茨木市 藤田友治
「韓国の古代史の旅」(囲む会主催)が、昨年五月一日〜五日(実際は六日になった)の六日間、古田氏を団長としてもたれました。この旅のコースは、古田氏の「階段式」読法を参考にして、バスをチャーターして「歴観」したものです。御存知の様に、『三国志』の魏使が韓地のルートについて記載している「郡より倭に至るには海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍(たちま)ち東し、其の北岸狗邪韓国に到る七千余里」に対する古田武彦氏の解釈をもとに、丁度釜山からソウルまでを、「乍ち北し、乍ち西し」と逆コースで訪ねました。日本に最も近く、一衣帯水の朝鮮の歴史とその国民感情については、私達日本人は意外と理解していないことが多いように感じられます。いや単に知らないというよりも、むしろ誤解や偏見が介在し、差別感さえ含んだものがあるとき、双方の民族にとって不幸なことであるといえましょう。
近代において、日本のナショナリズムが皇国史観となり、隣国への侵略を正当化する「イデオロギー」となっていったと言えます。旅行後、参加された方々から「楽しかっただけでなく有意義でした」というお手紙を数多く受け取っただけに、主催者の一人としてここで簡単に報告しておきます。
参加者は24名、その内、関東方面から 5名も参加されました。又、夫婦同伴を歓迎しますということで、私達を含め三組のペアが参加しました。とりわけ、出版記念会でも懇請した様に、武彦氏夫人の古田冷子さんに参加を要請し「お母さんの西川達子さんも一緒なら」という形で参加いただけたことは、囲む会ならではの親密な催しとなりました。しかし、古田氏は、講師として旅行中も、あの熱気で語りつづけられたことはいうまでもありません。
さて、五月一日、大阪空港から空の旅で釜山(プサン)に着く。早速、博物館へとび込むようにしている時、まず目についたのが入口に掲げられている一枚の絵でした。その絵は、日本側大名が、徳川時代に朝鮮へ通信使を送った様子が描かれており、一般に、徳川幕府の鎖国体制のみが強調されて教科書にも触れられることのない「朝鮮通信使」(徳川家康以来、李王朝の新国王の即位や徳川将軍の代替りごとに通信使が往来した。朝鮮からの通信使は前後十二回、一回につき五百人前後の使節団が、江戸まで往復した)の連綿と続く一面を垣間見た思いです。又、館内において、“九州王朝”(九州出土)の銅剣、銅鉾、銅戈(か)等と同じ様な出土物に出会い、古代における“同質の文化圏”を物語っているように思われました。古田氏は、博物館内の展示物を一つ一つ精査された後、コメントをされ、会員の熱心な質問があると、いつも丁寧に答えられるので、スケジュールの件で通訳を困らせることしきりでした。バスの中でも、つねに「講演会」に変っていきました。
弥生文化のころ、朝鮮からの渡来人ばかりではなく、倭人との交流を考え、文化の伝播についての理論的な説明でした。それについては、「現在、朝鮮・韓国側、あるいは一部の日本側の学者に、半島→列島方向の文化の流入のみ論じて、列島→半島方向の文化流出は認めない、という傾向があるように見受けられる」(「市民の古代ニュース」 No・21)と、古田氏の教え子、原田実君が最近まとめていますが、私達は、ここでその二つの「知られざる」日本からの流出の物に出会ったのです。いずれも、今までほとんど「知られて」いなかっただけに、やや長く触れることになりました。
二日は、新羅の古都である慶州(キョンジュ)へ行く。仏国寺、博物館、雁鴨池、天馬塚、鮑石亭等を見学する。これ以後は、囲む会の古墳探究班・リーダーの織田重治氏の「韓国古代史の旅」(「市民の古代」第二集)で既に的確にまとめて発表されておれるので、詳細は割愛します。
三日には、日本の飛鳥文化に大きな影響をもたらしたといわれる百済王朝の面影を留める扶余(プヨ)から公州へと行き、定林寺址、博物館、有名な武寧王陵等を見学、更に俗離山へ向う強行軍でした。
四日は俗離山からソウルヘ、途中、民俗村を見学する。日本の「明治村」にあたるでしょうか、韓国の民俗村は、朝鮮王朝時代そのままの村落を形成している家屋を全国から、約二〇〇軒集め、庶民の生活を再現しています。“農楽踊り”の明かるく、リズミカルな動きとタイコの音、それは豊作を祝い、又祈る民衆の生きるエネルギーをあまねく表現していて、心に残りました。全員で、屋台の韓国風「お好み焼」を食べ、マッカルリ(濁り酒)で乾杯をしましたが、その味と雰囲気は、一同に旅行の醍醐味を与えてくれました。
いよいよ旅の終着地点であるソウルヘと近ずくにつれて、なぜか心は重く沈んでいったのは私だけではないと思います。近代化された大都会のもつ喧噪への忌避と、古田氏を講師とした古代史の旅をもっともっと続けていたいという想いがそうさせるのか。或は、ハイウェーを走っていて、中央分離帯がないことによる「交通事故への恐れ」よりも、非常時において戦闘機が飛び立つ臨戦飛行場とするための「戦争への恐れ」のためでしょうか。
教養もあり、しかも勉強家の見事なガイド鄭さんによって、公的にも私的にも(仕事終了後も、あまりないことですがと申されながら、私達と夜遅くまで議論に加わっていただいた)韓国の表層だけでなく、その心の奥底に秘められた民衆の「恨(ハン)」の心に触れてきたかも知れません。隣国からの侵略に対する抵抗の歴史、又、挫折感 ーー日本人にはない一種独特の感性があると言えると思います。それは「うらみ」ではなくて、「『恨』はむしろ自分の内部に沈澱し積る情の固まり」(李御寧(イオニヨン)「恨の文化論」学生社)であるのです。
当初、五日には帰国する予定でしたが、連休で飛行機が満員のため、幸か不幸か一日余分に見学ができました。そして、旅の最後に、「恨」をも教えてくれた、私達のガイドの鄭さんは「本当の観光とは、名所旧跡を見るだけでなくその国の光り輝く人々を観ることだ。私は古田先生をはじめとして、あなたがたを観た」と別れの挨拶で涙声で語られました。
私達は、日朝の関係史における永い深い交流を見、又鄭さんをはじめとして韓国の人々の真心を観ました。
最後に、会として花束や記念品を贈呈しましたが、参加者の絶賛を充分表現し得たかどうかと思うところです。
これは雑誌『市民の古代』の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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