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古田武彦
本稿は、本年(一九八五年)六月十六日の講演会終了後茨木市民会館において行われた懇親会で話された内容を文章化したものです(テープおこしは三木が担当しました)。これを二〇〇八年八月に冨川ケイ子さんが協力(入力)され掲載しました。
時間の関係で十分とはいきませんので要点を申しあげたいと思います。「大王之遠乃朝庭」という言葉をめぐってでございます。この言葉については、講演会の後等によく喫茶店へ行った時に何回も御質問をうけたことがございます。私も「大王之遠乃朝庭」は面白いですね、関心をもっておりますとお答えしておったのです。また、ずっと以前に小松左京さんにお会いした時にも「大王之遠乃朝庭」はどうですかといわれたのが印象に残っております。
最近、この問題に取り組んだわけです。『万葉集』が面白くなってきておりまして、いろんなテーマができてその中の一つが「大王之遠乃朝庭」です。正面からぶつかってみると、私なりきの答えが得られたと思いましたのでそれを御報告申しあげたいと思います。
例によって、私以前の、従来の解釈をおさえておきたいと思います。
一番代表的なのが、大槻文彦の『大言海』だと思うのです。「(一)京都ヨリ遠ク隔リテ、朝政ヲ行フ所。筑紫ノ太宰府、陸奥ノ鎮守府、諸国ノ國衙ナドナリ。コレヲ、ひなのみやこ(都)トモ云フ。」とあって万葉集の例が二つでております。「(二)専ラ、太宰府ノ稱。」とあってこの後も『万葉集』の例が二つでております。三番目に「(三)又、三韓ヲモ稱ス。」とあってここでも『万葉集』の例がでております。これが大槻文彦の解釈です。
その他、いろいろ集めたのですが大体『大言海』を踏襲しているようです。その中で代表的なものとして『日本国語大辞典』をあげてみました。「(1)都から遠く離れた地にある官府。陸奥の鎮守府や諸国の国衙(こくが)などがこれにあたる。 (2)特に、太宰府のこと。 (3)新羅(しらぎ)に置かれた官家」というふうになっているわけです。
契沖の『万葉代匠記』、真淵の『万葉考』にほぼ同じ解釈がありまして、契沖、真淵の解釈を『大言海』が受けつぎ、小学館が受けついだ。大体においてこういうことになっているわけです。韓国等を入れたのは比較的新しい、『大言海』以来の感じです。要するに地方の政庁というかたちで説明が書かれております。
どの辞書を見ても一致した解釈をしている。問題はないではないか。にもかかわらず古代史や『万葉集』に詳しい方々に「大王之遠乃朝庭」はどうですかと質問され、小松左京さんに質問された所以のものは、これが筑紫と何か関係がありそうだ、一体何でだろうかというところが御質問のニュアンスだと思うのです。私自身も筑紫と非常に関係の深い言葉だと感じておったのです。辞書をみましても太宰府とでてきますから関係はあるわけです。
また、ただ筑紫に関係が深い、というだけでなく従来の解釈にもう一つピンとこないものを感じておられるのだろうと思うのです。それで私にどうですかという御質問になった。こう思うのです。確かに私自身もそのように感じていたわけです。
そこで今回『万葉集』から用例をぬいてみたのです。
(一)
柿本朝臣人麿、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首
303<省略>
304大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
これが人麿の歌です。
(二)
日本挽歌一首
794大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に・・・・・
家持の場合、これも筑紫がでています。
(三)
天皇の、酒を節度使の卿等に賜ふ御歌一首
973食國の 遠の朝廷に 汝等し・・・・・
これは一体どこかが、私の解釈上の問題点になりました。後で申します。
(四)
筑前國の志麻郡の韓亭に到りて・・・・・
3668大君の 遠の朝廷と 思へれど・・・・・
筑前国の志麻郡は筑紫に関係があるわけです。
(五)
壹岐の島に到りて・・・・・
3688天皇の 遠の朝廷と 韓國に・・・・・
韓国とか任那日本府とかを指すという解釈がでてくるのはこの歌によるわけでございます。これも後で問題にいたします。
(六)
追ひて防人の別を悲しぶる心を痛みて作る歌一首
4331天皇の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の國は・・・・・
これも、完全に筑紫の国と結びついております。以上がひとまとまりの例だと思うのです。
これと違う例が二つあります。七と八です。いずれも大伴家持の作った歌です。
(七)
放逸せる鷹を思ひて・・・・・
4011大君の 遠の朝廷そ み雪降る 越と名に負へる 天離る・・・・・
家持が越の国の国司になって行ったとき作った歌です。越と結びついて作られた例です。
(八)
庭中の花を詠めて作る歌一首(注9)
4113大君の 遠の朝廷と 任き給ふ 官のまにまに(注10) み雪降る 越に下り来・・・・・
これも越と関係のある歌です。「任き給ふ 官のまにま」は挿入句だと思うのです。他の解釈もありえましょうが、ともかく、越との関連で使われているのは明らかであります。
入力者による注
注9 万葉集原文は「庭中花作歌一首」とあり、「詠めて」に当る文字はない。
注10 万葉集原文は「官乃末尓末」とあり、「官のまにま」とするところであろう。
これで『万葉集』の例は全部なのです。そして私が不思議に思いましたのは、『大言海』や小学館の辞書の中で陸奥の鎮守府とでてくるのですが、『万葉集』には陸奥の鎮守府を遠の朝廷とよんだ例は全然ないです。どこからこんなのを考えついたのだろうという感じがするわけです。
第一グループ(一)から(六)の例を見ます。時間の関係で結論から申します。このグルーブは筑紫に関連して使われているものではないか。はっきり筑紫と書いてあるのが四つ程ある。はっきり書いていない(三)を分析してみますと、「大王の」ではなく「食國の」となっているところが違うわけです。何故かはすぐわかります。作者が天皇だからです。「大王」御本人が作っているから「食國の」(統治されている国々の)に言葉が変えられているというふうに理解できるわけです。詠む主体の違いにすぎない。「節度使」とあるところから、注釈では、これは地方の国衙に派遣する節度使だということになっているのですが、この歌は前の歌の続きなんですね。
四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣さるる時に、高橋連蟲麿の作る歌一首
これは「西海道節度使」に遣わしているわけです。西海道というのは筑紫を中心とした名前でございます。おそらく、筑紫を原点とした西海道節度使に遣わそうとした時に高橋麿が作ったとなっております。その次に、天皇が酒を卿等に賜うとなっておりますので、前の歌をうけているわけです。つまり西海道節度使の卿等に賜う御歌という意味ではなかろうかと理解したわけです。前の歌と切り離して、どこの国の節度使でもよろしい、節度使達にという意味に従来解釈してきたのは、必ずしも妥当ではない。
そうすると、筑紫に赴任して行く藤原宇合卿等に賜う歌となりますので、「食國の遠の朝廷に」も筑紫を指すのではないだろうか。
歌の中に「筑紫」が歌われている(二)の場合ははっきりしています。しかし、歌の中に現われているケースばかりではないということは、元祖をなす(一)を見ればわかります。ここには筑紫はでてこない。詞書に「筑紫の國に下りし時」とありますので、「島門」は関門海峡あたりだろう、この海峡から向こうが筑紫だという所で、「大王の遠の朝廷とあり通ふ」となっているので「大王の遠の朝廷」は筑紫を指す。ともあれ、従来、結論としては、そう考えられてきたことが多かったのです。ですから、歌自身に「筑紫」がなくても、詞書に現われていたらよろしいんだという立場になるわけです。
そうしますと、(三)の天皇が節度使に酒を賜うも、西海道の節度使になった藤原宇合等に酒を賜うということで「食國の遠の朝廷」といっている。これも筑紫に関連した用法と考えていいのではないかと考えられるわけです。
ということは、筑紫が「大王の遠の朝廷」であることのみならず、「食國の遠の朝廷」であるという理解になっていることになるわけです。
(五)に入ります。任那日本府が遠の朝廷だという解釈がでてくるのですが、これはかなり飛躍ではないかと私は思うのです。ここでは壹岐の島に到りて、雪連宅満というのが急に病気になって死んだというので、それをいたんで歌を作った。「壹岐の島に到った」という。では、どこから到ったか。当然ながら筑紫から、筑紫を出発して壱岐島に到って、韓国に行こうとしているわけです。つまり、彼の現在の現任地は筑紫である。そういう観点からみますと、「天皇の 遠き朝廷と 韓國に」というのは「天皇の古い朝廷」の筑紫から韓国へ渡って行く我が背は途中の壱岐の島で死んだ、というふうに理解する方が妥当ではなかろうか。ただ文法的に、だけなら、韓国を「遠の朝廷」と呼んだ、と解釈できないことは、むろんありませんがね。
しかしこれも又、筑紫に関連して使っている例と考えた方が妥当ではなかろうか、とわたしは理解してきたわけでございます。壱岐島自身も昔は筑紫だったという解釈もできるかもしれぬと思うのですが、そこまでいかなくても、先程のように理解すれば、やはり筑紫に関連して使った例であります。ズバリ筑紫の「真上」で作ったと限らない。筑紫を中心としてその周辺部で「関連して」使われていると理解するべきではなかろうか。人麿の場合もそうですね。筑紫に行ってない、筑紫を向うに望んで作っている。
(一)から(六)まではいずれも、筑紫と筑紫周辺部に関連して使われている同一の用例とみなすべきである。
これに対して(七)(八)は、越の国に関連して使われている用例とみなすべきではないか。こう整理していきますと、契沖、真淵以来、『大言海』が世間にPRした感じの解釈でおかしいところは、陸奥の鎮守府についての例がまったくない。私がこの一週間夢中になっている多賀城の問題、これに大槻さんが一所懸命になった時期があるのでその反映ではなかろうかとちょっと思っているのです。とにかく、これは大槻さんの思いつきで、自分の解釈でこういう単語をほうり込んだだけにすぎないもののようでございます。
陸奥の鎮守府というのは例にだしただけですから、全国の国衙(天皇の命で作られた地方の派出所)を「遠の朝廷」というのだというのは、仮説だと思うのです。決まり決った、断定できる解釈というより一つの仮説。『万葉集』を理解する一つの仮説だと思うのです。この仮説がおかしいのは、何故、筑紫と越だけに限られているのか。筑紫と越だけが地方の官庁ではありません。四国にも関東にも国衙はあるでしょう。出雲にもあるでしょう。そういう所で歌も作っております。関東の歌等かなり多いわけです。ところが、他のどこの派出所も天皇の遠の朝廷とよんでいる所はありません。そうすると、その解釈の上に立ってたまたまの一つが出ている、と言ってみても、「余分」が多すぎるという問題が、私の方の疑問としてでてくるわけです。契沖、真淵に対して問いたいところなんです。
もう一つ問題があるのです。(一)から(六)までの第一グループの発端となりましたのは人麿の歌であることは、どうも間違いはなさそうでございます。
ところが、人麿の歌を見るとおかしいのです。「大王の遠の朝庭とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ」。要するに、筑紫を見たら、神代のことが思われる。どうして地方の派出所を見れば神代のことが思われるのでしょう。どこへ行っても地方の派出所はあるのですから、どこへ行っても神代のことを思わないとイカンわけですよ。
『万葉集』には、派出所へ行ったら神代のことが思われるなどとは歌われておりません。人麿も他の所ではそういうのは歌っておりません。
何故、筑紫の時だけ神代のことを思うのか。こうなりますと、先程は空間の分布でございましたけれど、時間の分布において、「地方の派出所」という契沖、真淵的な解釈では、でかたがあまりに唐突である。
好太王碑の話と偶然似たようになりますが、時間的分布からも、空間的分布からみても地方の派出所説はちょっとおかしいな、ということを感じ始めるに至ったわけです。
この場合、筑紫を越を一度に解決するのはむつかしい。ありていに言いますと、最初は七世紀以前と以後に分けて考えようと思った時期もあったのですが、どうも駄目だということになったのです。
よく見ていきますと、第二グループは(七)(八)の二つですが二つ共、大伴家持の作った歌なんです。つまり、「大王の遠の朝廷」を越に適用したのは大伴家持一人。他の人は誰も倣わなかった。
人麿の場合、筑紫の場合は果然皆は後に続いて、この系列の歌を、天皇自身まで作った、ということなのです。ということで、一応第二グループは除いて、第一グループについて考えてみようということになったのです。
整理してくると答えは簡単でございます。筑紫は『古事記』『日本書紀』の神代巻の示すとおり、神代は筑紫を中心に語られている。神代巻の国名を全部単純に抜いてみると圧倒的に筑紫が多いわけです。出雲は大国主を中心に、筑紫は天照達を中心に展開されている。天皇家は、大国主の子孫と称するのではなく、天照の子孫と称しています。『記』『紀』を素直に読めば天皇家の元祖の中心の空間帯は筑紫にある。現代のように津田史学によって「『記』『紀』は嘘だ」などと読む人は、七〜八世紀当時はいなかったのですから。当然天皇家の元祖である天照達の世界は筑紫を中心とする世界であったという認識は、基本の歴史認識として疑えないものになってくるわけです。
私は従来の解釈は非常に無理をしていると思いあたったのです。まず言葉の解釈です。表音で書いた例と表意で書いた例があります。人麿の例は「大王之遠乃朝廷」、「大王」と書いてオオキミと読ませる。大王は大王多元論(『古代は輝いていた』)の立場からしますと、ここで近畿の官人である人麿達が読んでいるのは近畿の天皇に間違いはない。
問題は「大王の遠の朝廷」、「遠」は空間的に遠いのも時間的に遠いのも『万葉集』では使われております。すると「大王の遠の朝廷」は大王にとっての朝廷で
はないかという問題になるわけです。
さて「朝廷」は万葉集の中でかなりでてまいります。「三門」「御門」等で、御門が一番多いのです。これはまず天皇に関する言葉です。もう一つ皇子に関してもでてまいります。それ以外の地方の豪族なんていうみかどはでてこない。だからみかどは天皇と天皇家の皇子達に関連して使われている、ということが『万葉』の例からみて間違いのないところだと思います。
それ以上に「朝廷(ちょうてい)」という言葉が「みかど」の表記とされている点が重大です。「朝廷(庭)」という言葉は中国の古典です、『四書五経』以来の言葉でございます。『四書五経』にでてくる「朝廷」は全部「天子の政治の場」を指す。皆さん聞いてらしておかしいかもしれませんね、分りきったことですから。周なら周の政治の場を「朝廷」と呼んでいる。地方の役場等を「朝廷」と呼んでいる例は全くございません。そんなことをしたら不敬罪になってしまいます。中央の中央的権力者の政治の場を「朝廷」と呼ぶのです。命を受けているからというと、中国のそこいら中の役所が皆「朝廷」になってしまう。そんな用例は『四書五経』のどこをさがしてもございません。
それだけではございません。『続日本紀』にも「朝庭」が再々でてまいります。これも又、すべて天皇家中心の権力の場を「朝庭」と呼んでおります。地方の権力の場を「朝庭」と呼んでいる例を私はまだ見ていません。当り前といえば当り前ですね。
「朝庭」が中心の権力の場、中心権力機構を意味するのは、中国の用例しかり、日本列島の用例しかりです。そうすると『万葉集』も日本列島の人達が作ったのですか
ら、その用例に従って読むのが当然じゃないでしょうか。
つまり、筑紫が「朝廷」とよばれていることは誰も疑えないわけです。ということは、筑紫を「中央権力の場」とみなしている、とこう考えざるをえないわけです。
誰にとっての中心権力かというと、大王にとっての、大和なり天皇にとっての中央権力の場という意味にならざるをえない。
そんなことがあるのか? ここに「遠の」があります。現在、八世紀なら八世紀の中心権力とはいってない。それなら「遠の」はいらない。「遠の」は空間も遠いので
しょうが、時間的にも遠い。つまり神代。『記』『紀』にはちゃんとそうなっている。何の不思議もないわけです。『記』『紀』の素養をもてばこうなる外ない。私達が知っている範囲では人麿が最初に詠んだんでしょうが、皆がそうだそうだと続けて詠んだのは『記』『紀』的素養に合っているからです。
「筑紫に分布が偏っている」ことを否定できる人は誰もいない。そして、他を指す用例があまりにも乏しい。節度使を西海道と切り離して、全国にしてみてやっとなる。ズバリ他の所を呼んだ例は無いんです。筑紫が圧倒的に優勢なのは間違いない。
筑紫と理解すると、空間的分布とも合致するし、時間的に人麿が神代を思ったのも不思議はない。ということで、私としては解決をみたわけです。
次に、家持はなぜ風変わりな個人プレーの歌を作ったか。誰にも真似されない賛成されない歌を作ったかをいいます。家持は先程の用例は当然知っているわけです。人麿の歌も知っているわけです。それの応用版を試みたわけです。独特の解釈で、彼は国司になって行った時に越に対して「大王の遠の朝廷」といううたい方をしたわけです。
なぜ、越が「大王の遠の朝廷」といえるのか? 継体ですね。『日本書紀』に継体が后を迎えるとき三国にいた。三国は越前国、つまり越の国のあたり。又、「高向(たかむこ)は越前国の邑の名なり。」ここにも越の国がでてまいります。継体は大和に入り天皇になる前に越の国に居た。『古事記』の方はあまりないですが、『日本書紀』の方はPR気味の文章ですが、大和に入る前に越の国で政治をしていたということが書いてある。これも家持は当然知っていた。これにたって家持は、『記』『紀』の神代巻に天皇家の祖先が筑紫で中心権力として実在している土地であるから
「大王の遠の朝廷」といえるのなら、越も又いいうるのではないか。というのが家持にとっての理屈付けだろうと思うのです。
この歌を皆があまり真似しなかったのは、共通点はないではないが、差異点もかなりあるからです。筑紫の場合は一人や二人ではなく天照以来代々いたよう感じである。神代巻の国名を挙げていくと圧倒的に筑紫が多いということが示しているように。
ところが継体の場合は、どうも代々中心権力であったとは考えられない。継体にしてもすでに越の国において中心権力であったとは、ちょっといえないわけです。かりに継体自身については、ひいき目にいってみてもお父さんお祖父さんには、もう到底いえないわけです。
というわけで、越の国を美化するためでありましょうが、ちょっと理屈のつけすぎの感じがあるわけです。そういう点で、これを真似する者は、結局でなかったのではないか、というふうに思うわけです。
私としては『万葉集』すべての例について解答がでたと申せます。考えてみますと、家持の個人プレーを含めて考えて見ますと、『古代は輝いていた』全三巻で述べたところは、天皇家の淵源は日向から来た。日向の神武たちの源流は筑紫にあった(直接的には岡田宮、北九州らしいんです)。ということで、筑紫の神話を自分達の神話として『記』『紀』に留め、この神話を背景にして自分達の統治の正当性を言おうとしたわけです。
ところが、大きな断絶亀裂が現われたのが武烈の時です。『古代は輝いていた』の最後から『古代は輝いていたII』の始めに述べましたように、武烈に子がなく、王位継承戦が大和で繰りひろげられた形跡がある。恐らく当初は応援を頼まれたのでしょうが、越の武将継体が入って来て疲れ果てた当事者達にかわって、これらを倒したかもしれませんが、自分が天皇の位に就いた。
ということですから、七、八世紀、天智・天武・元明・元正・聖武とかの人々の直接の先祖は継体なんです。「応神五世の孫」とか、「六世の孫」とか書かれていますが、そんな理屈はどの武将だってつけているのです。直接には継体が祖先なのです。これは『記』『紀』に書かれた事実をバックに述べただけなんです。これが私のいいます歴史の流れの大局だったわけです。
その歴史の一番の節目のところを「大王の遠の朝廷」の使用例が示していた。まあ家持の個人プレーを含めてですが、示していた。
何か故ありげにみえていたこの言葉は果たして、歴史的背景をもつ用語であった。この言葉を正確に理解すれば、私の述べた歴史像がでてくる。そうではなく、生意気にいわせてもらえば、グロテスクな解釈、「地方の官庁全部がそれである。」「陸奥の一部もそうである。」「他の例はたまたま『万葉集』に例がなかっただけである」と契沖、真淵以来、現代の万葉学者すべてが唱えてきたということは、ズバリ、歴史を『記』『紀』の語る形で理解できなかった、ということです。
いわゆる天皇家中心主義。最初から天皇家は日本列島の中心だったのだ、他は、単なる地方政権にすぎなかった、という、『記』『紀』の作者も聞いたらビックリするような新イデオロギーで「遠の朝廷」解釈を契沖、真淵などの国学者がした。この新しい国学のあやまった財産を今日まですべての万葉学者が受け継いでいた、ということになるのではなかろうか、と現在私は考えております(拍手)。
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