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これらをより良く理解するには『好太王碑論争の解明』(藤田友治著 新泉社)をご覧ください。

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『市民の古代』古田武彦とともに 第5集 1983年
「市民の古代」編集委員会
特集II ◇好太王碑文研究の新視点

好太王碑改削説への反証

茨木市 藤田友治

一、今日までの好太王碑文研究の経過とその意義について

 従来、日本の古代史上の根本的資料として扱われてきた、高句麗の好太王(通称、「広開土王」)碑は、全ての高校の教科書においても取り扱われてきた。注1 好太王とは、周知の様に高句麗の中期、最盛期の王であり、正式には「国岡上広開土境平安好太王」であり、好太王と略する方が適切であろう。注2 『三国史記』に拠れば、諱(いみな)を「談徳」、「永楽大王」と号した。在位は、西暦三九一年〜四一二年で、碑は王の死後、二年して彼の子、長寿王がその功績をたたえて建立したもので、現在中国吉林省輯安にある。
 碑文の建立の目的は、本来的に葬られた者及び高句麗の功績と偉業をたたえるためであるのだが、日本では「大和朝廷」の功績をたたえるために議論されてきた感があるのは一体どうしてであろうか。
 通説では、「倭」を「大和朝廷」(政権と呼称する書もある)とし、三九一年に海を渡って、高句麗と交戦して、朝鮮半局のすすんだ生産技術や鉄資源を求め、国内統一の強化に役立てようとしたとし、かつ、高句麗と戦うのであるから、玄海灘を渡るには、進出の根拠地となる九州を支配したことは明白と考え、「大和朝廷」の全国支配の時期を四世紀〜五世紀とする根拠の一つともしていた。
 又、碑文は、戦後の「科学的」歴史学を通じて、古代日本の国家統一と古代日朝関係史を考える最大の物的証拠としての論拠を与えるものであり、「最も重要な一級金石資料」であるとされていたのである。
 このような状況の中で、一九七一年(昭和四六年)に好太王碑の研究史上、画期的な論文が発表された。
 (これまでの通説の確立及び普及の時期を第一期とし、注3 研究史上、碑文を即自的に信用してきたのに対し、中塚・李両氏以後は、碑文を対自的に疑い第二期を切り開いた。もっとも、資料・史料は、全てその内容の検討のみならず、信憑性についても論争となる時期があって、研究史上、議論が深まってきた。金印の「漢委奴国王」の贋物論争も、真実は本物であったが、その解釈の研究を深めたことは明らかである。)
 即ち、中塚明氏は「近代日本史学史における朝鮮問題 ーーとくに『広開土王陵碑』をめくって」(『思想』五六一)で従来の碑文の研究に重大な疑問を提出し、「広開土王碑」がはじめて日本に知られたのは、「拓本」が日本にもたらされた一八八四年(明治十七年)であり、「拓本」をもたらした人物は、おそらくスパイの命をおびていたと考えられる「酒勾景」という現役の軍人であり、その解読や解釈は参謀本部の中でおこなわれたと主張した。
 この論文以後、碑文の研究が前進し、佐伯有清氏が「高句麗広開土王陵碑文再検討のための序章 ーー参謀本部と朝鮮研究ーー」(『日本歴史』二八七、昭和四十七年)の中で、参謀本部の将校の名前は、正しくは「酒勾景」であることを指摘した。
 このような問題意識の中で、一九七二年(昭和四十七年)五月に李進煕氏は「広開土王陵碑の謎 ーー初期朝日関係研究史上の間題点ーー」(『思想』五七五)で従来の碑文の研究の重大な疑問に対して、一八八四年(明治十七年)に、はじめて日本にもたらされた「拓本」は「双鉤(そうこう)加墨(かぼく)本」であり、これは酒勾大尉(当時は中尉)の属していた日本軍部の参謀本部が、初期朝日関係史の部分の碑文を削りとるか、「石灰塗布作戦」を日清、日露戦争の間に行なったものであると主張した。更に、『広開土王陵碑の研究』(同年十月、吉川弘文館)において、史料編とともに「実証的」に自説を展開した。
 この碑文「改削」説は、学界、思想界のみならず、教育界に覚醒をもたらすショッキングな問題提起となった。教育現場においては、この説以後、どのように碑文をあつかうのか、率直にいって困ってしまう場面に遭遇したのである。(私は高校で日本史を担当しているので、実感としても困ってしまった。)
 学界の沈黙を破ったのは、むしろ在野において一貰して古代史における「通説」を批判してきた古田武彦氏であった。東大で開かれた史学会大会で(一九七二年十一月十二日)、精密な史料批判の上で、古田氏は「好太王碑文『改削』説の批判」をおこなった。注4 論点は次の点にある。

1). 宮内庁の「碑文之由来記」は酒勾の筆跡であり、参謀本部の上司に出した報告書である。
2). 束京国立博物館にある問題の「酒勾双鉤本」に双鉤したさい符号として書き込んだとみられる文字があるが、この字と酒勾の筆跡は違う。
3).「由来記」は参謀本部の内部文書なのでウソをいう必要はないから「現地人を脅迫して入手した」と書いてあるのは真実だ。
4).従って、“すりかえ”は行われていないし、双鉤したのは清朝の拓工である。

 その後、一九七三年(昭和四十八年八月)に『史学雑誌』(第八二編第八号)において、「好太王碑文『改削』説の批判 ーー李進煕氏『広開土王陵碑の研究』についてーー」という精緻な批判論文が発表され、又、一般に解りやすく「高句麗王碑と倭国の展開」(『失われた九州王朝 ーー天皇家以前の古代史ーー』朝日新聞社、現在は角川文庫)が発表された。
 古田氏の李説批判の根本的な動機は、「いうまでもないことながら、わたしには『日本の軍国主義』を弁護しようという、一片の意思もない。いな、むしろ学問をもって『日本の軍国主義」の『犯罪行為』をあばこうとする、李の志を壮とする。しかし、事はあくまで実証に属する。必要なのは、事実にもとづくこと、徹底的に実証的であることだ。」(上掲書、二〇九頁。傍点は引用者。以下インターネットでは赤色表示)ということにあった。従って、李氏が目を通した史料を全て再検査した上で、かつ李氏が発見し得なかった史料、例えば、酒勾自身の「証言」ともいうべき「碑文之由来記」(宮内庁図書寮所蔵)を含めて、精密に論究を加えた上で、碑文の文字の異同は「イデオロギー的加工」によるという客観的証拠はないと実証した。
 しかし、現在まで好太王碑の現地調査が、戦後の日本人にとっては、誰も許可されていない現状もあって、いまだに論争が「決着していない」感を与えている。例えば、次のような主張がある。
 「今後必要なことは、日本と朝鮮と中国(この碑の所在地)の三国の専門家により現地の実物に即した共同調査を行ない、碑文の真実の姿を明確にすることであろう。」(家永三郎編『高校日本史指導資料』三省堂)
 碑文の真実を確定するには、少なくとも研究者に碑の公開が行われなければならない。かつて、毎日新聞が社説において「広開土王陵碑の国際調査を」と論じたが(一九七三年二月二〇日)、これは史学会大会での李ー古田論争の進展を期待したものであった。注5
 このような状況の中で、好太王仰の公開に向けて古田武彦氏は長年努力を続け、日本における関係各方面のみならず、中国の関係機関へもねばり強く交渉してきたのである。私もこれらの一連の交渉に参加してきた。(詐細は古田武彦を囲む会発行「市民の古代ニュース」No.19の拙論と、『市民の古代』第四集「好太王碑の開放を求めて」の拙論を参照されたい。)
 碑の公開交渉のため、二度にわたる訪中が行われ、その結果として、研究史上、画期をなす(碑の公開がなされれば、それ以後の碑文についての研究を第三期とすべきであると私は考える。その理由は、碑文「改削」説発表後、碑文そのものの確認をして研究することの重要性は明白であるからだ。)碑文の現認者でもある中国吉林省博物館研究者、武国員力*氏と古田武彦氏の中国での邂逅がなされたのである。武氏は李説、即ち「改削」説を熟知した上で、直接碑文を確認した研究者であることから、彼の「証言」と研究上の見解が、従来の古田氏の説と一致したことは重要な意味があるのである。
(詳細は古田武彦氏「画期に立つ好太王碑」(講演録) ーー『市民の古代」第四集所収を参照されたい。)

武国員力*(ぶこくしゅん)氏の[員力](しゅん)は、JIS第三水準ユニコード番号52DB

二、好太王碑の公開を前にしてなされなければならない基本の調査

 私達が中国で交渉した結果、確信を得ることができた「好太王碑の公開」を前にして(朝日新聞「好太王碑公開へ ーー二年以内、中国側が約束ーー」一九八一年八月三十日)、正確な碑文の読解をなし、そこからどのような歴史的事実を了解するのかは非常に重要なことである。
 現在までの学界における状況は、李ーー古田論争のまま「進展」・「決着」していないのを反映して、教育界でも「近年の学界では見解が分れている」(高校日本史教科書)とされ、生徒には「よく解らないことだ」となってしまい、不可知論におちいらせてしまっている。もっとも、鋭い生徒はそこから知的興味心をおこし、一体どちらが正しいのかという質問を発してくれるので、この事が私自身の好太王碑研究の根本的な研究動機となってきたのである。
 碑の公開を前にして、従来発表されてきた碑文の解釈(これ以後、「釈文」と表現する。釈文は碑の実地調査や拓本等によって作成されたものである)は、どれが最も信頼できるのであろうか。そこで、まず、私が指導する地歴部(大阪府立茨木東高校)では、碑文の拓本、釈文、写真等を入手出来る限り集めて調査に入った。資料は、李進煕氏『広開土王陵碑の研究』の資料編(拓本と釈文)及び本文巻末の写真、古田武彦氏『失われた九州王朝』及び、古田氏所蔵の「大東急記念文庫」の拓本の写真、水谷氏拓本の写真、又、国立国会図書館や天理大学図書館で私が入手した釈文等である。
 この調査のはじめの作業は、碑文一八○○字の一字ずつを拓本、釈文それぞれ区分して、比較できるように表にすることであった。この表の完成後、例えば、一面一行一字目はどの拓本も釈文も同じ字であるか否か、というようにして、一字ずつ碑文を吟味していった。これらの調査は到底、一人では出来る性格のものではなく、文宇に対して新鮮な目をもった生徒達(一般に世間では、「現代っ子はあまり文字を知らぬ」と言われるが、かえって先入観をもたないので、一字一字厳密な調査となった)の力によって行われたものである。
 二十本の釈文中、一八○○余字について異なる解釈を示したのは次の通りであった。

A 釈文の一本が異なる姿を示している文字が、一八○○余字中一六三字あった。(全体の 9.0パーセント)
 (例:一行29字目「出」は、一本が「世」となっている)
B 釈文の二本以上が異なって解釈されている文字が、一八○○余字中一三四字あった。(全体の 7.4パーセント)
 (例:二行 2字目「車」は「幸」「即」などとされている)

 同一の碑文から、これだけ異なる解釈の巾を示す例は他にないと言える程、字の解釈が分れているのだ。これだけ解釈が分れる中で、李氏は計二九七ヶ所中の「一八ヶ所」(一八ヶ所とするかどうか論争があるので、後述する)を限定して「改削」と主張するが、今やその根拠が問われなければならない、というところまで来ているのである。
 ここで、根本的疑義が生じてくる。つまり、これまでの拓本やそれを基とした釈文の信頼性をどうして測るのかということである。碑文そのものが「改削」されているという「仮説」がある以上、実証的かつ論理的に厳密な史料批判がなされなければならないのは自明であろう。
 そこで、碑文の四面の内で、“改削”論争がなされた一面から三面の三行までの箇所をまず保留とした。事実、碑文の欠損は第三面七行目までが著しく、八行目から第四面まではほぼ判読できる。しかも、そこは、「誰に好太王碑の墓を守らせるか」という碑の建立の為の意義づけがなされている重要な所でもある。又、国姻、看姻 注6 のそれぞれの合計が、碑文の申で三十と三百家として明記されていることでも重要なところである。即ち、碑文には、「守墓戸国姻卅看姻三百都合三百卅家」とある。この部分については、古田武彦氏の「画期に立つ好太王碑」(『市民の古代』第四集)を除き、研究者の間でほとんど取り扱われていない。この箇所は三面八行目から第四面まで、国姻、看姻の戸数がずらりと表記された所であるが、碑文にその合計数が書かれているところから、その数を数えることで客観的に碑文を拓出した拓本やそれに基づく釈文の信頼度を測定しうるのではないか。つまり、拓本ならびに釈文の客観的信憑性を測定しうることに気づいたのである。注7
 また一層、厳密に取り扱うために、碑文中に一ケ所(第四面二行三五字目)出現する「都姻」については、その存否について研究者間で「論争」があるから対象から除外し、かつ看姻について少なくとも一ケ所以上(第四面第一行一字〜八字)碑文の欠損があるから同様に除外すると(もっとも近似値は測定しうる。私達の調査では測定したが、この一ケ所の欠損部分に様々な数値の推定が成り立つので除外する。)、結果的には国姻に対象が限定できる。そこで、国姻について、前述した入手出来る限りの拓本、釈文について調査した結果、碑文に明記されている「三十」にピッタリと一致したのは次の三点であった。
 一点目は『朝鮮金石総覧』(一九一九年発表)の釈文(前間恭作氏)、二点目は戦前入手した拓本をもとに作成した水谷悌二郎氏の釈文(『書品」第一〇〇号、一九五九年発表)である。そして、三点目は、今回、大阪府立茨木東高校地歴部の手によって初めて復元に成功した大東急記念文庫の拓本であった。
 他の拓本、釈文については次の数値であった。酒勾本、三十七。栄禧本、三十二。羅振玉本、三十五。劉承幹本、三十六。末松保和本、三十一。でいずれも碑文の合計数、三十に合わなかった。一点目の『朝鮮金石総覧』は、従来から研究者が最も多く使用してきたものであり、一九六三年の朝鮮民主主義人民共和国社会科学院の歴史学研究所と考古学研究所による調査によって、金錫享氏が『古代朝日関係史』(一九六九年)で発表する際、引用しているものである。二点目は、研究者間で評価の高いものであるが、三点目はこれまでほとんど評価されていない資料であった。注8 そこで、次にこの大東急記念文庫の拓本の性格について分析しよう。

三、大東急記念文庫の拓本の史料価値とその由来

 碑文を正確に反映した拓本、釈文を調査するため集めた資料の中で、異色の資料が大東急記念文庫の拓本(雙鉤加墨本)であった。この資料は、古田武彦氏が、現地(東京都世田谷区上野毛の後藤美術館)に行き、拓本の写真をもらい受け、保存していたものを厚意を受けて借りたものである。この拓本は、次の図1を見たら解る様に、独特の保存状態であり、タテに3字分、ヨコに4字分を12字一枚組として、写真に131枚組とられてあった。

 一字ずつ数えると、判読可能な文字は一五六七字で、半分が読めるものが二字、合計一五六九字であった。
 私達は調査のため、古田氏から借りた拓本の写真をまずコピーし、一面一字ずつ比較をはじめた。はり合わせが独特のため、逆になってあったり(例えば、第一面第一行一四字と一五字)、横になっていたり(例えば、第一面一行二四字)、第四面と第三面の順序が違っていたりして作業は予想をはるかに越えて、難行した。一字ずつ他の拓本等と比べて、コピーを切り取り、はり合わせて、ようやく一本の拓本として完成するのに一週間はかかったのである。
 復元した拓本を基にして比較すると、従来、大東急記念文庫についていわれていたことと根本的に異なる姿が現われ始めた。
 即ち、李進煕氏は、『好太王碑の謎』で、「大東急記念文庫には、かつて運輸大臣をつとめたことのある久原(くはら)房之助が所蔵した『高句麗古碑考」と、酒勾雙鉤本からまた雙鉤し墨をくわえて拓本らしくつくった碑文がある。」(同上書九六頁。傍点は引用者。)と断定していた。しかし、酒勾本と、復元した大東急記念文庫本の一字々々の比較検討作業の結果は、極めて似ているとは言えるが(恐らく、このことから李氏は酒勾本からのコピーと即断したように思われる)、厳密には両者は異なっていたのである。酒勾本では読みとれなかった空白の箇所に、大東急記念文庫本では字が入っているケースがあるのである。

大東急記念文庫本と酒匂本の比較

 一面五行十三字目の□(酒勾本)が(大東急記念文庫本)となっており、又一面十一行三五字目の□に対し、となっており、二面六行十字目の□に対しと現われており、二面七行三六字の□に対し、となっている。更に、三面では八行一字の□に対しとなり、又、四面の最後の文字は、大東急記念文庫本では「之」と正しい位置に置字されていた。
 逆に、酒勾本に見える文字が大東急記念文庫本では見えない文字となっているケースもあった。例えば、二面二行二二字のが□となっていたり、三面三行三六字のが□となっていた。
(インターネットでは一部表示できないので、画像で確認して下さい。主旨は変わりません。)
 ここから、李氏が断定する様な、酒勾本から雙鉤し墨を加えた拓本であるという結論は、到底引き出すことはできないであろう。なぜならば、万一、コピーであるとすると、酒勾本にない字が、大東急記念文庫本にはあるということの現象を説明出来ず、原本より詳しいコピーという元来あり得ない状態を想定しなければならなくなるからである。
 そこで、私は大東急記念文庫本の不思議な謎に挑戦すべく、又、古田武彦氏が常にとっている厳密な調査方針、つまり労をいとわず現地(資料)を精査するという方法で、東京の後藤美術館(大東急記念文庫本が、その中に設置されている)を訪問した。(一九八二年六月二三日〜二四日)
 拓本は常に展示してあるというものではなくて、蔵に大切に保管してあった。資料は、大東急記念文庫の管理者によると、研究者に限定して見せるものであるが、記憶によると、これまで好太王碑の拓本を見に来た者は三名であり、李進煕氏、古田武彦氏、末松保和氏であった。上記三名は、専門の学者であり、それぞれに好太王碑研究の論文を発表しているが、大論争の割りには一般の学者、学生の現地調査が少ない事実に驚いた。碑文は、木製の箱に折りたたんで四帖に保存されていた。第一帖に六四組、第二帖に六六組、第三帖に六六組、第四組に六七組と分けられ、一組に碑文を三字ずつ、二行とし、合計六字に切りはりされている。私達が人手した写真は、この二組を一枚として写されたものであることが解る(図1参照)。まず、古田氏より借りた写真が原本を正しく写しだしたものであるかどうか一枚々々調べていった(古田氏のアドバイスによる)。こうして、百三十一枚について調べた結果、古田氏所蔵の大東急記念文庫拓本の写真は、原本と完全に同じで正しいものであることが判って一日が過ぎた。翌日も念の為に通ってみて、酒勾本と比較している内に、現地調査でしか得ることができない事実が新たに判明してきた。それは、大東急記念文庫本は、酒勾本と違って一枚々々のハリ合わせが異なっているということである。
 下の図2は、酒勾本の原則的なハリ合わせであるが、四字詰めでタテ、ヨコヘ合計十六字であるのに対して、大東急記念文庫本はタテに三字詰、ヨコ二行を一組として六字である。そして、大東急記念文庫本について一字々々を精密にどうハリ合わせているか調査したところ、三字詰が二二ヶ所六六字分、二字切れが二一八ヶ所四三六字分、一字切れが一〇六七字分、合計一五六九字であることが判明した。 注9
好太王碑酒匂本のはり合わせ

 この事実は何を意味しているのであろうか。仮に、酒勾本から大東急記念文庫本をコピーしてつくったとすると、基本的には同じものができる。字のハリ合わせを違えて、四字詰めを三字詰めに並べ変えたとすると、実際に酒勾本のコピーを元にしてやってみたが、三字詰め、二字切れ、一字切れがほぼ同数になる。しかし、事実は逆に大東急記念文庫本では、非常に一字切れが多く、一〇六七字(全字数の68%)に及んでいる。しかも大東急記念文庫本では一面一行十四字と一五字の「北夫」を「夫北」と逆にはり合わせていたり(仮に酒勾本のコピーとして、酒勾本から切り取ってハリ合わせてみたが、「自北夫」は三字詰ができて、このようにバラバラとなることはない)、一面一行二四字のように、「《女》」のように横転していたりしている。
 これらの事実からも、大東急記念文庫の拓本は、酒勾本と異なっており、李氏が主張するコピー説は成立し得ないことが判明した。
 では次に、この資料の性格を探るために、入手経過の解明へ向かおう。この大東急記念文庫は、一九四八年(昭和二三年)三月五日、当時東京急行電鉄株式会社取締役会長であった五島慶太氏が、かねてから京都大学に「委託管理」されてあった久原文庫を一括購入したというのが現在までの説明であった。それは、『大東急記念文庫十五年史」(同財団法人発行)や、李氏の言及において解る。しかし、拓本についてそれ以前の状態には誰も溯源してはいなかった。今回の現地調査で、私は大東急記念文庫の拓本が保存されていた木製箱に、大東急記念文庫のラベルの他に、もう一枚の古いラベルがはりつけられているのを発見したのである。そのラベルには、「古梓堂文庫、17、4 巻」と書いてあった。ここからは大東急記念文庫に保管される以前には、古梓堂文庫にあったことが判明したのである。
 次にこの手がかりから、関係者の証言や資料(例えば、『久原房之助』、『五島慶太』等の記念誌)を探っていって判明したことをまとめると次のようだ。
 好太王碑の拓本は、和田維四郎氏(号は雲村)が清国(当時)へ「現地視察」(恐らく明治三〇年〜三五年)の間に現地で購入、蒐集したもので、その後久原房之助氏の財力で所蔵されていたものと思われる。京都大学の教授連の懇望もあり、同大学へ一時寄託されていた後に、久原氏の親戚の藤田政輔氏が藤田古梓堂文庫という形で所蔵していたものである。これを、五島慶太氏がその他の文庫にあるものを入れ総額五一〇万円(当時)で、一九四八年三月五日に購入したのである。
 この入手経過からも判明する様に、明らかに酒勾本とは異なった拓本であることが言える。この様に無駄を恐れず、現地を調査して得た結論は貴重なことを明らかにした。
 これまで大東急記念文庫の好太王碑の拓本については、李氏によって酒勾本のコビーにすぎないとされ、史料価値がほとんど認められていなかったのであるが、両拓本の比較と現地調査の結果をまとめると、(一)、入手経過が異なり、(二)、保存状態やハリ合わせの違いがあり、(三)、碑文の中に書かれてある「国姻」の合計数が異なり、(四)、それぞれの字面に異同がみられるということであり、しかも、酒勾本では国姻の数が碑文の合計三十に合わなかったが、大東急記念文庫本ではピックリと三十に合致していることから、史料価値が極めて高いものなのである。

四、“改ざん”説の再検討

 前述した様な基礎調査により史料価値が極めて高いと判明した新たな拓本(大東急記念文庫の拓本復元版)を基にして、好太王碑に関する李説のように、“改削”がなされたか否かを照射してみよう。
 李氏が“改削”と主張する最初の例である一面三行四一字の「黄」字についてまず検討してみると、李氏は「『履』」とするには問題があるとしても、『黄』字でないことは明らかである。」(『広開土王陵碑の研究』一九三頁 ーー以下、同上書は頁数のみを示す。)と断定しているが、東洋文庫拓本や京大人文研拓本、水谷拓本の「厂」字を「履」と見なすのは、李氏自らも言っているように無理がある。これを「履」と見なす例は、水谷氏の釈文のみであり、他は全て「黄」である。又、李氏が自らの書に掲載している資料編の内藤旧蔵写真によっても、明確に「黄」字と判読できる(同上書、資料編五七頁参照)。
 今回の私達の基礎調査で信頼をおく、A『朝鮮金石総覧』の前間恭作氏の釈文、B水谷悌二郎氏所蔵拓本を基にした釈文、C大東急記念文庫所蔵拓本を基に復元した拓本 ーー以下記号でのみ示すーー の内、A、Cは「黄字」であった。次に、Bにおいて、水谷拓本そのものは、前述した様に李氏できえも「履」とするには間題があると言っているのである。従って李氏は、これを「改削」の意識的な行為と見なすことは出来ず、「意識的にすり替えたというよりも、これが碑裂面上にあって字画が明確でなく」(同上書一九三頁)と主張し、誤鉤であると断定した。しかし、私達はこれを誤鉤とは見なさない。なぜならば、「竜」と解釈するよりも、「竜」とするのが資料批判を通した上で正しいと思われるだけではなくて、以下の様に碑文解釈としても整合性があるからに他ならない。
 碑文解釈としては、既に古田武彦氏は豊富に中国文献を引用しながら、「このように黄竜は鳳凰と並ぶ神聖な動物である。天帝の使者たる黄竜に対し、その首を足でふみつけて天に昇るというのはいささか“勇ましすぎる”のではあるまいか。」(「史学雑誌」第八二編第八号二二頁)と鋭く指摘している。
 更に、『韓国の民話と伝説」(第二巻、高句麗、百済編、韓国文化図書出版社)によれば、好太王は仏教に深く帰依し、全国至るところに寺を建て、その寺の一つの梵鐘の中に浮彫されていた竜が、あまりにも巧みであり見事な彫刻であったので、ある日、鐘の中の竜がいなくなり、「竜が生を得て昇天したのだといい出す者がいた」(同上書六九頁)という。この伝説は、四一四年以後建てられていた好太王碑の文面を読んで、高句麗の民衆とその子孫によって語られていったものと考えられる。というのは文面に「黄竜負昇天」とあり、黄竜(王を)負うて天に昇るという意味であり、好太王に竜伝説は最もふきわしいものであるからだ。実際、『伝説』には各王の話が掲載されているが、好太王の項では、竜伝説しかなく、両者の結びつきが民衆の永い記憶にとどまったものと思われるのである。
 次に、何故に竜を「黄色」と表現するかを考察しよう。『高句麗時代之遺蹟」(朝鮮総督府発行)のカラー図版で見ると、高句麗の古墳や塚の玄室内の壁画には好んで「黄」色が使用され、しかも「竜」をデザイン化したものにも「黄」色が使用されている例がある。(魯山里鎧馬塚玄室左方第一持送文様 ーー 平安南道大同郡柴足面)
 勿論、中国思想の四神の龍と区別して考えられるが、恐らく「黄」色は、の色であり、農耕に際して「五穀豊成」(神祠碑『朝鮮金石総覧』))を祈るものであり、更には中国思想の「帝」の影響と考察しうるのである。同じく、中国思想の四神の影響も、高松塚古墳の壁画発見の時に盛んに高句麗の壁画古墳が言及されたことでも明らかな様に、高句麗壁画古墳には四神図が描かれている。
 四神思想の影響で高句麗壁画古墳に龍が多いのは自明であるが、龍は中国思想の影響に加えて、高句麗の独自の思想の表現と解釈できる。李氏のいう「竜」では、上述したことが説明できないばかりか、資料批判、文献解釈、民間伝説、古墳壁画等、整合性、総合性を欠くのである。
_______________________

 ここで、次の事柄も諭じる必要がある。李氏の改ざん論争は、好太王碑文が改ざんされたものであるのか、否かが争われているだけではなくて、李氏が改ざんと判断した文字が何十例に及ぶのかも問われていることである。
 この議論は改削を主張する側(李氏)が改削を批判する側(古田氏)より少なく例をあげるということから、一般的に解りにくいことではあるが、学問上明確にして厳密に論じなければならない。今、改ざんが何十例に及ぶのかに焦点をあてる目的で、李ーー古田論争を整理する。

(A) 李氏は「広開土王陵碑文の謎 ーー初期朝日関係研究史上の問題点ーー」及び『広開土王陵碑の研究』等において好太王碑文が日本の参謀本部の酒勾景信によって改削され、その後参謀本部によって「石灰塗布作戦」(数次)が行なわれたと主張した。

(B) 古田武彦氏は「好太王碑文『改削』説の批判 ーー李進煕氏『広開土王陵碑の研究』についてーー」及び『失われた九州王朝』において、「先人への辛辣な批議を行なった李書に対し、同じく真摯な再批判を」行なった。古田氏は、李書の主張を次のようにまとめている。

好太王碑文『改削』説 李氏

(一)酒勾の“すりかえた文字”とされるのはつぎの点である。
       (上が原形)

(1) 履龍→
(2) □□□□→来渡海波
(3) □卯年→卯年
(4) 大軍→
(5) 討□残国→討残国
(6) 関弥城→弥城
(7) 戦王威赫戦王威赫
(8) 生口→生
(9) 朝貢□事→朝貢
(10)倭□通→倭
(11)遣使還告→使還告
(12)往救新羅→救新羅
(13)官軍→官
(14)□□加羅→任那加羅
(15)来背急至→来背
(16)□□□潰→倭満倭
(17)寐錦→
(18)侵入□□界→侵人帯方

(二)「石灰塗布作戦」で書きこまれた字とされるのはつぎの点である。
(1) □奴城→奴城
(2) □盖*城→□
(3) 獻□男女→獻男女
(4) 莫□羅→莫
(5) 太王□→太王

(三)「第三次加工」の書き入れによる、とされるもの。
(1) 牟盧□→牟盧
(2) 安羅人戊兵□→安羅人戊兵

盖*は、インターネットでは表示できません。議論には直接関係ありません。[強いて言えば、雷/皿、雨の中の四ツ点なし]

(C) 李氏は、(B)に対して「広開土王陵碑をめぐる諸問題 ーー古田武彦氏の所論によせてーー」(『好太王碑と任那日本府』学生社、一九七七年十月)において、「私は酒勾がすり替えた文宇として以上の十八例をあげた覚えはない」(同上書八二頁)とし、「すなわち、古田氏のあげた十八例のうち、私が『酒勾景信によってすり替えられたとみなす以外に考えようがない』としたのは(1),(2),(10),(14),(16),(18)の六例だけで、他は『酒勾の誤鉤といえる』と書いているのである。」(同上書八三〜八四頁)と主張する。
 ここで、両者の論文を再度、精読した上で客観的に論じよう。李氏が主張する六例の内、前述したように (1)履龍→黄龍のところでは、「“履”とするのには問題があるとしても、『黄』字でないことは明らかである」と断定した。古田氏は、拓本(水谷拓本、東洋文庫拓本、京大人文研所蔵拓本)及び写真の精査の上で、「『履』の『尸』はけっして」安定した字画ではない。(ことに「ノ」が左に開きすぎている。 ーー李資料編45)すなわち、本来『黄」であったものが削傷をうけて『履』めいて見えだしたのか、それとも本来『履』であったものか、『目による検証』そのものからは容易に断定しがたいのである」(上掲書、二三頁)と厳密に諭じた上で、更に、文面検証の帰結として(1) について、「水谷拓本に非、従来本に是」、即ち「黄」と解釈しているのである。更に、私は前述したように民間伝説、壁画の色等の考察から「黄」とする方が綜合的に正しいのではないかと考えるが、逆に李氏の主張する、「『黄』字でないことは明らかである」という根拠は成立していない。少なくとも、□龍として判断保留をするべきであろう。しかし、李氏は古田氏の十八例は多すぎると抗議した際にも、「酒勾によるすり替え」の六例中の一例として入れている。ところが、李氏の (1)例は、李氏自身が認めているように「誤鉤」と言えるものである。
 そうであれば、李氏が白ら主張する酒勾による恣意的改削は例となるであろう。このように李氏の論述は解りにくい。この解りにくさを古田氏は整理したのであって、この労苦に対して、李氏は「古田氏は不幸にも、私の文章の単純な文脈さえ正確に読みとれなかったわけである」と非難(?!)するのである。
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 ところで、李氏が「酒勾すり替え」を主張する根拠は、「倭以辛卯年来渡海破百残」において、「時期が降って石灰が剥落すると『海』でない別の字画が拓本や写真にあらわれ、『来・渡・破』も原碑文と認め難いところにある」とする。
 ここで「酒勾すり替え」の「五例」中のボイントである (2) □□□□→来渡海波 に焦点をあてよう。まず李氏が使用し、引用もしている文献に基づいて考察しょう。金錫享氏は『朝鮮金石総覧』掲載の碑文をもとにして一九六三年の朝鮮民主主義人民共和国社会科学院の歴史学研究所と考古学研究所による調査によって補足をおこない、『古代朝日関係史』(勤草書房、一九六九年十月)で碑文への考察を発表しているが、李氏は同書の引用に際して、厳密でないばかりか意味上の「改削」を行なっているのである。

来・渡・破文字の古代朝日関係史比較

 金氏は実際に碑を再び見ただけではなく、碑文の文字を詳しく検討した結果、1). □は見えないもの、2). □内は不明確な文字、3). 傍らに×のついたものはかつてそう読めたというものと三つに厳密に分けて発表しているのであるが、これに対して、李氏は、「1)'.□のなかの文字は、一九六三に年の調査時に判読しえなかったものであり、2)'.□のなかの文字は不明確で、わずかに字画の痕跡を残すものである(金錫亨上掲書=李氏の注)」(傍点は引用者)と変質させる。今、問題のポイント(表3の(一)の(2) )でも、李氏の文章では意味が変わるのである。つまり、金氏による「海」は、金氏の 2).にあたるが、李氏によれば 2)'.となって「わずかに字画の痕跡を残す」となり、ほとんどよく見えない意味に変化する。金氏は「不明確な文字」と発表しているのであり、逆に「来・渡・破」は 1).〜3). の記号を使用していないのであるから明確な碑文であると発表しているのである。
 仮に「海」字が李氏の言うようだとしても、「来・渡・破」は原碑文であると考えられ、李氏が「酒勾の改削の文字」と主張する根拠となった「『』は原碑文と認め難い」という断定は失われるのである。
 古田氏が既に鋭く指摘しているように、金・朴両氏等の朝鮮民主主義人民共和国社会科学院の調査団の報告をも李氏は的確に尊重していない。この報告は二つの意味で重要である。即ち、第二次世界大戦後、今日まで学術調査団の調査報告として唯一であり、最も新しいという点と、この調査団が日本軍国主義のイデオロギーのために「虚偽」の報告をする必然性がないからである。万一、「改削」が行なわれたとするならば、李氏と同じくそれを指弾する立場であることは自明である。ここでも、古田氏が「李仮説の重要なウイーク・ポイントは、研究者の実地調査報告を重視しない点にある。」と批判していたことが有効であるという確認をしておこう。
 次いで、古田氏が〔5〕最後の問題として、「『来渡海破」に対する李氏の疑惑の目は、当然その上の『倭」にむけられねば、論理貫徹できない。 ーーこれが隠された焦点である」と指摘した問題に入ろう。この問題こそ、李説が論理上自己展開しなければならない根本的な論点であると考えられる。なぜならば、酒勾改削説は、軍国主義にとって有利に展開するために、イデオロギー上、碑文の改削を行なったとする立場であるからに他ならない。従って、基本的には、有利に展開しないものには、改削はおこなわれなかったか、誤鉤と考察される。
 碑文上、一八○○余字中に見えない文字を除いて九回「倭」字が出現するのは研究者間で共通に確認されている。この九回出現する「倭」の内、「倭賊」「倭冠」「倭潰」等の文宇が酒勾本には双鉤されているが、古田氏が既に主張しているように、双鉤者がイデオロギー的にあえて「倭賊」などの倭に不利な文面を残しているのであるから、「頭によって左右された」双鉤を行なったものではない、という資料性格をしめしているものである。李氏はこの古田氏の根本的かつ論理的な疑問に、再批判の中でも一切答えていない。

倭満倭潰文字の古代朝日関係史比較 

 しかも、李氏の史料の取り扱い方は、主観的であることが判明する。一九六三年の朝鮮民主主義人民共和国の調査団の金錫享氏の論文を引用する時に、金氏は「倭満倭潰」と発表しているのに対し、李氏は金氏のそれを、「□□□潰」と改変しているのである。
 前述したように、「×(圏点としての×、インターネットでは表示できないので文字を紫色)」は「かつてそう読めた」という判断を示す記号であるのに対し、李氏は、「」は一九六三年秋現在判読できない」として、「□」つまり不明確な文字に一層近づける「努力」をしている。このような、強引な史料操作をしてまで、あえて「倭」にこだわるのは、何故だろうか。それは、李氏の、日本の学界の「通説」に対して批判する動機が、「倭」は好太王軍と戦わなかったと考えたからであると思われるのである。
(『三国史記」の「好太王」の項には「倭」と戦ったというのは一切でてこない。それ故、九つの「倭」は九つとも「残」、つまり「百済」のことと李氏は考えているようだ。『市民の古代』第四集、56〜57頁参照)
(インターネット事務局注、この段落の文は参考です。画像で確認して下さい。間違わないよう色を付けています。論旨は変わりません。)
 しかし、「倭」=近畿天皇家=「大和朝廷」と等式において考察するところは、通説も、それに対して「強い衝撃」を与えているはずの李説も、根本的には同一であり、好太王碑文の真実を全面的に解明し得ないのではあるまいか。考古学者である李氏が、二つの「倭」しか疑問を提示し得なかったのは、その他の「倭」は、どの現地調査書、拓本、写真、釈文においても明確に碑文そのものであるからに他ならない。
(既に解明したように、「二つの倭」さえも、李氏の史料操作に基づくとしたら、九つの「倭」字は原碑文のものと考える他はないのである。)又、「好太王碑の開放を求めて」で私が報告したように、碑の管理者側でもあり研究者で実地検証もしている、中国吉林省博物館の武国員力*氏は、「倭の字は石灰でつくられた文字ではなくて石の字」であると証言しているのである。今後、好太王碑の公開によって、論争の終焉が期待されうるであろう。

付記
 本拙論は、一九八二年九月一八日の「歴史を語る会」(なにわ会館)で発表したものを基にまとめたものである。調査にあたって大阪府立茨木東高校の地歴部生徒達の力によるところが大きく、又、資料収集にあたっては関係各大学、機関、とりわけ古田武彦氏にお世話になったことを記して感謝したい。

注1 教科書に関する調査は、現場の高校教師の共同研究として、既に一九八○年『市民の古代 ーー特集、教科書に書かれた古代史ーー』(第二集、古田武彦を囲む会編)に発表しているので参照されたい。

注2 近年、学術書、教科許、一般書等において「広開土王」とする傾向が多いのであるが、古田武彦氏が指摘しているように(『市民の古代」第四集参照)、省略に際しても、全体の名称からバラバラに切断して都合よく表記すべきではない。

注3 佐伯有清氏は『研究史・広開土王碑』(吉川弘文館)において、九十年にわたる碑文研究を五区分している。碑文の研究史上、それぞれの碑文の扱われ方を明らかにしてるのだが、私は佐伯氏の主張する第一期から第四期を一括して通説の形成期と考える方が根本的であると思うものである。

注4 読売新聞、一九七二年(昭和四七年)十一月十日。

注5 好太王碑をめぐる李ーー古田の白熱した諭争を、当時ジャーナリズムは「ニセ? 本物? 広開土王の碑文・史学会大会で論争」(朝日新聞、一九七二年十一月十三日)等注目している。又、共同調査の必要性については「日本、朝鮮、中国三国学者の共同調査をよびかけ」(毎日新聞、一九七三年一月二四日夕刊)、同社説等主張している。

注6 国姻、看姻の意味については、従来の研究書にもほとんど触れられていないために、詳細は解らないことが多い。好太王碑の文面に、国姻は二十一回、看姻は四十六回出現している。「姻」とは漢音、呉音ともに「エン」であり、煙に同じで「天地の気気に通ず火気なり」(『大字典』講談社)とあるところから、火葬の際のと考えられる。広じて、国とは守墓人の役割になったものであろう。「看」とは、漢音、呉音ともに「カン」であり、「手と目の合字、即ち手を目の上にかざしてよく見る義。転じて見守る、見つむる等の意、より看護、看病等の意に」(上掲書)なったもので、「看姻」は墓を見守る役割と考えられる。国姻と看姻を両方合わせて「姻戸」と碑文にあるところから、両方とも守墓人に問違いはないが、両者の関係については説明はない。古田武彦氏は、「国に直属する『国姻』という単位と、地方に属する『看姻』という単位の、二通りがあったみたいです。」(『市民の古代』第四集、六八頁。)と指摘している。
 なお、私は「都姻」が碑文中第四面二行三一字・三二字目に出現しているのを、やはり守墓人と考える。

注7 国姻についてみると、その合計が「三十」になるのは次の数値である。第三面では、八行二六字「二」、八行三五字「三」、九行十八字「二」、九行二九字「一」、十行三字「一」、十一行八字「一」、十一行二二字「一」、十二行二七字「三」、十三行六字「一」、十四行三十字「一」、十四行三九字「一」、第四面一行二十字「一」、一行二八字「二」、一行三七字「二」、二行七字「一」、二行二五字「一」、二行三四字「二」、三行四字「二」、三行十二字「一」、四行二字「一」、計「三十」。これは碑文中、四面七行二二字にある「三十」の合計と一致する。数値が最も異なるのは、第三面十四行三九字で、釈文中「七」、「六」、「四」、「一」、「□」(不明)と分れる。国姻の数の最大値は、問題の十四行三九字を除くと、「三」(三面八行三五字、三面十二行二七字)であるところから、又、看姻の守墓人より数が少なく(十分の一)重要であると考えられるから、「七」、「六」、「四」は誤鉤であると推定しうる。事実、合計数が碑文に合致するのは「一」のケースであった。

注八 末松保和氏『好太王碑と私』(『古代東アジア史論集』上巻、吉川弘文館)において、大東急記念文庫本を実地に調査して、李説と異なり「酒勾本と相似の種本からの複製と想像する」と主張していたことを、私の調査後に、古田氏の指摘で知った。末松氏は、入手経過や大東急記念文庫本の復元や国姻等に言及はしていない。

注九 酒勾本、大東急記念文庫の碑文の配列の仕方は次の図の様に異なっている。数字は碑文の文字の位置を表わしている。(インターネットでの表示は、最後に画像表示。)

(終り)

 詳細は、藤田友治氏の著作『好太王碑の解明 ーー“改ざん”説を否定する』(新泉社)中の「第六章 好太王碑“改ざん”論争とその決着 ーー李進煕と古田武彦との論争を現地調査によって解明する」をご覧ください。

好太王碑拓本貼り合わせ


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