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古田武彦講演 2000年1月12日 於:ホテルニューオオタニ佐賀 会議室

「君が代」は卑弥呼(ひみか)に捧げられた歌

1 古墳と祭祀

 『隋書』イ妥*国伝(部分)

 開皇二十年イ妥*王姓阿毎字多利思北孤號阿輩鷄*彌遣使詣闕上令所司訪其
風俗使者言イ妥*王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理努云委我
弟高祖曰此太無義理於是訓令改之
・・・
王妻號鷄*彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利利歌彌多弗利
 王の妻を鷄*彌(キミ)と称し、後宮の女、六七百人有り。太子を名付けて利歌彌多弗利という。

イ妥*:人偏に妥。「倭」とは別字。
鷄*:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」。[奚隹] JIS第3水準、ユニコード96DE

 私は太子は「利歌彌多弗利 リカミタブツリ」ではなく、本当は「歌彌多弗(カミタフ 上塔)の利(リ)」と読むべきだと思います。博多の九州大学の所に上塔(カミトウ)というところがあり、利(リ)は中国風の一字名称だと考えています。
 それから「後宮有女六七百人」については、最初私は非常に誤解しておりまして、「王を取り巻いている女六七百人」と考えて、つまりハーレムのようなイメージを考えておりましたが、文章をしっかり読めば、王の妻である鷄*彌(キミ)を女六七百人が取り巻いている。つまり妻の周りの「後宮」。「後宮」というのは中国風の表現であり、実体は王の妻の鷄*彌(キミ)を女六七百人が居る。これも『倭人伝』を考えてみると、卑弥呼(ひみか)を取り巻いて女(卑)千人が取り巻いている。その伝統で七世紀になっても、まだ鷄*彌(キミ)を取り巻いて女六七百人が居る。そういう状況になっている。

『魏志倭人伝』部分
名曰卑彌呼事鬼道能惑衆年巳長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍

  そうしますと阿毎多利思北孤はどこに居たかといいますと、太宰府に「字紫宸殿」がありますので、そこに居た。それではキミの方はどこに居たのか。今のところは分からないですが、太宰府町に今の行政区画では太宰府天満宮は入らないが、本来は天満宮は太宰府に入る。その太宰府に心地(しんじ)池という名前がある。千如寺にも心地(しんじ)池がある。もちろん京都にもありますが。とにかく心地(しんじ)池というのが謎の一つです。それで天満宮近辺にキミの宮殿はあるのかも知れません。
 それで女性一人を女性六・七百人が取り巻いている話ですが、その女性六・七百人はどこに居たのか。
 ここで少し話の矛先を転じて考えてみます。三種の神器がはじめて出た吉武高木遺跡が博多の東側にあります。その次は糸島郡にいって、漢式鏡の始まりである三雲(ミクモ)に三種の神器が出てきました。それから博多の南のベッドタウンの春日市に須玖(スク)岡本、その次はまた糸島郡に返って井原(イハラ)、そして平原(ヒラバル)。そういう五カ所の三種の神器が出てくる遺跡があります。そういう三種の神器が出てくる遺跡は五カ所だけかというと、そうではなくまだ地底に眠っている。当然五倍、十倍の遺跡が存在する。そのように理解すべきであると考えます。偶然五カ所が出てきた。納屋を建て替えたり、農地にするために土を入れ替えたら出てきた。またミカン畑を造るために鍬を入れたら出てきた。現在は現在は農地で、そういうのっぺらぼうな所ですが、本当に初めからそうであったはずはないので、とうぜん最初は盛り土があった。先に述べた糸島三雲遺跡では、現地の新聞では大きく扱われましたとおり濠が張りめぐらされ、土塀の跡がずっと有りました。とうぜん吉野ヶ里のような墳丘墓があり、その周りを濠や土塀が取り巻いていた。それよりもやはり早く須玖岡本遺跡に土塀が張りめぐされていた痕跡が発見されていた。弥生の墳丘墓という形の、方形か円形かの周溝墓が存在し、その周りを濠や土塀が囲んでいた。
 今言っているのは形態の問題ですが、それより、より重要な問題は、お祭りせずに何もせずに放っておいたのか。現在でも天皇家は九十二の天皇陵・皇后陵・御陵参考地を、お祭りしている建て前になっています。我々はお墓を護るだけでなく、お祭りをしている。だから単なる死んだ墓ではない。生きているお墓だから発掘できない。宮内庁はそういう論理を展開した。つまりお祭りをしていると言う。ですから同様に、それらの方形周溝墓(弥生墓)もお祭りをしていた。たとえば年に一度亡くなった日や、季節の決まった日にお祭りをしていたと考える。今のところ私のイメージの問題ですが、そのお祭りをしていたのは女性達ではないか。女性達がそのお祭りの主たる役割を担っていたのでないか。
 それで話が飛躍しますが、現在神社に行きますと、男性の宮司さんが居ます。そして巫女さん達が居ます。巫女さんは女性です。男性の宮司さんと女性の巫女さん。あれは時代が違うのではないか。変な言い方ですが縄文時代は女神(めがみ)中心の時代です。土偶などにはオッパイがあるのを見ても明らかですが、女神中心の時代。これを祭っていたのは女性ではないか。
 ところが弥生時代になると男中心の社会に変わってきた。それを示している神話が、『古事記』神代の巻で、イザナギとイザナミの話です。「あなにやし良い男を。」とイザナミが言った。後でイザナギが「あなにやし 良い女を。」と言った。そうすると不具の子ヒルコができた。だから流した。失敗作だ。それで、どうして不具の子ができたのか、天神(あまつかみ)のところに相談に行っら、それは男が先に言わなければダメだ。女が先に言って失敗した。それだったら失敗する。それで男が先に「あなにやし良い女を。」と言ったら、うまくいった。この話です。
 このコミカルな話は、女性中心の時代から男性中心の時代に転換した弥生の神話です。それまでの縄文時代は女性が中心の時代だった。それまでは女性中心におこなうのが自然だった。ところが、それだったら失敗する。これからは男が中心にならなければならない。そういう男性中心の時代になったことをピーアールし評価する神話です。そういう女性中心の縄文時代から男性中心の弥生時代の前期当たりの転換する時代に造られた神話である。
 これは何を意味するのか。これまでの巫女(みこ)を中心の時代から、男性の宮司(ぐうじ)が真ん中に頑張って采配して行わなければならない。では神様を祭るのに全部男性で取り仕切ればよいのか。それまでは女性が神様を祭っていたので、男性だけでは納得しないだろう。なんとなく男性の宮司だけでは居心地が悪い。それで女性の巫女も生き残った。妥協の産物である。女性中心の段階と男性中心の段階の妥協の産物が、今我々が見ているような神社の儀式である。本来は時間帯が違っていて、女性ばかりが早い段階、男性が遅い段階。男性が遅い段階で入ってきたから巫女(みこ)さんが必要である。このように、常識論かも知れませんが、私はそう考える。

 これに対して非常にコントラストを成すのがキリスト教である。キリスト教は牧師さんは男性です。周りにはいろいろ手伝う人も居ますが、それも原則男性です。あそこには女性の牧師は居ません。修道院など女性ばかりのところには女性は居ますが。普通 の教会はだいたい男性で仕切ります。最近は女性の牧師もいますが。基本的には男性の牧師で男性のお手伝いで祭祀が運営されています。きちんと調べて統計を取ったわけではないが、そういう形で理解しています。
 私はこれは大胆に言いますと、中世の「魔女狩」の残滓(ざんさい)ではないか。ご存じのようにヨーロッパでもとうぜん多神教の時代がありました。永らく続いてきた。その時代は、とうぜん女性中心の時代だった。そこにキリスト教が入ってきて征服した。武力で征服はしましたが、以前女性中心の多神教時代の勢力が強い。その女性の巫女さん達を、反キリスト教の「魔女」と称して火あぶりにして虐殺した。凄いですよ。その結果 、何が起こったか。何百万どころではない。一人の記録を見ると、一ヶ月で千何百人殺した。昨日は何人殺した。今日は何人殺したと記録にある。それが日記にえんえんと書いて有る。一人でそれですから、ものすごい数である。それも何世紀にわたって行われた。
 この「魔女狩」は、ナチスと比べたら大人と子供だ。もちろん中世の魔女狩りが大人で、ナチスが子供だ。比較にならない。何世紀にも渡っている。スケールと規模がぜんぜん違っている。ナチスは、二十年なら二十年である。
 その結果、何が起こったか。それで女性の巫女さんの系譜は焼きつくされ途絶えた。全部虐殺された。
 それで現在のキリスト教の司祭は、男性しか居ない。そのあげくの姿である。だから魔女裁判は未だ死んではいない。キリスト教の教会の中に断固として生き残っている。こういうことを日本では言えるが、ヨーロッパで言うと命が危ない。
 元に戻り、こういう見方で陵墓を見ます。そうすると陵墓を護ってお祭りをしているのは女性である。それでキミの問題ですが女六・七百人が男である阿毎多利思北孤とベタベタとイチャイチャして遊んでいたわけではない。基本的に行っていたのは職業的祭祀ではないか。
 そうするとお墓が糸島・博多湾岸にあったとき、そのお墓で祭祀を行わなければならない。そうするとその祭祀を行った女性はどこに住んでいたのか。そう考えてみますと、前から気になっていた地名があります。「女原 みょうばる」という糸島にある地名です。博多から糸島に抜けるところに地下鉄の今宿駅があり、その近くです。前から気になっていましたが、「女」を「ニョ」・「ジョ」とは読めるけれども、「みょう」とは読めない。私は考えるのに「みょうばる」という言葉の方が、先に有ったのではないか。日本の古代語にそのタイプの言葉は先にあったようです。たとえば有名な信州の縄文遺跡で阿久(アキュウ)遺跡。阿(ア)は接頭語で「自分 われわれ」の意味でしょうが、そこに「キュウ」が付く。これは中国語ではないでしょう。他にあったのではないか。ありました。琉球(リュウキュウ)です。沖縄は日本語ですが、琉球は中国語だと考えていた時期もあったのですが、ものを考えていなかった証拠です。しかし、琉球(リュウキュウ)という漢語はない。似た音に漢語に当てているだけです。沖縄とは別 個にそう言った。同じところを片方では沖縄と言い、別の呼びかたではリュウキュウ(琉球)とよぶ。そういう問題です。阿久(アキュウ)と同じです。縄文からの言葉かも知れない。皆さんご存じの日向(ヒュウガ)。「ガ」は町とか村とかそういう集落を示す言葉に良く出てくる。しかし語幹の「ヒュウ」はふだんの日本語ではあまり使わない言葉ですが使われている。
 そういうことから一度考えると、「評 ひょう」という言葉もおかしい。郡評論争の「郡 グン」はまちがいなしに中国語にある。なぜなら中国の制度に存在する。字も同じで流用したにすぎない。しかし「評」は中国にはない。これも探せば似たものはなくはない。似たものというものは、楽浪郡とか帯方郡など植民地に、臨時軍事執政官のようなもの。それを「評」と称し、裁判などをおこなった大変な権限を持ったものだ。しかし、これは郡のような行政単位 ではない。町や村の行政単位を「評」と中国が呼んでいる例はない。似たものは中国にあるが、そのものズバリのものは中国にはない。それで考えてみると、これも中国にあったものを取ってきたものではない。何か「ヒョウ」という日本語が先にあった。それに「評」というものを(中国から)頂いてきて付けたものかも知れない。分からないが、この場合だったら、あり得る。
 中世の名主(ミョウシュ)も良く考えると、どこから出てきた言葉か分からない。中国に名(ミヨウ)という行政単位はない。「名」は呉音(編集者注 本来の中国語)で「ミヨウ」と読めますが、中国で「ミヨウ」と言っているのを、日本でもそういう使い方をしているわけではない。このような問題は、急いで答を出す必要がない問題ですが。

 ですから元に戻り、「ミョウ」という日本語が先にあったとします。問題はなぜ読めない「ミョウ」に「女」という字を当てたかです。漢字表記の問題です。これには困る。
 それから先は私の推量ですが、女性が住んでいたからです。女性に関係ないのに、別に読めもしないに「女」に「ミョウ」という字を無理に当てるのはおかしい。やはりそこにたくさんの女性が住んでいたから、「ミョウ」に「女」という字を当てた。それで「女原 みょうばる」と呼んだ。
 そうするとやはり、先ほどの祭祀をおこなう女性たちが、ここに住んでいた。ここにいたら、大変便利である。三雲・平原でお祭りするときには直ぐ行ける。吉武高木も須玖岡本少し遠いけれども直ぐ行ける。陵墓は高祖山連峰の両側に等距離のところにありますので、お祭りするためにそこに居ると大変便利だ。これは現在のところ、こう考えればうまく解釈できるという理解にとどまっているが、一番分かり易い解釈だと思う。
 このように解釈すれば、魏志倭人伝の卑弥呼を取り巻く「婢千人自侍」が、一番むりなく理解できる。これは弥生時代の話です。いうならば糸島・博多湾岸だけで良かった。

 ところが四世紀以後、高句麗・新羅が博多湾岸に侵入してくる危険性が高くなってきた。実際に侵入された記録もある。それで都を筑後川以南に移した後の話である。そうするとこれは例の装飾古墳。石人石馬の装飾古墳という陵墓。その祭祀も必要となる。とにかく造ればよい。後はシランよ。そんなことは言えない。当然やはり造られた陵墓のお祭りが必要となる。先ほどの関連では、男の宮司さんも必要かも知れませんが、やはり祭祀は縄文以来主要な役目を女性たちが担っていたのではないか。それではその女性たちはどこに居たのか。それは皆さんがよくご存知の「女山 ぞやま」。有名な「邪馬台国」筑後山門説の瀬田川町の「女山 ぞやま」です。女山神護石のところです。これも変でして、「女」を「ゾ」とは読めない。これも今の私の理解では「ソ ゾ」は同類の言葉で、山の地形の広がりで、「ソ」と呼ばれる地形があって、阿蘇山のように二音目にくる場合は「ソ」で清音になるが、先頭にくると「ゾ」と濁音となるのでは。私は「ぞやま」そのものは自然地名だと考えますが、その自然地名「ぞやま」に、「ソ ゾ」と読めない「女」をなぜ当てたのか。するとやはり、ここでは巫女さんが住んでいたから、その事をみんなが知っていたから「女山」という字を当てた。この巫女さんたちは石人・石馬の陵墓の祭祀をおこなっていた。これはあくまでも、こう考えればうまく考えることが出来るという段階です。ただ弥生時代、古墳時代別々に考えてそれぞれの段階でうまく説明できるという考えで、絶対的証拠があるわけでもありません。もっとその当たりの小さな字地名も欲しい。地名辞典などでも少し探しましたが現在のところ分かりません。
 以上が古墳と祭祀に関する私の考えです。

 その上に立って、十一月十五日見学する福岡市にある志賀島の志賀島海神社の「山誉め祭り」を考えてみます。今までは一生懸命「君が代」だけについて考えてきましたが、この祭りは「君が代」だけのお祭りではない。
 このお祭りの始まりは、拝殿で女の人が八人舞う「八乙女祭り」です。乙女というからどんなに若いかというと、とんでもない。お婆さんばかり。気丈夫のお婆さんばかり八人。それで口で言うより見てもらえば分かりますが、音楽も(現在の我々から見れば)拍子抜けするような単調な音律です。それに合わせて八人の女性が二人一組になって動きを示す。その動きも大変ゆったりしている。しかも八人が別々に「舞い」というより、別々の動作をおこなう。我々は「舞い」というから、かろやかに動いているように考える。しかしそのような動きではない。それだけに、これは非常に素朴な「舞い」である。我々が見て音楽と思えないような音律で、しかもこれは非常に古い段階の「舞い」ではないか。その程度に感想を書いてある。
 しかし今回、それにとどまらず、この「八乙女」そのものについて考えてみる。今の八人は「八乙女」を出せる家が決まっている。ですからたまに七人でおこなうこともあるようだ。要するに家柄が決まっている。名前が「八乙女」ですから八人で舞うことは決まっている。
 それを作業仮説として考えますと、「大八島」と対応したお祭りではないか。その大八島洲は『古事記』、『日本書紀』では山陰から九州にかけて広がっている。その大八島の一つの洲(国)から一人づつ代表して、出てきて九州筑紫に集まってきたのではないか。たとえば吉武高木遺跡など、筑紫の倭国の中心の王者の前で、それぞれの「舞い」を舞う。
 あの「舞い」が変なのは、我々の見方では「舞い」というものは一斉に舞うと考えるが、あの「舞い」は勝手にバラバラに自分の向きたい方向に向いて、勝手に舞っているように見える。これは基本的に、自分の出身の国の「舞い」を舞っているのではないか。基本的に合わせる必要などは、どこにもないのでは。それで「大八島」中心の王者である筑紫の君に「舞い」を捧げる。大八島洲(国)と対応しているのではないか。これも確たる証拠があるわけではないが、そのように考えてきた。
 次に、変わったお祭りがあります。「八乙女祭り」は本殿と拝殿で行いますが、その祭りには宮司さんも、八乙女さんも一緒に別殿のほうに移動します。そして戸を締め切ってというか、窓も入り口も全部閉め切って中で何かをおこなう。中は真っ暗。
 途中で奧から「オォー~ォ~」といううなり声が聞こえてきますが、何をしているか良く分からない。私も二回目見たときに、何とか見たいと思って必死に隙間から覗いたが暗くて良く分からない。ようするに外部を締め切っておこなう秘密の儀式。「八乙女の舞い」などは、どうか見て下さいという儀式ですが。
 この儀式を再度考えてみると、これはようするに、夜未明におこなう儀式の典型としておこなっているのではないか。『隋書』イ妥*国伝「以天爲兄・・・天未明時出聽政跏趺坐日出便停理努云委我」とある兄の儀式だ。その方法を典型化した闇夜で行うお祭りではないか。七世紀段階で言えば、多利思北孤(タリシホコ)の兄の儀式である。
 その次は「君が代」です。弟である多利思北孤(タリシホコ)の儀式でみんなに披露する。
 私は初め「君が代」ばかりに気を取られていたが、他の儀式についてあまり考えたことはなかったが、本当はそうではない。このお祭り全体が九州王朝の儀式である。本来あった九州王朝の儀式を完全にコンパクトにし保存している。そう考えて皆様の斬新な目で見ていただいて、いろいろな意見を聞かせて欲しい。御参考までに。

 

2 君が代の真実

我が君は 千代にやちよに さゞれいしの いはほとなりて こけのむすまで

 さてその次は、「君が代」について思いがけない結論に到達しました。結論が出たときに、何か言いにくいというか、奇をてらって言っているように思われるかも知れないが、思い切って言ってみます。

「君が代」の歌は、九州王朝の君主である卑弥呼(ひみか)を賛美する歌ではないか。

 この結論です。これだけ言うと安っぽいことは十分承知していますが、この結論に至るまでの論理を述べてみたい。

 まず、この歌が、糸島・博多湾岸で作られた歌であることは書いたとおりです。「千代」、「細石(さざれ石)」、「井原 いはら 岩羅」、苔牟須売(こけむすめ)神と、列記したように、千代から地名や神名が連なっている。「君が代」は博多近辺の地名・神名を綴りあわせてある。

(まとめの再掲載 古田武彦の古代史再発見<3回目より>)
ちよー福岡県福岡市県庁前。 千代の松原(千代東公園)、千代町、千代県庁口(地下鉄駅名)。千代は現在の千代町。広げて言っても、その前の海岸である千代の松原。
やちよー(博多湾) 八千代というと、それを広くして、おそらく博多湾全体
ざざれいしー細石神社、三雲遺跡の直ぐ裏 福岡県前原市、細(さざれ)石は神聖な石。
いわおー岩尾 細石神社南隣に井原(いわら)遺跡がある。井原山の尾(を)に当たる所 井原(岩羅 いわら)など、福岡県前原市 背振山脈の第一峰が井原山(いわらやま)、第二峰が雷山(らいさん)。ここは見事な鍾乳洞がある。 
こけむす(ひめ)ー苔牟須売(こけむすめ)姫神 桜谷若宮神社の祭神 福岡県糸島郡(唐津湾)漁師さんが信仰する女神
ー『君が代は九州王朝の賛歌』(新泉社 市民の古代別冊)参照ー

  これで全部「君が代」で歌われ重なっている。これが偶然の一致とは考えられない。糸島・博多湾岸で作られた歌である。

 それでもう一つ、隋書イ妥*国伝の「阿輩鷄*彌 アハイノキミ」について言いますと、「吾輩(ワハイ)」は、「我々 われわれ」という意味で、それを「君 きみ」と合成した言葉である。日本語では複数・単数同じ言葉ですから、「阿輩鷄*彌 アハイノキミ」は「我々の君」である。こう考えてきた。九州王朝の歌であるという概念が成立してきた。

  もう一つ「さざれ石」はその『君が代は九州王朝の賛歌』で論じましたが、細石(さざれいし)神社の御祭神は磐長姫です。磐長姫は『古事記』・『日本書紀』では、まったくの悪役ではないが損役というか、憎まれ役という形で出現している。天孫降臨で、ニニギに結婚を望んだが、ニニギが望んだのは妹のコノハナサクヤヒメである。それでイワナガヒメを捨ててコノハナサクヤヒメと結婚したという形になっています。女性としてまったく面 子が立たないように侮辱されて、表に出てこれないような形で『古事記』・『日本書紀』に書かれている。このような侮辱された形で出てくることは、アマテル・ニニギ側にとってまったく面 白くない神々であった。もう磐長姫の時代ではない。ニニギの時代である。磐長姫はペケ印で登場している。そういうことは逆に、アマテル・ニニギのような新参者とは違う名門の縄文の神であることを示している。
 また苔牟須売神(こけむすひめのかみ)も同じである。雄大な玄界灘を望んで、芥屋の大門(けや の おおと)という非常に有名な海の洞窟がある。その向かい側に、唐津湾に望む福岡県糸島桜谷若宮神社に、苔牟須売神(こけむすひめのかみ)は祭られている。「こけ」の「け」は精霊を意味する言葉であり、「こけ」という神聖な場所に住んで居られる主なる女神ではないか。この神も『古事記』・『』日本書紀』には出てこない縄文の女神であると考えています。天孫降臨という紀元前二百年段階の以前の神様である。「君が代」は紀元前二百年以前の神様への捧げられた歌である。本来はそうですが、それが九州王朝の歌に転化されてきた。
(天孫降臨という事件も、紀元前百年ぐらいだったのですが、年輪年代測定法により、百年さかのぼり紀元前二百年のことになります。)

 ところで苔牟須売神(こけむすめのかみ)をこのように考えることが出来る。「こけ」そのものは地名である。

  苔牟須売神 こけむすめのかみ
こ ー接頭語 「越(こし)の国」などの「こ」。
け ー芥屋(けや)、もののけ(物の怪)と同じ“け”である。精霊を意味する言葉である。
こけー地名。植物の苔(こけ)は当て字である。芥屋の大門(けや の おおと)という非常に雄大な玄界灘に向かっている海の洞窟がある。「けや」に対する、それと対を成す「こけ」と呼ばれる地帯、地名だと思う。
む ー牟 主たる、主人公という意味
す ー須 鳥の巣、本来人間の住むところも「す」です。鳥栖という地名がある。「住む。」と動詞もある。
むすー 人が住む主たる場所、大集落や中心地を指すと考えます。
め ー売 当然女神、女神中心は縄文の神である。

  それで「千代 チヨ」の「チ」は、神様の「チ」である。アシナズチ、テナズチ、ヤマタノオロチ、オオナムチという神様を意味する「チ」である。忘れていけないのは「国常立 クニノトコタチ」である。「立」という漢字が書いてあるから、字に騙されてはいけない。別 に立っていたわけではない。本来「タ」は「太」で、「太神 タチ」と書く大神にあたる「タチ」です。「国常太神 クニノトコタチ」はその「チ」の神様。『古事記』『日本書紀』の中では重要な神様です。記紀の神代の巻では、この神様から出発している。その「チ」の系譜の大神である。筑紫(チクシ)・高知・福知山の「チ」である。その「チ 神」の神様はずいぶん各地に存在している。その「チ 神」の神様をバックにした世界である。そういう考えは早くから持っていた。

 それをもう一歩進めて「千代」・「八千代」を考えてみます。
 福岡県県庁があるところが「千代」ですが、その近くに山神社というところがある。そこに千代水という良い水が出るところがある。縄文は大体良い水が出るところが中心である。その「千代」。「ヨ」は「世」である。「神の世」である。ですから千代(チヨ)時代の背景をバックにして「君が代」が歌われていることは間違いない。

  さてそれで今言ったことはまとめて言いますと「君が代」が「我が君」に転換してきた。これは「我が君」段階になると、七世紀『隋書』イ妥*国伝で述べられているように九州王朝段階で、男性の方が「我が君」と呼ばれたことは間違いがない。ところが千代(縄文)時代のという背景をバックにして「君が代」が歌われていることも間違いがないと考えてきた。

 

3 詩と陶塤

 ところが、もう一つの別の問題に新しく気が付いてきた。結論の方から先に言いますと、「五・七・五・七・七」というものは弥生以後である。
 この問題は、何回も言いましたが『古今和歌集』の序文。これは紀貫之の非常に優れた見解が展開されている序文ですが、その中の一つの見解です。普通 は真名序(漢文序)にあるように、わが国では、スサノオの時代から歌が始まったと書いてある。これは平安時代に何人かの人が書いていますが、当時の通 説だった。紀貫之は、その説だったように言われているが、実はそうではない。漢文序はその通 説に従っているが、仮名(かな)序のほうでは下照姫から歌が始まった。そのように独自の見解を展開している。
 それで下照姫とは何者か。天照大神が『日本書紀』では「天孫降臨」に先だって何回か出雲に使者を派遣する話があります。その使者が失敗する。なぜ失敗するかと言えば、その派遣された使者が出雲側の女と仲良くなって 帰って来なかった。それで使者となった者は返す矢で自業自得で死んだという話がある。その使者が夢中になってくっ付いた相手が下照姫である。そこに出てくる。その歌が最初と言っている。それで、その歌は五・七・五・七・七に成っていない。おおざっぱに言って二・三・五・五・二・四のバラバラ歌。紀貫之はこのバラバラリズムのほうが古いと言っている。スサノオの方の五・七・五・七・七は新しい。

『古今和歌集』部分 真名序(漢文序)
和歌未作、逮于素盞烏尊、到出雲國、始有三十一字之詠、
和歌いまだ作(おこ)らず、スサノオの尊の出雲の国に到るに逮(およ)びて、初めて三十一文字の詠あり。

『古今和歌集』部分 仮名序
世に伝はることは、久方の天にしては、下照姫に始まり、・・・
・・・
人の世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける、

    八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを、

 つまり『古事記』にある、この歌です。ここまでは漢文序と同じ考えである。ところが、その前があると、先に書いてある。 「世に伝はることは、久方の天にしては、下照姫に始まり、」と。 つまり「下照姫が歌の始まりだ。」と言っている。スサノオをその後だと言っている。スサノオより、前があると書いてある。
 下照姫とは何者か、下照姫は『古事記』・『日本書紀』に出てきますが、『古事記』には一つだけ出てきますが、『日本書紀』には二つ出てきます。

岩波日本古典文学大系『日本書紀』
味耜高彦根の妹下照姫、衆人をして、丘谷に映く者は、是味耜高彦根神なりといふことを知らしめむと欲ふ。故、歌読みして曰はく。
あじすきたかひこねかみの いろ したてるひめ、つどへるひとをして をたにに てりかがやく ひとは、これ あじすきたかひこねかみなりといふことを しらしめむと おもふ。 また うたよみして いはく、

天なるや 弟織女の 頸がせる 玉の御統の
 穴玉はや み谷 二渡らす 味耜高彦根
あめ なるや おと たなばたの うながせる たまの みすまるの
あな たまはや みたに ふた わたらすあじすきたかひこね

又歌して曰はく また うたよみして いはく
天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵
片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵
あま さかる ひなつめの いわたらす せと いしかわ かたふち 
かたふちに あみ はりわたし めろよしに よしよりこね いしかわかたふち

此の両首歌辭は 今夷曲と號く
この ふたうたは いま ひなぶりと なづく

 時間的順序から言えば明らかにスサノオの方が早い。何ページか先に、下照姫より先に書いて有る。「天孫降臨」の交渉相手は大国主である。 時間的経過から云えば、大国主よりスサノオのほうが早い。大国主の相手の女性の親父さんであるという形でスサノオは書いてある。
(しかし『日本書紀』の一書ではではスサノオは大国主の五・六代前である。もう一書と広島県の説話でもそうなっている。私はこの方が古いと思っている。)

 とにかく『日本書紀』では下照姫の方より、スサノオの方がより早い。にもかかわらず紀貫之は、スサノオの歌が最初じゃない。こう言っています。しかし私はこれが正しいと思う。
 なぜかというと下照姫の歌の方は、五・七・五・七・七に成っていないではないか。日本人が初めから五・七・五で読んでいたという事は有りえない。私が今読みにくそうに読んだように、二・三・五・五・二・四・四・五・二・五 バラバラ歌。ほんとうはバラバラ歌ではなかったと思いますが、五・七・五・七・七に比べればバラバラ歌。
 二・四・四・五・二というバラバラ歌の中から、洗練された定型としての五・七・五・七・七が誕生してきた。これは貫之のみごとな卓見ですよ。
 その貫之の、みごとな卓見を裏付けるものがあります。

 皆さんご存じのものの中に、「弥生の土笛」と言われるものがございます。卵形であって、裏から見ると4個穴があいている。出土しているのは、西は九州の宗像(むなかた)、東は舞鶴の近く京都府峰山町に出てきた。日本海岸。たいへん注目されたのは山口県下関の綾羅木(あやらぎ)遺跡ですが、しかし何と言っても出雲から一番たくさん出て来た。鳥取県米子市、島根県松江市。広島県からも出てきています。そういう不思議な分布。下関考古博物館の常設展示目録と分布図があり、会員である下関の前田博さんも「弥生の土笛」について、非常に優れた論文を書いておられます。しかも律儀というか時間帯が弥生前期。つまり天孫降臨の紀元前200年、それより前である。一つだけ例外があり舞鶴は弥生中期ですが、他は全て弥生前期。
( 陶塤(トウケン)の解説と図表は、ものが語る歴史1『楽器の考古学』同成社山田光洋著などにもございます。)

 それでこの「弥生の土笛」の正体は分かっている。見つけられた国分直一氏なども研究論文がございますが、これは、中国殷・周の時代に存在した楽器で陶塤(トウケン)というものがありますが、それとそっくりです。つまり全体の形と、孔の開きかたがそっくり。厳密に考えれば多少問題がありますが、大づかみには、そっくりである。時代はもちろん中国のほうが古い。つまり中国殷・周の『周礼(しゅらい)』にあるような楽器が日本に伝播した。日本海岸で作られていた。それがなぜか、紀元前200年に途絶えた。そういう姿を示している。初めてお聞きの方が大半でしょうが安定した知識となっている。私は下関の前田さんのお世話で何回も下関で講演させて頂くが、その時いつも「弥生の土笛についてご見解はありませんか。」という質問が出る。それでいつも分かりません。勉強中です。調べておきますと答えていたが、ようやく昨年お話しできました。

 私の理解では、陶塤(トウケン)は殷・周の楽器ですが、宮廷などの儀式の場で使われたものである。他に使ってはいけないことはないが、一番使われたのは正式の儀式の場である。これを吹かれたら名人の方が、下関にも出雲にもおられるが、私などは吹いてもうまく吹けませんが、その音を吹くわけです。そういう儀式のときは、音だけでなく、その音をバックにして詩を歌ったと思う。陶塤(トウケン)を伴奏にして詩を歌ったのではないか。私はそう考えた。その詩はどこにあるか。幸いに中国には『詩経』というものがある。これらの詩は明らかにみんな脚韻を踏んでいる。○○トン、△△リとみな脚韻を踏んでいる。これは有名な事実で、それに目をつけてスエーデンの考古学者カールが、『詩経』を元に中国の上古音を復元して、中国人を始め東洋人をびっくりさせた。『詩経』そのものは、江戸時代でもみんな良く知っていたが、だれもそのようなことは考えもしなかった。脚韻を踏んでいるから、上古音を復元できる。そういうアイディアを現在では中国人でもその事を知らない研究者は居ない。ですからその段階で韻を踏んでいることは確実である。
 それで中国人というのはオギャッと生まれたときから韻を踏んで喋っていた訳ではないと思う。変なことを言うようですが北京原人が、韻を踏んで詩を歌っていたとは想像できない。我々は殷・周というと古いように考えるが、北京原人から考えると殷・周はずっと後世。大変新しい段階である。その新しい段階に韻を踏んで詩が成立した。別 に陶塤に限らず、そのようなものを使って、儀礼の場の音楽に合わせて詩を歌う。そうすると、韻のない詩よりも、そういう陶塤などに合わせられるリズムを持った詩のほうが合わせやすい。そのようにして、韻を踏んだ詩が成立し完成していった。わたしはそのように考えてみた。
 さて当然最初は中国の技術者が日本に来て、日本製の土で焼いて作った。その人達は当然作るだけでなく、儀式のときに中国語の『詩経』にあるような詩を聞かせたと思う。しかし聞いていた日本人には分かりません。しかも四声や平仄(ひょうそく)など中国語の発音は、日本人にはできません。それでどうしたかというと、日本語の歌詞でリズム付きで歌った。日本語の歌の場合、二・四・四・五・二では合わせにくいではありませんか。それで陶塤がたくさん出ていますから、それで五・七・五・七・七のリズムが今の出雲で成立した。このように中国の陶塤を元にした弥生の土笛により日本の歌の成立に関係した。そのように考えるとスサノオの時代に和歌が成立したという話と符合する。スサノオ一人が造ったわけでないでしょうが、
 私が言おうとしている結論は、その考えから出てくる結論は縄文時代に五・七・五・七・七はなかった。弥生前期に五・七・五・七・七が誕生した。

 

4 「君が代」は卑弥呼(ひみか)に捧げられた歌

 そうすると「君が代」は五・七・五・七・七に成っていますから、磐長姫などの縄文の歌では有りえない。いかに「千代」があっても、それはバックにあるだけで縄文の歌では有りえない。弥生以後、九州王朝の歌である。
 その上で「君が代」と「我が君」の問題について、さらにつっこんで考えてみます。「君が代」と「我が君」のどちらが古いかを考えると、「我が君」の方が古いと考える人が多いようですが、しかし現地では「君が代」と歌っている。そのことが引っかかる。これも再度考えてみますと、私はこれはやはり「君が代」が古い。「我が君」は新しい。新しいと言ってももちろん七世紀より前の新しさ。「君が代」はもっと古く七世紀より前である。これは簡単な比較の論理から出てくる。それは「君が代」の「君 キミ」は女性です。『隋書』イ妥*国伝でも「鷄*彌(キミ)」と言えば妻の方で女性です。奥さん。「我が君」というのは男性の方です。
 しかも「君が代」の場合は「代」と書いてありますが、ほんらいは世の中の「世」のほうが良く、「キミが統治する世の中」という「君が世(キミガヨ)」の読みが本来、女性が統治する世の中の意味が込められている。それが七世紀「我が君」の「男性を統治する世の中」になって、その後に「君が代 女性が統治する世の中」という言葉に代えるというのは、私にはちょっと理解しにくい。七世紀いぜん多利思北孤の段階では「我が君」であったのを、その後に「君が代」に直すということは理解できない。その逆は考えられる。つまり多利思北孤の段階では「我が君」になっていて、その前に「君が代」は女性が統治する言葉だった。それが男性の統治する時代になって、「君 キミ」が妻に置き換えられた。『隋書』イ妥*国伝で現れている方が、新しいスタイルである。現地でお祭りで歌う「君が代」のほうが、より古いスタイルである。こう考えた方が、理解は容易である。
 そうしますと九州王朝の歌であることは動かない。しかも女性が統治する時代に作られた歌である。そう考えざるを得ない。磐長姫の話は縄文がバックにあるけれども、磐長姫は遠景に過ぎない。背景にすぎない。現実に女性が統治していた時代であるから、そういう女性を賛美する歌を歌った。そういう考え方が自然だ。それで「君が代」は九州王朝が女性が統治している時代に歌われた歌である。そこまでは確実だと考えている。
 それでは誰だとなる。残念なことに、われわれは九州王朝の歴代の君主を知りませんので、分かりません。史料としてたとえば稲員家系譜などを見ても、全部九州王朝の君主なのか、誰か女性が居るのかは分かりません。それに他の史料を見ても端的にはつかんでいないから分からない。しかし今私たちが知っている女性の君主が、二人居る。卑弥呼(ひみか)と壱与(いちよ)です。二人とも女性で九州王朝の君主です。
そうすると、そのどちらかではないか。「君が代」が歌われたのはこの二人のどちらかでは?。そう論理的になる。まず一番ピッタリするのは壱与のようにも見える。なぜなら「君が代」の「代(ヨ)」と壱与の「ヨ」が同じだ。しかしあまり一致しすぎてふさわしくない。なぜなら壱与は、もとは倭国の「倭(wi)」の発音を、音は似ているけれども中国の天子に二心ないという意味で、倭を違う「壱」に書き換えた。そして「壱与」と名乗った。邪馬壱国の「壱」も同じだ。だから名としては「与」である。中国風一字名称、その最初が「与」である。それでは壱与のときに最初に「君が代」を歌われたとなると、これは問題が生じる。「君が代」の中では、「与(ヨ)」と呼びつけて歌う形になる。これはどうもふさわしくないと感じる。卑弥呼(ひみか)にはそういう問題はない。呼んでも問題はない。逆に壱与は「君が代」の中にもあるので、「君が代」の歌にちなんで中国風一字名称を付けたというなら有り得る。ご当人が納得して付けたのなら理解が容易である。ですから一番可能性が高いのは卑弥呼(ひみか)の時代である。卑弥呼(ひみか)の時代に、「君が代」が卑弥呼(ひみか)に対して使われたという可能性が、今まで知っている他の人に比べれば可能性が一番高い。

 このあたりの考えは用心して言わないと、古田が「卑弥呼(ひみか)に対して歌われたと断定した。」と短絡して結論だけ振り回されると、「何を言っているか。」と、誹謗中傷に合う。

 この問題の論理関係を明確にしておかないと問題を生じる。私にとって明確であると考えるのは、九州王朝の歌である。しかも女性の君主を対象にした歌である。

 君が代は 千代にやちよに さゞれいしの いはほとなりて こけのむすまで

 

5 卑弥呼・壱与と神功皇后

 次に問題になるのは、卑弥呼(ひみか)、壱与(いちよ)もそうですが、卑弥呼の遺跡がまったく見つからない。影も形もない。これは七不思議の一つだ。あれだけ倭人伝に書いてあって、天下にとどろいている倭国の女王、中国の歴史書に出ていて高名な女王。これだけ神社や遺跡だらけの日本列島に、まったく影も形もない。 一体どこへ消えたのか。
 これに対して、もう一つ変な現象がある。やたらに神功皇后の遺跡がある。これも変なのは、神功皇后というのは近畿出身の人である。滋賀県の米原、その近くに神功皇后が生まれたという塚がある。またお墓もある。もちろん神功皇后陵も近畿河内に別 にある。それとは別個にお墓もある。行ってみて、この中会議室程度の大きさで、なんとなく素朴で、現地では神功皇后のお墓と称して印象に過ぎないが不思議ではない。どちらの陵墓が本当か。そう言われるが、正式に陵墓を作り、それとは別 に生まれたところにお墓があっても、それは両立しうる事柄である。だから神功皇后が近畿滋賀県出身の人であるのは、現地伝承から見ても確かだ。だから私は神功皇后が実在するだろうと思っている。だから神功皇后が近畿出身であることに反対はないと思う。
 しかし神功皇后の遺跡は九州にたくさん偏っている。九州に有りすぎるほどある。ですから近畿にたくさんあり、九州に遠征したし、韓国にたどり着いたのだから、北九州に点々と有る。そんなレベルではない。九州には本当にたくさん有る。研究した本もたくさんあり、それによると今の福岡県・長崎県・佐賀県・熊本県の一角を取り巻いてたくさん有る。『古事記』・『日本書紀』では神功皇后が行ったはずがないところも見事に遺跡がある。非常に変である。佐賀県の武雄温泉、そこにも神功皇后伝説がある。杖をお建てになったら、お湯が出た。だから杖立温泉。しかし神功皇后のメンタリティーには、杖を建てて、お湯を出させるメンタリティーがあるようには見えない。
 これは何か。お分かりだと思う。『日本書紀』では卑弥呼(ひみか)・壱与(いちよ)の二人の女王が、一人に成っている。卑弥呼に当たる記事が一つ、壱与の記事が二つ。倭国の女王と書いてあって、卑弥呼・壱与の二人とは見えない。二人の女王を一人の神功皇后に、錯覚させる書き方をしている。今は誰もそんなことを信じる人はいないが、『日本書紀』の立場ではそういう立場だ。それを元正天皇のとき、『日本書紀』を学生(がくしょう)に読み聞かせて全国各地を回ったと書いてある。あれを今風に「教育熱心に教えて回った。」と理解する人もあるがとんでもない。今からこう成ったのだ。卑弥呼(ひみか)と言っては承知せんぞ。あれは神功皇后と呼ぶのだ。壱与もとんでもない。あれも神功皇后と呼ぶのだ。そういうことを全国で徹底させてまわった。だから卑弥呼の遺跡は、全部神功皇后になった。そう考えれば理解できる。

(岩波日本古典文学大系)
『日本書紀』上 神功紀
三十九年。是年。太歳己未。魏志に云はく。明帝の景初三年の六月、倭の女王、太夫難斗米を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝獻す。太守[郁nokawari登]夏、吏を遣して、将て送りて、京都(けいと)に詣らしむ。
・・・
四十年。魏志に云はく。正始の元年に、建忠校尉[木弟]携等を遣して、詔書印綬を奉りて倭國に詣らしむ。
・・・
四十三年。魏志に云はく。正始の四年、倭王、復(また)使太夫伊聲耶掖等を遣して上獻す。
・・・
六十六年。是年。晋の武帝の泰初二年なり。晋の起居の注に云はく。武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、譯を重ねて貢せしむといふ。

 似た例で早くから研究された例が、もう一つ有りまして、太子堂がたくさんある。これは聖徳太子がお建てになった。そういう事になっている。しかし聖徳太子では、時代から言っても地理的に言っても、たとえば新潟県など関係がありそうにもない所にやたらに建っている。それの研究をした方が居られる。亡くなられましたが。
 これはつまり太子でも太子が違う。聖徳太子ではなく、転成(てんじょう)太子である。これはお釈迦さんの教典にある。我々が知っている『法華経』や『大蔵経典』など理論的・思想的に成立した教典ばかりよく知っているが、実はその前にそれよりもっと早く盛んになり流布した教典がある。お釈迦さんというのは、偉い人である。○○太子という偉いお方である。太子と言うからには、とうぜん○○国王の息子ですが。この方は非常に優れた業績を上げられた方で、生まれ変わってお釈迦さんにお成りになられた。そういうスタイル。輪廻転生というか、そういう理論・考え方で偉いお方である。こういうことを成された方だから、生まれ変わられて釈迦さんにお成りになられた。これで良い。何も面 倒くさい理屈はいらない。どれだけ偉いお方だったのか。しかも生まれ変わられたから偉い方に決まっている。そういう議論の仏教の教えが先にあって、それが先に流行した。それが全て太子堂があって聖徳太子に置き換えられた。
 その考え方が正しいかどうか、追論証をしたことはないが、考え方として非常に筋が通 っているように見える。
 同じように、神功皇后の遺跡は、卑弥呼・壱与のひっくり返された遺跡ではないか。そういう問題がある。もちろんこれも卑弥呼・壱与の遺跡だからと言って最初とは限らない。たとえば卑弥呼・壱与の遺跡とされているからといって、ぜんぶ卑弥呼・壱与の遺跡とは限らない。今まで磐長姫と言われてきたが、何を隠そう卑弥呼様である。もっと古い磐長姫が卑弥呼・壱与にすり変えられた可能性もある。これは卑弥呼の遺跡であると言っても、卑弥呼が初めとは限らない。少なくとも神功皇后の遺跡にすり替えられた遺跡は、卑弥呼・壱与の遺跡である可能性がある。このような前提でこの問題を研究した人は見たことがない。このような目で研究されたら良いと思う。

 

6 印鎰神社について

 次にときどき言っている問題ですが、印ヤク神社問題に移りたいと思います。これは関東の方はほとんど御存じないと思う。ヤクは難しい字を書くが、一番簡単な字を書くと、印鎰(インヤク)神社と書く。

 この神社が九州にやたらにある。近畿に行くと京都鴨川神社に一つ有るぐらいで、ほとんど近畿にはない。これの解説を見ると必ずといって良いほど、これは律令制の中で近畿天皇家より賜った印を収納し祭っている。そう書かれている。しかし私はこの解説はおかしいと思う。もしそうであれば、近畿天皇家より賜った印を収納し祭っているならば、神社に納めるのは勝手ですが、近畿に多くて東海にもあり、だんだん薄くなって関東や九州にも少しあるというなら、分かります。しかし天皇家の渡した印が九州にばかり固まっているというのは不可解です。それはむしろ印を与えた存在が筑紫の権力者ではないか。さらに言うと筑紫の権力者が中国からもらった印を保管しているのではないか。このような問題がある。
 それで「志賀島の金印」の件ですが、非常に変なことがある。
 「それは何か。」をいう前に福岡市教育委員会に塩谷勝利氏という方がいる。九州大学を出られて教育委員会の学芸員を永く勤められ金印の研究でも優れた論文を出され、また職務にも非常に熱心な方である。この方が金印の問題を熱心に追求されていた。その塩谷さんが定年間近の最後の仕事として、少し前におこなったのが金印の遺構探しです。
 これは金印が見つかった経過についてお話しすると、甚兵衛さんというお百姓さんが、畑を耕すというか掘っていて何かに当たった。掘ってみたら大きな石が三つ(あるいは四つという説)立っていて、その間に金印があった。それで見つけて甚兵衛さんが黒田侯に献上したというお話になっている。つまり金印は出てきてある。とすれば石組があるはずだ。石組まで献上したわけではない。その石組みを見つけよう。ここ十年間可能性のあるところを掘って掘って掘りまくった。金印公園とその周り、それだけでなく学者がいろいろな説を唱える候補地を、全て掘りまくった。彼は福岡市学芸員であり、幸いなことに志賀島は福岡市内であるから、職務の範囲内で全て掘りまくった。 いろいろな説がある。その内には海の底まで。今は海底に沈んでいるが当時は陸地だったという説もある。それでアクアラングで潜って、御本人も潜って行って探した。それだけ執念で掘り抜いて結局なかった。しかも残念ながら石組みがないだけでなくて、弥生の臭いもない。つまり土器のかけらなどが全く出ない。それぐらいは出てきて欲しいのに、それもない。もちろん上の方の畑のほうには弥生土器はたくさん出てくる。私も塩谷さんの車に同乗させていただき、岬のほうへ行ったことがある。すごいですよ。塩谷さんが行かれると、お百姓さんたちが、みんな手に手に土器の欠片を持って現れる。塩谷さんが判別 して保存する土器を決められる。いつもお百姓さんたちと仲良くして、お酒も一緒に飲む仲ですから、お百姓さんたちに絶大な信用を得ているから、そのようなことが出来る。そのような塩谷勝利氏でもダメだった。ない。御本人は大分落胆されているようですから、今度お会いできれば、それは失敗ではないと激励したい。あらゆる可能性のあるところを探してもなかったという貴重な成果 です。この成果の上に立って、後の人が研究を進められると考える。そう言って誉めて上げたい。
 それでそこから先は、朝日新聞の内倉さんの示唆によります。どうもあの話は嘘ではないか。甚兵衛さんが畑の中で見つけたという話は。そうでないのではないか。単に推定であって、別 に根拠はない。
 その証拠とは言えないが甚兵衛さんが行方不明。甚兵衛さんの御子孫が行方不明というか、どこかへ消えてしまった。金印を発見したという大変な存在。しかし御子孫がいない。不思議ですよ。
 もう一つ知られている有名な話ですが、甚兵衛さんが初め金印を見つけて、博多の町を売り歩いた。しかし思うように売れなかった。それで評判がたって黒田候に献上した。そのような話が書かれている。

 このような話をご紹介しましたのは印鎰神社の御祭神の問題です。
 御承知のように卑弥呼(ひみか)の金印が一つであるから、出ないのは仕方がない。しかしそれ以上に不思議なのは、それ以上にもらったに違いない銀印や銅印がまったく姿を現さないことです。金印だけもらって銀印や銅印は、まったくもらわなかったか。そんなことはない。金印より銀印や銅印は数が多いから出てきても不思議ではない。

 話は横道にそれるが、奈良県田原本町黒塚古墳では面白い話がある。
 邪馬台国近畿論者の一人の学者が「きっとここからは、銀印が出てくるはずだから、見逃さないように丁寧に掘ってくれ。」と言った。「銀印が出てくるはずだから。」と言う、この理由は分かりますよね。三角縁神獣鏡が魏の天子からもらった鏡なら、当然三十数面 出土した黒塚古墳では、金印は別にしても銀印ぐらいは、出なければおかしい。だから銀印が出るはずだと言った。百面 の中の三十数面である。三角縁神獣鏡が魏の鏡であるなら、銀印が出るという話自体は筋が通 っている。しかし結局銀印は出てこなかった。この話一つを採ってみても、三角縁神獣鏡は魏の鏡ではない。黒塚古墳から出ないのは当然だと思っているが、どこの古墳からも出ないのはおかしいと思う。
(もう一つ、印綬は墓の中にばかり有ると思っていた。魏志の中にこういう話がある。魏の天子の宰相がいた。権勢を振るって、天子から金印ではないだろうが立派な印綬をもらった。ところが後で、汚職というか、背信行為をしていたことが分かった。天子が烈火のごとく怒って、印綬を取り返せと言った。それで使いを派遣して墓を暴いて、印綬を取り返したという記録がある。あっ、そうか。印綬は墓の中に埋めるのか。それで墓の中にあって当然と考えていた。考えてみれば、印綬は功績を挙げた本人一人に与えるのであって、その家の代々の者に与えるのではない。本人の墓の中にあるのが筋である。中国ではそうである。しかし倭国は同じだったか分からない。墓の中ではなく、印綬は墓の中ではもったいない、と思って御神体にして神社に祭った可能性がありはしないか。)

 元に戻り、倭国の王は金印や銀印をもらっている。それは墓の中から出てきていない。だから一つの可能性として印鎰神社にあるのではないかと推察している。
 ですから一つの金印を探す以上に、銀印や銅印をさがすことがより大切である。だから印鎰神社の御神体の可能性が一つある。

 さらに言いますと宮司さんは知っていると思う。何回も足を運べばよい。神社は手入れをしなければならない。お世話をしている人の中には、知っている人がいると思う。真面目に先祖の教えを堅く守っている人もいると思うが、何らかのきっかけ、たとえば移転などで、ご神体を見たことがあるかもしれない。しかし言ってはいけないということになっている。この問題に執念を持って研究する人がいましたら、追求していただけたら幸いです。
 再度述べますと、神功皇后の遺跡の問題は非常に重要です。卑弥呼・壱与の遺跡がないという問題を解く鍵はその当たりにあると考えています。
(終わり)

(質問)
 神功皇后の遺跡は兵庫県などでもたくさんあります。卑弥呼・壱与だけだったら兵庫県の方には無いのでは。やはり誰かが居たのでは。
(回答)
 卑弥呼(ひみか)が九州に留まっていて、九州以外はどこにも他に行かなかったのかというと、そんなことはまったくありません。神功皇后の遺跡は東北にもある。有名な芭蕉も訪れている。私も行ってみましたが、卑弥呼がそこに行っても別に不思議ではない。行かない方が不思議である。
 それとは別に、今言われたことは、卑弥呼・壱与に限る必要はない。その兵庫県の話では、『播磨風土記』の大帯姫も神功皇后とイコールで結ばれている。『播磨風土記』の大帯姫が神功皇后であると注釈が付いている。これは私はぜんぜん違うと考える。大帯姫と息長帯姫と、どちらも帯姫で同じだ。無茶な話だ。やはり播磨中心の女王が居たのだと考える。それもぜんぶ神功皇后にしています。今の話は、『日本書紀』との関係で、卑弥呼・壱与の遺跡を神功皇后の遺跡にしたということです。


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