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『市民の古代』第8集 1986年 市民の古代研究会編
書評

 古田武彦氏の業績は外国にも広く知られるようになってきました。今回、紹介する書評はソビエト社会主義共和国連邦のウラジオストック極東大学助教授(日本学)のS・Pパスコヴ氏のものです。

古田武彦の著作『多元的古代の成立』について

(駸々堂出版、一九八三年発行。第一巻三二二頁、第二巻二九三頁)

S・Pパスコヴ
岩崎義・訳

 古田氏の二冊の本は、同氏のいろいろな時期にわたる(学生時代に書かれたものから、現在に到る)研究を含んであり、日本における国家の発生という共通の問題意識によって統合されている研究である。
 著作の全体の題名は文字通り訳すと、“多元的古代の成立”となる。しかしこの多元論と言う言葉によって理解されるべきは、この研究の基礎となっている哲学のことではなく、具体的な科学的概念であり、それは近畿地方においてのみ日本の国家の発生の唯一つの中心が存在したということを否定するものである。
 近畿において日本の王制(天皇制のことだと思われる。ーー訳者)が発生したという見解は、周知の如く、日本においては文字で書かれた史料で現存するもっとも古いものの一つである、“古事記”及び“日本書紀”にまでさかのぽる。
 この様な見地は神道や“国学”の思想家の代表によって、主として十八世紀に基礎づけられ、第二次世界大戦の終了まで、日本の公認の歴史学において、流布しつづけられた。
 この見解は現在でも日本の多くの研究者達によって支持されている。
 しかし、この問題の解釈においては、戦前の公認の歴史家のそれと、現代のそれの間には本質的な相違が存在している。
 前者は、皇室の支配と日本の国家制度及び民族的性格の例外性(国体)を基礎づけねばならぬという、無条件の志向から出発していた。
 第二次世界大戦後、日本の天皇制が、日本の民主的世論の側からの鋭い批判にさらされ、日本の国家の発生に関して、反天皇制的諸概念が発展し、拡がったわけである。
 この問題の研究にあたって、基本的役割を演じたのは津田左右吉の著作であるが、彼は二〇世紀の三〇年代にすでに、もっとも広汎な史料をもとにして、“古事記と”“日本書紀”(八世紀)は皇室の支配を根拠づけるという目的のために書かれ、それは政治的虚構を含んでいることを証明した。
 津田の具体的結論のいくつかは、戦後の日本の歴史学の中で見直しをせまられたが、しかし、ここにあげられた史料の性格に対する全体としての考え方は、現在においてもその意義を失っていない。つまり、津田の見解である、「“古事記”と“日本書紀”はずっと後期に行われた(歴史上のあれこれの事件からみるとずっと後のという意味だと考えられるーー訳者)、添加物を含んでいる、すなわち、作り直しが行われたのだ」は公認のものとなった。
 古田武彦が全く正しくも指摘している様に、天皇制的歴史観の支持者(つまり、皇室の支配を根拠づけようとしている人々)、及び津田は、日本の国家の発生は一つの中心、即ち近畿において起ったという共通の見解から出発している。(津田にとっては、このような見地は全く当然のことであった、と言うのは、津田自身常に天皇制の心からの信奉者であったのだから、ということを指摘したい。ーー著者注)
 古田の考え方の基礎は、日本の国家の発生の問題についての天皇制的諸見解の批判からなっている。
 彼の試みはこの目的にそっているもので、それは、近畿において国家が創設されたと言う見解を論破し、日本においては国家の発生のいくつかの根源地があったのだということを証明するものである。
 著者は綿密に史料(特に“日本書紀”)を研究し、史料のあれこれの記事の解釈において先行者達が正確でなかったこと、及び漢字においても正確でない(例えば“やまたい”)ことなどに注意を向け、多くの場合史料のもたらす情報の解釈について根拠ある疑いを表明している。
 このような疑問を古田はすでに職業的歴史家でなくまだ学生時代の早期の著作の中で述べていることを指摘したい。
 古田の考え方は、九州において国家の形成が起ったという、日本の史学における伝統的仮説の一つに起源論的関係をもっていて、これは何十年にもわたって、考古学者達、民族誌学者達及び歴史学者達によって主張されているものである。(ここでの代名詞“これ”は文法的には“関係”を指すとしか思えないが、文脈上は、“仮説”と解さないと少し変な感じがする。ーー訳者)
 ここで著者は更に新しい局面を開いているが、それは特に、神話的天皇である神武の遠征に関する神話の解釈の面でそうである。
 古田の見解と彼によって行われた分析は日本における国家の発生の歴史学的研究に対して疑いない関心を呼び起すものである。
 しかしそれらはまた新しい問題を生み出し、もしそれらの問題が解決されなければ、古田の考えは、私の見解では、仮説の限界を越えることが出来ないものであろう。
 第一に、古田がその存在を証明しつつある国家の質的性格と経済的基礎の問題が未解決のままであること。“日本書紀”も“三国志”もまたその他の史料もそれ自体としては勿論のこと、この問題を解明することは出来ないわけである。
 ここでは、私の見解では、展望が開けるとすれば、昔にさかのぼる方法であろう(ここで指摘したいのは、内田銀造氏である。彼は、十九世紀のほとんど終り近く、共同体の理論に基づいて農民の土地使用の分与制度を研究し、日本の他の地域と異して九州には、土地の個々の農家に分割する習慣がなく、そのため九州では、この分与制度の導入は、近畿のように滑らかにはいかなかったと強調している。この論拠は古田の仮説に有利に解釈することが出来よう。しかしこの論拠は証拠が必要であり、それは既往にさかのぽる方法で可能であろう。ーー著者注)。
 我々にとって明らかなのは、国家の発生の問題の分析は、土地所有と土地使用の性格と形態を明確にすることを前提にしていなければならないということである。
 第二に、この問題と関連しているのは、国家の形成の年代づけである。もしこの過程が七世紀と見られるのでなく、古田の考えているように、かなりそれよりも前だとすると、いかなる社会的基礎の上に国家は建てられたのであろうか?
 第三に、古田武彦は、一連の場合において、神話的史料中に述べられている事柄と、実際に起ったことを同一視していることであり、そのことがもっとも大きな疑問を呼び起すのである。(現代の神話学の諸理論の見地からしてもそうである。ーー著者注)。
 上記に述べられた津田左右吉は神話は虚構だと見倣し、それは古代の日本人の世界観を反映したものであり、神話の合理化が根拠のないものであることを、説得力ある形で証明した(例えば、神武天皇の東方遠征を、天孫族が東へ移住したことと同一視することは、根拠がないなど。 ーー著者注)。
 古田の神話的歴史の中に述べられている事件に対する解釈は、十八世紀の孔子主義者(このままだと十八世紀の日本の朱子学者となるが、これは国学者や神道信奉者も含んでいないと変なことになると思われる。ーー訳者)のそれとも、また戦前の公認の歴史学者のそれとも全く異っているが、しかし一体何によってこれらの事件の実際起ったことを証明するのであろうか?。もし神話が先史時代の思惟の形態だとすると(ソ連の神話学の専門家はそのように考えているのだが、ーー例えばO.M.Freudenberg氏やその他。ーー著者注)、神話はいかに現実に起ったことを反映しているのであろうか?
 “日本書紀”に述べられていることが、もし神話でなくて、伝説におおわれているが、実際に起ったことであり、それは近畿において国家が発生したという考え方を根拠づけるのに利用されているわけだが、もし神話でなく事実起ったとすると、“日本書紀”の神話の部分は、何故かくもひどくそれにつづく部分とかけはなれているのであろうか?
 別言すれば、もし“日本書紀”の神話が、古代の日本人の世界観のみならず、何らかの事件を反映していると仮定すると、我々は、“日本書紀”の歴史史料としての性格を、完全に吟味する問題へ帰らねばならぬ、すなわち津田左右吉が二〇世紀(二一とあるがこれはあやまり。ーー訳者)の二〇年代にやったことに帰らねばならぬということになる。
 津田は、彼の時代に世界のブルジョア的史学によって達した歴史的批判の水準に依拠して、問題の史料(『日本書紀』その他のことであろう。ー訳者)を首尾一貫して分析した。
 古田武彦の労作を調べている間に起った、上記の疑問は、それ自体、彼によって行われた仕事の価値と意義を減ずるものではなく、著者によって鋭く提起された、史料の解釈の諸問題は、日本における国家の発生の問題を吟味するに際して埒外に放置されてはならないものである。
 しかし本問題(日本における国家の発生の問題のこと。ーー訳者)の首尾一貫した解決にあたっては、私の考えでは、形成された国家の社会の経済的基礎の解明と存在する史料の ーー特に神話的史料のーー 信頼可能の程度の理論的基礎づけが必要である。(一九八四・十二・二三)


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