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市民の古代・古田武彦とともに 第4集 1982年 古田武彦を囲む会発行
「市民の古代」編集委員会

◇九州王朝説の新展開

筑紫万葉の大きな空白

倭国=九州王朝論・傍証

福岡市 いき一郎

 二度目の筑紫住民となって四年たった。
 古田武彦さんを囲む会も十回近く開かれ、私たちのヤマタイ国研究会は、前身のツクシ古代史シンポをふくむと三十回を数える。
 遠賀川流域東岸には原田夢果史大人、中流に前岡孝子夫人、宗像に橋田薫スサノオ、博多湾岸に田島豊三郎氏(歌人)、徳満小岱クナ国王、永井彰子夫人ら、筑後川流域に高山利之さんらがいる。古田さんを囲む会のスタッフである。ヤマタイ国研究会は月に一度、土曜の午後に、福岡市の中央市民センターに集まり、おしゃべりする。ときに高校生もくる。

 私は、昨年は大阪、東京(二回)、金沢で講演会を開いたが、東京では年に一同、ヤマタイ国研究会をもつことにした。この春から、私は東京と博多という二重生活である。
 忘れないうちに書いておこうという原稿は九作目を終える。 ーーノンフィクション
「ヤマタイ国“発見”記」(フクニチ新聞連載)の単行本分は三百三十枚ほどで、これをふくめると五十歳六ヶ月で十本の古代史論という目標を達したことになる。
 いま書いているのは、日本国七世紀後半成立説から『万葉集』と『懐風藻』(最古の漢詩集)を見るとどうなるか、ということで、約四百三十枚ほどである。

 この四年間、筑紫の地で見聞きし、読み書きしたものを集約すると、

 倭国=筑紫=北部九州・山口
 扶桑国=関西
 文身国=北陸、国王=道君・・・継体
 大漢国=関東

 という中国正史を座標軸においた相互関係である。古田さんと若手の研究者、赤松文之祐氏に教わるところが多い。(赤松論文『現代の眼』八二・一)赤松氏は七千枚の予定で“中韓史籍からみた古代日本編年史”といった原稿の完成を急いでいる。

 さて、筑紫の地には関西にない神籠石群が九ヶ所(現在発見されているもの)あり、これを朝鮮式古城と考えると、いわゆる朝鮮式山城は、大野城、キイ城、キクチ城と九州本島に見ることができる。
 また、壁画古墳は福岡県南部と熊本県に集中し、北部に彩色系、南部に彫刻系が多くよく知られているところである。『記』『紀』、『万葉』に記された神社は志賀海神社、宗形(胸形)神社、香椎廟だが、不思議なことに全国四万という八幡社の本源、宇佐八幡はまったく語られていない。

 福岡の深野治氏(記者、評論家)の示唆により、私は万葉集の歌枕(歌の素材)に筑後と大隅が皆無だと知ったのは八○年三月のことであった。
 よく調べてみると、『万葉集』の歌枕のない地方は筑後国、肥前南部、肥後北部であって、南北七十キロ、東西百キロにおよぶ。
 しかも、この地域は、杷木(はき)、帯隈山、おつぼ山、高良山、女山(ぞやま)という五神籠石群をふくんでいる。
 また、壁画古墳の密集する地域である。
 いまの地理でいえば、筑後川から有明海(筑紫海)、雲仙、阿蘇をつつみこむ。風光明眉な地方である。関西でいえば紀伊一国に当たろうか。

 おかしなことに、筑後川の北岸は、大宰府とは指呼の間である。大伴旅人らが夜須でうたった歌がのこっているが、太宰府から日帰りの地である。そのすぐ近くに高良山が見え、はるか雲仙を望むことができる。
 万葉人はなぜ、筑後地方をうたわなかったのだろうか。

 その広い地域は“文化はつるところ”であったのか。文化人はいなかったのか。
  『万葉集』四千五百首のうち、筑紫に関係のある歌は六百近いという(故筑紫豊氏)。
 これらの歌は、奇妙に筑紫南部を避けている。こわいものを遠まきにするかのようだ。
 その地域は、磐井の岩戸山古墳と熊本・江川船山古墳を南北の軸にしているといってよかろう
 。旧倭国の残映を示しているのだろうか。
 倭国王武が中国南朝と交渉をもち、有名な上表文をもつ地方だ。中国官人の筆が加わったかもしれないが、文化はあったのだ。
 平城京時代のはじめ、道君首名が筑後守兼肥後守として赴任し、善政を施したといわれる(『続紀』)。首名は『懐風藻』に漢詩をのこした。つづく筑後守葛(ふじ)井大夫は大伴旅人や山上憶良と大宰府歌壇に参加し、歌を作っている。
 官僚詩人はいたのだ。
 では、なぜ、彼ら自身が、地元の民がうたわなかったのか。それは謎である。
 しかし、こうも見事にある地城を避けたとすれば、深い理由があろう。
 それは、旧倭国の本陣のあった地域だからとしか考えられない。
 憎い旧倭国の地であるが故に、詩人はその地をうたわず、その地の民にうたわせず、編集者はその地に関係する歌を削除した。例外的に肥後出身の大伴部熊凝の死に際してよませた山上憶良の歌があるが、これは憶良の歌だから残されたと考えられる。
 このような万葉集の奇怪な禁忌は倭国=九州王朝の実在の証明となろう。

 なお、面白いことに、万葉歌人は宇佐八幡に触れていないが、いち早く仏教に帰依した八幡信仰、その意味でも藤原氏的な存在を歌枕とすることをいさぎよしとしなかったと思われる。
 時の藤原政権にとって大仏を造るときの、宇佐八幡の“お告げ”こそ百万の味方であった。
 しかし、『万葉集』の詩人たちは、大伴氏の古神道思想を拠り所にしていたといえよう。彼らは、大仏をうたわず、宇佐八幡を無視した。
 やがて、七五九年、大伴家持の新年の歌をもって『万葉集』も終わりを告げる。
 この頃をもって、筑紫住民の非武装化、武器製造の禁止が解かれる。
 藤原氏の律令と仏教による支配の完成であった。北のエミシを除いてのことだが。
(八二.二)
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 古田批判は、『季節 ー古田古代史学の諸相ー』 (第十二号1988年8月15日 エスエル出版会)の「古田武彦批判」を参照して下さい。


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