて、岩橋千塚のある山を右手に、紀ノ川に沿って紀州の山々が高野方面に連なっているのが一望のもとに見える。こちら側の紀泉アルプスと、対岸の紀州の山々の間を、紀ノ川を真ん中にして紀州平野が遠く川上で一望千里である。汗を拭きながら、眼下の展望を楽しむ壮快さは、山登りでないと味わえない。
 神武が河内湖岸で長髄彦と戦い、大阪湾に敗走して和歌山に至り、五瀬命を葬った前後の行動については、古事記・日本書紀(以下書紀という)・土地の伝承の、三者を比較すると、興味のある問題が多い。
 その最大の一つは、なぜ神武がこの紀州平野を遡行し、または紀ノ川を遡航しなかったか、という事である。神武は長髄彦との戦において、その敗戦の理由を.「日に向って戦ったこと」にありとし、今後、「日を背にして戦うべきこと」を、五瀬命の遺命として行動したとするならぱ、紀ノ川遡航こそ、軍事行動の第一歩であるべき筈である。冒頭に述べたとおり、紀ノ川の向岸は坦々とした平町地帯であり、激流岩をかむ難所もなく、距離的にも最も近い。また紀ノ川河口を離れれば離れるほど、すなわち南へ行けば行くはど(熊野へ近づけば近づくほど)大和へ出る道は遠ざかるからである。
 この状況は、当時の神武にとって自明の事柄と考えざるを得ない。
 いま、大阪から和歌山行きの国鉄阪和線、または南海本線に乗り、車窓から東を見ると、左手に生駒山系、その隣に金剛・葛城山系が屏風のように連なって見える。岸和田を過ぎる頃から和泉山系がこれにとって代り、府県境で山が海に落ち込む手前のトンネルを出ると、目の前に紀州平町が広がり、紀ノ川の鉄橋上から斜めうしろを振り返ると、今までの山並みの背面が連なって見える。
 この状況は、海上から離れて見ると、もっと鮮明に見える筈である。すなわち河内、大和の背面に出るには、和泉山系のうしろを流れる紀ノ川遡航が、地理的な障害がなく、且つ最も近道であることは、現在の目から見た常識であり、当然海上からこの状況を見てきた神武にとっても常識であった筈である。
 大阪湾に逃れ出た神武軍の行動については、古事記、書紀は次のように記述している。

古事記
紀国の男之水門に到りて語りたまひしく、「賎しき奴が手を負いてや死なむ」と男建びして崩りましき。故其の水門を号けて男の水門と謂ふ。陵は即ち紀国の竈山に在り。

書紀
進みて紀国の竈山に到りて五瀬命、軍に薨りましぬ。因りて竈山に葬りまつる。六月の乙未の朔丁己に、軍、名草邑に到る。則ち名草戸畔といふ者を誅す。遂に佐野を超えて熊野の神邑に到り、・・・。

 古事記・書紀ともに若干の記述の相違があっても、五瀬命を竈山に葬ったことまでは大差がない。それ以後、古事記は一直線に熊野に向うが書紀は熊野に向うまでに、名草戸畔と一戦を交えたことが記述されている。
 竈山の五瀬命の墓は、海南市に近い和歌山巾の南郊の地にあり、陵墓参考地として垣をもってガードされておりガマを伏せたような小山の上に営まれている。隣りが竈山神社で、祭神はもちろん五瀬命である。



 親切な土地の人(井田忠氏)の案内で、附近の伝承を聞きなから、神社の裏側から墓の頂上を見ると、小さな土盛りが細長く盛り上っており、それを囲むように石の垣が巡っているだけの簡素なもので、正面から見るいかめしさはない。頂上から少し降った木立の中に、緑泥片岩(土地の人は青石と言っている)の偏平な大石が、ニョッキリと三本立っており異様な感じがする。井田氏も始めて気がついたようである。
 私も、墳頂に偏平な石が突き刺さっているのを見たのは、松岳山古墳と岡山の楯築遺跡と、この五瀬命の墓のみである。ただし松岳山の二枚の板石は、それぞれ二個の穴が開けられており、穴の内側が何かで摩れて磨かれているので、古墳築造上の必要から、何かに利用するために立てられた感じがするが、ここの板石は、どのような意図で立てられたのだろうか。もちろん井田氏もご存知ない。



 竈山の西に聳える山は、神体山の名草山(二二八・六m)である。紀三井寺はこの山の西側斜面にあり、竈山はその裏側に当る。名草戸畔の本営があったと伝えられる吉原の集落は、竈山とは指呼の間にあり、中言神社の総社が存在する。名草山の祭神は、名草姫大神で名草彦神(夫の神)を合祀する。吉原の中言神社もこの二神を祭神とし、ここから分祀された中言社は附近に十二社といわれ、現在、内原、黒江・冬野・三葛の各集落の中言社には、名草山に向って遙拝所が設けられている。
 土地の伝承では、名草戸畔は女性といわれ、次のように説明されている。
「通釈の引いた或人の説では名草戸畔は名草姫かとある。トベのトは戸、べはメの音転。女。戸女の意。戸口にいる女。一家の主婦の意であろう。トジが戸主の約転であるのと似た意味の語」
 しかし右の注では説明のつきかねることがある。書紀には戸畔とつく人物が四名、古事記にも刀辨のつく人物は四名記述されている。いずれもトベと訓が附されている。

書紀
1名草戸畔(神武記)
2丹敷戸畔(神武記)
3新城戸畔(神武記)
4荒河戸畔(崇神記)

古事記
A苅幡戸辨(開化記)
B荒河刀辨(崇神記)
C苅羽田刀辨(垂仁記)
D弟苅羽田刀辨(垂仁記)

 戸畔が女性を意味するならば、1ー4の四名が、すべて女性でないと首尾一貫しない。しかし4の荒河戸畔とB荒河刀辨については、古事記、書紀の次の記事に注目する必要がある。

木国造、名は荒河刀辨の女、遠津年魚目目微比売を娶して生みませる御子、豊木入日子命、次に豊[金且]入日売命・・・

書紀
又妃、紀伊国の荒河戸畔の女、遠津年魚眼眼妙媛・・・豊城入彦命、豊鍬入姫命を生む。

 右により、古事記の荒河刀辨は国造であるから男性と考えられ、書紀の荒河戸畔はこれと同一人と思われるから、したがって男性でなければならない。ここから1〜3も必然的に男性像が浮かび上る。
 ただし古事記の他のABCは、何れもカリハタトベ、またはオトカリハタトベと訓を付し女性である。

山代の荏名津比売、亦の名は苅幡戸辮を娶し・・・
山代の大国の淵の女、苅羽田刀辮を娶して・・・
又其の大国の淵の女、弟苅羽田刀辮を娶して・・・

 右の他、「戸売」の用例が古事記、書紀ともにあるが、男性と女性の双方の場合がある。
 古事記の荒河刀辨から類推すれば、当然名草戸畔は男性でなければならぬが、他の刀辨、戸辨の用例からいって一貫した性別の法則は見出し難い。

 しかし、古事記・日本書紀の神武記以降を通読しても、女性の土豪の存在か記述されていないところから、当時は既に女権の強かった時代が去り、社会的な権力が男性に移行していたのではないか、と考える。(書紀の景行記、神功記にあらわれる女性の土豪については、九州王朝の古い時代の女王の物語であり、古田氏が既に論証ずみである)
 名草戸畔を女性としたのは、名草山の主神が名草姫大神という女性神であり、両者を同一人と考えた結果の錯誤と思えてならない。名草戸畔が男性であるならば、神体山である名草山の信仰が、女権の強かった太古に発生したと考えてよく、名草姫大神は、紀ノ川河口に縄文ー弥生時代から住みついた人々の、始原の祖神であった可能性がある。
 神武はなぜ五瀬命の墓地を竈山の地に選んだのであろうか。ここは紀ノ川の河口から約六kmの地点に当り、海岸からは名革山の裏側に位置する。土地の伝承では、毛見の琴の浦に上陸したといわれているが、ここからでも竈山まで六㎞近い距離がある。土地の伝承による神武の行動を、参考までに書くと次のとおりである。

毛見の琴の浦上陸→黒江→冬野(激戦)→吉原(名草戸畔の本営)→竈山

 これによると神武は、墓地探しのため名草族と激戦までして竈山まで行ったかに見える。または紀州平野を制圧するため、先ず名草族を血祭りにあげ、その戦いの過程で墓地に恰好の竃山を選定したのだろうか。
 古事記では、五瀬命が崩じたので竈山に葬ったのち、サッサと熊野へ出発したことになっており、伝承とはまったく異る。
 書紀もまた、名草族と戦ったのは、竈山に五瀬命を葬ったのちであって、記述が伝承とは逆である。
 また広い紀州の海岸地帯に、六kmも内陸に入らねば適当な墓地が無かった、と考えるのも不思議である。いったい神武は軍舟を、どこに繋留したのか。これらが私にとって解けぬ謎であったこの疑問を解いてくれたのは「和歌山の研究(安藤精一編)清文堂刊」の中の「紀伊湊と吹上浜(日下雅義)」の古代の地形図であった。
古代の和歌山平野 図一・二参照
 図一の現代の地図と、図二の奈良、平安時代の地図をみると判るとおり、奈良・平安時代まで紀ノ川は、現在の和歌川を蛇行して流れており、神武は和歌浦から紀ノ川に人り、将来和田川となるべき入江附近で軍舟を降り、近くの恰好の小山である竈山に五瀬命を葬った、と見るべきである。ここが現在の紀ノ川河口から六kmの地点に当る。古事記は簡単に「竈山に葬る」と記し、書紀は「進みて竃山に到り五瀬命を葬る」と、記述に先ず竃山が先行するのは、古代の紀ノ川は竈山のすぐ近くを流れ、神武はここまでは障害なしに入り込めた、と考えることによって、海岸から6kmも入り込んだ陸地に墓地を選定した不自然さが氷解し、軍舟の繋留位置も推定できる。またこの地図から次のことも判明する。土地の伝承は逆コースであったことを。すなわち次のとおりである。

紀ノ川遡航→将来の和田川の入江停船→竈山→吉原→冬野→内原

注、伝承によると、内原に名草族の主だった人々が閉し込められたといわれている。

 古事記・書紀ともに先ず竈山で五瀬命を葬ったことが判明した。このことは両書とも、紀ノ川を遡航したことを物語る。この遡航の目的は何か。五瀬命を葬ることが第一義であったのか。または紀ノ川遡航による大和・河内の背面に出ることを第一義と考えてのことなのか。このことは当時神武は軍事行動中であったことにより、はっきりしている。後者である。五瀬命の葬送も、その軍事行動の範囲内で行われたに違いない。すなわち紀ノ川遡航という軍事行動中の途中で、五瀬命の野辺の送りをすませた、と解すべきである。
 ここで古事記・書紀両書の記述の相違に注目する必要がある。書紀には、名草族の首領、名草戸畔の誅殺が書かれ、古事記には見当たらない、ということである。古田氏はその主著において、古事記になく、書紀にのみ記述のある事柄の疑ってかかるべき点を幾つか指摘し、古代史界に新風を次き込んだ論旨を展開されたが、名革戸畔誅殺の一件も、これと同様疑ってかかるべきか、どうか。
 古事記には、竈山への立寄りは、五瀬命の葬送だけが目的のように書かれ、一路熊野へ迂廻する。あたかも熊野で誰かが神武の到着を待っているように。これも一つの見方ではある。しかし別の見方も存在する。

一、五瀬命は死に当り、日を背にして戦うべきことのみを指示し、熊野への迂廻は具体的に指示していない.

二、前述のとおり、五瀬命の遺命を実行する最知かつ最良のコースは、紀ノ川遡航であったこと。

三、そして紀ノ川遡航は実行にうつされ、その過程で五瀬命の葬送が行われたこと。

四、結果的には紀ノ川遡航を断念し、熊野へ迂廻することとなるが、食糧、水の補給等について、沿岸各地を相当荒しまわったと推定されるが、これらのトラブルについては、古事記・書紀ともに記述がなく、省略された節があること。

五、竈山は、名草族の位置する集落とは、呼べば答える指呼の間にあり、武装集団の上陸は、当然名草族の目に止ったと思われること。

六、神武との戦について、土地の伝承が広範に滲透し、後代作為的に作られた物語とは思えない真実性があり、これを無視する方が返って真実に目をそむけると考えること。

 右により、名草戸畔誅殺の一件は、あったとした方が素直な見方と思われ、古事記には四と同様省略された、という見方も不思議でないと思われる。
 かくして神武は、名草族と戦闘に入らざるを得なかった。当然この侵入を阻止するために、一族はもちろん、河口あげての戦いが行われた、と考えるべきである。むしろ紀ノ川遡航を企てた神武にとって、後顧の憂いを断つために、この河口の名草族に対し、先制攻撃をしかけたとも考えられる。戦争は常に先制攻撃によって口火を切るのが常道であるからだ。
 しかしここにまた神武の悲劇が始まる。竈山の1km北側の抗ノ瀬の里に銅鐸が出土している。その他、ここ紀ノ川河口に六個の銅鐸が出土している。正にここは銅鐸圏の真只中であったことだ。縄文、弥生時代の遺跡も多い。鳴神・岡崎・吉礼・祢宜・大田・黒田・秋葉山・直川・六十谷・岡田・吉田・宇田森・北田井・井辺・神前、など数えあげると際限がない。古代人の住みつく場所は、先ず大河の河口であるからだ。神武の戦いは、銅鐸圏の真只中と、古代人の集落の巣の中で開始された。
 神武は首領の名草戸畔を誅殺したとある。緒戦は先ず戦いをしかけた方に味方する。その戦果を書紀は特記した。しかし古事記は記さない。ここに戦いは河内湖と似た結末が想定できる。
 一たん紀ノ川遡航を企てながら、名草族およびその援軍との戦いによって、この最良のコースを行くことの不可能を悟り、再び外海へ逃れ、熊野まで水と食糧をあさりながら航行せざるを得なかったのは、当面は神武の不幸であった。しかしこのことは、防備の少い熊野の山中を行かざるを得なかったことにより、それが成功に結びついたことを思えば、この道草と試行錯誤も十分報われた、というべきか。


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