高田かつ子
いよいよ東京に「古田武彦と古代史を研究する会」が正式に発足いたしました。
今まで東京には会がなかった、というと驚かれる人が多いと思います。しかし組織的な会というものは存在していませんでした。古田さんの講演会には、「創世記」を連絡事務所にして、一度でも出席したことのある人には次の通知がいくシステムにはなっていました。講演会の当日、希望者が集まってきて話を聞き、終れば帰っていく、それだけの流動的な会員がいたわけです。毎回、百人前後の人が集まってはいました。
それとは別に、個人的に古田さんを囲んで、飲んだり食べたりしながらの親睦会はありました。昭和五十一年、第一回目の九州・壱岐の旅行で顔見知りになり、同じ年の九月、始めての講演会(「幻の倭国大乱」)で意気投合した七人のメンバーが、古田さんの上京のたびに集まってはワイワイ騒いでいました。その模様は『関東に大王あり」の第IV部・東京にて( 255頁〜 287頁)に雰囲気がそのまま描かれています。しかし、本に出ている程するどい質問は出ませんでしたが、古田さんの話は学問的なものでした。ドキドキする様な新発見の話を、誰よりも早く聞けるよろこびを七人は満喫していました。このよろこびを多くの人にわけてあげたい、という素朴な気持ちから会員を組織的にし、この様な会合を希望者の間で持てる様になったら、というのが皆の心に芽ばえたとしても不思議ではありませんでした。「東京でも会を作ろう」という声が起こりました。旅行の時とか、講演会の後とかに個個に呼びかけをしましたが、仲々実を結ぶまでには至りませんでした。
昭和五十四年の九州旅行の後、橋本崇さんの肝入りで、旅行参加者が古田さんの上京を機会に一堂に会し、食事をしたこともあります。同じ年の十月の講演会「神話の考古学〜石斧と小銅鐸」でアンケートをとり(「市民の古代」第二集に収録)それを元に、田島芳郎さんが、抽出した人達に電話連絡をしたこともあります。しかしいずれも、いざ組織作りという段になると、いつのまにか立ち消えになってしまいました。
その間、大阪の「古田武彦を囲む会」からの呼びかけが何度もありました。中谷義夫さんや藤田友治さんが、それぞれ出張で上京の折に、東京の会、設立のためになるならと、有志の人達との間で話合いを持ってもらつたこともあります。
しかし東京の会設立とまではゆかず、会の趣旨に賛同した人は、大阪の「囲む会」に入会してしまうという結果を生みました。それまでにも「市民の古代」を読んだ人達の中から東京の会設立が待ちきれず、大阪の「囲む会」の会員になった人はいます。東京にも会員組織があったら、と残念に思うことは今までに何度もありました。
例えば昨年(昭和五十六年)五月、大阪「囲む会」の企画になる“韓国古代史の旅”です。古田さんを講師に、日本と関係の深い新羅・百済のくにぐにを巡る旅でしたが、これも「囲む会」に入会している人は「囲む会」通信で知ることが出来ましたが、そうではない人すべてに知らせるのは、個入の力では限度がありました。会員組織があったらと、その時思ったものです。韓国の旅が実りの多い旅であっただけに尚更でした。
又、大阪「囲む会」からいろいろ情報も貰っていました。古田さんが各雑誌・新聞等に寄稿された論文等のコピーも集まりました。しかし身近かな人達で回覧するだけ、死蔵に近い状態でたまっていきます。これも会員組織になっていたら見たいという人にコピーを送ることも出来るのにと、残念なことの一つでした。
そんな思いが胸にあったところ、昨年(昭和五十六年)九月、近江・三島・山城の旅先で又々会員組織の話がもち上りました.そして東奈良遺跡を見学した際、大阪「囲む会」の藤田友治さんが合流して、古田史学讃歌をうたいあげ、「囲む会」のありようをさわやかに説明されたのです。話を聞いた人の中には、大阪「開む会」の束京支部を作ろうじゃないか、と言い出す人まで現われました。それ程、藤田さんの話はこだわりがなく、皆の心に感銘を与えたのだと思います。何かをやらなくては、という気持をおこしてくれました。帰京してから早速有志が集まって具体的な話合いを待ちました。ちょうどそんな時、今まで世話役をしていた「創世記」の東さんが身辺多忙になり、連絡場所を「創世記」から川元一郎さんの家に一時、移すことになりました。ただ皆が集まるのは、足の便が良いので銀座にある「朝日カルチャートラベル」の事務所を借りることにしました。
その時の話合いでお互いに確認したことは、古田さんの為になる会であること、同時に会員の親睦の会であること、の二つでした。古田さんの最近のスケジュールは過密状態であるから、これ以上研究の時間を奪わないこと、従って束京での講演は年二回が限度であり、会員の楽しみのために古田さんを引つ張りだすことは慎しみたいと申し合せました。
その代り、古田さんが上京、ということになると時間を日取大限に利用することになります。従来から講演会の後は、席をあらためて勉強会を持っていました。お弁当を食べ、缶ビール、缶ジュースをかたむけての気の張らない勉強会です。といっても古田さんの人柄でしよう、内容は非常に高度なものです。それは七人の会の時と同じでした。この勉強会は昭和五十四年のアンケートの希望にそったものなのです。
小さな集まりで討論の場を持ちたい(17名)・食事を共にしながら話したい(27名)・酒をくみかわしながら雑談を楽しみたい(11名)という希望にかなったものということで、昭和五十五年の春の講演会「邪馬一国論争 ーー安本美典氏に応える」から始められていました。そして、もう一日、占川さんに東京にとどまっていただいて、関東一円の遺跡をめぐる日帰り旅行、これも32名の希望をいれてのことですが、今後も続けることになりました。ヤマトタケルの関東征服讃の裏にかくされた、関東の大王たちの興亡をさぐる旅、というのも興味のつきないところです。こうして今後も二日間はびっしり、古田さんの身柄は拘束されることになりそうです。
さて、昨年(昭和五十六年)十月三十一日の講演会「画期に立つ好太王碑」で、会員募集を呼びかけたところ、百名近くの人が集まりました。今年(昭和五十七年)一月十日に、その中の有志三十名程が、恵比寿区民会館に集まり、それぞれ古田史学に対する思い入れを語り、古代史の蘊蓄を傾け、会への希望を述べ合いました。古田史学を楽しむもよし、批判するもよし、支援するもよし、いろくな意見を持った人の集まりではあるけれど、「古田武彦を核として集まった古代史研究会である」という認識を確認しあって「古田武彦と古代史を研究する会」の第一歩を踏み出しました。その時にもやはり大阪の「囲む会」の東京支部に、という提案をした人もいます。東京は東京で独立すべきだと主張する人もいました。しかし、東京だとか大阪だとか、狭くるしいセクショナリズムにこだわることなく、古田史学に共鳴した者同志、「囲む会」でも「研究する会」でも「励ます会」でも名称には関係なく、手を結び合うことの方がより重要であるという認識のもとに、東京は東京として会を発足させました。
会長 西谷日出夫
事務局 川元一郎、竹野恵三、田島芳郎、鈴木正勝、滝口茂子、高田かつ子、春田孝正
年会費 干円。古田さんの近況を知らせたり、論文コビーの内容を知らせるための通信費として。
連絡場所 略
これは雑誌『市民の古代』の公開です。史料批判は、『市民の古代』各号と引用文献を確認してお願いいたします。
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