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2012年12月刊行 古田武彦・古代史コレクション14

多元的古代の成立(上)

邪馬壹国の方法

ミネルヴァ書房

古田武彦

始めの数字は、目次です。

【頁】【目 次】

i はしがきーー復刊にあたって

001 第一篇 多元的古代の成立
        --邪馬壹国の方法とその展開

〈解題〉わが国の古代史学は、敗戦によって一画期を迎えた。一は、皇国史観による戦前史学、他は、津田左右吉の記・紀の神話・説話「造作」説による戦後史学である。けれども、実はこの二者は、意外にも一の核心の思想を共有している。それは天皇家中心の一元史観がそれである。すなわちこの日本列島の代表の王者、権威と権力の「統一」中心は、“近畿天皇家以外になし。”という信念であった。
     確かに江戸時代という近世封建の学においては、そのような、“論議以前”の大前提、いいかえれば、大義名分の中心をなすイデオロギーからすべての研究を出発させる、というこの手法こそ学問なるものの根本であるかに信ぜられてきたものかもしれぬ。
     けれども、目をひるがえして見れば、このような手法は、ひっきょう演繹(えんえき)の方法であって、本質上、帰納の方法ではない。すなわちこれをもって近代の実証的な歴史学と見なすことはできないのである。
     これに対し、近代的学問の立場から見れば、右の一元説も一仮説であり、権威と権力に関する多元説もまた他の一仮説である。要はいずれが古代日本に関する、中国等の国外文献、また記・紀、風土記、金石文等の国内史料、また考古学上の出土物の分布状況を、無理なく解き明かすことができるか、という検証の結果に従えばよい。そのいずれに帰結しても、当然ながら何等のさしつかえもないのである。
     わたしは、古代史学に本格的に立ち入ったさいの第一論文「邪馬壹国」(本書第五篇)の場合と同一の実証的帰納的方法によって三〜七世紀の資料を検するとき、旧来の一元主義史観によっては到底解明できず、多元史観の是であることを認識せざるをえなかった。わたしの古代史観の脊柱をなすものがこの論稿である。
     本稿は東大の「史学雑誌」、九一 - 七(昭和五十七年七月)に掲載された。

 

045 第二篇 魏・西晋朝短里の方法
        --中国古典と日本古代史

〈解題〉近年の「邪馬台国」論争について、それが百家争鳴の混迷の中にあるかのような認識をもつ人もあるかもしれぬ。けれども実はさにあらず、着実に探究の歩をすすめ、新たな研究成果を達成しつつあるもの、といってよいように思われる。
     その一は、三国志の魏志倭人伝中の里程記事の分析である。同書全体において類例を見ないもの、それは倭人伝に蜿々と連ねられた里程記事である。七千余里から百里にいたる部分里程と一万二千余里という総里程が記せられている。同書中の白眉というべき“未知領域に対する地理的報告”である。
     しかるにこれに対して、従来の学界は多くかえりみることがなかった。白鳥庫吉氏以降、これを虚偽の誇大数値のごとく解してきたからである。あの諸家相摩した論争史の中でも、一個の例外事のように等閑視されてきたのであった。
     けれども、わたしが古代史の第一書『「邪馬台国」はなかった』において「魏晋(西晋)朝の短里」なる概念を提出し、三国志全体がこの短里によって書かれていることをのべるに及んで、忽ち論争者が輩出する幸をえたのである。
     この盛況なる論争の中で、わたし自身も右の書では及びえなかった数々の新視点を獲得しえた。そしてようやくこの短里問題の歴史的背景と文献的性格の大綱を認識することができるに至った。それを一稿に盛ったものが本稿である。日本古代史界のみならず、中国側の当該学界の諸家の批正に待ちたいと思う。
     なおこの問題に関し、本稿脱稿後にさらに検出しえたテーマについては『よみがえる九州王朝 -- 幻の筑紫舞』(角川書店刊、予定)の第二章「短里論争」にのべた。あわせ読んでいただければ幸である。本稿は東北大学文学部の「文芸研究」百号(昭和五十七年六月)・百一号(九月)に「上・下」として連載された。

 

083 第三篇 縄文学の方法(故、エバンズ氏に捧げる)
        --太平洋を越える大交流

〈解題〉敗戦によってわが国の古代史学界は、戦前の皇国史観の束縛から解き放たれ、自由闊達の探究期に入ったとされる。
     たとえば日本文化の源流を探究する、といった文化学・人類学的領域においても、戦前の論者(柳田国男・白柳秀湖等)に対し、戦後の論者(江上波夫・佐々木高明・大野晋・鳥越憲三郎等)は、それぞれの論の当否は当然今後の論争にまつべきながら、各論いよいよ多彩を加えていることは、万人の認めるところといえよう。
     しかるに遺憾ながら、逆に閉塞せしめられるに至ったかに見える領域もまた存在する。たとえば、日本文化が外部世界に影響を与えたという方向を探る研究のごときである。戦前の「八紘一宇」的なイデオロギーが、もっぱら神秘的・観念的に外部世界への影響を期待し、主張したという史的経験の反動として、この方向の研究が戦後窒息せしめられる傾向のあったことを、必ずや後世の研究史家は忌憚なく指摘するであろう。
     この点、倭人伝に“倭国の東南海上のはるか彼方に存在する陸地”として明記せられた裸国・黒歯国問題についても例外ではなかった。百花斉放とも見えた「邪馬台国」論争において、この一点のみは論議の圏外におかれたかの観を呈していたのである。それだけではない。アメリカ側の人類学・考古学者たるエバンズ夫妻の多年にわたる問題提起たる縄文文化波及説に対しても、真剣に論争ないし実地調査を行おうとする日本側の古代史学者・考古学者の例を見なかったのである。
     わたしは、昭和五十六年七〜八月、現地(エクアドルのバルディビア遺跡等)に赴き、幸いにエバンズ夫人に関係遺跡等の実地を御案内いただくをえた(テレビ西日本の方々のおかげによる)。そのさいの認識・調査等にもとづき、後来の研究者のために主要な問題点を集約したものが本稿である。「中外日報」(昭和五十七年四月二十一・二十三・二十六日)に掲載された。

 

105 第四篇 日本書紀の史料批判

〈解題〉旧来の近畿天皇家の一元主義史観に依拠しつつ、中国史料や記・紀史料を読解しようとする論者にとって、しばしば陥らざるをえぬ“論証の窮地”があった。
     わたしがすでに第二書『失われた九州王朝』であげた諸点、すなわち「多利思北孤(男王)=推古女帝」問題、「阿蘇山」問題などは、その著明の例であるけれども、問題はそのように一見明白な側面にとどまらず、より専門的な考証の領域に立ち入るとき、一段とその矛盾は深刻化し、収拾しえぬ様相を呈するのである。
     たとえば、あるいは中国側の使者裴世清の職名について隋書と日本書紀が相異している点、あるいは「推古朝の遣使」と戦前から言い慣わされてきたのであるけれども、実は推古紀においては、毎回例外なく「唐」ないし「大唐」をもって国交対象の国家名として記載している。すなわち「遣使」であるという点、など。その上、同じ推古紀中に高句麗との交戦対象として、文字通り「隋」という国家名が記されている。この史料事実から見れば、推古朝が小野妹子を派遣したのは、“隋ではなく唐である。” ーーこの帰結は、書紀という史書の史料事実に対して正面から率直に直面する以上、自明の帰結なのであった。
     しかるにその自明の帰結をうけ入れたならば、隋書イ妥国伝に記された、有名な「日出づる処の天子」云々の国書は、日本列島内における、推古朝とは別個の王朝となろう。すなわち多元説である。この必然の帰結を恐れ、旧来の一元論者は「唐=隋」「男王=女帝」といった不合理に対してあえて目を閉じてきた。そしてこれこそ戦前・戦後を貫く日本古代史学の共通命題だったのである。
     この重要テーマにつき、東北大学文学部、文芸研究会の第三十二回大会(昭和五十五年六月十四日)の冒頭講演に招かれて講述、のち「文芸研究」九十五集(同年九月)に本稿が掲載された。

 

133 第五篇 邪馬壹国

〈解題〉本稿は、古代史学に対する本格的な探究の、第一石をなした論文である。
     昭和三十年代を通じて、親鸞研究に専念してきたわたしが、斯界に目を向けた動機、それは学問の方法論という一点にあった。すなわち、“歴史認識のための文献処理の厳格性を問う。”というテーマがこれである。
     この点は、実は先の親鸞研究の中で獲得しきたった根本の方法論に他ならない。眼前の写本を処理するには、必ず新旧各写本の対比と時代別の表記法の検証、といった実証的客観的方法によって、その帰納するところを明らかにしなければならぬ。これに対して自家の観念やイデオロギーをもって、各写本共通の一字を「改定」する、などということは、当然ながら学問の邪道という他はない。
     たとえば親鸞関係の写本に対し、後代の教団の教学の視点から「改定」が加えられた場合、これを学問的視点から再検証するとき、しばしばその誤を指摘しえた。なぜなら鎌倉期に生きた親鸞その人に非ず、後代の描く親鸞像に合わせた形に、“写本をいじる”結果になるからである。近世封建の「学問以前の党派学」に他ならぬ。
     この点、「教団中心主義」でなく、「近畿天皇家中心主義」の目から、“原本をいじる”という場合も、学問上全く同一の手法に属する。三国志の全版本一致してしめす「邪馬国」、この字面を「ヤマト」と読むために「邪馬国」と改定する。 ーーこれも全く右と同一の「学問以前の手法」なのであった。
     この点、全三国志中の「壹」と「臺」の異同の検査という方法を採用したことによって、この場合もまた「改定の非」なることの示唆をうることになった。その上、「臺の特殊用法」という、決定的な“副産物”をもえたのである。最近の(一)論文「多元的古代の成立」に至る、わたしの諸研究の基本をなす論文、それが本稿である。
     「史学雑誌」七八 - 九(昭和四十四年九月)に掲載された。

 

199 第六篇 続・邪馬壹国

201               前篇
260               後篇

〈解題〉本稿は、前稿(第五篇 邪馬壹国)の続篇である。この論文は前稿にひきつづき執筆され、「史学雑誌」編集部に送られた。その結果、掲載決定の旨の通知が当編集部からわたしのもとにとどいた。
     ところが、当時の大学内部の状況のためか、掲載時期が漸次延引し、はからずもついに、当方の用意しつつあった第一書『「邪馬台国」はなかった』が朝日新聞社から刊行される時期(昭和四十六年十一月)と、公表順序が逆転する次第となってきた。その第一書の内容は、右の前稿及び本稿の内容を骨子とするものであった。そこでわたしは、学術誌上の掲載が、同趣旨の内容をもつ一般書に遅れる事態を憂え、掲載辞退の旨を「史学雑誌」編集部に申し出たのである。当編集部はこれに同意する旨、直ちに回答を寄せられた(その関係文書は、今も当方に所有している)。
     かくして論文形式としては、未公開のまま没入の運命に遭うた本稿を、当学術論文集に敢えて収録したことについては、若干の意図を存する。
     すなわち従来の学界において論議せられたのは前稿の中心国名問題に終始し、続篇に当る「行程解読」問題については、ほとんど学術誌上の論争を見なかった。この点あるいは「学術書未掲載」という形式上の理由の存するやを患え、ここに収録させていただくこととした。当社(駸々堂)の配意に感謝する。
     思うに、倭国の中心国名問題も大切ながら、それと同じく、あるいはそれ以上に重要なテーマ、それが「行路記事の解読」とそれによる「邪馬一国の位置決定」であること、言をまたない。なぜなら旧来の「邪馬台国」の比定地たる大和や山門等は、いずれも弥生期の出土物(鏡・矛・錦等)の分布中枢域に相当していない。この事実が年来の日本古代史学の不透明性の根源をなしてきたからである。
     願わくば、学界内外の諸家が、本稿の論証に対して徹底した論議を集中して下さらんこと、それをここに特に切望したいと思う。

317 日本の生きた歴史(十四)

319      第一 「邪馬壹国」の根本批判
328      第二 古事記の根本批判
332      資料 『古事記』真福寺本における「矛」と「弟」(一)

1〜7人名・事項・地名索引

※本書は『多元的古代の成立(上)』(駸々堂出版、一九八三年)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(十四)」を新たに加えたものである。なお、本文中に出てくる参照ぺージには適宜修正を加えた。

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古田武彦・古代史コレクション14

多元的古代の成立(上)
   -- 邪馬壹国の方法
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2012年 12月10日 初版第1刷発行

 著 者 古 田 武 彦

 発行者 杉 田 敬 三

 印刷社 江 戸 宏 介

 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房

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© 古田武彦, 2012    共同印刷工業・藤沢製本

ISBN978-4-623-06453-3

   Printed in Japan


はしがき ーー復刊にあたって

     一

 「多利思北孤(タリシホコ)は、己おのが祖、俾弥呼(ヒミカ)を誇りとしていた。」
 この、自明の命題に気づいたのは、昨日。平成二十四年(二〇一二)の九月四日だった。京都大学の文学部の図書室へ、久しぶりに訪れて、夜やっと自宅に帰った。多大の収穫に“疲れ切った”、しかし快い疲れに満たされつつ、帰宅した直後だった。気づけば、あまりにもそれは「平明な道理」にすぎなかったのである。

     二

 すでに、わたしの第二著『失われた九州王朝』で明確に指摘していたように、そして三十数年間、主張しづつけてきたように、「九州王朝の天子」がタリシホコ、この道理はわたしの立場の中心をなす持論だった。右の著作に「多利思北孤」の写真版を掲載した上での立論だったから、史料事実そのものには「反対」はなかった(ミネルヴァ書房復刊版、二四八ぺージ)
 そのため、学者たちは“苦しいダンマリ”をつづけ、「九州王朝、無視」の、“暗黙のルール”を固持しつづけてきた。それがこの三十数年間の学界や大手メディアの姿だったのである。しかし「心の目の開いている」人々もまた、着実にふえつづけていた。

     三
  今回、新たに気づいたテーマ、それは次の一点だ。
 「多利思北孤の時代、すなわち七世紀前半に、多量の『矛』の出土する地帯など、どこにもない。少なくとも、この日本列島の中には存在しない。」
 この事実だ。それはいかなる考古学者にとっても、「自明の事実」である。近畿の大和や難波であろうと、九州の筑紫であろうと、例外はないのである。
 では、なぜ「難弥(キミ)」という妻をもつ「男性」の王者、彼がこの「自署名」を“名乗った”のだろうか。
 「聖徳太子とまちがえた。」とか、「推古天皇(女性)の次の『舒明天皇』とまちがえた。」などの「説」が、学者たちから出されている。しかし、これらは「否(ノウ)」、全く成立不可能なのである。なぜか。
 あの有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」の「名文句」は、彼が隋朝に贈った「国書」の一節だ。その「国書」に、彼の「自署名」がなかったはずはない。ないどころか、それは隋朝側に「保管」されていた。隋・唐初の史官(魏徴たち)は、その「直接証拠」を眼前にしつつ、あの「名文句」を記したのである。
 右の“まちがえた”論など、「天皇家一元史観」で“固められた”明治以降の日本の学界や大手メデイア以外で、一般に「通用」できるはずはない。「男性、女性、同一論」の非道理だからである。

     四

 「では、多量の『矛』で囲まれていた時代とは、いつか。」
 問えば、「答」は明確だ。三世紀、俾弥呼(ひみか)の時代である。三国志の魏志倭人伝に、彼女の宮室は、そして「女王の都」のある「邪馬一(壹)国」は「矛に囲まれていた」と明記されている。
 もちろん彼はそれを「読んで知った」のではない。筑紫なる倭国(「イ妥〈タイ〉国」)において護持しつづけていた「生きた伝統」の一環だった。文字通り、阿蘇山下の天子としての「多利思北孤」その人だからである。
     イ妥*国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

 彼の妻は、俾弥呼の伝統を継受し、「六〜七百人の女たち」に、現に囲まれていた。“生き証人”の群れだ。それが隋書に明記されている。
 日本の学界や大手メディアや教科書が、一切の「眼前の道理」を無視しつづけて、理性ある全世界の「識者」(心ある人々)の嘲笑を浴びつづけるのは、いつまでであろうか。
 今回、ミネルヴァ書房の復刊版シリーズの第III期が開始する。無上の幸いとしたい。

    平成二十四年九月五日

                             古田武彦


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