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『市民の古代』四集 画期にたつ好太王碑 へ


『市民の古代』第7集 古田武彦とともに 1985年
特集 好太王碑現地調査報告

 本稿は一九八五年六月十六日、大阪・茨木労働セツルメントにおいてもたれました市民の古代研究会主催「古田武彦古代史講演会」の内容を文章化したものです(テープおこしは三木が担当しました)。

好太王碑と九州王朝

古田武彦

 古田でございます。蒸し暑い中、茨木までおいでいただき私の話を聞いていただくことを光栄に存じております。
 本日は、途中にスライドをいれて好太王碑の問題の報告をさせていただきたいと思います。
 好太王碑の問題は、私が十三年このかた一貫して追い続けてきたテーマでございます。本、論文、講演をつうじて私の話をお聞きの方もかなりいらっしゃると思います。反面、そういうものは一切見たり聞いたりしていない、今日が初めての方もあると思います。それで簡単に、私がこの問題にかかわってきた経緯を述べ、念願の好太王碑に行って何を見、何を考え、何を確認してきたか、さらに、「できるならば」と思っていた王健群氏との対談について、最後にこの好太王碑に関して重要なテーマを申しあげるつもりです。限られた時間ですので、要点を衝きながら話させていただきたいと思います。

好太王碑研究史

 戦前においても好太王碑の研究はなされてきました。しかし、戦後は学校で学んだ一般の人にとって“誰もが知っている石碑”になってきたわけです。それは、戦前では『古事記』『日本書紀」というものが、神話を含めまして正しい日本の歴史だという形でありましたので、『記」・『紀』に書いてあるということと、日本の歴史がこうであるということは同意語であるというふうなことでございます。だからこういう時期に好太王碑がでてきましても、『記」・『紀』、特に『日本書紀』で語られているいわゆる大和朝廷の朝鮮出兵といいますか、経営といいますかそういったことの証拠が石碑にあらわれている、という言及にとどまった。だから好太王碑の写真が教科書を飾るというようなものではなかったのです。
 ところが、戦後になると情勢が一変したわけです。皇国史観というものが原則的に否定され、戦争中は異端であった津田左右吉の神話造作説(神話嘘っぱち説、さらに進んで『記』・『紀』の説話が八世紀史官のでっちあげ説)が、戦後になって定説の位置を占めてきた。御存知のように教科書にあった神話、説話の挿絵が墨で塗りつぶされるという時期が敗戦直後にあったわけです。その後、教科書は戦前とは一変した立場で作られなければならないことになったのです。この場合、非常な困難がでてきた。『記』・『紀』の記事は原則として歴史と認められない。特に六世紀中ば以前の記事については認められないとしたわけですから、六世紀以前の日本の古代史は何によって考えたらいいのかということになったわけです。そこで『記』・『紀』とは別個の、石に刻んだ金石文、高句麗好太王碑にでてくる倭(戦前は九個)が証拠だ。大和朝廷が朝鮮に出兵していた証拠であるという形で取り上げられたわけです。
 この際、一種の三段論法というのがつけ加わってまいります。この石碑は四一二年に死んだ好太王のことを、子供の長寿王が死後二年目(四一四年)に建設したものです。つまり四世紀の終りから五世紀初めにかけて、大和朝廷が朝鮮半島に出兵していたのだから、それ以前に九州を大和朝廷は支配していたに違いない。大和から朝鮮に行くのに、九州を支配せずには行けないから。四世紀以前に九州を支配していたとすれば、バランスからいっても関東あたりも支配していたはずだ。つまり大和朝廷中心の統一国家(東北、北海道は別)、日本列島の大部分を占める統一国家は、少なくとも四世紀半ばに成立していたはずであるということが、教科書に古代史を書いていくとき、基本の論証になったわけです。ということで、戦後の教科書は例外なく好太王碑の写真か拓本類がでる、史料「倭以辛卯年来渡海破・・・以為臣民」(第一面)の一節は必ずといっていい程、教科書を飾ることになったわけです。
 ところが一九七二年(昭和四七年)五月、『思想』(岩波書店)という雑誌に李進煕さんが論文を発表された。その論文で我々歴史学の任務は日本帝国主義の陰謀といいますか、それを暴くことにあるという鮮烈な言葉で始まりまして、日本の古代史の背骨、骨格と考えられてきた好太王碑文というものは、実は真赤な贋物であった。我々が知らされている文章は贋物であったという論文がでたわけです。しかも、明治の参謀本部がスパイの酒匂中尉を派遣して、石碑の文字を削りとって、柔らかな石灰を塗りつけ柔らかなうちに、自分達に都合のよい文字を刻(ほ)りこませ、乾いたのを双鉤本(拓本の素朴なもの、ふちどり本、石碑の上に紙を当て、上から透してみて字の形をふちどり、持って帰って囲りを墨で黒くぬり、字の形だけ白く残す)にした。拓本の場合は、石の上に紙を置き、墨をつけたもので石をたたきにじませてとる。最初はコケむしていたので拓本の方法ではできないということで、双鉤本という方法で作られていたわけです。高さ約六m半、幅一m二〇cmくらいの堂々たる石の四面にギッシリと文字が書き込まれているのを双鉤本にとったものを、酒匂中尉が持って帰った。後々、拓本をとった人も石灰の字を拓本にとった。従って我々が長らく間違いのない史料と考えてきたものは、そうではない。いわゆる参謀本部の作りかえた真赤な贋物であった、という論文がでたわけです。

私にとっての好太王碑とは

 昭和四六年『「邪馬台国」はなかった』を出しまして、次の『失われた九州王朝」を書く直前でした。その時好太王碑にとりかかっていたのです。「倭人伝」は三世紀の同時代史料である。三世紀の中国の使者が、三世紀の倭国、卑弥呼の国にやって来てその実地報告を帰ってした。それを基に書かれたものが『三国志・魏志倭人伝』である。これを正確に分析するということが、日本の古代史を考える場合の基本である。『記』・『紀』というのは正しいにせよ、正しくないにせよ、ずーっと後世の八世紀に成立したものである。そこに神代のことから書いてある。これが正しい歴史事実を伝えているか、いないかということ、すなわち史料批判を行っていかなくては、『記』・『紀』に書いてあるから本当、とはいえない。また津田左右吉のように、“原則として全部嘘”と簡単にはいえない。
 結局、同時代史料を正確に分析し、そこから出発して『記』・『紀』を見直すという形にならないといけない。それで「倭人伝」にとりくんだわけです。そうしますと博多湾岸に邪馬一国の中心があった、という結論になったわけです。
 では、邪馬一国なるものはその後どうなったか、ということが当然でてくるわけでございます。さて次の同時代史料は百年飛びまして、五世紀初め、先程いいました四一四年に建てられました好太王碑(四世紀末から五世紀初めのことがビッシリ書いてある)です。これは金石文という同時代史料の親玉といいますか、第一史料のベストなるもの、といっていい、その好太王碑にとりくもうとしていた時に、李さんの論文がでたのです。
 私はビックリしまして李論文内容の再追跡にとりくんだわけです。好太王碑が李さんのいわれるように贋物なら、それを基にして分析しても意味がないわけですから。
 その結果、李説は成立しないようであるということになりました。一つポイントを申します。李さんが、本当の正体を隠して派遣されたかのようにいっておられた酒匂中尉は実在の名前をもつ人物であり、御遺族が宮崎県日向市におられるのをつきとめました。(『失われた九州王朝』「碑文改削説の波紋」参照)。これを同じ年の十一月、東大史学会で発表したわけです。李さんも会場に来ておられまして、壇上の私と四十分ばかり論戦をいたしました。
 翌年、東大の史学会から李さんの書評を書くことを求められました。単なる書評では書ききれない、論文の形で書きたいと申しまして、書評論文という変ったものになったわけです。
 これに対し、李さんが再批判を翌年の『史学雑誌』にだされたのです。これに対する再反論を私はまとめていたのですが、二つの理由でだすことがためらわれた。李さんの再反論の論証自身は承服しがたい。間違っているように思う。しかし、まず私が出した論文は、普通の論文ではなく書評である。書評に対して批判を加えられたとしても、書評を書いた人間がまた、再批判するというのはなじまない。こだわる必要はないが、ちょっと気になった。これが第一の理由です。第二がより大きな理由です。李さんも私も、現物を見ていない。歴史学では現地へ行く、現物を見るということは、α(アルファ)にしてΩ(オメガ)である。これをせず、机の上の活字ばかりでいってみてもむなしい、と私は思っているわけです。
 これは余談ですが、私はお陰様で元気でおりますが、足でも弱って現地に行けないとなってきたら歴史学をやれるかなあ、宗教学や哲学ならいざしらず、あぶないのじゃないか、と心配をしておるくらいです。ですから何かあるとすぐ現場に駆けつける方針でございます。当り前のことでございます。
 この大事な真贋論争において、現物を見ずにいろいろ理屈をいいあうのは、歴史学研究者としてあまり気がすすまない。これ以上、口先でいうより現物を見ることが先だという感じが強くしておったわけです。で、再反論を書くというより、現地に行くということに最大のエネルギーを注ぎ始めたのです。
 李さんは、古田が再反論を書かないのは自分の意見に承服した証拠であると、講演でいっておられたことがあるようです。

好太王碑の現地へ

 私としましては、私の可能なあらゆる手練手管(といってもしれていますが)を使っていろんな方面に働きかけて、中国側に好太王碑を見せて欲しいという要求を続けていたわけです。あげくは藤田さんと二人で中国に出かけ(一九八一年八月)長春の文物局の人に強引につめより、やっとこの二、三年の間に見せましょうという約束を得て帰った(『市民の古代』第四集)というような行動を続けております内に、土利川さん ーーかつて関東軍に属しており、その後八路軍に属するという数奇な運命を経験され、朝鮮半島の北端鴨緑江の真中辺の北岸(現中国領)集安県に一年以上駐屯しておられた。工場の管理のようなことをなさりながら朝晩好太王碑をみつめていた、ーー に、運命の導きといいましょうかお会いすることができ、御尽力いただきました。現在の中国側のお歴々はかっての戦友であるというようなことでございまして、非常に話が今までになくスムースに進みまして、今年(一九八五年)三月に好太王碑に行くことができました。多くの方々の御支援、土利川さんの御力添えも得て我々は現地に行けたわけです。
 大阪空港で「本当に好太王碑に行けるかどうか、私にはいまだに信じがたい」という団長挨拶をして皆様にお笑いいただいたわけです。三月二十四日、好太王碑に行きました。バスの中から好太王碑が見えた時は、手をたたいて、こどものようでしたが、それで胸にある何かを表現したわけです。二重三重に鍵がついておりまして、鍵をあけてもらい半日好太王碑の前で、手も顔もこすりつける感じで見たわけです。この時はどんよりと曇っておりました。次の日は朝から行きました。日本でいえば日本晴れ、向うでは高句麗晴れかなにかしりませんが晴天でございました。ところが、好太王碑には屋根がついてまして屋根の影で石碑の三分の一がおおわれて「倭以辛卯・・・」なんてうまく見えない。高さが、六m 半くらいですので肉眼では見がたい。出発前夜買い求めた双眼鏡が役に立ち正確に観察することができました。下部にも倭という字があるのですが、これもはっきり石の字でした。結論から申しますと現在倭と確認できましたのは八個。今西竜さん等の研究で九個とされておったのですが、八個ははっきり存在しておりました。
 文字の確認について次の方法をとりました。ABCDE五段階に分け、Aは誰がみても確認できるもの、Bはほぼ確認できるもの、Cはα字であるともβ字であるともいえる(説が分れる)、Dはほぼ確認できない(残存するものはかろうじてあるが)、Eは全く読めない、としました。そしてA、AないしB、B、BないしCと九つにクラス分けして問題の字を皆で判断していきました。
 山田宗睦さんは文字に対する造詣、情熱のある方で、冗談で“道を間違われたのではないですか。哲学ではなく古文字学に進まれた方がよかったのではないですか”といった程、見て見て見ぬいておられました。第一日目が午後からで曇天、二日目が快晴、三日目はものすごい雪で、これは見れないとガッカリしたのです。ところが行ってみると雪の乱反射でまんべんなく光が当り、字が浮きだして非常にはっきり見える。雪による湿度もからんでいると思います。第二面、三面、四面はこの日が最もよく見えた。しかし第一面は駄目でした。二、三、四面はすぐ塀がかこんでいましたが、一面は前庭がありそこ一面に雪が積んで、そのため光があたりすぎて見えないのです。それでも雪のどんどん降る寒い中、見て見て見ぬきました。
 次の日は将軍塚等の古墳と鴨緑江に参りました。最後、帰る日の朝は絶好の晴天でした。屋根の影が邪魔しないよう朝早く石碑に行って一所懸命観察いたしました。

好太王の墓は

 実は、私は行く前に関心は持っておったがすぐには分らないだろうと思っていたことがあります。それは好太王その人の古墳がどの古墳であるかということです。明治以来論争があるわけです。この好太王碑から東北方向にかなり離れた将軍塚であるか、すぐ二百m そばにある太王陵か、二つに一つなのです。この呼び名は比較的最近のようです。戦前はさいさい行けましたし、長期滞在できたわけで、それで分からないのに、私がちょっと行ったくらいではだめだろうと半ば以上あきらめておったわけです。ところが、百聞は一見にしかずといいますか、私には判明したと感じて帰ってきたわけでございます。
 この時、集安県の博物館の副館長の耿(こう)さんにお会いしました。黒眼鏡をかけておられ、はじめは、我々を見張っているのではないかなどと失礼な印象をもったのですが、実は非常にすぐれた考古学者でございます。お年は三十代後半くらいの方ですが、お別れする時「あなたはきっと将来世界最高級の考古学者になられると思います。世界の人達はそういう形であなたを知るようになるでしょう。ぜひ頑張って下さい。」といいました。お世辞じゃなく本当にそう思いました。おっしゃることや、示される判断、学問的物の見方等いずれも優れた方だ、若いけれど優れた素質をもった方だ、こういうふうに感じられたわけです。
 幾多の点で、私と意見の一致をみたわけです。中国にもこういう研究者がいるんだなあという感銘を深くしたわけでございます。八月にもまた好太王碑に参ります。又耿さんとお会いして、その後考えた懸案をお話できることを楽しみにしておるわけでございます。ですから旅行は物を見るだけでなく、人にも会うことである、ということを感じました。
 さて、将軍塚は、私の『失われた九州王朝』にも写真が載り、酒匂中尉が入り内部を実測したという古墳です。完全に積石塚でございます。太王陵の方はお碗をふせた形にみえていますが、将軍塚と同じ積石塚であったようです。それの“くずれ”を今我々は見ていることのようでございます。
 この将軍塚は一体何物であるかということで耿さんと話し合いましたら意見は一致しました。一番可能性のあるものとしては長寿王。好太王の子供で、好太王碑を建てた長寿王がピョンヤンに進出し都を作った。その彼が元の高句麗の墓地に墓を作ったと考えるのが一番可能性が高い。断定ではありませんが、可能性が高いということで意見が一致しました。太王陵について耿さんは、好太王の墓であると述べられるわけです。出土物その他から述べられるわけです。私は、私の立場から太王陵が正確に南面している、そうするとこの石碑の中で好太王は天子の位置におかれている。つまり中国の天子はこの碑文にでてこなくて、高句麗の王がでてきて皆天子の用語を使っている。例えば、天子が死ぬことを「薨去」とか、位につくこと「登祚」等、みな天子用語を使っているわけです。そして天子は南面するという比定で好太王碑が書かれている。
 二つの中で正確に南面するのは太王陵だけなのです。将軍塚はかなり西南を向いています。他にも幾つも古墳を見ましたが、正確に南面していない。そして内部を見ましたが実に見事なもので幾つも龍がでてきました。しかし石碑にもでている黄龍、天子を表す龍は避けているやり方をしている。好太王は自らを天子の場に立って年号を称した。長寿王は南北両中国に貢物を送り、両方から将軍の称号を貰っています。案外、将軍塚というのはまさに「将軍」ではないかと、心秘かに思ったのです。ともあれ長寿王は自らを天子の位置においていない。また、好太王の前、国内城という所から瓦がでてきます。中国の年号を刻んだ瓦がでてきます。ということは中国の家来、臣下である立場をとっている。これに反し、好太王は珍しく自らを天子の位置においた高句麗の王者なのです。だから太王陵だけが正確に南面している、すぐ近くにあるということも含めまして、好太王の墓は太王陵である。ここから太王陵云々という言葉を含んだ碑もでております。
 ということで、知りたいけれど無理だろうなあと思っていたテーマが、意外に答えをうることができたのは望外の喜びでございました。

国内城探索

 もう一つ申しあげたいのは国内城に関する問題でございます。
 国内城の近くにわたしたちの泊ったホテルがあります。高句麗時代の壁がちゃんと残っていまして、わたしたちは見ることができたわけです。ところが一月に来日しました賈(か)さんが報告されましたのが注目をひきました。それは国内城の土塁がでてきたが、どうも漢の時代の土塁である。そこからヒントをえて調べてみると、国崗(こっこう)とよばれる丘陵地帯の中に、一万二千くらいの墓がある。たしかに、いたるところにポコポコ丸い古墳が連なっていました。高句麗の墓といわれていたのだが、調べてみると漢代の墓もかなりあった。渤海の“家族全員が一つの墓に入る”という墓(高句麗より後)もあったという報告が賈さんからありました。
 その時、私はそれはそうであろう。第一代のときは桓仁(高句麗の古墳がとりまいている)辺にいた。第二代の時に南下して集安県に入ってきた。長寿王の時までここに都を置いていた。長寿王はピョンヤンに南下したというわけです。
 とすると高句麗がきた時は当然先住民がいたわけです。もちろん、その時は漢の支配下の所に行ったんです。じゃ漢は“最初からここの支配者”とはどうも考えにくいですね。当然、漢も外部からやってきたのです。漢の入る前は無人地帯だったとは考えられない。やっぱりもともとの住民がいたのではないかという推測をもったわけです。
 賈さんは“高句麗の墓だといってましたが、もとは漢でありました。”と。中国としてはそういうことをいいたい感じでしたけれど。ところが私の方からみると、その漢の前はどうでしたでしょうかという感じだったのです。
 この点も今回、面白いヒントがえられたわけです。東台(抬)子遺跡の瓦がかなり博物館に展示してありました。そこに「土地神」が祭られている模型図がおかれてありました。これに私は注目したわけです。この「土地神」こそ、高句麗以前、おそらく漢がくる以前の神ではないか。つまり原住民達の神ではないか、というふうに考えたのです。
 なお、土地の状況について申します。この集安県という所は、実にいい所なのです。土利川さんから散々聞かされていたのですが、行ってみたら、おっしやったとおりでした。朝鮮より北なので寒いという感じがしますが暖かいのです。山でさえぎられて風が吹かない。しかも水が豊富で米がおいしい。人間が住むために実に適した土地であるなあという感じを持ちました。変な喩えですが、大和盆地の中に利根川が流れているというような感じをもったんです。利根川よりずーっと大きいですけれど。
 それに考えてみますと、西の渤海に舟で出撃しようと思うとすぐできるわけです。川は上流から下流に行くのは楽ですから。渤海の方から敵が攻めてこようとするとむつかしいです。川を下流から上流にのぼるのは大変ですから。そういうことから考えましても、この集安県に目をつけた好太王に感服したわけでございます。
 今度行けなかった所ですが、国内城の奥に、丸都山城(がんとさんじょう)がございます。ここも整備ができてないというので行けなかったのです。三方を山の頂に囲まれた台地があって、一方に壁を作って丸都山城と称している。つまり、これは国内城とワンペアの装置なんです。つまり逃げ城です。この地は敵が攻めにくい所ではありますけれど、敵が入ってきた時の為に二重安全装置になっているわけです。このスタイル、二重安全装置(逃げ城)を百済も新羅ももっていることは有名です。
 こういう二重安全装置の都の形式を、日本列島でもっているものが太宰府です。太宰府はその後ろの大野城、基山、そういうものとワンセットで太宰府ができているわけです。いずれも、“都の装置”であります、高句麗の都や、百済の“都の装置”であります。なによりも“壮大な逃げ城をもつ都”のスタイルです。
 そうすると、こういう東アジアの都の条件をもっているのが太宰府である、ということです。大和、あるいは近江では、高安城というものはありますがとても今のような性格には達しないもののようであります。これはまだ現地に行っていないので、皆さんが、もし行ける段階になっていらっしゃったなら、見落さず御覧いただきたいものです。

角觝塚・舞踊塚にはじめて入る

 それから壁画古墳、角觝(かくてい)塚古墳、舞踊塚古墳等を見せてもらいました。いずれも古墳の中に入りますと壁画がよく見えました。電線でライトが入っておりました。上も下も全面に絵がビッシリと画かれておりました。色も鮮明で支配階級や庶民や、いろんな生活がえがかれているわけです。写真を撮ることを許されなかったのですが、写真化して研究すれば高句麗におけるさまざまな局面が明らかになるんではないかと思いました。恐らく、これは中国側で研究し、写真化して本に発表したいということではないかと推察しております。
 相撲を取っている図が入っているから角觝(かくてい)塚、女の人が美しく踊っている図があるから舞踊塚とこう呼ばれております。もう一つ、洞匂*(とうこう)古墳群の一つも見ました。竜等が見事に画かれた古墳も目で十二分に見てまいりました。

洞匂*(とうこう)の匂*(こう)は、さんずいに匂。ユニコード番号6C9F

 なお、先程私が申しておりました、高句麗の南下、それ以前は漢の文明の東浸。この漢の文明以前に、私は文明があったと思うのです。この文明が恐らく「土地神」にかかわるものであろう。この「土地神」にかかわる文明遺構というものは、禹山(うざん 日本でいえば神奈備山にあたる美しい山)の麓の墓地としての国崗(こっこう)信仰、国内城の「国内」というのもそれにかかわる古い呼び名ではなかろうかと思うのです。あれだけの狭い所ですから、ただ高句麗全体の「国内」ということではないでしょう。
 ということで、高句麗以前、漢以前の文明はいかなるものであったろうか、非常に興味あるところです。
 以上のような具合で、集安県で多くの収穫を得て去ることができました。
 集安をでまして、もう一つの目的に私達の心は輝いておりました。王健群さんにお会いし、忌憚ない意見を交しあうことです。

王健群氏との対談

 最初は王さんの挨拶で始まったのですが、東大の新聞研究所の論文でという言い方で“中国は好太王碑を独占しようとしている、けしからん”と書いてあるが、大変心外です。そんなことはありません。中国の主権に対する侵害ですという強い言葉があったわけです。私はその新聞を見ておりませんので、帰って執筆者ないし編集者に、御主旨を正確に伝えますということでとどめたわけです。もっと正確に聞けばよかったのですが、肝心なことに時間が足りなくなると思ったのですぐ次に話を移していったわけです。ところが帰ってきて調べたのですがいまだに分らないのです。東大新聞研究所の方にも調べていただき、東京大学新聞、東京大学新報等に問い合せてみたけれど、それに当るものが無いのでとまどっておるのです。
 次に私の方から問いたかった点についてたずねたのです。王さんの本の中に私の『失われた九州王朝』を引用しておられるのです。ところが、どうも九州王朝という概念が王さんの論旨にはないのです。つまり、“大和朝廷か海賊か”という二者択一の形で議論が進んでいる。すると私の本を引用しておられるが、読んでおられないのではないかという、かなり確信に近い疑いを持っておった。それを問いましたところ、やっぱりそうで「読んでいない」ということでした。孫引用だったのです。
 又、一九七三年、東大『史学雑誌』に書いた、わたしの書評論文の内容を御自分の本に何ぺージにもわたって引用されておりますので読んでおられると思っていたのです。しかし、この論文で酒匂の持って帰った拓本の第三面の大幅な貼り誤りや、第四面最終字の「之」が、最終行先頭に移してある等から酒匂は、自ら意図的な改竄をしたという人物にはあたりえない、その証拠であると詳しく論じたのを、同じ様に王さんは自分でみつけたように論じてある。おかしいと思ってお聞きしたら、「実は読んでいません。佐伯有清さんの『研究史広開土王碑』(吉川弘文館)の孫引用です。だからあなたの本はまだ見ていません。」ということで、それ以上いろいろいう元気を失ったわけです。孫引用なら孫引用と書いておくものだと思いますが、「今後は、私がすでに述べているという形で御引用下さい」と申しました。「わかりました」ということでした。

倭とは何か

 次はいわゆる本題、海賊説の問題です。王さんが本の前半で改竄ではないと強調されました。これは、私と同一意見です。ところが後半で、「倭」は倭国や倭王ではなく海賊である、海賊の一味であるということを強調しておられるわけです。これに対して、私は質問をしたかったわけです。
 第一の論点は、後代たる明代の倭冠で、同時代史料たる好太王碑の「倭」を判読することは、歴史学の基本ルールの違反ではないかということです。王さんはこれに対して、「それはその通りだ。しかし、私はそうではなくて、碑文中に倭に対し好太王が五万の軍をもって交戦したことが書かれている。だから五万の軍で海賊と戦うのはおかしいという意見があった。ところが明代の倭冠に対し三十万、四十万の人間(これは明朝側の軍隊の数ではないかと思いました)、そういうのがでている。だけど海賊である。五万で戦うから、その相手は海賊ではありえないという考え方は成り立ちえない、ということのためにいったので、後代の史料で早い時代の史料を判断していいという立場ではないんだ」という返答をされたのです。
 私は「分りました。それじゃあ歴史学のルールに従って、先行史料で、好太王碑に先立つ史料に依って考えて見ましょう。それは一世紀あまり前の『三国志』である。これは三世紀の同時代史料である。ここには、『呉賊』、『呉が冠する』という形で書かれている。これはいずれも孫権(呉)の正規軍のことを指している。魏の立場からみて孫権の軍を呉賊と呼び呉冠と呼んでいるのです。魏の大義名分からみて冠であり賊である。“呉の立場からみると呉の正規軍”というのが『三国志』の用法である。こういう『三国志』の先例に依って、一世紀後の同時代史料好太王碑を解釈するのが、歴史学のルールではないか。
 すると好太王碑に出てくる倭冠、倭賊というのは倭国の正規軍である。高句麗の大義名分からみれば倭冠であり倭賊であるというふうに理解すべきであると思いますがどうでしょう。」と聞いたわけです。すると、王さんは「ただ賊とか冠とかの言葉にかかずらわって、海賊と判断したわけではありません。当時の状況からみて、倭を海賊と判断したわけであります。」という返答だったわけです。
 これでは、私の方では不満足な答えだったのですが、すぐ次の問いに入ったわけです。「『三国志」に高句麗がでてくるのですが、毋宮倹(かんきゅうけん)という王(高句麗王)が中国と戦った時のことを『冠」と表現している。高句麗王の軍隊ですから正規軍である。しかし中国からみれば『冠』である。対立国の正規軍を『冠』と呼んでいる。すると高句麗が『冠』と呼ぶのは倭国の正規軍、とみるのが筋ではないか」というのが一つ。これは文献です。
 さらに同時代史料の王者としての金石文をみてみたい。「毋宮倹という魏の将軍が、高句麗に攻め入って(連戦連勝みたいな感じだったようです)日本海岸まで突き抜けた。そして、そこで紀功碑を作り、その残碑が遼寧省の博物館に残っている。その残碑に四回も『冠」という字がでてきていて、四回共高句麗王の正規軍を『冠』と呼んでいる。しかも大事な点は、好太王碑の石碑が建つ百年前に、同じ高句麗に建っていた、先行する金石史料である。後世の我々が好太王碑を読む場合、ただ後世の人間の勝手で読んではいけない。一番近い(空間的にも、時間的にも)金石文がこの毋宮倹の紀功碑なわけです。ところがそこにでてくる『冠』は、高句麗の正規軍を指しているわけです。別の目でみれば中国が侵入軍といえるのですが、中国側では、高句麗が『冠』したから高句麗という『冠』を討伐したのだという立場を碑にしているのです。だから、直前の金石文に依って好太王碑を理解するのが正しい態度だと思う。それによれば好太王碑にでてくる冠は倭国の正規軍と理解するのが金石文理解の正しい道だと思いますが、どうですか。」といったのです。
 これに対しても、王さんは直接の御回答はなく、「当時倭国はいろいろ国が別れていたと思います。その別れた中で高句麗に来たのは海賊であるという判断を我々はもちました。」というふうな御返答でございます。
 さらに私は、「この碑文について大事なことがあると思います。『孟子』の文章に基づいてこの碑文はできていると私は考えます。『四書五経』に、もう一つバックはあるのです。『孟子」で大義名分にそむくものを『残賊』とよんでいる。“こそ泥”とか、“物を盗みにくる連中”という意味ではない。『百残』、『倭賊』という言葉を使っているのは、石碑を作った人は『孟子』を読んでいるからです。高句麗中心の大義名分、正義、信義にそむく者であるという立場から、百残、倭賊と表わした。百残は『百済の国』と考え、倭賊は『泥棒の類』と考えるのは、典拠に合っていないのではないか」といったわけです。
 これに対しても直接の御返答ではなく、「我々は大和朝廷が日本列島を統一していたという考えがあることを知っています。そういう考えには私は反対です。」この時、えらいはっきり反対ですという言葉がでましたね。「幾つもの国家に別れていてその一つの中での海賊がやってきたと、我々は判断しました」というお答えでした。

(中略。詳細は本誌の対談録参照 インターネット上では略。)

 王さんが志賀島の金印の話をだされ、「これをいいますと中国の天子の臣下であったということをいわないといけなくなりますので、こういうことには触れないほうがいいと思います」ということをいわれたわけです。

王健群氏との対談を終えて

 この晩、北京に向う夜汽車の中でこれをふと思いだしました。読売シンポジュウムで海賊論がでたとき、王さんが同じく、「もし志賀島の金印の話をだしたりしますと、倭国王は中国の臣下であったといわなくてはなりません。これは国際友誼上まずいと思いますのでいわないほうがいい」と言われた。いわれる時一種、変な笑い気味の「言わんほうがいいでしょう」という特殊な表現で言われたのと同じだったな、と思いだしたのです。
 王さんとの会見の時は、「日本では歴史上の事件として、中国の臣下だと皆思っています」というストレートな直球で返答したのです。しかし、何故あんなことを何時もいいだされるのだろうか、ということが気になりだして電車の中でうつうつと考えました。王さんは『好太王碑の研究』の前半で「実事求是」(事実をそのままあきらかにする。歴史は客観的事実が大事である)を強調しておられる。だから、「日本の軍国主義を批判するのは大事だけれど、改竄の有無はそれとは別個に考えなければいけない、」と書いておられる。これに、私も大賛成なのです。
 ところが、先程の王さんの話では「実事求是」以外の、国際理解、国際友誼みたいなものがでてきているのです。“好太王碑にでてくる倭が、しょっちゅう高句麗に負けている。これは倭国や倭王と関係ないのだ。倭国の海賊だ。どの世にも悪いやつはいる。そういう心掛けの悪い者が何回も負けたのだとしておけば面子が立つではないか。”そういう意味ではなかったのかな。こうなるとおかしいじゃないか。後で気が付いてもしょうがないのですが、こう思いながら夜汽車で朝を迎えたのです。
 こういう立場にたつなら、“この間の戦争は日本帝国の軍隊や、天皇の軍隊ではなく、心掛けの悪い山賊や海賊が行ったのだとしとけば互いに面子がたつ”という言いかたもできますわね。これでは自己反省も自己批判もないわけです。やはり「実事求是」、自分にとっていやな実事であればなおさら「実事求是」が大事だと私は思います。これをしてこそ本当の国際理解は開ける、と私は思ったわけです。
 もう一ついっておきます。読売シンポジュウムでもいっておられたのですが、「我々の結論は私一人の考えではありません。皆の討議を経た結論です」ということをいっておられたのです。だから、討議の中で“海賊としておけば現在の日中友好の上からもいいのではないか”という話し合いがでたんではないか、と推察ですが、思ったのです。
 お会いすると、思いがけない話にぶつかるものです。しかし、私はいかなる権威いかなる事情、何があろうとも一切かかわらず事実を事実として真実を真実としてみつけるのが、イロハのイの字であって最終の日までそうであるということでございます。
 私はそういう立場で臨んだつもりであります。王さんのストレートな返答は返ってきたとはいえないけれど、こちらのもっている学問に対する姿勢、考え方は王さんに届いたのではなかろうかと思います。王さんに、“あんなヤツがおるんだなあ”と思っていただけたら幸せです。
 会見の最後に、お互い年も同じ位だから百才まで生きて討論を続けましょうといって握手しました。外のバスの所まで出てきて手を振って送ってくれました。あたたかい、なつかしい、いい雰囲気で最後はお別れできたことをよかったと私は思っています。
 ともかく一月十五日の講演会「中国の好太王碑研究の意義と問題点 ーー王健群氏に問う」で申しましたように、鉄山、鉄を求めての高句麗と倭国の戦いであったというのが、私の仮説ですが恐らく間違いないのではないか、こう考えたのです。

好太王碑の最終目的

 さらに今回、これに関連して面白い事件をみいだしたわけです。第四面最終行です。「又制守墓人自今以後不得更相轉賣雖有富足之者亦不得壇買其有違令賣者刑之買人制令守墓之」。墓を守るルールを書いた。これがこの石碑を作った大きな最終目的なのです。ところが、最後にいっておくがこの制令に対して、この土地を売ったり買ったりしてはいけない。もしこれに違(たが)って売ったり買ったりしたら、売る者に対して処罰する、買ったものに対しては従前通り墓を守らせる。アンバランスですね。売り買いしてはいかんといっているのですから、売り買いしたら両者を処罰するといえばスッキリする。ところが、売る方は処罰するけれど買う方は今まで通り墓を守れよと、大変買う方に遠慮した文面なのです。つまり買う者、富有る者に遠慮した文面なのです。
 これは何故か? 今までこの問題はだされたことがないと思います。これについて『三国志』に思い当る文章があると思います。『三国志』によると高句麗は五つの部族がある。その中で涓奴(けんど)部から王をだすことになっていた。ところが現在は桂婁部から王をだすことに変った。しかし元の涓奴部は王の格式だけは認められている(『古代は輝いていた I』第四章、物証論、伊都国の秘密)。何故王家のでる部族は変ったのかという説明はないわけです。これに対して私は一つの仮説を考えました。涓奴部は本来王をだす一番中心の部族だったと思うのです。何で桂婁部に変ったか。新たな支配者が外から入ってきたとは書かれていません。すると、ここに大きな経済変動があったのではないか。桂婁部がのしあがったのは“富を獲得する”という経済実力によって涓奴部をオーバーする力が既成事実化して、これをバックに桂婁部に王の継承権が移るということがおこったのではないか。いろんな具体的ないきさつはあったと思いますが、大きくみればこうではないかと考えてみたわけです。何故、富ある新興部族が出現するようになったか?当然鉄ですね。第二代の時、通化あたりから集安県あたりに南下してきて、密集した鉄山を押えたわけです。鉄は非常に重要な経済価値をもっている。『三国志』韓伝では韓・穢・倭は鉄を通貨の替りに使っているのですから。韓・穢・倭に鉄をもっていけば、何でも買えるわけです。中国はもちろん鉄中心の文明になっていますから、中国にもっていってもいいわけです。鉄をバックにして大いに富を稼ぐ部族が存在したのではないか。それが桂婁部ではないか。もちろん鉄だけとはいいません、馬があったりしてもいいのです。しかし鉄も重要な財貨であった。その結果、通化から南下してくることによって、高句麗全体としては強くなったけれど、強くなった代償として中心点の変動があった。好太王は当然桂婁部出身です。富ある新興王家の出身である。だから富ある人々には頭があがらない。それがこの文面になっているのではないか。断定はできませんが、そういう仮説、鉄による新しい富の形成、それによる階層や部族の変遷という概念をもってすれば、一連の動きがスムースに理解できるのではないかと私は思うわけです。



 長春の博物館で高句麗の初期の王墓からでてきた出土品が展示されておりました。一世紀、二世紀、三世紀、あるいはもう少し古い段階の見事な鉄製品がならんでおりました。高句麗は一、二、三、四世紀と成熟した鉄文明を出現させつつあったということを、現地にいって知ることができました。
 申しあげたい事はつきませんが、この問題についてこの辺で終らせていただきます。(拍手)*

質問
 王さんは倭はどこの倭とお考えなんでしょうか。

古田
 その点について王さんは北九州近辺の倭と思います。北九州関係の勢力の争いだという認識に立って海盗と考えましたということでした。私の解釈では、王さんの頭には大和朝廷か、海賊かという、二者択一。北九州には大和朝廷はないのだから海賊だという、二者択一の論法のようでありますね。

質問
 「国岡」というのは、好太王碑のあるあたりを指しているのですか。

古田
 そうです。好太王の名前にある国岡上(国岡のほとり)は禹山の麓の国岡のことでございます。国岡はどういう意味かについて、現地で山田さん等と興味をもったのですが、どうも高句麗という「国」とは思えない。あれだけが高句麗の「国の崗」というのは、変です。又、「国内」城、高句麗の“国の内側の城”というのもおかしいので、あの「国」の概念は高句麗国家の「国」ではなくて、高句麗等が南下する前からある「国」や「国崗」という名前ではなかろうか。禹山(如山)信仰、神奈備山信仰に対応した「国崗」であり、「国内」城ではなかろうか。これは分りませんが、そういう疑問をもったのです。今後の課題でございます。
 とにかく、現地で国岡と呼ばれている所は禹山の麓の丘陵部であることは間違いのないこと。石碑にでてくる国岡がまさにこれであることは疑いございません。

司会
 長年にわたる好太王碑を見るという希望をかなえていただいたのは皆様のお力です。とりわけ土利川さんにはお力添えいただきました。又、古田氏の本を読まれた読者の方の熱意がそれを支えたと思います。
 古田氏が永年力をそそがれました論証を私達は目の前で実際にみることができました。これは大きな喜びです。

古田
 長時間にわたってお聞きいただきましたが、まだこの時間内では問題を十分に言いつくすことはできません。アウトラインをお聞きいただいたわけです。
 私としましては、十三年来の李さんとの論争は一つの結着をみたということがなんといっても大きな感慨でございます。こういう問題は感情等他の要素をまじえずに、「実事求是」、実証主義に徹底するというのが正しかったという思いをつくづくかみしめるわけでございます。
 同時に王健群さんとの海賊説問題も同様の立場で実証によって海賊であると証明されれば喜んで従うけれど、それが無ければ従うことができない。ということで友好的雰囲気の中で厳しく討論していきたいと思っているわけです。
 今日、講演ではだせませんでしたが、倭の正体、つまり倭が倭国であり倭王の正規軍であるということは王さんに論証を述べたのです。が、倭国と倭王とは何者か?日本列島の何者か?ということについては時間がなかったので質問できなかったわけです。ここで簡単に言わせていただきます。第一面にいきなり「倭以辛卯年・・・」がでてくる。これはいきなりでてくることに意味がある。つまり、石碑を作り読んだ人達のお祖父さんお父さんの時代から、『倭」といえば○○だと東アジアの世界では常識化していたんだ。常識化していた倭とは『三国志』に現れた倭である。卑弥呼の倭国の中心点をつきとめることは、好太王碑の倭の首都をつきとめることにほかならないというテーマがあるわけです。
 李さんの改竄説の時は私に書評を書けといってこられて私は驚いたのです。どうして井上光貞さん等じゃなくて、私のところなんだろうとビックリしたのです。ところが、改竄説が駄目になった時点では、私の方は“お呼びでない”という感じです。悪くとれば、李さんとの対決に利用したんだととれる。これでは駄目なんです。
 碑文の倭が、本当に大和朝廷(最近は大和を中心とする倭国連合)なのか、私のいう九州王朝なのかという論証を真剣にするべきだと思う。
 幸い、出雲(島根県斐川町、七月二十八日)でシンポジュウム(「銅剣三五八本の謎に追る古代出雲のロマンを求めて」)が開かれ、初めてシンポジュウムに出させてもらいます。今まで話はあってもいつもつぶれておったのです。大和中心の水野正好さん等と討論をするので非常に楽しみにしているのです。出雲のシンポジュウムもいいのですが、好太王碑の倭が果して何者か?大和中心の倭か、そうでないのかのシンポジュウムを本気でするところへいかないといけないと私は思っているわけでございます。
 なる程そうだとお感じでございましたら、今後そういう方向で御支援いただければ有難いと思います。
 先程、藤田さんがおっしゃったように、今のこの状態にいたりましたのは、本当に皆様の長い間の御支援の賜物であると思います。この御支援の上に土利川さんのような方にもお目にかかれたということだと思います。
 また、好太王碑の拓本を持ちいただいた読売テレビさんには、映像を持って好太王碑を見せていただくのを一日千秋の思いで待ち望んでおります。御発表よろしくお願いいたします。以上、私の本日の挨拶にかえさせていただきます(拍手)。

司会
 会場に土利川さんがいらしてますので一言御挨拶をお願します。

土利川
 土利川です。二年程前に皆様の前で御挨拶したことがあるのですが、私の証言が、このたび好太王碑視察調査団の二十名の方の証言で事実だったと、皆様の前で明らかになったことを非常に嬉しく思っています。
 郭沫若先生が早稲田に学ばれ、中国の第三次内戦の時期にあっても好太王碑と付近の古墳群を戦争の外に置いて大事にしたというのは貴重な存在だったと思います。
 また、私は中国と日本が仲良くして、好太王碑や古墳群内部をテレビその他の報道機関を通じて見られたら、いかに立派なものかお分りいただけると思います。日本の高松塚等の内部を見ることは困難ですが、中国は行けば見学できますから、でかけられて御覧になることを期待しております。簡単でございますが御挨拶させていただきました(拍手)。

司会
 皆様の御協力でここまでくることができました、有難とうございました。「大王之遠乃朝庭」(本号参照 インターネットはなし)は懇親会でお話しいただきます。これで本日の講演会は終りとさせていただきます。



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