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『市民の古代』第7集 好太王碑現地調査報告 東方史学会好太王碑訪中団の報告
講演
広開土王陵碑と高句麗文化
孫永鐘・全浩天訳
<略>
古田武彦
今回は朝鮮民主主義共和国の先生においでいただき、お話を直接聞き、又討論させていただくということで、筆舌につくしがたい嬉しいことであると考えております。共和国側の御意見を聞くチャンス、意見を交換するチャンスは、地球上のいかなる地域におとらず、乏しかった、という遺憾な状況が永らく続いていたわけです。にもかかわらず我々日本の古代史を明らかにするうえではこの作業無しでは前進できない、少くとも効果的な前進は見ることができなかったわけです。これは申すまでもございませんが、こういう状況下におきまして私は、今日のこの会を非常に有意義なものと考えます。なお、こういう有意義な限られた時間ですので、私の考え方を端的に適確に申し述べさせていただきます。私の考えが、共和国側の学者と一致するところもあり、一致しないところもあるわけですが、本日で結論がでるわけではありませんので、今後何百何千年続く、対話の第一回というふうになれば幸いであると思っているわけです。
好太王碑改竄(かいざん)説というものが李進煕さんによって出されまして十二、三年を経たわけです。これについて、もはやほぼ決着がついた、李さんは説の撤回をしておられませんが、名存実亡といった状況にあると私は考えるわけでございます。現地に行かれた方(この会場にもいらっしゃいます)が、石の字で倭が存在するのをはっきり確認されたわけでございます。
ところで、今回朴時亨さんの『広開土王陵碑』(全浩天訳「そしえて刊」住所・電話番号略)がでました。これだけ翻訳文化の盛んな日本で朴さんが書かれた本が二十年目にして翻訳が今年でた。これは、日本の古代史の研究を遅らせたと思うのです。これは深くは申せませんが、全さんが最後につけ加えられた解説(単なる翻訳の解説ではございません)を見て、私はビックリしたのです。一九六三年に共和国調査団が現地に派遣されたということはよく知っていたんです。その契機は、共和国内における改竄論争が一つの原因である。改竄ではないかという意見が強くなり、事実を確認しなくてはいかんということで、現在中国領にある集安に調査団を派遣し、その結果、改竄ではない、日本帝国主義側の改竄とはいえないという結論を得たという事実が初めて朴さんによって明らかにされているわけです。もっと早くこれを我々が知っていれば、この十何年かはずい分違った様相を示していたのではたいか。私が遅れたというのはそういうことでございます。この改竄については孫さんと私とは同じ立場ですので、今日はもう触れないでおきます。
さて好太王碑に多くの問題があるのですが、第一に注意したいことは「辛卯年」問題です。好太王碑を論ずる場合、大部分のエネルギーを傾注してきたところなんです。しかし、私はこの問題には大事な原則があると思うのです。それは「辛卯年」に対する絶対的なといいますか端的なといいますか、結論はでないということがはっきりとしているという認識から出発しないといけないということであります。これは当り前のことであります。あの碑面に三字ないし四字見えない字があるわけです。「倭人伝」のように全部見えている、字が全部見えていても意見が分れるのですから、見えてなくてはっきり結論が出せるほうがおかしいのです。残念ながら結論はだせないというのが大前提です。これは意見のいかんをこえた、共通の了解事項にならなければならないわけです。その上で、それを前提として、私はこう思う、という具体的な意見を出すことはいいのですが、「辛卯年」に対する自分の解釈をある立場からグッと出して、それを守るため、後々の議論を展開していきますと、熱はこもるんでしようけれど、客観性のない議論になってしまう。この点を今後幾百、千年続くであろう論争のために、ロスしないよう、根本のポイント、基点と考えるべきであるということを提言させていただきたいと思うわけです。
その上に立って、私自身、これは少し注意してもらいたいという点がありますので、それを申させていただきます。
「臣民」論でございます。好太王碑の中には「天帝・登祚・棄国・朝貢」等の言葉がでてまいります。これは間違いなく高句麗王を原点とする用語であります。百済や新羅へもっていったのには「朝貢」なんて絶対に使っていないのです。又百済王や新羅王にあたる人が位についても「登祚」とは絶対に表現していないわけです。つまり、中国で普通天子にあてている言葉が、ここでは全て高句麗王にあてられている。これはわかりきったことでございます。
同様に「臣民」というのは同じ性格の言葉です。一つの国で使われれば、その国の臣民をいうわけです。その国の「君・臣・民」という統治秩序を表す言葉なのです。この点、『三国志』に二つ例がございます。「呉志」に「民臣」(逆ですが意味は同じ)とあり、これは当然ながら呉における統治秩序、呉の孫権を皇帝と称しまして、これに対して民臣という言葉を使っております。もう一つは、直接法の中で「彼の臣民」というのがでてまいります。魏のことを論じている直接法の中ででてきます。「彼の臣民」とありますから当然魏における「君・臣・民」の秩序をいっているわけです。大変明確な例でございます。
ということで、好太王碑の地の文章であり高句麗中心の文脈で、「臣民」という言葉を使えば、高句麗を原点とした「君・臣・民」とみなすのが筋であると、私は考えたわけでございます。この議論は『失われた九州王朝』で十年くらい前に展開したのですが、日本の学者は賛成、反対だれもしないわけです。この一点からしましても、倭を主語にして、「倭の臣民」と考えるのは(日本側の多数説)成立できないと思うのです。
同様に、朴時亨さんが『広開土王陵碑』で示しておられる「百済が新羅を臣民にしたのだ」という解釈もやはり成立できないと思うわけです。当然「高句麗が新羅を(百済は消えていて分りませんが、新羅は『羅』らしきものがあるので)臣民にした」。高句麗が主語、新羅らしきものが目的語、というかたちで理解しなければならないと思うわけでございます。孫さんがそういう御理解であれば、私と意見が一致するわけでございます。
もう一点、論証を付け加えさせていただきます。新羅が使いを高句麗好太王のところに遣わせていった文章のなかで「奴客を以て民と為す」が出てきます。ちょっと我々には耳慣れない言葉ですが、『宋書』にでてまいります。『宋書』では、天子に自分のことを言う場合には「臣」というのを絶えず使う。倭王武も自分のことを「臣」と言っています。ところが、北朝側では「臣」にあたる言葉を「奴」というんだといっている個所が出てまいります。事実、北朝系の史料では、自分のことを「臣・・・」というところが「奴・・・」と使った例で出てまいります。そうしますと「奴客」の「奴」は、まさに「臣」を意味する「奴」であるというふうに考えられるわけです。そして「臣」には「内臣」「外臣」がありまして、国内の「臣」が「内臣」、国外の服属する国が「外臣」になるわけです。中国に対して卑弥呼は「外臣」になったわけです。ということで「外臣」を表すのが「客」という言葉なのだと思うのです。だから「奴客」といっているのは「外臣である私」という意味の表現である。新羅がそういう表現を使っているというのは、高句麗が新羅を「臣民」にしたという内容と対応するのではないか、という問題を新たに提起させていただきたいと思います。
次に、朴さんのすぐれた本の中で私には承服できない点がございます。「好太王碑にでてくる『倭』というのは『海賊』である」という説です。これは、中国の王健群さんが述べられて日本でも有名になりました。これより二十年前に朴さんが「倭=海賊」論を展開しておられるわけでございます。私はこの「倭=海賊」論は正しくないと思うわけです。その証拠を一・二あげます。
好太王碑文に「倭賊」という言葉がでてくるのは御存知のとおりです。いかにも、海賊だという感じを与えるのですが、そうではない。といいますのは、好太王碑に先だつ、しかも直前の同時代史料が『三国志』でございます。この『三国志』に「魏賊」という言葉がでてまいります。これは呉が魏の正規軍を「魏賊」とよんでいるのです。けっして魏の中にいる、うろちょろしている山賊という意味ではございません。ところが同じ「呉志」の中に「海賊」という言葉が出てまいります。この「海賊」の身元はどうかというのはむつかしいのですが、正に「海賊」で、少くとも先程の「魏賊」という表現とは格を異にしているわけです。海からやってきた賊であるわけです。つまり「海賊」と「魏賊」とは区別されている。これが好太王碑に先だつ先例です。東アジアの文字文化の中心的位置を占めたといって、どなたも反論されないと思う中国、その中国側の例なのです。
そうしますと、この碑文に「倭賊」とでてまいりますと、「魏」と同じ様に「倭」も国名でございます。「倭人伝」に何度か「倭国」とでてまいります。すると「国名」+「賊」という表現は「倭国の正規軍」を大義名分の逆の側からみて呼んだ名前である、と理解するのが、正確な理解である。これに対して、はるか後世の明代の「倭寇」をもってきて議論の援用とする人がいるなら、歴史学のルールをわきまえないものである、といわざるをえない、とこう思うわけです。なお「蜀賊・呉賊」という言葉も同類の用法で『三国志』に出てまいります。したがって先ほどいいました「魏賊」は決して孤立した例ではございません。
もう一つ、重大な問題がございます。この碑文に出てくる「其の国境」問題です。新羅が、平壌に来ていた好太王に使いを遣わせて言ったところです。
「倭人、其の国境に満ち、城池を潰破し、奴客を以て民と為す。王に帰し、命を請わん」
この「其の国境」の「其の」という代名詞は何を指すか。これは直接法の文章であります。その上にある名詞は「倭人」しかないのですから当然、「倭人」(「国境」ですから「倭」)の国境と考える以外の理解はないわけです。
国境は二つ国がないとできませんので、「倭」と「国境」をもっている国は、文意(新羅が言っている)からして「倭と新羅の国境」である。その「倭と新羅の国境」に「倭人が非常に沢山やってきて」という話になるわけです。
としますと、当然「倭国」は朝鮮半島内部に領土をもっている。そして、その領土は新羅と「国境」をもって接している、こう理解する他、ないわけでございます。
ところが先ほど挙げました王健群さんの議論はこの点(失礼な言い方ですが)混乱しているようでございます。王さんは、「ここは直接法ではないのだ。『其の』は前の新羅を指すのだ。『国境』というのは『国土』であって必ずしも国の境ではないのだ。」という議論を展開しておられるわけです。訳にも問題があるのかもしれませんが、かなり理解しがたい原文のようでございます。中国語に堪能な方に翻訳を私もしてもらったのですが・・・。
ここで王さんの議論になるのですが、「云」という言葉は
云ーー他人の言葉を引用していふ。
牢曰く、子云う。吾試(もちい)ならず、故に芸あり。
〈論語、子罕(しかん)〉『諸橋大漢和辞典』
この場合、弟子本人については御存知のように「曰」で表現している。ところで「牢」にとって孔子は第三者です。つまり、他人の言葉を引用する時に「云う」と表現している。同様に好太王碑においても二回「曰く」がでてまいります。「鄒牟王曰」又第四面に「好太王曰」が出てまいります。ところが問題の個所においては「新羅が『云う』わけです。」高句麗からみれば第三者、だからここは「曰く」ではなく「云う」をつかっている。このように『論語』のしめします用例と全く同じ用例をしめしているわけです。当り前といえば当り前ですけれど。つまり、ここを王さんの様に直接法ではない、といういい方はできない。明らかに直接法である。「其の」が指すものは「倭」しかない、という結論でございます。
朴さんは、「直接法ではない」といういい方はされませんで「国境地方に」(全さんの訳で)といっておられます。「国境」が、どことどこの「国境」かをしめしておられない。なんとなく百済と新羅の「国境」かな、という感じに読めるわけです。もし、私の理解したように「倭と新羅の国境」というようにとりますと「倭=海賊」説は成立できないわけです。「『国境』をもった『海賊』」という概念はございませんから。この点は触れないままで、どことどこの「国境」かはしめさないままで朴さんは議論をすすめられておられるわけです。ということで、「海賊」説を守るために文法を曲げたり、あいまいにしたりする、のは、本道ではございません。やはり、東アジアにおける漢文の用例に従って読む。自ら立てたアイデアに合うか、合わないか、によって、それを曲げることをしない、というのが文章理解の本道だと思います。この立場からしますと、朴さんの「倭=海賊」説、又、王さんの「倭=海賊」説は成りたたない、といわざるをえないわけです。
この点は不思議でもなんでもございません。『三国志』の「韓伝、倭人伝」をみますと、「朝鮮半島内に倭地(倭国の領土)有り」という立場から理解しないと理解できない文章がいくつも並んでおります。『「邪馬台国」はなかった』や最近の『古代は輝いていた』で書きましたので、ここでは繰り返しません。
次に、好太王碑に出てくる「倭」の性格についてもう一歩、つっこんだ議論をさせていただきたいと思います。『宋書』の「夷蛮伝」との比較です。『宋書』は五世紀に出た本ですので、好太王碑とほぼ同時代の史料であるわけです。これを比べますと、非常に深い一致がございます。
〈宋書夷蛮伝〉 〈好太王碑〉
高句麗伝 高句麗ーー王
百済伝 百残ーー王
倭国伝 倭
(新羅) 新羅ー寐錦
『宋書夷蛮伝』に高句麗伝・百済伝・倭国伝があるのは御存知のとおりです。ところが新羅伝はございません。ということは、高句麗・百済・倭国には「王」がいるわけです。しかし、新羅王は『宋書夷蛮伝』には存在しないわけです。新羅がでてくるのは、例の「六国諸軍事・・・」の中の一つにでてくるだけです。ところが、好太王碑にも高句麗・百残・倭・新羅と出てまいります。そして高句麗百残についてはオフィシャルなリーダーのことを、「王」(あるいは高句麗の場合は太(たい)王)、百残の場合は「王」(王健群さんは「主」という解読をしておられますが、「王」、「主」どちらでも議論は変わりないのです)。これは、当時の東アジアの普遍語ともいうべき、中国語・中国字で表されているわけです。中国語を中国字で表現しているわけです。ところが、新羅については「寐錦」という表現で表わされている。一回ないし二回でてきます。これは、いわゆる民族風名称であって、東アジア普遍語の「王」ないし「主」ではないわけです。この場合、高句麗のオフィシャルなリーダーの民族風名称を知らないということはありえない。知っているにもかかわらず、それを採用せずアジア普遍語で表記している。どちらの格が上かを考えますと、高句麗・百済の「王」の表現の方が格が上である、東アジアの常識である「王」という存在だという認識に立ってみると。ところが新羅については「王」と表現していないわけです。民族風名称にとどめている。ということは、明らかに両者に格差を設けているわけです。
先程の『宋書夷蛮伝』の格差と全く一致している。主として出てくる国名が四つ、まさに対応している。平面的に両者が一致、対応しているのみならず、「王」の格付けという面まで両者は一致している。いわば立体的、構造的に、両者は一致しているわけです。
さて、そこで一つ検討すべき問題がございます。「倭」について、好太王碑では王も民族風名称もでてこないわけです。これは何故かというと、その理由は、私は明らかだと思うのです。あの好太王碑の中で、高句麗にとって倭は「交渉相手」として登場することは一回もない。たえず「戦争相手」ですね。これに対して、百済や新羅の王や寐錦は何らかの「交渉相手」となってでてくる。ところが倭の場合、一切「交渉相手」として登場しないので全然出てこない。「倭は王でもないし、民族風名称も高句麗が知らなかった」から書かなかった、とは考えられません。そういうことではなく、文面の客観的にしめす内容から、倭ではリーダー名が表われてきていないのだ、というふうに理解すべきであると思います。
こういう一点を頭において考えますと、『宋書夷蛮伝』と好太王碑とは構造的に一致している。とすると、構造的に一致している『宋書夷蛮伝』の「倭国」と、好太王碑の「倭」は「同一の倭」である。つまり、好太王碑にでてくる「倭」は海賊なんかではなくて、『宋書夷蛮伝』に現れる「倭国」である、と理解しなくてはならない、というのが私の見解でございます。
さて、今日、新たに一つ強調したい点がございます。この時代、四世紀から五世紀にかけての時代を示す貴重な史料、朝鮮半島側の史料『三国史記』『三国遺事』がございます。「朴提上」(『史記』)「金提上」(『遺事』)説話でございます。私の『失われた九州王朝』でもそれぞれ全文(日本語訳)を載せております。このアウトラインを申しますと、新羅は高句麗と倭国の両方に人質を送っていたという話から始まります。四世紀から五世紀半ば頃の話です。倭国に送られた王子を取り返すために、朴(金)提上が倭国に乗りこんで倭王に会う。そこで、倭王と友好的な感じで会い、夜の内に王子を脱出、逃亡させて、かわりに朴提上がベットに居るわけです。朝になって、倭国の兵士達がそれに気付いて脱走した舟を追うのだが追いつくことはできなかった。王子は無事新羅に帰りつくことができた。その後、倭王は朴提上にむごたらしい死を与えた、という話でございます。
『史記・遺事』の間に違いはあるのですが、共通点をみますと、倭王のいる倭国の都はとうてい近畿大和ではありえない。夜中に逃げられて朝には間に合わないのですから。それでは都は何処か? 九州北岸、おそらく博多湾岸としますと、この状況にドンピシャリあたるのでございます。だからここでしめされる倭国の都、倭王の都はどう間違っても九州北岸、おそらく博多湾岸であろうということを『失われた九州王朝』でも述べたところでございます。今、問題はその時期が好太王、長寿王(高句麗)の時代にあたっていることです。
この新羅をはさむ高句麗と倭の関係と、好太王碑に出てくる高句麗・新羅・倭の関係が全く別物だという理解は、余程『三国史記』『三国遺事』を「軽蔑」しなければできない。あんなものは史料として値打がない、嘘ばかり書いている、という立場なら別ですけれど。私は、『史記・遺事』は非常に史料的価値が高いと思います。残念ながら、脱落している記事はかなりあるけれど、そこに書かれた記事は、嘘で後から作ったような、記事は見いだすことができないと考えています。この『史記・遺事』の性格からしましても、この史料を無視したり軽視したりすることは許されない。つまり、同じ時代(四世紀から五世紀にかけて)に倭国と呼ばれ、倭王と呼ばれたものが、二つあろうとは思われない。『宋書夷蛮伝』で倭国と呼び、倭王と呼んでいるものと、『三国史記』・『三国遺事』が倭国と呼び倭王と呼ぶものとは別物である、という考え方は、どんな無理をしても、できない、と思うわけです。
『日本書紀』を基にすることは駄目だと思います。今までこれについては何回も述べました。『記・紀』と『史記・遺事』とは性格が違う。特に『日本書紀』にあって『古事記』にない記事はほかからもってきて入れられたものであるから、これをもって天皇家の記事である、そのまま大和の記事である、という史料に使うのは正しくない、と論じました。この点、私に『日本書紀』のこの記事を「天皇家の事実」として使えるのだ、という論争をしようとする、日本古代史の専門の学者は日本国内でみたことがございません。(後記ーー安本美典氏の『古代九州王朝はなかった』、翌年刊行)
中国の史書と『三国史記』『三国遺事』が一致する内容からみれば、「九州北岸にこの時代の倭国の倭王の都があった。」こう理解しなければならないわけです。すなわち、好太王碑の「倭」を海賊と見なすことは、正しくない、ということになるわけです。
時間がせまってまいりましたので、最後に金錫亨さんの「分国論」の問題にうつらせていただきます。一口で申しますと、「日本列島の国々は朝鮮半島の国々、高句麗とか百済とか新羅とかの分国、簡単にいえば植民地であった。」という議論であります。時間があればいろいろくわしく申し上げたいのですが、簡単にいえばこういうことです。これが出ました時(一九六三年)、日本の学会は非常にショックをうけたわけです。この分国論は従来の天皇家中心主義(戦前の皇国史観はもとより、戦後の皇国史観ともいうべき天皇家一元主義)に対して大きたショックを与えたわけです。しかし、私は端的にいってこの分国論には、大きな誤りがある、と考えざるをえないわけです。
最初の論文で金さんはこう言っておられる。つまり「倭の五王が海北を平らげた」とあるがそれは近畿大和の天皇が九州を征伐したのである。なぜかなれば、日本では方角を90度くらい間違えることはよくあるんだ。邪馬一国問題でも、日本の学者によって証明されている、と注記していっておられます。しかし、これは皆様御存知のように近畿説の学者の「一派」の意見にすぎません。全員がこれを承認したというものではございません。南と東を間違えた、というふうにいわないと、近畿説にならないわけです。これが一つ。
これを例にして、倭の五王の時代に、近畿からみて九州を「北」と彼らは方角違いをしていたのだ、という議論は、今ではもう、非常に無理な議論であると思います。これが一つ。
もう一つ、七支刀の問題があります。先程も孫さんが触れられましたが、この七支刀を使って当時の倭王は百済王の家来なんだという議論がかってなされ、現在もなされているようです。これは、私は大きな誤解であると思います。金さんの議論は、「泰和四年」を百済の年号であると理解された。たしかに、これが百済の年号であるとすれば(好太王碑の例のように年号をもっているのは天子を称している存在)、そこで「侯*(=候)」王といえば自分の配下の「侯*(=候)王」なわけです。倭王を「侯*(=候)王」といっていることは明らかです。そういう理屈が成り立つのです。
侯*は、侯の異体字。 JIS第四水準ユニコード77E6
しかし、問題は「泰和四年」という年号が百済には全く見当らない、見当らないけれどおそらくあったのだろう、という立場で議論をしておられるわけです。金さんが先ほどのように言われて二十年程たちましたが、依然として百済に「泰和四年」という年号があった形跡は全く見いだされておりません。高句麗においても、高句麗王が天子にあたる位置を称したのは非常にまれなケース、つまり好太王という、まれな人です。その前後は、中国に対して臣下を称している。この間、集安に参りまして国内城から太寧(たいねい 東晋)の年号をもった甎(せん)がでているのを聞きました。「太寧」とすると三二三年から三二六年です。中国の年号を使っているのですから、四世紀前半期において高句麗は中国の臣下の立場をとっているわけです。又、好太王碑を建てた長寿王自身が、将軍の称号を中国(北朝、南朝)から貰ったという話は有名です。高句麗の場合も、例外的な好太王を除けば、ほとんど中国の臣下の立場をとっていた。まして、百済が好太王のように自らを天子の位置に置く、年号を作るという態度をしめした形跡は、全くこれを見い出だすことはできません。『晋書』『宋書』をレジュメに挙げておきましたように、この間に相当するわけでございますから、百済が年号を作ったと考えるのは、無理であろう、こう思うわけでございます。
最後に、最近日本側の若い研究者の方々に導かれて、私が当面してきた興味深いテーマを提起させていただきたいと思います。まだ試案ですので、そのつもりでお聞きいただき、お帰りになって共和国側で検討いただければありがたいと思います。
太王陵のもとになりました「願太王陵安如山固如岳」という甎がでたわけです。これに対して、従来の読み方は“太王陵の安きこと山の如く、固きこと岳の如くならんことを願う。”でありました。ところが、これはどうもおかしいという意見が渡辺さん(先程「社会科学研究所」を代表して挨拶された方)御夫妻から出てまいりました。三月に私達と御一緒に好太王碑に行かれたのです。又、その時大変御苦労いただいた藤田さんからも同じ疑問が出てまいりました。実は、「如山」というのが集安の真ん中にそびえているわけです。日本流にいえば神奈備山の如くそびえているわけです。どこから見ても見えるような素晴らしい山です。それだけでなく、太王陵の前に立つとその後ろに「如山」がある。残念ながら我々は太王陵の前に立てなかったんです。又、好太王碑の一面から写真をとるとどうとっても後ろに、この「如山」が入るわけです。そうすると、先ほどの甎の中の「如山」を“安きこと山の如く”と読んでいいのかどうか。「如山」は「如山(うざん)」という固有名詞ではないかという問題提起が出てきたわけです。又、碑の位置も、「如山」を原点とすれば、この位置が理解できる。私は、誤解して「好太王碑の前に立った人間」の立場で考えておりました。すると好太王碑は東南に向っております。おかしいわけです。
如山
↑
太王陵(南面) 好太王碑(東南面)
これが将軍塚説(関野貞)が出てくる理由になったわけです。将軍塚については時間の関係で申しませんけれど、この問題もふくめて、私と耿(こう)さん(集安県の博物館の副館長)と意見が一致しました。やはり太王陵が好太王の墓である。としますと、この好太王碑の位置がおかしくなってくる。しかし「如山」を原点として考えればこの位置は理解できる。この立場で甎をみれば“太王陵の、如山(うざん)を安んじ、如岳(うがく 如山)を固くせんことを願う”と読めるわけです。
漢文の文法としてはどっちも可能なわけです。問題はどちらの意味が結論として適切か、です。意味は全く違います。つまり、従来説の方は「太王陵がこわれませんように」という祈願なのです。ところが、新しい読法は「『如山』が永遠に神聖な山として続きますように。太王陵を建ててそれを守ることによって、バックにそびえる神聖な『如山』が永遠に安泰ならんことを」という、高句麗側の「如山」信仰というものを背景にした、祈願文であるということになってくるわけです。
こういう点は、祈願文の例、高旬麗ではこれより古い例はないのですが、中国側の例をこれから集めたいと思っていますので、今後検討を続けていくつもりでおります。
最後に申しあげたいことは、碑文の中に「『舊民は』羸劣(るいれつ)であるのでまかせておけない。全部、韓歳*の民(捕虜あるいは征服民)に好太王陵をまかせた。ところが、彼ら(新征服民)は法則を知らない、だから上手にいかなかったので新しく折衷案として舊民三分の一、新しい征服民三分の二のバランスですることにした」と書かれている点です。
歳*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA
この場合、「法則」という言葉の理解についての議論を従来あまり聞いたことがないのです。朴さんの本を見てもでてこないのです。これについて、ただ掃除をしたり、くずれたのを直すだけだったら新しい捕虜でも十分できる。ところが、そんな簡単なことではなくて、いわゆる「土地信仰」を背景にした墓の守り方、それが必要だ。それが碑文でいっている「法則」なのである。「土地信仰」は、韓歳*の民では駄目だ、その土地に昔からいる(恐らく高句麗が北からやってくる以前からかもしれません)舊民達が必要であった、というふうに考えますと、「法則」という点が理解しうるのではないでしょうか。
この点、朴さんの本(全さんの訳)で拝見しましたら、「羸劣(るいれつ)」というのを経済的に貧しくなったというふうな意味にとられたようにみえるのですが、これはちょっと違うのではないかと思います。「羸劣(るいれつ)」というのは「羸(るい)は劣なり、又弱(じゃく)なり」というのですから、「舊民」を一段下においた表現とみることが自然ではないか、ということは、少くとも高句麗の「臣」とは違う、もしかしたら「旧き被征服民」である可能性があるのではないか。「非自由民」であるとは朴さんも言っておられます。何故、「非自由民」になったかというと、「古い段階の征服、被征服」がその背景にあるのではないか、という見地を導入した場合、さらに好太王碑の内容は明確になってくるのではないか。このような目でみますと、先ほどの太王陵の碑を土地信仰と関連して理解するというのも、まだ断定できませんが、可能性のある、一つの試案ではなかろうか、と思います。特に現地で見ました東台子遺跡(土地神を高句麗が祭った遺跡)とも関連して今後興味深いものではないか、こう思っているわけです。
以上によって私の論証は終ったのですが、最後に申しますと、日本の学界は、私の提起しましたような「筑紫の王権が倭国の中心の王者であった」という(十年以前から出している)議論に対して相手にしない、論争の場にも席を同じくしないという態度を常にとり続けております。これはやはり学問として非常に不幸なことである。
戦後の日本の体制は天皇家を権威の中心にしている、こういう体制の中だからこそ、「基本的(主観的に)に合わないと考える者は論争に入れない」という傲慢な態度が許されているんだと思います。しかし、これはあくまで一つの体制の中で酔いしれている者の夢にすぎません。前の敗戦もしめしましたように、時間がたてばそのような傲慢なやり方は、学問の名において許されない、と思います。その点、私は色々と批判させていただきましたが、日本列島の古代状況に対して果敢な批判を若い時代から展開されてきた金さんとか朴さん、又それを受けつがれました孫さんとか、そういう方々と、そういう先入観のない立場で、あくまで客観的実在としての歴史を探求するという立場で、今後百年千年万年、おつきあいできれば大変に嬉しい、こう思うわけでございます。非常に失礼な言葉を重ねましたことを深くお詫び申しあげまして、私の報告を終らせていただきます。
討論・好太王碑と高句麗文化について
孫永鐘(朝鮮民主主義人民共和国・社会科学院・歴史学研究室室長)
古田武彦(日本国・昭和薬科大学教授)
<略>
「好太王碑と高句麗文化について」
古田武彦講演録
それでは、後半の方に入らせていただきます。だいぶ忙しかったのですが、限られた時間の中では、かなり立ち入った議論をしはじめた(これはまだ始まりですから)、始めという意味では一つの、お互いの手がかりができたのではないかと思います。孫さんがお帰りになって、恐らく、朴さん金さん等に、こんな話が出たと(レジュメもお渡ししました)御報告いただけると思います。
一つの収穫
今日、一つの収獲だったのは、朴さんの主張が違ってきている。前進がみられる。つまり、朴さんは「百済が新羅を臣民にした」と解釈しておられるのに対して、孫さんが来日前に金さんや朴さんと話し合って「高句麗が臣民にした」ととるべきではないかと、問題提起をされたらしくて、朴さんも「それがいいと思う」というので、二十年前の説を朴さんが変更された、と孫さんがいっておられました。
この点について、私と意見が違いがなかったわけです。高句麗側と私の共通の意見と、日本の通説との対立ということになってくるわけですね。だんだんと、整理されかつ前進しつつある、そういう手がかりが得られてきたという意味でも非常によかったと思っております。
辛卯年について
休み時間に御質問をいただきました。「辛卯年」のところに、皆様一番御関心がありますので、そこについての御質問がございました。先ほどよりもう少し詳しく説明させていただきたいと思います。
ここで大事なことは「属民」という言葉と「臣民」という言葉の違いだと思うのです。
「属民」というのは、私の理解では(『古代は輝いていた』をお読みいただいた方はお分りのように)、大義名分上の概念である。実際問題として、大高句麗国があって、かつては朝鮮半島全部が領土だったといっているのではないのです。そういっていると理解した人が「属民」は誇張だといういい方になってくるわけですね。
私は、高句麗はそんなことを主張していない。中国の歴史書をみても、何をみても、そんな形跡(朝鮮半島全部が大高句麗国だった)は全くないわけです。それを、誇張であろうと、嘘であろうと、碑文に刻むということは私には考えられない。どうせ嘘をいうなら、日本列島も大高句麗国に属していたといっちゃえばいいわけです。そしたら、全部反乱になりますから。そうはしていない。私はリアルた歴史事実をいっている、こう考えたわけです。
簡単に申しますと、百済というのは高句麗の分家である。『三国史記』にも出てまいります。はじめ、高句麗の王家に第一夫人、第二夫人がいて、第二夫人に子供が二人いた。第一夫人の子供が当然高句麗王になるのですが、第二夫人と子供をいじめる(いじめられた方がいっているのですが)ので、ここにおれないと、第二夫人と子供が高句麗を脱出した。それが、のちの百済の地(扶余近辺)にやってきた。そこで、兄さんと弟と分れて統治した。兄の方が統治に失敗して、弟の方がそれを接収して百済ができあがっていったという、有名な話が書かれている。
これは、高句麗からみれば、あれはメカケの子孫だ、というわけで高句麗国に対して服属を誓って忠節を誓うべき存在だ、こうみているわけです。
だから、高句麗と百済の間で、プレゼントというのですか、礼儀の物の交換があったと思うのです。百済の方は必ずしも、御主人へもっていったと言わなかったと思うのです。言ったとは限らない。少くとも、高句麗の方は分家の、属民の側からもってきた、という形で受けとっておったと思いますね。これが一つ。
今度はさらに、百済と新羅の問題については、中国の『三国志』に出てきます。三世紀では、百済は馬韓、新羅は辰韓といっておりました。なぜ、辰韓が成立したかといいますと、秦の始皇帝の時に中国から亡命した集団があった。その亡命集団を、馬韓王はあわれんで、自分の東界におらしめた。その辰韓の王を辰王という。騎馬民族説の江上さんがこれをクローズアップされるのですが、私の理解では、辰王は「辰韓の王」以外ではありえないのです。といいますのは、「辰韓はいにしえの辰国」という文章で始まっておりますから。辰国の王は辰王にきまっています。ということですので、辰王というのは神秘的な、不思議な存在じゃたくて、又日本に来てしまったら、辰韓の王がいなくて困ります。辰王は朝鮮半島にいる存在であると、私は理解しているんです。
ところが、辰韓の王である辰王は自立していない。独立、自立度百パーセントではない。さっきのようないきさつで、馬韓の被保護国みたいな形である。そこで、馬韓人を政治顧問にして政治をやっている、ということが三世紀段階で書かれているわけです。三世紀段階においては、新羅のもとの姿、辰韓は、百済のもとの姿、馬韓のいわば服属国である。
それを、高句麗はもちろん知っているわけです。高句麗の立場からいえば、辰韓のあとをひく新羅というのは、自分の分家である百済の被保護国、分家の家来、俺とは格が違うというわけです。新羅から何かもってきたら、新羅がどう言ってもってきたかしりませんが、「朝貢」であるというんですか、そういう形で受けとる。
これは、歴史事実だと思うのです。どう理屈づけるかは、理屈の問題です。核をなすのは歴史事実だと思います。小説家が作った話ではない。誇張した話ではない、と思うのです。
好太王碑の先頭の第一面で、歴史事実がいろいろはじまる最初のとこで、新羅と百済は属民であるといっているのは、高句麗の目からみた「筋論」をいっているのです。
それに対して「辛卯」のところ、私は何回もいいましたように、ここは分らん、何回いってもいいのですが、ここが分らんというのが大事なことだと思うのです。ここが分ったと言う人はインチキだと思うのです。単に、こう思うという自分の想像を言っているだけです。本来分るものじゃないわけです。それが、最初にして最後、いくら強調しても強調しすぎることはないと思うのです。
臣民論
しかし、その中で、そういう前提で、私は「臣民」という言葉は、高句麗を主格として理解しなければならない言葉じゃないか。
「朝貢」と出てくるところで、前後の文面がおかしいところがありますね。しかし、あれを前後の意味が分らんから、百済へ高句麗がもっていったんじゃないか、という解釈はできないわけです。しちゃならないわけです。
百済の石碑だったら、百済原点の朝貢という言葉を使っていると思いますよ。高句麗の石碑で、前後の文章がわかりにくいからって、百済に朝貢って、解釈することは許されない。
同じように、「臣民」という言葉も、『三国志』でみるかぎり、「君、臣、その下の民」という君臣の秩序にたった表現なんですね。
レジュメにもかきましたが、『史記』、『漢書』あたりで、西域のことを書く時、西域のABCDと国がいろいろかいてありますわね。その時に、Cという国は Dという国に「これに臣す」。つまり、これに隷属している服属しているという意味に「臣」という言葉が使われるのです。
だから私も、この例からみれば、倭が新羅やなんかを隷属させたというふうにとってもいいかなと迷ったこともだいぶあるんですよ。しかし、これは『史記』や『漢書』の話で『三国志』はそれより後です。『三国志』の世界になると、それを抜きだしてみたら、予想以上に「臣民」の用法は明確な用例なんです。
先ほど挙げましたように、「魏志」の部分では(「臣民」はでてきませんが、「臣」、「民」はしょっちゅう出てきます)、「臣」とか「民」とかでてきたら必ず、魏の「臣」であり「民」なんです。一つ一つ魏臣、魏民などとかは書かないわけです。
又、「呉志」に「臣」がでてきたら呉臣であり、呉の民であるわけです。一つ一つ呉臣とか、呉民とか書かなくていいわけです。
それに対して、「臣民」という熟語ということで抜きだしたのは、先程挙げた二つの例です。
一つは「民臣」ですが、意味は違いないと思うのです。「民臣」というのは呉の「民臣」という形でかかれている。呉の「君」に対する「民臣」です。民をちょっと重きをおいたので、先頭にきたのかもしれません。身分秩序からいえば「臣」が上ですが、「君」の統治対象とすれば「民」が大事なポジションなんですね。「臣」は「君」にとって補佐役にすぎないんですから。我々は耳慣れないけれど「民臣」というのは決して不思議ではないわけです。
それに対して、はっきり「臣民」がでてくるのは、先ほど挙げた例「彼の臣民(魏)」が唯一の例であります。」直接法の中であり、「彼の臣民」とあるから、「魏の臣民」を指す。当然ですね。
『三国志』を見ていきますと、少くとも三世紀段階では、「臣民」の使い方は非常に確定している、はっきりしてきているとみられるのです。
そういう目でみますと、あそこの文面も、高句麗原点の「臣民」と考えざるをえない、というふうに私は理解してきたのです。
さてここで、倭が「辛卯年」に来たというのだが、どこに来たのかという御質問を紙に書いてこられましたのでお答えします。
これは、高句麗本土、及び自分の属民であると考えている百済、新羅に来たら、「倭が来た」です。だが、朝鮮半島内の倭地にいるだけでは「来た」と考えていない。これは、もともといるんですから。
早い話が、腰岳の黒曜石が縄文期の釜山近辺から出てくるわけです。これを、新聞に「貿易をしていたことが分る」なんて書いてありましたが、とんでもない話です。現代みたいに、海の中に国境があるわけではないんです。貿易も何もないわけで、腰岳の黒曜石の分布圏が、洛東江ぞいの釜山(プサン)近辺におよんでいたというだけなんです。
あそこが倭地だというのは、実は縄文期に、腰岳の黒曜石の出土という時期にさかのぼらなければいけないわけです。縄文からズッーと、腰岳縄文人がいるわけですね。ということでございます。
だから、高句麗は縄文にさかのぼって「来た」とはいかないわけです。「辛卯年」ですから、要するに、倭地以外のところ、高句麗からみれば、「自分の服属民の地」と大義名分上思っているところへ、「倭が入ってきた」とこう言っているわけです。
なぜ入ったか、これも私は推察がつくと思うのです。私の『古代は輝いていた』(朝日新聞杜)をお読みの方にはお分りのように、三一六年の大事件ですね。『三国志』を書いた陳寿のいた西晋が滅亡するわけです。滅亡して、東晋というのが建康に都をおくのです。ところが、その場合、北の黄河流域は、新興匈奴、その他次々と北方系の民族が北朝系をたてますので、実際上、楽浪、帯方が軍事的空自地帯になる。そこを、誰が継承するか、北の高句麗か南の倭か、なんですね。
倭は、南朝側を代表して帯方を受け継ぐんだと主張するんですね。それは、楽浪を支配している高句麗からみると、楽浪を分郡した帯方ですから、当然、高句麗が楽浪及び帯方の地を支配するんだ、ということですから、そういう倭国の態度は、“不当に倭がやってきた”つまり「来」という表現でとらえることになるわけですね。「『臣民』となす」は、主語が高句麗である。相手は「羅」という字があるから、新羅だろう。他の羅、加羅等ありますが、新羅だと今までの人もそう考えていたし、私もそう考えています。新羅を「臣民」にしたというのは、あるわけです。ただ百済を「臣民」にしたかどうかは、字がないからなんともいえない。
ところが、こういう姿勢は高句麗側の一方的な、単なる大義名分論ではなくて、実質的に「君・臣・民」の体系を、少くとも新羅におよぼす。場合によったら百済にもおよぼす、と言っているかもしれません。そういうことは当然、新たな緊張をまねくわけです。倭国はそれを承知しないし、百済も承知しないでしょう。
ということで、「臣民」にしたという、高句麗の一方的なといいますか、新たな方針が次の激突をまねいている、ということになるわけですね。倭国の方からいいますと、倭国側の大義名分論があって、何か宣言をやっているんだと思いますね、当然、高句麗とは全くあいいれない、そういう宣言だと思います。こういう形で理解すべきである。
倭と「和通」・「不軌」問題
先程省略した中で申しあげたいのは、レジュメNo.5の「与倭和通」問題、「倭不軌」問題です。
「和通」の「通」は、『史記』、『漢書』で見ますと、A国とB国と二国間の国交関係の成立を指す(「大宛列伝」「西域伝」)。ということは、百済が倭と「和通」したと非難している。「通」という言葉がつかわれている。当然中国の用語の「通」なんです。
百済が「国」であることは、当然です。誰でも認めているわけです。では、倭も「国」である。海賊ではない。海賊との間に「通」なんて言葉をつかった例はない。あると思うなら、それをお出し下さい。王健群さんにしろ、朴時亨さんにしろ、好太王碑にでてくる倭が「海賊」だと主張されるなら、「通」という言葉が「国」と海賊(山賊でもいいですが)との交渉(なんらかの交渉はありうるでしょう。エリザベス女王と海賊とも、なんらかの「関係」はあったでしょう。)で、「通」と表現した例をあげられるべきです。「裏取り引き」はしても、「通」というのは、れっきたる「国」と、れっきたる「国」との間の国交関係につかう、術語なんです。国際用語なんですね。元は地(道路ーー編集者注)が通じるという単純な言葉から発しています。
ということで、「与倭和通」とある点からみますと、「倭」は海賊ではなくて「倭国」を理解しなければならない。
こういう議論になるわけです。同じく、「不軌」は、レールに反している、無茶をやっているというので、いかにも海賊にふさわしいと考える人があれば、私は全く見当違いである、と思うのです。
ここで、もとになっているのは「軌」という概念である。つまり、レールである。レールというのは、東アジア、特に朝鮮半島を中心にする東アジアで、国と国との間にレールが敷かれているんだ。ルールがあるんだという立場をとっているんですね。
そのルールを倭が、倭国が侵した、と非難しているわけです。だから、海賊だったら、ルールがあるんだ、それを侵したなんて言ったってはじまりません。およそナンセンスな表現である。
一見無謀にみえる表現は、実は、高句麗の論理からいっても、「本来倭国との間には、こういうルールがあるはずだ。」こう言っているわけです。そりゃあ、あると思いますよ。あとあとのことを考えてみますと、高句麗はいちはやく、中国から「開府儀同三司」というふうな「楽浪公・開府儀同三司」というふうな称号をもらっています。
倭国も、それを真似(まね)して、といいますか「開府儀同三司」をくれ、と、何回も要求しているが、結局くれないわけです。いいかえれば、中国を原点とする東アジアのルールから言って、高句麗は倭国は対等じゃない。私の方は「開府儀同三司」を貰っているんだ。「三司」というのは、中国の天子のもとのナンバー1から3までをいうのです。それと同じ態度で儀礼を行う、天子を除いた最高のナンバー1から3の身分のものと同じ身分として儀礼を行ってよろしい、と、その承認をもらっているわけです、高句麗は。
倭国はくれくれ、と言ったけど、中国はくれていないわけです。と、いうことは、単に儀礼だけのことではなくて、要するに高句麗の理解とすれば、当然、「朝鮮半島は楽浪を原点として、我々が支配する。で、倭国はその秩序の中において、我々の承認のもとに行動すべきだ。」という論理で、当然出てくると思うのですよ。
しかし、これは五世紀の話ですから、ちょっとあとです。こういう、あとあとの様子からみても、この時に高句麗の目からみれば、今のべたような、高句麗側の論理があった、と考えても、単なる空想では、恐らくないと思うのです。
そういう意味で、高句麗側からみると、東アジア公認のルールに倭国は反している、と、こう言っているわけです。
と、いうことは「倭」を海賊と思っている証拠ではなく、れっきたる「倭国」と思っている証拠なんです。この点も、中国にしろ共和国にしろ、今後も「海賊説」を主張し続けたいたらば、この問題に対する適確な解答をして欲しい、ということがあったわけでございます。
時間がオーバーしましたが、一応ここで、つけたしとしては余りにも不足でございますが、説明をさせていただきました。
質疑応答
司会
限られた時間ですが、交流並びに質問をおうけしたいと思います。どうぞどちらからでもおねがいします。
質問
公孫氏(ユウソンシ)が三五〇年に亡びたわけですがその後、高句麗が好太王を含めて七世紀まで栄えたということは、どういうことでしょう。倭国と倭・韓のあたりの、力関係が大きかったと思われるんですが、その点、どういう風にお考えでしょうか。
古田
公孫氏と高句麗の違いは、民族が違うといういい方があるかどうかわかりませんが、少なくとも公孫氏はあの段階では、中国の一部分と、公孫氏自身考えているわけですね、だから、紹漢(ショウカン)元年というような年号があるわけです。その年号があるときは、戦斗開始という感じになるんですね、かなり短絡したいい方になるかもしれませんが。要するに公孫氏は、漢の時代は後漢ですが、漢の忠実な配下だと言っていたわけです。ところが、魏は、それに対して、漢を禅譲で受け継いだと称したのですが、どこもそうは思わなかったみたいですね。魏以外は。つまり、その当時、漢の最期の献(けん)帝は殺された、みたいなですね、そういううわさが、東アジアにずーっと流れましてね。蜀の方は非常に憤慨して、漢の正統を受け継ぐと称して自立を深めていくわけですね。一時、呉は魏に非常に心服を誓ってた時期があったのですが、それがやがて、反旗を翻すというんですか、又自ら天子を名のっていくわけです。魏にとって最初、公孫氏は、自分に忠実にやってくれているように見えていたわけです。ところが、今のように「紹漢元年」を名のって、「後漢をうけつぐ」ということになって、魏は戦いをいどむわけです。この理由は、はっきりしていると思うんですが、要するに公孫氏が、そこに、そういう形で、漢をうけつぐということにたりますと、蜀との後方、カニバサミみたいな両側からこれは軍事的に見て非常にまずいということになりますね。それからもう一つは、公孫氏が東夷の国々に対してもっていた力、これは、漢が公孫氏を通じて、あらゆる東夷の国々を支配していた要素があるわけです。単に楽浪・帯方だけでなくて。それがあぶなくなる。そうすると東夷の国々が、今の蜀系列に入るとか、いよいよもって、一公孫氏だけではなくて、東夷の国々が漢系列の蜀と相呼応するとなると、いよいよ魏は具合悪くなる。それだけではないと思いますが、他に理由があると思いますが、そういう軍事的要請からみましても、公孫氏を断固うつという決意をしていくこの間の面自い話のやりとりがあるんですね。これは時間の関係で省略させていただきますが・・・。
それに対して、高句麗自身は、別の民族ですから、これを亡ぼさなければならないという理由は、中国側にはない。高句麗が、中国の国家権力と激突する場合は、その例は魏の時に、高句麗へ毋丘倹(かんきゅうけん)を派遣して、高句麗をうち破って、日本海まで行っているんですが、しかし、この時でも、中国は、高句麗をなしにする、「亡国」にするという意図はなかったようです。公孫氏領域が、本来中国かどうかは、むずかしい問題があるわけですが、少くとも、公孫氏の段階では、中国の一部と考えられていた。しかし高句麗は、中国の一部とは考えてはいない。さっきの言葉で、うまく説明すれば「内臣」と「外臣」という言い方からすれば、高句麗は、「外臣」に属するわけです。公孫氏は、「内臣」に属するという、違いがございます。
司会
よろしいでしょうか。あとお一人。
質問
第三〜四面の守墓人問題について説明して下さい。
古田
守墓人問題ですね。これは藤田さんが非常に高い水準を保っておられる研究者なんですが、私が一応もうしあげて、そのあと、藤田さんに補ってというよりも、それ以上の所を言っていただきたい。守墓人問題は、従来、非常に議論が遅れております。今の、李さんの改竄説のマイナス面としてあげた、一つの例なんです。これは一目瞭然誰がみてもわかりますように、好太王碑は、一、二面は好太王の軍事行動というものが、はなばなしく描かれております。しかし、それに劣らず、三〜四面になりますと、守墓人間題に大きな分量がさかれているわけです。だから、好太王碑の目的は、好太王の勲績を明らかにすると同時に、守墓人の問題を確定する碑石であると言えます。先頭には(碑文の一面)高句麗の歴史が入っていますが、ところが守墓人問題を見ていきますと、いろいろ問題があるわけなんです。
藤田さんによりますと、拓本や雙鉤本で守墓人の数がまちまちであるということです。用語も違いがある。例えば国烟、看烟、という用語がでてくるんですが、都烟という概念が出てくる拓本と、出ていない拓本があるんです。そういう問題は藤田さんに言っていただくとして、私が申したいのは、軍事行動と守墓人問題が関係があるということなのです。
先 ほど申しましたように、好太王は「旧民」というものをどうも「羸劣(るいれつ)」として、どうしようもなく劣った、差別的表現としか私には思えないのですが、そういう風に扱っている。これは問題とすべきところです。
編集部註
この古田氏の論点はその後、「疑考・好太王碑ーー王健群説をめぐって」(『古代史を疑う』騒々堂)、「最新の諸問題について」(『古代の霧の中からーー出雲王朝から九州王朝へー』徳間書店)でそれぞれ詳しく展開しておられる。又、藤田氏の守墓人問題については、「好太王碑文研究の新視点」(『市民の古代』第五集)、『好太王碑論争の解明ーー“改ざん”説を否定するー』(新泉杜)をそれぞれ参照されたい。