古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1『親鸞 ーー人と思想』(明石書店)にも収録
明治体制における信教の自由 古田武彦(『古代に真実を求めて』第1集)(『神の運命』 1)へ
『神の運命』目次 1(宗教の壁と人間の未来 -- 序説) 2-I 2-II 2-III 2-IV 3 へ
『神の運命』(1996年6月30日発行 明石書店)
古 田 武 彦
魔女は、神の法、民法、帝国憲法、すべてのキリスト教国の国内法にしたがって死刑にされるべきである(イングランド国王ジェームズ一世『魔神論』一五九七年、ロンドン発行、第三部、第六章より)。
1
「主の御名において、アーメン。異端という伝染性害毒がカトリック教会の信者の一人につきまとい、これを悪魔(サタン)の仲間に変えてしまうたびごとに、この危険な罪の忌むべき伝播がクリストの他の信者たちに及ぶことのないよう、細心の注意を払って監視されなければならない」
これは一四三一年のジャンヌ・ダルクの最終判決文の文頭の句です。彼女がこの判決文の終りにあるように、「みずから嘔けるものを再び食う犬のごとく」「汝被告を逐い、破門に処し、遺棄する」という運命をうけ、火あぶりの刑の劇的最後をとげたことは周知の事実です。
しかし、実はこの判決文頭の句は中世教会法による魔女裁判判決文のきまり文句であり、中世ではありふれた、日常的事件であった魔女裁判の一つ、膨大な数にのぼった魔女達の中の一人としてジャンヌ・ダルクは取り扱われたにすぎないのです(むしろ彼女は他の多くの普通の魔女達に比べれば「公正に」「穏当に」取り扱われたと言うべきで、通例の「正当な」方法としての、直接の拷問もそれほど用いられた証拠はなく、一般的な「権威ある」魔女判定法とされた「魔女の秤」も「水審判」も、おそらくは「魔女刺し」も、彼女に対して使用された形跡はありません)。
これらの審問判定法は『インスティトウス』や一四八五年初版の『魔女を打つ槌』に集約されていますが、今日の現代人から見れば妄想的としか言いようのない、スコラ学者の魔女判定の理論は、皆きわめて実用的なものとして実際の法廷で使用せられていたものです。
ドイツの一地方に任命された審問官はさして長くない、自分の任期のうちに、数百人の魔女を発見し、審問し、処刑(絞首刑、火あぶり、または鍋で煮殺す刑)したことを刻明に冷静に報告しています。『魔神崇拝論』の著者ニコラ・レミ(一五三〇〜一六一二年)も大審院で一五年の在任中に約九〇〇人の魔女に処刑を宣告したと報告しています(平均一週間に一人以上)。しかもこれらは決して異例ではなく、全ヨーロッパ各地の通例の状況の一例に過ぎないのです。
しかし現在の問題点はこの魔女裁判・宗教裁判がヨーロッパ社会内部でどのような役割を果たしたかという点です。言いかえれば何故それはなさればならず、またその実施はどのような現実的社会的意義をもったかという点です。
その解答として、第一にたやすく考えられるのはローマ法王を項点とする中世的封建的ヒエラルヒーの強制的圧力として魔女・宗教裁判を考える立場です。人民を恐怖心でしめつけることによって階級社会を強力に維持する裁判。この見地は当然欠くことのできぬ必要な立場ですが、この裁判の歴史的性格を理解するにはこの立場からだけの説明では十分ではありません。
たとえば、この裁判が中世ヨーロッパ内で地域的に濃淡の存すること、特にスカンジナビア半島ではほとんど皆無に近かったことなどはこの立場だけからは説明しきれません(逆に近世的先進地域イベリア半島で最盛をきわめました)。
また、この魔女裁判の時間的分布を見ますと、八世紀以前の封建制度形成期や、九〜十三世紀の封建制度完成期(その中に十一〜十三世紀が法王極盛期とされます)でなく、その十三世紀を起点として十七世紀に至る近世期にあたっていることも第一の立場からは不利です(宗教裁判全体としても十三世紀より十八、九世紀まで ーー 最後の処刑一七八一年、完全消滅一八三四年)。
またさらに、ヴュルツブルクの司教管区にある被処刑人名簿によると、火刑になった者の身分は「小刀研ぎ師」や「橋門の見張番の女」といった、貧しい階級の者と共に、「洋服屋の太った妻」「パン屋の妻」「収税吏の妻」から「シュルツ博士の幼女」「太った貴族の女」に至るまで各階級に対しはなはだ「博愛的」な一面を有するのも、階級主義的見地のみからは尽くせぬ要素を感じさせます(C・レストランジ・エヴァンの報告によれば、ニューキャッスル・オン・タインの町で三〇人の婦人が公会堂で治安判事・検察官に魔女判定された光景を記述し、「上品で善良そうな」「評判のいい」 ーーつまり上流階級のーー 婦人が「みんなの見ている前で、彼女の衣服を、頭の上にまくしあげて腰まで裸にされ」「からだに針を刺され」たことが述べられています)。
そこで第二の立場に入るわけですが、ここで最も重要な点は、サラセン世界の三面包囲下にあるヨーロッパという認識です。
七一一年サラセン帝国がイスパニアの西ゴートを滅ぼして以来、一四五五年のオスマントルコによるコンスタンティノープル陥落(東ローマ帝国滅亡)、十六世紀のスレイマン一世による中欧侵入と、絶えずより強力な回教世界に圧迫されていたのであり、ことに十字軍が対サラセン敗北で終った十三世紀より、宗教裁判・魔女裁判が確立したのが注目すべきです。もっとくわしく言えば一二七〇年の十字軍の敗北的終結の五年後、トゥールーズで最初の魔女焚殺が行われたのです。
また、スレイマン一世の中欧侵入後の十六世紀末から一世紀間にわたる最も大がかりな魔女狩りがはじめられています。
また、最も宗教裁判の盛んだったイベリア半島がヨーロッパで最もながらく回教世界であった地域だったこと、宗教裁判がほとんど全く行われなかったスカンジナビア半島が回教世界の三面包囲から最も遠い地点にあったこと、これらの地理的事情もすべて次のことを示します。
それは、宗教裁判、魔女裁判が、強大な回教世界に包囲されたヨーロッパ・キリスト教世界、ローマ法王や諸国王達、キリスト教世界支配者の深刻な恐怖心の生んだヒステリー現象であったということです。
西洋史上有名なツール・ポアチエの戦(七三二年)やグラナダの陥落(一四九二年)やレパントの海戦(一五七一年)等、キリスト教世界の回教世界への勝利と記録される事件も、この事情の必要にして十分な決定的打破でなかったことは、肝心のキリスト教の聖地イエルサレムが二十世紀(一九一七年)まで結局キリスト教世界の手に奪還せられなかったことによっても察することが出来ます。
それに加えて重要なことは、サラセン世界は中世・近世初頭のヨーロッパに対して文化的にも優越していたことです。かつてイベリア半島の回教の都コルドバは地球上最盛の都であり、文化的にも、自然科学に、プラトン、アリストテレス的学問の継承に、ヨーロッパをはるかに上廻る繁栄を示していたことは、キリスト教世界側の歴史学者(たとえばエドワード・ギボン、中野好夫訳『ローマ帝国衰亡史』筑摩書房)によっても証言せられています。ヨーロッパ近世・近代のギリシャ復帰、自然科学の発展が直接の古代復帰でなく、サラセン文化内のギリシャ、自然科学発展を媒介とし、継承したものであることは近来ますます明示せられて来ています。
さらに宗教の自由に関しても、回教世界は一種の政策的寛容に達していたことです。ヨーロッパ世界のような野蛮酷烈な宗教裁判でなく、それぞれの宗教 ーー拝火教やキリスト教ーー へ寛容を与え、北アフリカではその慣例の中でキリスト教への勝利が達成せられていったことも歴史的事実の示すところです(「剣かコーランか」の択一的強制やジズヤ〈異教徒課税〉で単純化することは西欧側からの「神話形成」の一面をもっています)。
つまり、以上を総じて、あらゆる面で優越を示し、強力であった回教世界にとりまかれた、文化的にも軍事的にも、より劣ったキリスト教世界というイメージが中・近世ヨーロッパ世界の恐怖心とヒステリーをありていに理解する鍵なのです。
この点、わたし達は近い経験を見ています。それはロシア革命後のソヴェト体制内部のスターリン独裁と苛烈な粛清裁判です。それを解く一つの鍵が全世界の帝国主義諸国 ーー少なくともこの段階では文化的・軍事的に圧倒的により強大であった国々ーー の包囲下の社会主義国という情勢から来たことは今ではよく知られています。絶えずねらわれ、三面を包囲されている、いつ帝国主義武力の侵入があるかもしれぬ、という恐怖心は、スターリンの個人的独裁下の強力軍事体制、そのための思想統一、スターリニズムという戦闘的「精神の核」の形成の要請を生み、そのために苛烈な異端への粛清がヒステリカルに連鎖的に遂行されたのです。
2
以上に述べた条件において、中世・近世期のヨーロッパ・キリスト教世界の恐怖とヒステリーもはじめて理解せられるのですが、そういう心理成立過程の考察のために、有名な『ローランの歌」 (Le chanson de Roland) をあげます。
このフランス最古の武勲詩は周知のように、シャルルマーニュ大帝が回教のマルシル王と、次いで教主バリガンの大軍を散々に打ち砕き、キリスト教の擁護者としての大功と名誉をかちえたという筋なのですが、このオックスフォード写本の示すテキストの物語が十二世紀初頭に詩人によって製作されたものであり、八世紀の歴史的事実から遠い一箇のフィクションであることもよく知られています。史実はきわめてささやかです。七七八年シャルルマーニュがスペイン遠征の帰途ピレネー山中でバスク人の土賊に襲われたというに過ぎません。いわゆるスペイン遠征も当時の定石としてスペイン諸侯の内紛に介入したものに過ぎず、何も大がかりなイスラム討伐でなかったことも、すでによく考証せられている通りです。
このようにささやかな史実のパン種が大がかりなフィクションとしてふくらんでゆく三世紀余の発展については、ベディエ (Bedier) は次のような説を立てています。フランスからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ寺院に至る途中のピレネー越えの巡礼駅路に沿って発生した宗教的、郷土的伝説が酵母となったとするのです。つまり、オックスフォード写本は伝説を題材にして出来上った文学作品だとするのです。しかし最近の研究では残存諸写本、抄訳、ラテン語文献などにより、オックスフォード写本は以前の原本の改訂版としての性格をもつとされるようになっています。つまり、三世紀の間に徐々にその作品は増補成立して来たというわけです。
無論、どちらの説をとるにしても、三世紀の間に(伝説としてあるいは作品として)このフィクションが成立したことは疑いないわけですが、今必要なことはそのフィクション形成の精神こそキリスト教世界をとりまいた強大回教勢力への恐怖であり、その恐怖の精神こそ山中の土賊を追いはらった、ささやかなシャルルマーニュを回教主撃滅の守護神、キリスト教世界防衛の強大君主シャルルマーニュに変形せしめた本体であることです。史実に在せぬ強大守護神への仮空の願望が物語としてのフィクションを必要としたわけです。
もつともシャルルマーニュがこういう仮空のイメージでふくれあがらせるために幾多の好資格を史実としてももっていたのは事実です。彼の教王領寄進、彼の父チャールス・マルテルのツール・ポアチエの対回教戦、さらに注目すべきことはフランクのメロヴィンガ王朝末期、チャールス・マルテルがイベリア半島より侵入するサラセン人の騎士に対抗するため、軍人に土地を分与して騎士を養成した点です。これが恩貸地制度 (Beneficium) としてヨーロッパ封建制成立の重要な柱となります。つまり、シャルルマーニュは回教主の大軍を撃滅するほど強力ではなかったが、回教に対抗した経歴は彼の血族の中にはっきりと認められていたこと、これが真のパン種です。
また、ここでヨーロッパ封建制の成立がはじめから対回教防衛の要素にはっきり規定されているのを確認しておく必要もあります。
さて、この『ローランの歌』の示す主人公達に目を向けましょう。英雄ローランは神の敵回教王との徹底的抗戦を主張し、しんがりの軍の中で圧倒的な回教の大軍の包囲の中で戦死します。このローランの死をとりまく危急の状況は、すなわち当時のヨーロッパ・キリスト教世界の恒久的、日常的状況(強大な回教世界の包囲)の写し絵です。つまりこのフィクションはまさにヨーロッパ中・近世の現実の真実を語っているわけです。
さらに、敵役たるローランの義父ガヌロンは回教王の強大な勢力との屈辱的妥協、講和を策します。そしてシャルルマーニュの(仮空の)回教王撃滅の後、回教との通謀者 ーーキリスト教世界の裏切り者カヌロンが八つ裂きの刑に処せられることで、この物語は幸福な結末を告げています。
ヨーロッパ中世騎士の典型ローランが神の敵回教への妥協なき戦(「汝の敵を愛せよ」と反対に)の人物として描かれていることと共に、ガヌロンの運命はこの物語成立(中世騎士精神の典型成立)と十字軍の終結後、ヨーロッパを嵐のように襲い、人民を恐怖にたたきこんだ宗教裁判・魔女裁判という未来への見事に正確な予言となっています。
この点、『ローランの歌』と対比して、スペインより、より遠いドイツでもつと早く成立したと思われる『ニーベルンゲンの歌』について簡単に触れますと、前編ではキリスト教前のヨーロッパの古代的魔法の世界との結びつきで物語が展開しています。ジークフリードの身体を洗った龍の血は英雄の不死身を形造る、魔法の有効性をもつのです。つまり、魔法は必ずしも排斥せられ、にくまれる要素ではないわけです。しかし、後編でアッチラの侵入のもと、この魔法の呪いをうけた種族、言いかえれば古代的魔法が効力を有する最後の種族ブルグンドの滅亡でこの物語が終っていることは、古代的世界、非キリスト教的残滓の滅亡という、キリスト教的中・近世ヨーロッパ成立の前史が語られているわけです。
そこで、宗教裁判・魔女裁判を理解する第三の立場、すなわちヨーロッパ世界内部における非キリスト教的伝統の駆除の問題に検討をうつしたいと思います。
先にあげた魔女判定法としての「魔女の秤」というのは、予め被疑者の体重を予定し、後実際にはかってみて、予想体重と一致するか、それ以上の場合は彼女の潔白が承認され、それより下の場合は、魔女と認定されるという簡明な方法です。「水審判」はさらに一段と物理的な明快さをもち、女を縛って水に入れ、水中に沈んだら潔白、浮かんだならば魔女として判定され、火刑をうけるわけです。こういう正邪判定方法は我が国で允恭期に行われたとされる盟神探湯(くがたち)的方法に酷似しており、中世的というより古代的なものです。
また、拷問で、自己を魔女と認める自白を求め、しかも自白しないことがまた魔女の証拠であるとする方法や、拷問で糾問されても「泣かないこと」が魔女の証拠であると同時に「泣くこと」も魔女が自己を魔女でないかのように見せる詐術とするなどは、魔女であるかどうかよりも、魔女というレッテルをはられた犠牲者の存在がいかに社会的必要物だったかを示しています。
古代的判定法が実用に供されたことは決してキリスト教的=ローマ・カトリック的審問者自身の古代性を意味しません(中世自体がこういう古代的残忍性をもつ、といった大まかな理解は、こういう裁判の行われたのが主として近世であること、日本の中世ではこういう古代的残忍性が行われていないことなどからしりぞけられねばなりません)。
したがってこの判定の「古代性」はまさに社会的必要と結合していたと見るべきで、そこにあるのは実施者=キリスト教的審問官の古代性でなく、被実施者をとりまく社会、民衆の古代性です。
何故ならば、この魔女裁判が一種のみせしめである以上、その社会、魔女被疑者の周辺の民衆からその判定が少なくとももっともらしく見えなければ意味をなさないからです。
だからこの判定法をもっともらしく綿密に『インスティトゥス』や『魔女を打つ槌』に書きしるしたスコラ学者の頭脳が必ずしも古代的だったのではなく(彼等が古代的だったというには少なくとも彼等が自分の書いたことを誠実に信じていたことが前提となりますが)、数世紀にわたって大量の魔女 ーー少女や人妻や老婆たちーー を日常的身辺から絶えず産出せしめられた民衆意識自体の古代性がこの判定の前提となっているはずです。
これは「魔女思想」自体の古代性を意味しません。魔女を魔女として規定し、定立する立場はあくまで中世 ーー 近世的、キリスト教的、ローマ・カトリック的なもので、魔女と容疑され、規定される少女、人妻、老婆達に古代的、前キリスト教的、非ローマ・カトリック的な性格があるのです。
わたし達はシェークスピアの作品 ーーたとえばマクベスの中にあらわれる魔女達が薄気味悪く、陰惨・怪奇なムードの中で、素性のわからぬ魔性のものとして、いかにも中世 ーー 近世的性格で描かれているのを知っています。
しかし十七世紀初頭にミドルトン(Thomas Middleton)によって書かれた劇「魔女」(The Witch)に出て来る魔女ヘカテは男の子をもち、感情の動きにも人間的要素の濃いことはチャールス・ラムの評する通りです。ところがこの魔女の「人間化」は決して"近代化""近代的解釈"ではなく、この物語の種本であるロンバルディの国王物語を継承するものなのです。
ここで、同じく古代ゲルマン諸族のブルグンドの説話にもとづく「ニーベルンゲンの歌」において、魔法・魔術が決して薄気味悪い、怪奇なものでなく、古代的種族の宝物の守護者の役割を果たしていること、つまり古代的種族の精神的中枢としてあらわされていることを思い起こします。
このように、キリスト教から見た魔法はゲルマン諸族の民族宗教的所産そのものであったことが示唆されています。
3
「彼らは女には神聖にして、予言者なる或るものが内在していると考え、而してそれゆえに、女の言を斥け、或はその答を軽んずることをしない。我々は大ウエスパスィアーヌス帝の当時、〔ゲルマーニアの〕多くの人々から永い間神と崇められたウェレダを見たことがある。しかし彼らはその以前にも、アウリーニア、およびその他、おおくの女を崇拝したのである」
これはタキトウスの『ゲルマーニア』(八)(岩波文庫、三四頁)にしるすところです。田中秀央・泉井久之助氏の註するところによれば、ウェレダはゲルマンのバターウィー族で神として尊崇せられた女予言者で、常にリッペ河(ライン河の一支流)畔の塔上に棲み、ここより予言を伝え、対ローマ抗戦の命令を下していたとせられます。彼女はローマに生け捕りにされ、さらし者としてローマに送られたとありますが、ストラボーン(Strabon、前一〜後一世紀、ローマ時代のギリシア人歴史家・地誌家)の『地理書』二九四にもキンブリー族の女予言者の話が伝えられているところを見ても、幾度ローマに送られ、さらし者にされ見せしめにされても、彼女等は次々とゲルマン社会の中から産出せられていたと思われます。
事実、ウェレダ(Velaeda)のVel-はゲルマン語でもケルト語でも「見る」を意味し、前者のアングロサクソン語wlitan「見る」、後者のコーンウル語gweled「見る」の基本となっています。つまりウェレダとはSeher,Seer 「予見者・予言者」(女性)の意味の普通名詞なのです。
当時のゲルマン社会は「その(姦通の)処罰は立ちどころに執行せられ、その夫に一任されている。夫は妻の髪を切り去って、これを裸にし、その近親の目前においてこれを家より逐い出し、鞭を揮って村中を追いまわす」(『ゲルマーニア』十九章、岩波文庫、七四頁)というように、もはや完全に男子専制社会を呈していますが、女子尊重という母系制の遺風は血縁意識、民族宗教的風習の中に根強く根をおろしていたようです。また、宗教信仰の面で、ゲルマーニァ神話の神々 ーーヘルクレース、マールスなどーー やエジプト神話の神々 ーーイースィスなどーー 等、異国より流入した信仰が多神教的に混在していますが、それらと融合して、それらを背景として古来の女予言者達が活躍していたものと思われます。
諸宗教の混合宗教として有名なマニ教異端の一派カタリ派への弾圧を通して宗教裁判の正統性が確立した(十一〜十二世紀)という史実が興味深く思い起こされます。
そしてヨーロッパにおける宗教裁判の中に魔女裁判が特異の位置を占めることが理解せられます。そしてそのいわゆる魔女裁判で九割を魔女が占める ーー 一〇%は魔男でしたーー という女性優位(?)も理解せられます。
福音書(共観福音書)の中のマリアはわが子イエスの仕事の意義も理解できず、おろおろと心配する、無知の女(イエスも母親に対し、冷淡なつっぱなした態度で対しています)として描かれているのに、段々崇高な光をあてられはじめ、ことにヨーロッパ・ゲルマン諸族の中において聖母としての未曾有の位置を獲得していった事情と表裏をなすのが魔女だったわけです。
十五世紀末、スペインの国家的組織の中に設けられた宗教裁判所長官はユダヤ人、イスラム教徒迫害を任務とした(十六世紀以降は新教徒迫害)ことでわかるように、回教圏の三面包囲をうけたヨーロッパ・キリスト教社会は外に対しては回教徒の恐怖に対抗してキリスト教を守ると同時に、自己の内部粛清としてヨーロッパ内の異教・異端へのヒステリックな迫害、粛清裁判を幾世紀にもわたってつづけ、内には純粋な、キリスト教権力への絶対服従に満たされ、外に対しては戦闘的なキリスト教専制社会を形成し得たのです。
つまりヨーロッパ内部ではもはや「キリストの神」以外の神々はすべて形式的にも質的にも駆逐され、憎悪で焼かれてしまったのです(サンタクロースのようにキリストヘの忠実無害な従僕に変身転向した民族神のみがわずかに生きのびることを許されています)。
そういうヨーロッパ社会の中で最も大規模な魔女狩りが行われたのは十七世紀全期間です。一五九〇〜一六一〇年と一六二五〜三五年、一六六〇〜八○年の三期にわたり、約一〇万人の魔女が焼き殺されました。
そして一六三二年に生まれたジョン・ロックが「寛容についての書簡」(Epistola de Tolerantia ad Clarissimum Virum)を発表したのは十七世紀の終り近い一六八九年のことでした(一六六七年に書かれた「寛容に関するエッセー」をもとにしてオランダの友人フィリプス・ファン・リンボルクヘ書きおくったものです。大魔女狩りの第三期の中でしるされたわけです)。 ーー魔女裁判についての記述は『魔法ーーその歴史と正体』(K・セリグマン、平田寛訳、世界教養全集20、一九六一年、平凡社)や『魔女狩り』(森島恒雄、一九七〇年、岩波新書)などにあります。
4
異教が狩り尽くされたあとに出された、この有名な書簡はヨーロッパの「信教の自由」の古典的典拠となったものですが、その中でロックは「寛容の対象から除外すべきもの」として次の四項目をあげています。
1 国家に危害を加えるもの
2 他の宗教に対して不寛容なもの
3 外国の権力への服従を主張するもの
4 神の存在を否定するもの
この四者は「信仰の基本事項に関する異端や公共の秩序を乱すもの」だから「許すべきではない」とせられるのです。
第一項の「国家」が「英国教会の首長たる英国王にひきいられる国家」を意味し、第二項がピューリタンの示す傾向をつき、第三項がローマ・カトリック教会が英国に加えつづけて来た歴史的苦渋を想起させる点、ロックの立場が各派からの理性的中立をよそおいながらも、実は英国教会穏和派の立場に立つことは、しばしば指摘せられる通りですが(「寛容」という言葉は英国教会の首長の支配下における各派の容認を示唆しています)、この論究において注目せられるのは第四項です。
この項目こそおそらく最もロックが異論にぶつからなかった幸福な見地であろうと思われると共に、異教が狩り尽くされ、異教的な臭気すら殺(け)されたキリスト教単性社会、文字通り唯一の神の信ぜられる社会に、この、いわゆる「信教の自由」の概念がなり立ったこと、ここにいう「宗教の自由」はその実キリスト教内部における「宗派の自由」に他ならないことを明らかに示しています。
だからこそ、ロックは「聖書に示されたキリスト教の合理性」(The Reasonableness of Christianity as Delivered in the Scripture)を理性で認識できると称し、それ以外(前記四項目以外)のものについては、見解の相違が信仰の基本点ではなく、儀式や制度のささいな事柄に関することなのであるから、これを容認し、見解の相違を含む「包括的な教会」をつくるべきだと主張することができたのでした。
だからこそ、国家は各個人の生命・自由・財産という権利を擁護し、秩序を維持するのが任務であって、個人の内面的な信仰のことにまで立ち入るべきでないとされるのです。「特定の教会」への加入を強制することができないのは、人間の内面 ーー良心が神の照明を避けることのできない、神の「完全占領下」におかれた内面領域、神の体液が見わたす限りくまなく滲み通った人間内面世界、との前提に立っているわけです。
だからこそ、いかなる「信仰」も「道徳」もここから ーー神からーー 発するし、その発しかたは神にもとづくものだから、人間が規定し得るところでないつまり自由であるとされるのです。
「良心の自由はすへての人の自然の権利である」 ーーこの自然が神の完全支配下の「自然」であることは、ニュートン ーーニュートンの思想の通俗哲学化がロックの仕事だったと言われます ーーが神の表われる場所としての「自然」の「理法」を探求したことと完全な相応を示しています。
こういう「神の中での信派の自由」の性格は、ロックをさかのぼる一〇〇年前、一五九八年の有名なナントの勅令(Edit de Nantes)の中にも明瞭に示されています。
第六条 余が臣民の間に騒乱、紛議のいかなる動機も残さぬため、余は改革派信徒が、余に服する王国のすべての都市において、なんら審問・諌求・迫害されることなく、生活し、居住することを認める。
彼らは、事、宗教に関してその信仰に反する行為を強いられることなく、また本勅令の規定に従う限り、彼らの住まわんと欲する住居、居住地内において、その信仰のゆえに追求せられることもない。
当然のことながら、「本勅令」ーー 一般条項九五箇条、特別条項五六条および二通の国王勅書の中のいずこにも、キリスト教以外の宗教や「魔女」への自由は述べてありません。この第一条に、
一五八九年三月初め以来余の即位に至る間、さらにはそれに先立つ騒乱の間に、各地に生じたる一切の事件は、起こらざりしものとして、記憶より抹消せらるべし。
とあるように、この勅令がセント・バーソロミューの大虐殺を含む新旧両派の惨澹(さんたん)たる争いの中に成立した妥協であることから考えればむしろ当然ですが、その前提として、異教・異端の徹底的粛清によって合一されたキリスト教単性社会があるわけで、この事情が縦に真直ぐに一九四九年成立のドイツ連邦共和国基本法に貫流し、その前文の冒頭の、
神および人間にたいする責任を自覚し、その国民的・国家的統一を維持し、かつ合一されたヨーロッパにおける同権の一員として、・・・・ドイツ国民は、過渡期について国家生活に新秩序をあたえるために、その憲法制定権力にもとづき、このドイツ連邦共和国基本法を決定した。
との文言に表現されています。
日本などの非西欧世界では「諸宗教の自由」の明々白々の侵害でしかあり得ない、この表現が、ここでは「信教の自由=神の中の宗派の自由」の明々白々の根拠とされているのです。
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以上にのべた事実、キリスト教単性国家内の"信教の自由"という命題から見ると、アメリカのペンシルベニア州憲法の第九条第三項も完全に理解されます。
すべての人間はその良心のすすめにしたがって全能の神を崇拝する不滅の権利を自然からうけている。そしてどんな人も法律上、その意志に反してどれかの宗派とか聖職者とかに従い、それを指定し、またはこれを支持することを強制されてはならない。人間的な権威はどんな場合にも良心の問題に干渉し、精神の力を支配してはならない。
この文はマルクスも引用して、こういう北アメリカの自由諸州で「宗教の国家にたいする関係は、その特質をもって純粋にあらわれることができる」と言い、「政治的解放が十分におこなわれた国でさえも、宗教が存在しているばかりでなく、はつらつとして力強く存在していることがわかる」としているのです(「ユダヤ人問題によせて」)が、ここに「純粋にあらわれ」ているのは、マルクスが考えたように「信教の自由」そのものではなくして、実はあくまでキリスト教単性国家内の"信教の自由"に他ならないのです。
一七七六年のヴァージニア権利章典の十六条はその事実を次のように告げます。
宗教、あるいは創造主に対する礼拝およびその様式は、武力や暴力によってではなく、ただ理性と信念によってのみ指示されうるものである。それ故、すべて人は良心の命ずるところにしたがって、自由に宗教を信仰する平等の権利を有する。お互いに、他に対してはキリスト教的忍耐、愛情および慈悲をはたすことはすべての人の義務である。
また、アメリカにとって歴史的な意義を有した一七八六年の「ヴァージニア信教自由法」は、「単なる寛容の制度から一歩進んで、公立教会制度(エスタブリッシュドチャーチ)そのものを解体せしめ、国家と教会との分離を確立した点にその意義がみとめられている。」(『人権宣言集』岩波文庫、一一八頁解説)とされているものですが、その根拠としての第一条は、
全能の神は、人の心を、自由なものとして創り給うた。
であるように、決して単性社会から一歩も自由に踏み出したものではありません。
だからこそ、有名な独立宣言に、ロックを継承して、「自然の法と自然の神の法とにより賦与される自立平等の地位」と言い、「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され」と言うのですし、この中でこそ、一七九一年より現在に至る合衆国憲法修正十ヵ条の修正第一条の
連邦議会は、国教の樹立を規定し、もしくは宗教の自由な礼拝を禁止する法律を制定してはならない。
と言うのです。
▽
しかし、現代西欧世界の「純粋」な「信教の自由」にとって二つの問題があります。
第一はユダヤ教の問題です。
あれほどまで純粋化されたヨーロッパ・キリスト教社会にも不屈の執拗さをもって生きのびたユダヤ教は実に興味ある問題を提供しています。
マックス・ウェーバーはカルヴィニズムがローマ・カトリックに軽蔑された、利潤蓄積の精神(利潤獲得と倹約 ーー資本主義の精神)を形成したことを立証しましたが、実はそれ以前にこの精神を確固として現実化していたのがユダヤ教徒であったこと、そして現在もそうであることは現代のアメリカ合衆国の最高の資本家達の名簿をくれば歴然としています。
まさにユダヤ教はキリスト教自身の生みの母であったごとく、資本主義の精神の誕生についても母親の権威をもつものです。
このような権威の実質(貨幣)と誇り(エホバの神の本来の保持者)が中世の苛酷な宗教裁判をくぐり抜けて生き通して来た原因です。
しかし、ユダヤ教はいつもキリスト教単性社会において異質的なもの、不快なものとされて来ましたし、だからユダヤ人はユダヤ教を脱することによって差別をまぬかれるとの観念的な議論が行われたのも、バウアーやマルクスの指摘している通りです。
しかし、この問題も、実質の差別をそのままにして、法律的には見事にすり抜けられる道がありました。それはキリスト教とユタヤ教の類縁関係 ーーつまり、いずれも同じエホバの神の信仰であったことです。
したがって、アメリカ・ヨーロッパ社会の、数において優勢なキリスト教徒達は自らの優越感と自信において、「その良心のすすめにしたがって」「全能の神(=エホバの神)を崇拝する不滅の権利」を有すると称し得たのです。したがってここでは「多宗教間の"信教の自由"」という命題は十分な自覚を見ずに(純粋に展開せられずに)終ったのです。
さらにこれに加えてユダヤ教が徹底的に「閉鎖的な宗教」であり、その信奉者がユダヤ民族内部にのみ限られていたこと、つまり、いわば、ユダヤ教とキリスト教との人種的相互不侵蝕性が問題を単純に安易にすりぬけるのを容易にした事情です。
第二の問題の例はフランスに見られます。一七八九年の「人および市民の権利宣言」において、その前文末尾に、
その結果として国民議会は、至高の存在の面前でかつその庇護の下に、つぎのような人および市民の権利を承認し、かつ宣言する。
としるして、その上で、「宗教上の意見の自由」を認めていますが、このことは一七九五年の「共和暦第三年の権利義務の宣言」にも短い前文に圧縮されています。
しかし、「一八一四年憲章における権利宣言」では次のようです。
第五条 各人は平等の自由をもってその信仰を告白し、その祭祀のため同様の保護を得るものとする。
と言いながら、
第六条 しかしながらローマ・カトリック正教は、国の宗教である。
とし、さらに
第七条 ローマ・カトリック正教の祭司およびそれ以外のキリスト教宗派のそれのみが、王国の金庫から手当をうける。
として、キリスト教単性社会を享受しています。
この点、「神を信ずる者も信じない者も」一致して闘ったレジスタンスの後成立した一八四八年憲法の権利宣言」では、さすがに前記第六、七条にあたるものこそ消えていますが、依然前文に「神の面前で、およびフランス人民の名において、国民議会は、つぎのように声明する」とあります。
しかし、この際「および」という接続詞に千金の重みがあります。「神を信ずる者も信じない者も」の内実と微妙に関連し合っている点が見られるからです。
けれども、「一九四六年第四共和国憲法」の前文では、
フランスは、海外の人民と種族、宗教の差別なしに権利および義務の平等に基礎を置く連合を形成する。
となっています。
ところが、一九五八年のフランス共和国憲法において注目すべき箇条があらわれます。
第二条 フランスは、不可分の非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である。
フランスは出生、人種または宗教の差別なくすべての市民に対し法律の前の平等を保障する。
フランスはすべての信条を尊重する。
ここでは「神の面前で」という、フランス代々の憲法、宣言のきまり文句は消えて、代りに「非宗教的」という言葉があざやかに表われます。
これはこの憲法がド・ゴール氏によって「共和国に結合する意思を表明する海外領土に対し、その民主的進化を目的として案出され」た(前文)ことにもとづきます。つまり、フランスは「国内であるアルジェリア」にもっぱら回教徒であるアルジェリア現住民を有しているという事情に他なりません。
ですから、「非宗教的」となったのはド・ゴール氏の頭脳ではなく、フランス固有の領土たるヨーロッパ内のフランスでもなく、もっぱらアルジェリアとの関連において言われているのです。
この場合、形式的には、多宗教間の"信教の自由"が当然ゆきつくべき「非宗教性」が定義されながら、実質は、地理的、人種的の相互不侵触性によって従前と何等の変更を見ていない点が特徴的です(その海外の「本国」アルジェリアで、FLN〈アルジェリア民族解放戦線〉に結集した回教徒たちがOAS〈米州機構〉のキリスト教徒に抗して、その本源的自由をかちえようとしているのは、ヨーロッパ単性社会の歴史の新しいぺージを示すものです)。
かくして、終(つい)にアメリカ・ヨーロッパでは真の必要にして十分な"信教の自由"は、その内実が経験されていないのです。
以上で、アメリカ・ヨーロッパ世界における"信教の自由"のゆがみが指摘されたのですが、かかる単性社会の内部でも、実はもう一つの厄介な、本質的な問題が露呈せざるを得なかったのです。
それがフランスの「一八四八年憲法の権利宣言」にも暗示されていた、「神を信ぜさる者」 ーー無神論の問題です。
古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編1『親鸞 ーー人と思想』(明石書店)にも収録
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