古田武彦
雨の中をよくおいでいただきました。朝から雨もようで、そのうちにどしゃ降りになってきましたので、これではなかなか皆さんもおいでになりにくいだろうと、三人でも、五人でも、おいでいただいた方々に、ゆっくりお話しさせていただこうと思いながら、実はやってきたわけでございます。
ところが、非常に多くの皆さんがたにおいでいただきまして、非常に恐縮しております。
今日は、『万葉集』という、わたしにとっては新しいテーマについてですね、お話し申し上げたいと、こう思っているわけでございます。
『万葉集』というと、かなり時代がさがるんですけれども、七世紀後半から八世紀となるんですけれども、そんな時期になって、果たしてそういう歌なんかがわたしの言ってる多元史観、そういう歴史観と何か関係があるんだろうかと。しかも、『万葉集』となるとですね。歴史学者だけでなくて、それよりも、いわゆる国文学・国語学・万葉学という分野でですね、非常におびただしい、俊逸な論証、というより、注釈・考証がですね、たくさんできてきているはずだと。それを今さらですね、何か新しいことが果たして言えるのであろうかと、そういう風におそらく疑問をお持ちになりつつ、おいでになったんじゃないかと、わたしは想像するわけでございます。
しかし、考えてみますと、この『万葉集』というのは、そのいずれも同時代史料でございます。
国語、国文学の人からみると、『万葉集』が同時代史料だなんていうと、なんかこうですね、至極感情のもられた、そういうものを単なる冷たい史料としてみてるのかと、まあお思いになるかも知れません。これは勿論、そういうすばらしい文学であると同時に、半面ではまた、歴史学上の史料でもあると、これは当然でございます。
しかも史料の中でも『古事記』・『日本書紀』というものは、いわゆる後代史料です。 ーー後の時代になって、神代の昔から書いた、というものですねーー そういう意味では、八世紀という後の時代に成立した史料であるから、後代史料、或は後代史書、というべきものであるわけです。
ところが歌というものはですね、これはいずれも、いわゆる同時代史料である。その時の人が、その時に作ったわけでありますからね。
後の人が、その時の身になって作ったという点もあるでしょうけれども、こういうのは例外であって、その時、その人が、その人の感情を歌にするというのは、まあ原則でありますから、いずれも同時代史料である。言いかえれば、第一史料である。あるいは、直接史料である。歴史学で最も尊重すべき、そういう史料の性格をもっているわけです。
この点、例えば金石文というのが同時代史料であり、第一史料である、ということは皆さんご存じの通りだと思うのです。その金石文と同じ性格、ある意味において基本的な性格を持っているもの、それがこの「歌」なんですね。
そう考えると、この「歌」というのは、やはり非常に重大だというわけです。同時代史料だという性格は、例えば『古今集』とか『新古今』とかになっても、もちろん同じでございます。江戸時代、明治、現代に作られても、もちろん、同時代史料でございます。
しかし、『万葉集』の場合ですね、特におもしろいのは、七世紀の後半から、八世紀にかけてという最も大きな権力交代があったと ーー私はこう考え主張しているーー このいわゆる両時間帯にまたがって作られている、その時期の直接史料である、ということになるわけです。
といいますのは、ご存じのように、わたしの考え方では七世紀の終わりまで、いわゆる「九州王朝」というものが、日本列島の九州の筑紫に存在して、これが東アジアにおける日本列島の代表的な王朝であった。これに対して、天皇家はそれの分王朝、分家である。実力は古墳時代において、事実上ナンバーワンというべき勢力になったけれどもですね。
しかし、名分上というんですか、名目上というんですか、大義名分上はいわゆるナンバーツー(分家)であったと。それだけではない、それ以外にも、例えば関東上毛野君とか、そういう関東において、やはり統一的な王朝が成立していたのです。
その他においても、例えば沖縄において、例えば東北、北海道 ーー或いは、北陸においても、かもしれませんがーー そういう各地域に、それぞれの地域的な統一権力者といいますか、そういうものが存在して、併存、併立していたのである、ということをわたしはかねてから主張してきたわけでございます。
さきほど御紹介ありました、駿々堂の『多元的古代の成立』。これは東大の『史学雑誌』に出した論文の題目を、そのまま本の題名にしたんですが、それはまさに、そのテーマを表現しているわけでございます。
ですから、この場合、問題は簡単なわけです。つまり、従来の、わたし以外の学者が主張してきました ーー天皇家一元史観とわたしは名をつけるんですがーー 日本列島では、天皇家しか統一中心はできなかった、中心勢力はなかったと。弥生はいざ知らず古墳時代、四世紀以降は、もう天皇家が完全に統一中心勢力であったというのがわたし以外のほとんどの学者の意見なんです。
これをわたしは「天皇家一元史観」、こう呼ぶわけです。この一元史観で、もし『万葉集』がきれいに割り切れて解釈できたなら、これは一元史観は正しいわけです。直接史料に合うわけですから。
ところがその一元史観でいくと、どうにもおかしい矛盾がでてくる。いわゆるもってまわった理屈、屁理屈というんでしょうか、そういうこじつけをしなければ、どうにもこの歌が解釈できない。多元史観によると、すっきり解釈できる。歌の解釈ひとつずつの解釈のみならず、『万葉集』全体についてもすっきり解釈できる。こうなれば多元史観が正しいわけです。
つまり、さっき言いましたように、『万葉集』というのは金石文と同じ第一史料である。しかも、金石文というのは、そうたくさんは日本列島の古代にはないんですね。それが何百何千と、いわゆる金石文と等しき性格をもった第一史料があるんですからね。それに当ててみるわけです。要するに史観というのは、結局言ってみれば仮説ですわね。歴史に対する考え方ですから、その仮説としての一元史観でいけば、どんぴしゃり全部解釈できれば、一元史観が正しいことは、当然証明されるわけです。
で、こんどは、一元史観でうまく説明できかねて困ってるところが、多元史観によってどんぴしゃり解釈できれば、多元史観が正しい。当り前のことなんです。一元史観といいますのは要するに、『古事記』・『日本書紀』の建前を自分の史観の建前とする。つまり『古事記』・『日本書紀』は、それは「神武」からずうっと日本列島全体を天皇家が中心であるように一見みえる形で全体が構成されておりますね。それを正しい、とするわけです。戦前は勿論そうでした。戦後は、神武から開化までの九代、それは承認しないけれど、あるいは「崇神から後」とか、あるいは「応神から後」とか、その辺から後はもうあれでいいんだと。『古事記』・『日本書紀』の建前通りの天皇家中心で正しいんだ、というのが、いわゆる戦後史観の立場なのですね。
津田左右吉もそういう立場です。津田左右吉は、もっと古くから天皇家が中心だったという「信仰」が強烈なのですが・・・。戦後史観も津田史学の立場を受けついで、崇神から垂仁とか、応神から仁徳とか、これら以後はもう天皇家が西は九州まで、東は関東、東北の南部あたりまで支配していたんだという、修正『古事記』・『日本書紀』という立場が、従来の歴史観=歴史家のとっている立場なのです。また、国語学、国文学者も等しく従っている立場なのです。
これに対しまして、わたしの立場は中国の歴史書に依拠しているわけです。つまり、『三国志』や『宋書』・『隋書』(イ妥国伝)というところを受けつぎまして、特に、今の七・八世紀の問題となりますと、『旧(きゅう)唐書』 ーー「くとうじょ」ともいわれてますがーー この『旧唐書』に書かれた立場なんですね。
『旧唐書』によりますと、この七世紀の日本列島はまず、倭国 ーー九州島と覚しき地形で書いているーー この倭国が、卑弥呼以来の倭国であるということが書かれているわけです。
これに対して、日本国というのは、もと倭国の一部分である。小国であった。それが、自分の母国、親もとである倭国を併呑して、そして全体を日本国と称するようになったと。こういう例は、中国、朝鮮半島その他各地で、そう珍しくないと思います。一部分の、いわゆる分流であったものが、主人の国と権力が逆転して、自分が中心的な支配者になるという例は歴史上珍しくないと思うのですが、日本国も、もとは小国であったのが倭国にとってかわった。だから言いかえますと、西は九州から、そして中心部分は近畿の形で書いてありまして、それが日本国になったんだと。そして八世紀初頭に、則天武后がこれを日本国として承認した、という記事が別に出ておりますね。
ところが、日本国は、西は八世紀になって統一したんだけれども、東はまだそうはいかなかったというのが、「大きな山があり、限りをなしている。その山の東は毛人の国である」と、こういう風に書かれている。大きな山というのは、中国から見ての話ですから、日本列島で一番目立つ大きな山というのは、日本アルプスを抜きにしては、ちょっと考えられないと思います。で、日本アルプスのどのあたりをとるかは、そのへんは中国側からみての話ですから、わかりませんが。
要するに、日本アルプスが境になって、そこから東はまだ日本国の支配ではなかった。少なくとも七世紀ではなかったらしい。八世紀になるとどうだったかまでは、はっきりとは書いてありませんがね。
とにかく、その毛人国であったと、それより東、その大山より東は毛人国であると、こういうわけですね。だから、現代の我々の言葉でいえば、関東から甲信越 ーー甲信越全部を含むかどうかわかりませんが、大体関東を中心に甲信越地帯ーー が毛人国として、日本国ではない国として描かれている。少なくとも七世紀ではそうである。
そして今度はですね、そこから向こうはどうかというと、『旧唐書』の「倭国・日本国伝」といわれる伝なんですが、ここには出てこないですが、他の場所に出てくるわけです。つまり、「蝦夷国」というのが出て参りまして、これが中国にやはり使者を送ってきているわけですね。それはどうも、今の東北地方北半分から北海道を含む概念のようですけれどもね。それは「蝦夷国」である。
勿論、沖縄の方は、又、琉球国というのがあります。こういう形で唐側は認識されていた。琉球国は『隋書』に出てくるので有名でございます。「琉球国伝」ですね。というのが、中国側の認識なんです。
しかも、この場合、わたしは中国側の認識が馬鹿にできない、一目も二目もおかねばならないと思いますのは、『旧唐書』ができたのは唐が滅んでからですけれども、しきたりで、王朝が滅んで、その王朝の歴史を作るという慣例が中国にあるようです。
しかし、当然ながら、唐という国は文字を使う国でございます。大変よく使っている国でございます。七世紀段階、唐でいえば初期ですが、この唐の初期にも、勿論文字がございますから、その唐の初期に書かれた、つまり、唐の同時代史料をもとにして『旧唐書』ができていることは、誰も否定する学者はいません。
しかも、その唐の初期に、この日本列島を観察しました場合に、ただ、中国側から遠く眺めやって書いているのではなくて、いわゆる阿部仲麻呂という、日本列島から行った有名な人物が唐の朝廷の中枢にいた。しかも、ベトナム大使までやって、又晩年、長安でその生涯を終えたことは、有名でございます。
今、西安 ーー長安の近くの西安ーー に行きますと、仲麻呂の碑が建っていますね。中国人にとって、あの仲麻呂というのは、非常によく知っている、歴史上の日本人の一人なんですね。まあ、二人、三人とはいない、一人でしょうね。卑弥呼っていうのは知りませんね。中国中あちこちで聞いても知りませんね。阿部仲麻呂っていえば、知らない通訳の人はいない、というぐらい有名なんです。その阿部仲麻呂が、生涯唐の朝廷の中心部で、高級官僚として生涯を終えたわけです。
だから、その『旧唐書』のいわゆる史料的根拠はですね、阿部仲麻呂の情報によっていると。或は、阿部仲麻呂が「それでいい」と「イエス」を与えていると考えるのが筋であると、わたしはそう思うんです。
勿論、これは阿部仲麻呂だけでありませんで、いわゆる遣唐使っていうのは、日本から何回も行っていますからね。しょっ中、長安には、そんな連中がごろごろしているといったような ーー遊んじゃいなかったでしょう。一所懸命勉強していたと思いますがね ーーわけですから、そういう「確認」をとるには、事欠く状況じゃないわけです。
それだけではございません。この唐というのは、その肝心の「倭国」と戦った、白江の戦い ーー日本で白村江の戦いといっていますがーー で大勝利をおさめた国でこざいます。
その戦ってやっつけた国のことを、知らないでやっつけたなんてのはちょっと考えにくいわけでして、当然知っていた。それもですね、いわゆる隅々、端々のことまで知っていたとはいえませんね、なんぼ戦ったからといって。
しかし、その日本列島の中に国がいくつあるか、大体の国境関係がどうなっているかくらい、知らずに戦うってことは、これはありえないわけです。
同様に、この阿部仲麻呂も、日本列島のことは何でも私に聞いて下さい、全部知っております、とは、いくら彼が頭がよくても言ってはいなかったと思います。しかし、国の大体がどうなっているか、ぐらいは、阿部仲麻呂は知っていたと、わたしは想像するのです。「想像」ではあっても、「そんなのはただの想像だ」なんていえる人はいないと思います。「いや、知らなかったかも知れないよ」という「想像」の方が、これは随分でたらめな想像だとわたしには思われます。
そうしますと、そういうニュースソースをもとにして書かれた『旧唐書』は、大まかな国家関係そのものについて、嘘を書いているとはわたしには思われない。
しかも、その一番大事なことは、唐側は、倭国ないし日本について、嘘を書くべき理由はどこにもない。勝ったんですから・・・。負けて嘘を書くなら、それはあるかも知れませんがね。一〇〇パーセント勝ってるんですから・・・。それで、倭国だか日本国だか、天皇家だかに遠慮してですね、嘘を書く必要はどこにもないわけです。
そういう風に考えてみますと、その史料的性格からみて、『旧唐書』の国境認識を疑うべき根拠はない。わたしの理性では、そうとしか思えないのです。それに対して『古事記』・『日本書紀』は残念ながら、両方ともそのまま信用できない性格の史書である。何故かといえば、これは明らかに“天皇家の中で、天皇家の学者(御用学者といったら、言葉が悪いですが)を使って書かしめた”ものである。
その目的はですね、天皇家の、要するに偉大さを「証明」するというか、P・Rするための本であって、決して、天皇家に有利であっても不利であっても、事実をお書きなさい、という ーーそうあって欲しいんですけれとも、本当はーー そういう本ではない。このことは、これはもう戦前はいざ知らず、戦後においては反対する人はないと思います。これは天皇家が天皇家のために作らしめた本であるという性格は、これはもう疑うことはできないわけです。
だから、今に至るまで神武天皇から、天皇家が中心です、というムードで書いてあるんです。だから、その大義名分、建前をこう書いてあるから本当だとは、とても言える性質の歴史書ではない。
こう考えますとね、『古事記』・『日本書紀』と『旧唐書』と、どちらの「大づかみな骨格」の把え方が、客観的であり、どちらが主観的であるか。これは、わたしは冷静に観察すれば、疑うことはできない。これが、わたしの基本的な理解でございます。それがもし、そうだ『旧唐書』の認識が正しいということになれば大きな問題でして、七世紀・八世紀だけの問題ではないわけです。七・八世紀においてそうであれば、先程出てきましたように、倭国というのは九州で、それは卑弥呼の時代以来の国である、と書いてあるわけですから。そうすると、もう、邪馬台国 ーーわたしの言う邪馬壹国、ーー 世間でいう邪馬台国問題も、一挙に解決して、九州にきまってくるわけです。
それに、あの「倭の五王」ですね、「宋書」の。これも九州にきまってくるわけです。これはもう、わたし以外の大多数の人は、近畿だ、雄略だ、といってますけどね。そうじゃないことは、この問題からはっきりするわけです。
で、『隋書』の「日出づる処の天子」の中心地、これもまた、九州であることがはっきりするわけです。つまりこれは、一連のものすごいテーマを含んでいるわけです。
だから、わたしに対して、「いや、それはまちがっている。『古事記』・『日本書紀』の方が正しい。」という反論をしてくる学者がほとんどないのは、あまりの問題の大きさにためらっているかどうか知りませんけれど、この問題はそういう決定的な意味あいをもっているわけです。
さて、『万葉集』につきまして、みなさんは普通、こういう風に教科書でお習いになったでしょうね。いわゆる、上は天皇から、下は農民、乞食に至るまで全国の国民が歌を詠み、これが『万葉集』に載せられているという風に、小学校、中学校、高等学校で、習った覚えがおありのことだと思います。
しかし、はっきりいいまして、あれは大きな嘘でございます。
なぜかといいますと、じゃあ、お聞きしますが、九州の人が作った歌というのは、みなさん、頭に想い浮かべることがおできになりますでしょうか。「九州で」作ったんではないんですよ。関東や近畿の人が九州へ行って、九州で作った歌なら防人の歌や、その他あるわけです。そうではなくて、九州の人が九州で作った歌ですね。そういうものを想い浮べようとしても、ちょっとみなさん、頭に想い浮んでこないでしょう。
事実、ないんですね。ほとんどないんです。いわゆる『九州の万葉』って本が出ていますが、あれも大体は九州へ行って、そこで作った歌が多くて。いわゆる九州の人が作った歌というのは、ほとんどないわけです。そしたら、九州の人は歌を作らなかったのか。ちょっとわたしは、そういう概念は、頭に思い浮べることはできない。
それだけではございません。たとえば、瀬戸内海の人がですね。まあ、瀬戸内海人とでもいってみましょうか、これが作った歌ってのは、『万葉集』にどんなのがありますか。瀬戸内海で、瀬戸内海を歌った歌は、いくつもみなさん頭に思い浮べられますでしょうね。
ともしびの明石大門に入らむ日や こぎ別れなむ家のあたり見ず
これは、人麻呂が、あそこを通っている時に作った歌で、決して彼は瀬戸内海人 ーー瀬戸内海出身の人ではこざいません。
じゃ、瀬戸内海の人が作った歌ってのは、やっぱり同様にほとんどないわけです。ゼロとはいいませんが、ほとんどないわけです。
それじゃあ、瀬戸内海の人間も歌は作らなかったのか。わたしはそういうことは、夢にも想像できないですね。九州人や瀬戸内海人が、歌を作ることができない人ばかりが住んでいたとはね。
近畿や東国の人は、あれだけ作っているのに。必ず、九州人も瀬戸内海人も歌を作った、と独断ですがね、わたしはそういう立場にしか立つことができない。
ところがこれに対して、従来の万葉学者はどのような説明を与えてきたか。みなさん、万葉の本を読んで、説明がありましたか。
或は、小・中・高校で、こういうわけで、九州人や、瀬戸内海人の作った歌は、万葉には載せていないんです、という説明をお聞きになりましたか。或は、有名な万葉学者の本で、その解説にふれましたか。おそらく、お見かけになったことはないじゃないですか。みんな知らぬ顔をしてるわけです。
もっとも、例外はございます。例外という言葉はあたらないんですが、これを問題にされた方はございます。この方は、愛媛大学教授(現在、追手門学院大学教授)の中小路さんです。
わたしの、創世紀から出しました『関東に大王あり』(新泉社より復刊)をお読みになった方は、その本の最後の章で、中小路さんがわたしに送って下さった長文のお手紙をごらんになったことと思います。それを御紹介しますと、要するに、中国の唐の人が作った詩、しかも、日本国からきた留学生というんでしょうか、使者との別れの宴で作った歌の中に、『旧唐書』の示す国境の認識をバックにしなければ、理解できないのがいくつもあると。
例えば、あなたは「『倭国』の東の、そのもうひとつ東の国」から来たんだ、という文句が出てくるわけですね。だから、この原点になる国は、どうも九州あたりになるらしいんですが、そこからみてもう一つ東の国があると。そのもう一つ東の国からあなたはやってきた、という表現が漢詩の中に出てくるんですね。これなんか、『古事記』・『日本書紀』を元にしたら、「何のこっちゃ、この人血迷ったか」ということですよ。
ところが、今の『旧唐書』の概念からすれば、これはどうも、毛人国、東国の人ではないかという形に理解できる。
これも、それと同じような意味で、中国側が作った唐詩というのも、これは第一史料、直接史料ですからね。その直接史料の、まあ日本の和歌なんかよりは、もっと中国の漢詩の方が、そういう論理性というのが、国境関係を表わす表現は、より出やすいわけですね。文体や様式からしまして。
それに、そういう国境関係を示すのが、ひとつならず、いくつも出てくるわけですね。こういうことを、中小路さんが、わたしに手紙で知らせて下さいました。
後に、単行本でもその事をお書きになったようです(中小路駿逸『日本文学の構図』桜楓社刊、参照)。さらに大学の『紀要』で指摘された点は、今の『万葉集』が、九州の人や、瀬戸内海の人の歌を含んでいないという問題です。これは『紀要』の論文で指摘されました(右書所収)。
これは、すぐには断定すべきではないけれども、おそらく、古田がいった、あの九州王朝というテーマに関連しているテーマであろうということを、大学の『紀要』の論文で、はっきりと書いておられるんです。やっぱり、わたしは、非常に深い敬意をもつわけであります。
こういう方は例外でございまして、それ以外の方では、どのように有名な万葉学者でも、その問題に触れ、正面から解説を出したものを、わたしは見たことがございません。
みなさん、ごらんになったことがあれば、お教えいただきたいと、こう思うわけでございます。
ではそれはいったい何だと、事実はそうかも知れないが、いったいどう考えたらいいんだということですが、これについて端的に提起すべき、一つの仮説があるわけでございます。
それはもう簡単でございまして、要するにわれわれの知っている現存『万葉集』以前に、すでにもう一つの『万葉集』があったと ーー『万葉集』っていう名前でなくてもいいんですが、仮にそういう名前でいっておきますーー 或は「九州・瀬戸内万葉」或は「倭国万葉」。現在われわれが知っている万葉を「日本国万葉」とするならば、それ以前の「倭国万葉」というのが、すでに存在したと。それは当然ながら、九州・瀬戸内の歌をふんだんに含んでいたと。従って、それに収録された歌は、原則として「日本国万葉」には収録しなかったという仮説を立てることができるわけです。
これが本当にそうか、ということはまた後で検証いたしますけれども、これが一つの仮説として成り立つとすれば、そこがスポーッと空いていることが何とか説明がつくと、今のところはこういう風にお考えいただければ、結構でございます。
それで、言うまでもないことですが、その九州・瀬戸内の人が歌を作ったという概念そのものは、みなさん、おそらく反対なさることはないと思うわけです。「連中、歌なんかよう作らなかったろう」なんていう人はいないと思うんです。
同時に、その九州においては文字があった。しかも日本列島で最も早く、文字の衝撃をうけた土地が九州である。これはもう、わたしの「説」ではなくて、事実であります。
志賀島の金印が日本列島に来たのは、一世紀半ばでございます。
だから、もっとも日本列島で早くから、文字に触れた領域でですね、「歌」は作ったが、それを「文字」に書くことを忘れていた。なんてことは、これはちょっと仮説としてもですね、成り立つ仮説じゃない。最も自然な考え方は、九州・瀬戸内で歌を作り、かつ文字に書かれていたという方が自然な状況であるということを一言つけ加えさせていただきます。
このことをですね、なおつっこんで参ります前にもう一つ、万葉で注目すべき領域がございます。
それが申すまでもない、東国、防人の歌でございます。これが、非常に独自の、他の万葉世界とちがった独自の歌の世界を形成していることは、これはみなさん、百も御承知のことでございます。ところがですね、あの防人、東国の歌について、不思議なことがございます。
なぜかといえば、みなさん、あの愛すべき歌をですね、思い浮かべられましても、それはほとんど恋の歌ではございませんでしょうか。
恋の歌以外で、何か思い浮かべられる、東国、防人の歌がございましょうか。
おそらく、ほとんどこれはないんじゃないかと思います。絶無とは言いませんよ、若干はありますからね。しかし、おそらくみなさん、覚えておられるのは、恋の歌ではないでしょうか。
じゃあですね、東国の人は恋しか歌に詠まなかったんでしょうか。といいますのは、例えば東国といいますのは、日本アルプスより東、つまり、関東から甲信越を広く含んでの話ですがね。例えば、東海の人はですね、自然を詠まなかったのか、つまり、富士山なんてのは、東海の人は歌に詠まなかったか。
勿論みなさんは、『万葉集』の富士山の歌、有名なのがあるじゃないか、「・・・不盡の高嶺に雪は降りける」というね、しかしあれは近畿人が旅先で詠んだ歌ですね、山部赤人という人です。
だからあれは、絵のように詠んでますね。じゃあ、旅の人は富士山を歌に詠んでも、東海の人は「富士山なんてのは、あんなくだらない山は、歌になんか詠めないよ」といって詠まなかったんでしょうかね。わたしはそうじゃないと思います。
もう、「詠んだ」どころかですね、数限りなく詠んだんじゃないですかね。短歌にも、長歌にも詠んだと思います。
しかも、その歌はですね、わたしの信ずるところでは、山部赤人の歌よりもずっと優れていたと、ある意味では、本当に優れていた、と思います。なぜかといえば、その東海の人々にとって富士山はですね、ただ絵のように美しい山ではございません。あれは必ず、神々がいます山であり、神々をめぐる神話の語られている山であり、また、自分の祖先が、神話に参加している山であり、また、自分に近い所の人が、何回か富士山で遭難して、悲しいむくろとなった、そういう山であったはずなんですね。
つまり、富士山というのは、そういう歴史や信仰や愛憎がふんだんにまつわりついた山であったはずなんです。東海や山梨の人にとってはね。だから、彼らが富士山を詠めばですね、必ず、そういうものをバックにして、その伝統や、信仰や、愛憎が歌われたと思うのです。それは、わたしは非常にすばらしい歌であったと、まあ、無いものをそういってもしようがないのですが、わたしはそう信じます。
それにくらべますと、あの赤人の歌はなんにも「中味」はないですね。ただ行って、きれいだなあ、絵のようにきれいだなあと歌っているだけです。それはそれで結構ですよ。そういう歌はくだらないと、わたしは言うつもりはございません。それはそれで結構ですけれども、それに勝るとも劣らないのは、さきほども言ったですね、先祖代々の信仰と生活と、また愛憎のこもった歌こそね、歌としてみれば最も優れた歌であると、こういっても「それはお前の独断である」とおしかりはいただかないと思うのです。
同様に、関東の人は果して、あの利根川 ーー阪東太郎ーー を歌に詠まなかったのか。わたしはそんなことはないと。それどころか、あの阪東太郎の近くでですね、多くの戦いがおこなわれ、また、恋がなされ、恋を失ったり得たりね、さまざまの、いわゆる人間の悲劇や喜劇が、くり返されたことだと思うのです。
そしてそれは数限りなく長歌や、短歌にですね、この生命をこめて、感情をこめて、歌われたであろうと。想像だけど、わたしはこの想像を一度として疑うことはできないのです。
ところが、そういう歌はいっさい『万葉集』の東国の歌には、あらわれていないわけです。また、この東国の歌には、挽歌がない。『万葉集』には御存じのように、人麻呂その他のすぐれた挽歌が、かなりのボリュームでありますね。
じゃあ、東国でえらい人は死ななかったか。そんなことはないですけれども、死んでも短歌なんか作らないよと、恋は歌に歌えるけれども、挽歌なんか作るのは歌の役割じゃないよ、といってね、誰も挽歌なんか作らなかったのか。
わたしは、そんなことはありえないと思います。やはりあれだけ多くの、人間の真情のこもった恋の歌を作れる人々であれば、やはり自分の真情を吐露した、自分が尊崇し、或は愛し、或は時に憎んだその人の歌を、いわゆる近畿の挽歌とは、またちがった率直性をもって書かれたであろうこと、これもわたしは一度として疑うことができない。
ところが、それらの歌は、いっさい東国の歌には出現しないわけです。となりますと、ここには、なぜそうなのか。要するに、実際に作られたものの中で、大きな重要なものが ーー自然や、挽歌っていうのは、その一例ですがーー これらのものがすべてカットされて、現存『万葉集』には採録されていないのではないかという問題が出てくるわけです。
しかも、実は、東国の場合は、九州・瀬戸内の場合とはちがって、非常に端的な証拠がございます。
というのは、防人歌のところですが、「抄写して ーー抜き写して、という風に読んでますがーー これを記す。」という表現が、註に出てまいります。ということは、当然ながらそれのもとがあって、まあ百ある中から十をピックアップして写したというのが抄写ですね。だから、当然、そのもとがあったということを、おのずから語っているわけです。
のみならず、さらにたくさん出てくる言葉は、「拙劣なる故に載せず」という表現が、いつも出てくるのです。この東国歌のはじめの歌のところにね、はじめの歌なんか特にそうですが、「拙劣不載」と、しかもまあ五十首あるんだけれども、十五首だけ載せたと、あと三十五首は拙劣不載であると。こう書いてあるわけです。
これを文字通りとりましたらね、あんまり下手だったから載せなかった、という意味ですがね。
じゃあ、お聞きしますけれども、『万葉集』に現在ある歌は、みんなうまい歌ですかね。
みなさんが覚えていらっしゃるような歌はね、みんないい歌ですよ、それは。まあ、「万葉秀歌」とか、教科書に載せられたような歌はね、それはいい歌ですよ。それはしかし、言うなれば、『万葉集』の中のエリートみたいな歌でしてね。
何千とある、『万葉集』の中の歌は、大部分が拙劣ではないかと、わたしは思うんですがね。こんなことを言ったら、怒る人もあるかも知れませんけどね。
ま、同じようなテーマのくり返しであったり、舌足らずであったりですね、いろいろな欠点をもっていますよ。だから、「万葉秀歌」なんか作ると、そこには入らないわけですね。という意味では、ほとんどが「拙劣」である、といっても、わたしはそう『万葉集』を馬鹿にしたことにはならないと思うのです。そんな、秀歌ばかり何千も、なんぼ日本人が、文学的才能があるからといって、作れるわけないですから。
それじゃあ、もう、「お前がいう拙劣よりもっと拙劣だったんだろう」と、「もう見ちゃおれないぐらい拙劣だったんだろう」と、まじめな人はそう解釈するかも知れませんがね。
しかし、現実はさっき言ったように、現在、東国歌に、防人歌に採録されているものは恋の歌しかない、他の人間生活の中で、重要な、おそらく欠くべからざる、例えば「神々への信仰」を歌ったなんてのも、これは欠くべからざるものですよ。そういう類のものが、一切採られていないことをみますと ーーまあ一切ということは、言いすぎですけれども、ほとんどとられていない、といえは全く正確ですがね、ということをみると ーー実はこの「拙劣不載」というのは、それをカットするための大義名分の言葉というんですかね、きまり文句ではなかったか。
要するに、別の理由でカットしているのだけれども、その表向きの理由は、「拙劣不載」といっておけば、まあ無難だというわけですね。「当時では通る」というものではなかったかと。だから、真面目な方は文字通りとられ、まあ、万葉学者というのは、大体みな「真面目な方々」ばかりらしくて、まじめにとっておられるように思えるんですけれどね、註をみてみますと。
しかし、わたしのように、東国歌の全体像からみますと、どうもたまたま、神々を歌ったり、自然を歌ったり、挽歌を歌ったりしたのが、みな、そういうものに限って「拙劣」だったってことはね、わたしには信ずることができない。
さっき言いましたように、ああいうすばらしい恋の歌を、率直な、すばらしい恋の歌を作る人々が、やはり肺腑にしみ通るような、詠む人をして、涙を流さしめるような、挽歌を作りえなかったということが、わたしには、どうしても信ずることができないですね。
そうしますと、「拙劣不載」というのは、一つの、採らない、カットするための表向きの“きまり文句”であると。万葉学者に言わせれば、乱暴だといわれるかもしれないが、大局からみると、私にはそういう判断の方が、リアル=真実ではないかと、こう思うわけでございます。
それと、さらに大事なことは、『万葉集』においては、東国においても別の『万葉集』があらかじめ存在、潜在していたということです。われわれの知っている万葉以前、「日本国万葉」以前に、いわば「毛人国万葉」といいましょうか ーー毛人国というのは、これは日本国側で言ってる言葉ですから、御本人で言っている言葉でないでしょうけれど、まあ、仮に『旧唐書」の表現によっていえばーー 「毛人国万葉」というものが存在していた、という風に考えざるをえないわけです。
そうでないと、この「抄写」とか「拙劣不載」とかいうような言葉自身が、理解できない。口で五十首位言わしてみて、その中で拙劣でないものだけ書きとったという概念は、実際問題として無理でございます。
のみならず、その東国歌に出てくるのに、「一本に曰はく」というのが出てくるわけです。
つまり、東国歌が書いてあるんだけれども、一本では、第一句はこうなっているという別の表現が書かれているわけです。
ということは、これははっきり言いまして、「東国万葉」というものは、一回ポッキリできていたものじゃなくて、すでに何回も歴史を経て、見本が成立していたということを示すものなんです。
これは、現存の『万葉集』の「一本に曰はく」という意味にとる人もあるかもしれませんが、(万葉の研究家はたくさんいますからね、その全部をみたわけではないですが)これはやっぱり、わたしは無理だと思うんです。
なぜかといえば、現存の『万葉集』自体について、いろんな異論があることは御承知の通りで、例えば、あの岩波古典文学大系の『万葉集』で四冊になっておりますね。あれの解説の部分に、異本・異伝ということが、いろいろ書いてございます。あれは、現存『万葉集』についての異本であるわけです。
ところが、今の場合、「東国歌」について「一本に曰はく」、とある場合については、当然、東国歌について、すでに成立していたものの「一本に曰はく」とみるのが一番普通のとり方でございます。
だから、そういう普通のとり方による以上は、(わたしのいう「毛人国万葉」というのは言葉が汚ないから、「東国万葉」という言葉を使っていますが)「東国万葉」はすでに何本も成立して、歴史を経ていたものであるという風に考えざるをえない。
これはさらに、その証拠といいますか、例の柿本人麻呂歌集というものが、『万葉集』の材料としてくり返し出てくることは、御存じの通りでございます。
これに載っているものが、人麻呂自身の歌なのか、他の人の歌なのか、その割合はどうかってなことで、非常に議論が昔から行われております。
最近、梅原猛さんなんかも論じておられますがね、その全体について立ち入るつもりはございませんが、少なくとも、今の問題について言いますと、まず「東国歌」をあげておいて、柿本人麻呂の歌集では、第一句はこうなっている、という註がついているわけです。
ということは、これは内容からしましても、どうしても「東国歌」の口調であり、内容でございますので、人麻呂が詠んだ歌とは思えない。で、そこに、人麻呂の歌集に採録しているわけですね。人麻呂が勉強のためか何か知りませんが、その自分より先立って存在した歌を、そこに採録しているわけです。
その採録した「東国歌」は「現存万葉」が採用した「東国歌」とは、第一句が違っているわけです。それが註されているわけです。
ということは、この点からみましても、いわゆる「東国万葉」は、すでに何本も異本が成立していたと。人麻呂がみた「東国万葉」とこの「現存万葉」 ーー大伴家持が作ったんじゃないかといわれておりますがーー からみた「東国万葉」とは、もうすでに部分的に違うところがあった、異本である、ということが証明されるわけでございます。
なお、この点につきまして、万葉の研究は多いですから、まだ全部どころか、ほんの一部しか読んでないですけど、読んでいて、わたしなんか“ハッ”とびっくりすることがあるんですね。
というのは、例えばある学者はですね、「防人歌」というのは、東国から九州へ行くさいに、その防人を近畿の方で呼びとめて、そして、歌を歌わしてみて、それを書きとったものだろうと、そういうことを主張している学者もいるんです。これはまあ、ごく一部の学者のようですけれども、もっと多い学者の中には、こういう説があるんですね。
というのは、あの「東歌」というのはですね、近畿の官僚が、関東のある地域の長官になって行って、そこでその現地の歌を聞いて書いたのだろうと、それが「東歌」だろうと、これはかなり有名な説というか、有力な説として出てきますけどね。
これは、わたしなんかの目 ーー万葉なんて少年時代は、夢中で読んだことがありますが、久しく遠ざかっていたのですーー そのわたしなんかの第三者の目からみますと、「そんなことよく言えるなあ」と。
そういう考え方の説が書いてあればね、万葉に ーー宴会の席で御本人が書きとったものだとか、ある東国人が歌のことを話した。すると、「お前ちょっと待ってくれよ、お前、何か歌詠んでないのか、書きとるから」と、まるで民俗学の採集みたいに書きとったとかーー こう書いてあれば別ですよ。そんなこと、何も書いてないんですから、ただ、現代の学者の「説」なんですから。
その説のバックにある「思想性」というか、「考え方」というのはね、結局、この東国の人間が歌を作ったということは、これはもう否定する人はいないでしょうね。九州・瀬戸内の場合とちがって、ちゃんと出ているんですから。歌を作ったことは確実だと。ところが連中は歌はつぶやけるけれども、書く能力はなかったと。文字に書くということは、あんな野蛮人にはできなかったにちがいない。文字に書くのは、近畿の人間が呼びとめたり或は、関東へ行って、現地へ行って書きとったりしなきゃならなかったろうという「観念」をもっていたのですね。
これは、わたしとんでもない観念だと思いますね。そういうことを前提と考えるとは書いてないですけど、「学説」自身をよく眺めてみれば、そういう前提で書いている、としか思えない。
といいますのは、古代史の方では有名な事ですけれども、七世紀後半から八世紀にかけての「金石文」ですね。これが六個あるわけです。そのうちの四個は関東です。二個がそれ以外です。
その二個のうちの一個は、御存じの「大化云々」で問題を含む、京都宇治橋の断碑、現在その一部しか残っておりませんが、それが一つ。
もう一つは、これも信憑性で非常に問題が出てきますが、あの東北の「多賀城碑」。
この二つが関東以外で、あとの四つは関東なんですね。いわゆる栃木県内の北にあります「那須国造碑」、それから、群馬県に「山上碑」・「金井沢碑」・「多胡碑」と三個ございます。関東全体で四個。
つまり日本列島ってのは、われわれ歴史研究家にとっては残念なことに、古代の金石文の少ない列島なんですけれども、その少ない列島で、三分の二を占めているのが関東なんです。しかも、その石碑は七世紀後半から八世紀にかけてのものですから、この『万葉集』の時期と全く一致しているわけです。
ところが、『万葉集』というものについてですね、「関東の人は、金石文には非常に文字をよく書いた。ところが、歌は詠むには詠むけれども、文字はわたし下手ですから書けません。」ということになるわけです。
全くバラバラですね。日本列島の三分の二を占めるくらいの金石文に文字を書くのが好きな関東人であれば、当然ながら、詠んだ歌を金石文に書かなくても、紙だか布だか知りませんけどね、そういうものに書いたのは当り前です。それが「関東の人間は文字を書くのが下手だったろう、いやだったろう」なんて概念はとんでもないことです。
特に最近は「稲荷山鉄剣」の出現によってですね、七、八世紀どころか五世紀から、あれだけの文字を書く権力者を持っていた。こうなりますと、それが七、八世紀になっても、歌さえろくに書けなかったとか、これはもう想像するのも馬鹿げています。
今のような説を出した人は「稲荷山鉄剣」は知らないで出したのかも知れませんけど。しかし、金石文は知っていたはずですから。そういう概念は、全くナンセンスである。わたしはそう思うんです。
そうしますと、当然、「東国万葉」に当たるものが歌われ、かつ書かれていたと。だからこそ、「抄写」や「不載」ということも出てくるんだということでございます。
なお、この点、もう一つ駄目押しとでもいうべき論証をあげさせていただきますと、『万葉集』で有名なテーマに「甲類・乙類」という問題がございます。
同じ「み」といいましても、神の「み」と水の「み」とは、われわれは同じ「み」に発音しているが、当時は「甲類・乙類」発音がちがい、表記もちがっていた、というテーマでございます。
これを発見されたのは橋本進吉さんで、正確には再発見、江戸時代に学者(石塚竜麿=本居宣長の弟子)がすでに発見していたものの再発見でございます。
それによりますと、『万葉集』では「甲類・乙類」の区別は厳密に守られている。ところが、それには例外がある。つまり、「東歌」には、「甲類・乙類」が厳密に守られていない、乱れている。だから、東国に関しては、この「甲類・乙類」の原則は成立できないんだ。と橋本さんが繰り返し書いておられる。
これはやっぱり、非常に良心的な学者であろうと。お会いしたことはないですけれども、書かれたものを見てそう思うわけです。
この点、余談になりますけれども、橋本さんのお弟子さんになる大野晋さんと、例の『週刊朝日』で対談しました時に、大野晋さんは「あの『稲荷山鉄剣』を読む場合に、『甲類・乙類』を厳密に守って読まなければならない、と。私のはそうだが、あなた(古田)のはそうなっていないじゃないですか」とこういわれるわけですね。ところが、わたしは「それはちがうと思います。なぜかというと、あなたの先生の橋本進吉さんが、繰り返し書いておられるように、東国においては『甲類・乙類』が必ずしも守られていないということを言っておられる。だから、五世紀後半、六世紀初めの『稲荷山鉄剣』において、『甲類・乙類』を守ってこれを読まなければならないということはない」。
とまあ、こういうことを申し上げたわけです。と、大野さんは「いや、これは七、八世紀においてこそ乱れたけれども、五、六世紀においては、厳密に守られていたと私は思います」と、こういわれるわけです。それで、わたしは、いや、それは一つの考えとしては結構です。ですけど、五、六世紀の史料がない以上は、五、六世紀の『万葉集』がない以上は、それはわからないわけです。だから五、六世紀は、日本列島で全部「甲類・乙類」を守ってきたんだが、何故か七、八世紀になって、東国の人間だけ怠けて「甲類・乙類」を忘れてしまったというケースも、それはないとは言えませんけれども、たまたま、そういう仮説に立って「稲荷山鉄剣」を読みましょうといわれるのは、私は全く反対いたしません。しかし、それはあくまで一つの仮説であって、他の人間も全部「甲類・乙類」によって「稲荷山鉄剣」を読まないかん、「甲類・乙類」に立って読まないから、言語学的に間違いだとか国語学的に間違いだ、という言い方をされるのは、これは間違ってます。
東国では、七、八世紀に「甲類・乙類」が守られていなかったように、五、六世紀でも ーーなお一層かも知れませんがーー 守りれていなかった可能性はあるわけですから、その立場に立って読む人があっても、実はちっともかまわないじゃないか。どっちが正しいかは、別史料、今後の史料が出てくれば別ですが、現段階では決定できないんじゃないですか、とこう言ったら、大野さん、黙っておられましたけれどね。これは横道のエピソードですけれども。
橋本さんて方は、非常に厳密な方で、今のように自分が発見した ーーまあ再発見だったんですがーー 守りれた原則をですね、しかしこれには例外がある、適用できない領域がある、とはっきりと繰り返し書いておられる。これはやっぱり非常に良心的な学者であると、こうわたしは思うわけです。
さて、問題はですね、少なくとも七、八世紀の東国人が、「甲類・乙類」を厳密に守ることをせずに語っていたということは、今、だれも反対する人はいないと思います。
問題は、書く方なんですね。書く方の人は厳密に「甲類・乙類」を区別する人が書きとったかどうかということなんです。
近畿の人はそうですね。ただこの場合、歌ですから、近畿では意味はわかるわけですよ。神さんの「み」か、水の「み」かということは、もし仮に言う方が神さんの「み」を水の「み」みたいな発音したとしましても、意味がわかってるから「神さんだな」と思えば神さんの方、甲類なら甲類の「み」を書きとると思うんです。その時はうっかり書きとっても、後で見直してみて、あ、これなんだ、神さんの「み」じゃないか、これじゃ、ちょっとこの表記じゃまずい、ということで直す、と思うんです。そうすると、意味不明の歌で残っちゃうのがあるにしましても、大体は「甲類・乙類」が守られた表記になっているんじゃないかと、わたしはそう思います。
ところが、これに対して、写しとる方も「甲類・乙類」をあまり守らない人が写しとったら、どうなるか。これはもう当然「甲類・乙類」を守らない「結果」になりますよね。
言う方も「甲類・乙類」に束縛されずにしゃべって、書きとる方も同じ立場の人が書きとったらね、もう当然、このできあがったものは「甲類・乙類」を守ったものにはならないはずですわね。
つまり、現存の『万葉集』 ーー「東歌」のようになるわけです。
こういう点からみましてもね、この「東歌」というのは、この東国で書かれたものが収録されたということです。
収録する場合に、勿論、全部近畿流に直して収録するというやり方と、その元のままやるというやり方があるわけですね。また、中間で、一部分直したけれど、徹底せずに写してしまった、というケースもあるわけです。これはまあ第二の問題ですが。
要するに、現存の『万葉集』の、東国における「甲類・乙類」の乱れ ーー乱れといっても、これは近畿の立場からの「乱れ」で、東国の人は「乱れ」とは思っていないでしょうけれどねーー その「乱れ」と称する問題はですね、これも又、「東国万葉集」がすでに先立って成立していたと、その考えに立つ時に、もっとも素直に理解できる。
今のように、近畿の人間が関東へ行って、そこで宴会で書きとったなんていうのはね、そういう説の場合は、説明に窮するであろう。ま、酔っぱらったから「甲類・乙類」まちがってしまったと。書きとる時、うっかりまちがえたなんて言いだしたら、もう議論は終りですけどね、ということでございます。
さて、それでですね、反転しまして、近畿にわれわれの知ってる現存の『万葉集』があり、東国にもそれに先立って「東国万葉」があると、こうしましたならば、やはり最初に申しました「九州・瀬戸内万葉」が、先立って成立していたという、最初の仮説はいよいよ動かしがたくなるんじゃないかと。
なぜならば、日本列島で最初に文字がやってきた、志賀島を含むこの九州で、歌を文字にすることを怠たっていたということは、到底考えることはできないということになるからでございます。
それではそれは理屈じゃないかと、実際にそういう証拠の断片があるのかという問題が当然出てくると思います。私は幸いにもそれがあるということを、今日、お答えすることができるわけでございます。といいますのは、巻第七のですね、一二四七番から一二五〇番までの四つの歌がありまして、その最後に、
右の四首は柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ
とこういう註がついているわけです。で、その最初の歌は
おおなむち少御神の作らしし 妹背の山を見らくしよしも
つまり、「おおなむち」=大国主と、「すくなみかみ」つまり少名彦、この二人が作った妹背山ってのは、どうも奈良県の二上(ふたかみ)山みたいに、山がこう二つ突出したのが並んでるんでしょうね。片方は一寸背が高くて、片方は背が低いんでしょうがね。それを妹背とね、恋人同志にたとえたんだと思いますが、恐らく固有名詞かも知れませんね。
その「妹背の山」を見ることは、非常にいいことだと、こう言ってるわけです。
この歌で、要するに、目の前にある妹背の山という山は、おおなむちと少御神が作った山だという、その土地の伝承をになっているんですね。その伝承をバックにして歌を作っているわけです。これは『古事記』・『日本書紀』に出てくる伝承じゃないですから。妹背の山なんてのを二人で作ったなんていう伝承は出てきませんからね。
そうすると、これは出雲の人が出雲で作った歌ではないか、という問題がまず出てくるわけです。
その次に一つ飛んで、一二四九。
きみがため浮沼の池の菱採むと わが染めし袖濡れにけるかも
あなたのために ーーだから女がつくってるわけですねーー あなたのために浮沼の池で菱をとろうとして、わたしが染めた袖がぬれてしまった。染めた色がとけて流れなきゃいいんですけどね、といって心配してるんですね。乙女が心配してるわけです。まあ非常に可愛らしい歌ですね。
この浮沼の池というのは、決定的ではございませんが、言われている説では、島根県大田市の三瓶山の西麓の池であると、こういわれているわけです。
やっぱり、だから出雲、島根県の歌である。これは女ですから、当然人麻呂ではありませんね。やはり作った内容からみますと、まさにこの浮沼の池のそばに住んでいる乙女が作った歌である。
それに対する、今度はやはり男の歌は、その次に載っております(一二五〇)。
妹がため菅の実採みに行きしわれ 山路にまとひこの日暮しつ
ということですね。明らかにこの両者がこの浮沼の池の近辺を生活圏にする恋人同志であることを示しているわけです。今、抜かしました第二の歌では(一二四八)
吾妹子と見つつしのばむ沖つ藻の 花咲きたらばわれに告げこそ
これは、沖つ藻というのを普通名詞にとれば地名は出てきませんが、出雲の隠岐の島の「おき」という可能性はありますね。
ということで、これはまだ断定はできませんが、四首を通して、これはどうも出雲の歌、しかも出雲へ旅して、旅先で作った人麻呂の歌ではなくて、出雲の人が出雲で作った歌、それが柿本人麻呂の歌集に採録されている。
これをまず一つの事実として確認しておきたいのです。
さて、ところがその直前にですね、五十首、同じムードの歌が並んでおりまして、その最後に
右の件の歌は古集中に出づ
という註釈が出てくるわけでございます。その五十首というのは、番号で申しておきますと、一一九六から一二四六まででございます。その一番最後の二つをまず問題にしますと(一二四五)
志賀のあまの釣船の網あへなくに こころに思ひて出でて来にけり
志賀というのは、志賀島の志賀、金印の志賀島でございます。あまというのは、例の白水郎、問題の言葉ですが、白い水の郎と書いて「あま」。
志賀の白水郎の釣船の網がもたないで切れてしまいそうなように、私の心ももう切れてしまいそうな感じになって。まあ恋の歌でしょうけどね、そう歌っているわけです。次に同じく(一二四六)
志賀の白水郎の塩やく煙風をいたみ 立ちはのぼらず山にたなびく
やはり志賀島の白水郎が塩をやく煙が、風が非常に激しいので、上へ立ちのぼらずに山にたなびいていることよ。
これもですね、旅先で詠んだのか、この博多湾岸に旅にきて詠んだのか、或はここの人が詠んだのかわからないけれども、とにかく志賀島が舞台になっていることは確かなんですね。
次に、前の歌、千二百四十四ですね。
少女らが放(はなり)の髪を木綿(ゆふ)の山 雲なたなびき家のあたり見む
つまり、少女たちが、放(はなた)れた、乱れた髪をゆうという掛詞で、そのゆうの山、木綿の山。
これは要するに、註釈でもみな言われておりますように、「ゆふ」というのは「ゆふ嶽」大分県の由布嶽である、というように言われていますね。木綿という字も勿論書くわけですよ。その由布嶽に雲がたなびいている。そのためにわたしの家の辺りが見えない、だからその雲よ、どいて欲しい。とまあ、こういう歌なんですね。
ところがこの場合、本人がどこにいるかによって情景が変ってきて、由布院盆地という、別府湾があって、その西側の山が由布嶽で、その由布嶽の西側が由布院盆地でね、わたしの『盗まれた神話』で、例の「蜻蛉のとなめ」で問題になった盆地なんですがね。
これがもしですね、近畿から来た人の歌った歌と考えますと、旅先の歌と考えるとしますと、今の由布院盆地にいて、そこで東の由布嶽を見て、その雲がのいてくれたら近畿が見えると、そういっている歌になる。
しかし、これちょっと近畿では遠すぎましてね。雲がのいてくれりゃ見えるにしては、ちょっとピンときませんね。
よりいいのは、今度は別府におりまして、別府湾の方におりまして、そしたら西に由布嶽がある。その雲がどいてくれたら、これは今の筑紫とね、福岡県と大分県の境の山々が見えるわけです。
あれは家のあたり、こっちの方は・・・ということになりましてね、よく分る。もっともこの場合も、これは大分県の人が詠んだ歌とも考えることができるわけです。自分の家が由布院盆地にあると、それではあんまり近すぎましてね。
それともう一つポイントは、この歌は掛詞でできているんですが、
少女らが放の髪をゆふ
の「ゆふ」は結ぶをゆふと由布嶽のゆふが掛詞になっているんです。
もう一つ掛詞がある、と思うんですね、わたしは。というのは
少女らが放の髪を
といっているのは、髪がほどけたというのと、わたしが遠く家から離れてきたという、そういう「はなれ」というのが掛けてある。
だから、この歌は非常に技巧的に「進んでいる」わけですけどね。
そうしますと、先刻言いましたように、別府にいたとしましても、これは自分の故郷からかなり離れてきたんだと、そして離れてきた故郷をしのんでいる。こう解すればいいんじゃないかと。そうすると、やはり、自分の家が由布院盆地にあるというよりも、筑紫にある、博多湾岸にある、としますと、まさにこの歌の内容にぴったりしてる。
例えば他の例をあげますと、『古事記』の倭建命の歌で、倭建命が関東へ行って、帰りに三重県に来て、当芸野ですか、そこでもうわたしは最後だと、いう時に歌う歌がありますね。
はしけやし吾家の方よ雲居たちくも
恋しいことにわたしの家のあたりから雲が起ってくる。
これはやはり、三重県に来ているから、つまり彼の家は奈良県の大和盆地にあるわけですから、あ、あの雲の立ってくる山の上に ーーこの場合も西の山でしょうねーー あれは私の家の辺りから立ってきた雲だ、っていうような、ですね。三重県にいるから、これにつながるので、関東におって、西の方にあるからあれは私の家の方からくる雲だっていっても、ちょっとピンときませんね。
まあこういう点から言いましても、今の由布嶽の歌は、博多湾岸から別府にきて、そして西の由布嶽を見て歌っていると考えた場合に、一番きちっと歌がきまるわけでございます。
そうなってきますと、この五十首は非常に同じムードの歌なんですが、この中で一番疑問に思ってきた歌がある。皆さんもそうだと思うんですが ーー皆さんの中からも私に御質問になった方もいらっしゃいますがーー 次の歌が入っているんです(一二三〇)。
ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神
金の岬というのは、金印の志賀島の先っちょにある岬である。それの枕詞が「ちはやぶる」です。それを過ぎてしまったとしてもわたしは忘れまい、志賀の皇神(すめがみ)を。普通、「皇神」という字があるでしょう。勿論「皇神」というのは、現在の『万葉集』の当字でありまして、本来は「須売(すめ)神」といった風に書くべきものでございましょう。
「須売」というのは、統べる、統一するという意味ですからね。だから「皇神」とあててあるのも間違いではないでしょうね。
ところで、何でそこに統一神が出てくるのかと。
従来これは、近畿の人が旅先で詠んだ歌と理解しているでしょう。そうすると何でそこで、皇神が出てくるのか、志賀島が出てくるのか、気になって仕方がないですね。もう一つ、ピンとこなかった。わたしもそうだったですね。
ところが、今考えてみますと、これは博多湾岸の人が作った。としますと、朝鮮半島か中国の方へ、異国へ旅に出るわけです。おそらく使命を帯びて出るのでしょうね。
今から異国へ行くけれども、しかし私は決して忘れはしない。わたしの郷里の、都の、志賀の皇神の魂を。つまり、日本人の魂のことでしょうか。「倭国人の魂」の方でしょうかね。筑紫人の魂をね、私は異国へ行っても決して忘れはしませんよ、と。
こういう歌に理解しますと、始めてわたし、どんぴしゃり、イメージが決まったんです。
近畿一元主義だと、この歌はどうもなんだかわからない。今のように、これを筑紫原点の作者の歌としますとね、実にぴしゃっとはまるわけです。
ということでみますと、この五十首はですね、「古集」といっているのは実は「筑紫万葉集」のことではなかったか、ということがでてくるわけでございます。
これは面白い問題をいろいろ含んできましてね。この五十首の中には、例えばこんな歌もあるわけでございます(一二三八)。
竹島の阿戸白波はさわぐとも われは家思ふいほり悲しみ
「竹島の」、これは普通「高島の」と読んでいるんですが、わたしはこれは「竹島」と読んだ方がいいと思いますので、原文通り「竹島」と読んでおきます。『隋書イ妥国伝」にも竹島と出てきます。何故これが問題かといいますと、皆さん、これはどっかで聞いたような歌だとお思いになりませんか。
ささの葉はみやまもさやにさやげども われは妹思ふ別れきぬれば
これは同一のリズムです。どっちが先かっていうと、「竹島」の方が早いわけです。つまり、あの有名な『万葉集』きっての秀歌である人麻呂の歌が、この歌をバックにできあがったのです。この歌は柿本人麻呂歌集ではない、「古集」中のものですけれどもね。しかし人麻呂はこの歌を確かに見ている。そして、こういう ーーこれ一つだけではないですけとーー こういう歌をバックに、素養にして、あの名歌ができている、ということを私には疑うことができないのです。
「いほり」というのは、我々がいう、のちの平安朝あたりの「いほり」と同じかどうか疑問だと思いますが、要するに仮の宿ですね。いわば朝鮮半島あたりへの途中の仮の宿だと思いますが、そこで自分の家を想い出して、悲しんだのですね。なつかしんでいる歌です。これをバックに、人麻呂の歌ができているわけです。
以上で申しましたように、この「古集」とされる五十首は、「筑紫万葉」となります。
この人は瀬戸内に行っても、いい歌作っているんですけど、これは時間がないので省略しますけれども、こういう「筑紫万葉」をバックにして、あの人麻呂の歌も成立している、というような問題も実は出てくるわけです。だから従来の「万葉」とは違った意味で、鑑賞がここに生まれてくるかもしれません。
さてそれでもう一言、重要な問題を最後に言わしてもらいます。
といいますのは、先程出てきました「東国防人歌」ですね。
防人について、わたしは古代史に、大袈裟にいいますと、疑問を持ちはじめた最初が、それだったような気がするのですが、二十代の前半で。といいますのは、国語の教師なんかしておりまして『万葉集』なども教えるわけですけれども、防人というのは、あれは何の防人かと。ちょっとおかしいんじゃないですか、あの配置の具合ですね。
といいますのは、この対馬と、壱岐と、それから筑紫。さらに、「さきもり」の「さき」というのは、何とかの先。何とかという本体があって、その先があるわけです。「さき」だけということはありませんね。山崎とか、川崎とか、何とかというものがあって、その先があるわけです。
あれ、何の「さき」かというと、『万葉集』に出てくるところでは、「つくしのさき」というのが出てきますね。長歌の中に、「防人歌」で。ところが「やまとのさき」なんてないわけですからね、当然あの「さき」は「つくしのさき」である。
だから「筑紫」を本体にして防人が存在するという形になっている。
なぜ、おかしいと言ったかといいますと、あれをですね、私を含めまして、従来すべての人が、といっていいかと思いますが、近畿を原点にする防人と考えていたのです。でもそれはおかしいところがあるんじゃないか。なぜかといえば、いわゆる中国なり朝鮮から攻めてきたとしまして、それは確かに、対馬・壱岐・筑紫とくるルートは、ひとつのルートですよ。元寇の時も、そういう風なルートで来たというんですから。
しかし、そう来るとは限らないですね。たとえば、関門海峡を来たっていいわけですね。関門海峡を、門司・下関のところで抑えて、そしたら後は、楽々瀬戸内海へ入ってこれますもんね。非常にうまい攻め方ですわね。
関門海峡の存在を知らなかったなんて、彼らがね。中国は唐と新羅の連合軍ですから、関門海峡を知らなかったなんて、考えられないですから、七、八世紀に。そういう見方も出てくる。そして更にですね、他の方法もできるんですよ。
といいますのは、出雲に上陸できるんですね。対馬海流にのったら、スーッと出雲に行きますわね。今の「密輸」なんかの、ああいう船でも簡単に来れるらしいですからね。その出雲に上陸して侵入できる。もう少しがんばれば、丹波か舞鶴の方へ来て上陸して、近江から大和へ攻めてくれば、大変これはいい攻め方ですね。
ところが、そういう心配は全くございませんと、思ったこともございませんと、いう風にですね、「舞鶴の防人」やですね、「出雲の防人」なんていうのや、「関門海峡の防人」なんていうのはいないわけですよ。専ら、「筑紫の防人」ばっかりいるわけです。考えてみれば、これはおかしいことです、天皇家を始めから原点としておったらですよ。私のような初歩的な軍事知識しかないものですら、そう思うんです。
それから、もう一つ。じゃあ、ああいう風に防人という「動く要塞」としての人間を配置するのは、良いとしますね。ところがその配置する御本人、一番の権力中心ですね、それがその「動く人間」だけじゃあ、さびしいわけですよ。やはり動かない要塞をもって、自分自身を囲みたくなる筈なんですね。
ところが筑紫には、これがあるわけなんです。
ご存じのように「神籠石」。「神籠石」というものが佐賀県にもありますが、簡単にいうと、あれは福岡県とその周囲をとりまいているんです。
「神籠石」という、これもいろいろ霊域説や、山城説がありましたが、まず山城説が決定的です。といっても、霊域説を必ずしも否定するものではないですがね。という形になっております。
あの「山城」が、はっきりいえば、太宰府をとりまいている。要するに、筑紫をとりまいているわけです。あれは「動かない要塞」です。あれを『古事記』は勿論ですが、『日本書紀』にも「天皇家があれを作らしめた」という記事はないわけです。
大野城や、ああいう類の水城とかいうものにしても、あれは天智紀に出てくるだけで、「誰が大野城を作らしめた」、「誰が水城を作らしめた」とは書いてないですね。こちら側が、天智紀にあるから「天智天皇が作らしめたんだろう」と、補って解釈しているだけで、よく読めば主語はないですね。
まして、主語どころか記事もないのが「神籠石」です。記事もないのに、「あれは天皇家が作らした」と現在の考古学者は言っているわけですね。
しかしこれは、あの鏡山猛さんが佐賀県のおつぼ山の、非常に理想的な報告書を作られたわけです。
鏡山さんは、各神籠石は、みな統一した間尺で作られているということを、報告書で結論を出したわけです。だからこれは、個々ばらばらに豪族が作らせたのではなくて、統一的な権力者がこれらすべての神籠石をつくらしめたんだ、ということを報告書で書いていました。
それは私にも納得できたんです。ところが報告書にはないけれど ーーまあ鏡山さんは尊敬する考古学者ですから名前を出さしていただくんですがーー その鏡山さんがテレビでおっしゃったのは、今の報告書の内容をかいつまんでおっしゃって、「だから、天皇家がこれは築かせられたものと思います」と、こう結ばれたんです。
ここへくると、私はわからないわけです。なぜならば、そういう考古学者であるならばですね、専ら「物」によって判断をすべきである。というのは、「神籠石は統一した権力者が、統一した意志によって作らしめた」ということは、間尺の問題その他でわかったとしますね。としたら、その統一権力者がどこにいるかというのは、「物」による限りは、その神籠石に囲まれた中に権力者は居るわけです。
ところが、天皇家がいる大和だか近江だか神籠石で囲んだ形跡はないわけですね。今の少なくとも、九州の二倍か三倍の、厳重な、壮大な神籠石群で囲んで欲しいですよ。その形跡はないわけです。専ら、筑紫ばかりを囲んでいるわけです。
それはいくら天皇が筑紫信仰の心深くて、「私よりも筑紫の方を守れ」とおっしゃったなんてことを言ったら別ですけどね。そんな権力者は私はいないだろうと。だから「筑紫が重要だ」ってことは、いくら言っても良いけれども、「自分より重要だ」ってことを言っては終わりですね。
ですから、今のように神籠石という「物」の示すところは、神籠石を作らしめた、いわゆる権力中心は神籠石群の内側にいると、つまり太宰府を中心とする筑紫の権力者が作らしめたと、こう考えるのが「物」が指し示すところによる限りは、そうなんです。神籠石っていうのは、現在のところ、六世紀から七世紀にかけて作られたと、早くみて六世紀、遅くみて七世紀なんですね。そうするとそれは防人の初期の時期に当っているわけです。と、防人が「つくしのさき」だというのとの関係ですね。
筑紫へ攻めるんだったらね、これはもう、先ず対馬へ上陸し、次に壱岐に上陸して、次に筑紫を狙うと。何回失敗したって、両方の島を抑えていれば、それはもう絶対、筑紫は参りますよ。だからそれを守るんだったら、防人の配置は実にこれ以外ないという守り方ですね。
そうすると、実はわれわれは『万葉集』によって「防人は天皇家の防人である」と信じこんできた。しかし実は防人というのは、本来は筑紫を原点とした「筑紫の防人であった」のではないか、少なくとも七世紀の段階では。
それを天皇家が統一倭国を併呑してそして肩代わりしたんだけど、天皇家のためとすれば、それはもともと不合理なものであるから、やがて廃止されていったんではないかと。廃止されたことは御存じの通りですね、八世紀の半ばに廃止されたことは。
という風に天皇家が最初から始めた制度と考えた場合にはおかしい。この問題は、防人が「なぜ東国から」という問題もあるんですがね。それと同じく、非常に重要な問題ではないかと。これはやがて「なぜ東国から」かと、言いかえれば「なぜ毛人国の軍隊か」という問題へと、翻訳して考え得るわけですね。
以上で、なお面白い問題が続々出て参りますが、時間もありませんので、後半に入らしていただきます。
今最後に申しました、防人の問題も非常に面白い間題を含んでおって、後半続いて申したいと思ったんですが、後半一時間しかございませんので、二時間ぐらい欲しいところなんですけれども、時間がございませんので、それは懇親会の時のテーマにさせていただきまして、今は後半の方に入らしていただきます。
実は『万葉集』の問題、今日の問題にももちろん関連してですが、『万葉集』の、さきほど言いましたのは全体の、いわゆる『万葉集』の骨組みといいますか、そういう問題でございます。
その骨組みから見ると、『古事記』・『日本書紀』のような、天皇家一元史観からではうまく理解できないのが、こういう、いわゆる「倭国万葉」というのが先立って存在したと、でまた「東国万葉」というのも存在したと。もちろん近畿でも、歌集はあったわけでしょうが。そういうものをバックにして「現存万葉」を考えた場合にはですね、「現存万葉」の仕組みが理解できるのではないかというテーマでございます。
更にもう一度、前半に落としましたところを申し添えますと、これと似たようなテーマは、実は『日本書紀』にもあったわけでございます。といいますのは、例の『日本書紀』の「神代巻」で「一書曰く」、「一書曰」とたくさん出て参ります。ところが、神武が九州を、日向を離れて大和へ入って以後は、その「一書」がプッツリと姿を消してしまいます。
ということは、即ち、九州において神話を豊富に語った歴史書が数多く存在していたということを意味するわけでございます。
当然、それはその本の題名があり、また作者名あるいは編者名があったはずでございます。それを『日本書紀』の編者は知っているはずでございます。にもかかわらず、その本の題名と作者名をカットして「一書曰」という形で利用したわけでございます。
それと同じく、『万葉集』でもですね、今言った「古集中に出づ」とこう言ってますけれども、その古集が「題を持たない古集」であったという可能性は、私は少ないように思います。
で、また、編者のわからないものばかりであったとも、私は考えません。いわんや、作者もわかっている方が普通だろうと思います。
ところが、それらをすべてカットして、作者なしの、題名なしの、編者名なしの「古集」という形で「現存万葉集」に採用している。そういう痕跡がみられるんですね。こういう点において、『日本書紀』と現存の「日本国万葉集」と共通の手法を示しているという点も、指摘させていただきたいと思います。
さて、そういうことになってまいりまして、全体の骨格だけではなくて、部分部分の歌の解釈においても、同じ問題が出てくるということを、指摘させていただきたいわけでございます。
いちいち例をあげますと、とてもここではあげきれないくらいでございます。たとえば、東歌の中で、
うち日さす宮のわが背はやまとめの ひざまくごとに吾をわすらすな
という歌がございます(三四五七)。
これなんか註釈を見ますと、東国の恋人が ーー女性が作っているんですが、その夫が、恋人がですねーー 近畿の宮殿に、護衛に、門番にいくんだと。その時門番に行って大和で、大和の女と一緒に寝ても、東国にいる私のことを忘れなさいますなという意味に解釈しているんですね。
ところが、そこには門番とか、全然書いてないわけです。東国で「うち日さす宮」と言えば、もう近畿しか「宮」はないという概念で解釈している。実際は、ところが東国にも「宮」はあると思うんですね。
これは余談になりますが、先日実は千葉県の木更津の方、後で話が出ると思いますが、そちらへ行って参りましたら、そこに「だいり塚」という大きな古墳がございます。これはやはり、今、「字内裏(だいり)」というわけですね。更には、後でも出てくるんですが、いわゆる大塚山古墳というのが木更津市にございますが、そこの小字が「小御門(こみかど)」、そういう小字でございます。だから「内裏」だとか、「小御門」とか、「御門」もあるんですね。私が「斯鬼(しき)の宮」だと言った大前神社という所には「御門」という字(あざ)がございます。
こういうようなものがあるわけですね。ということは「宮」があってこそ「御門」だとか「内裏」だとかいうことが言えるわけです。「宮」もないのにただ「御門」や「内裏」が字(あざ)につくはずないわけですからね。
ところが、今の「万葉」の解釈では、「宮」というものは関東にあってはならない、「宮」といえば近畿にきまっている、大和にきまっているというような解釈をするわけですね。で、門番なんて書いてないのに、彼は門番だったなんて解釈しているわけです。
ところが、そういう風な先入観を持たずに解釈しましたら、当然、東国の歌ですから「うち日さす宮」というのは、東国にある宮殿である。その宮殿に自分の恋人がいると。その恋人よと、あなたは主人の使者として ーー何の使いだか、あるいは他の用だか知りませんがーー 大和へ行くと、そこで宴会の招待か何かでーー 大和の女を、提供されたのか、その類の習慣があったのか知りませんがーー 要するに大和の女と昼を、或は夜を共にすることもあるでしょう。歓待をうけることがあるでしょう。しかし、東国にいる、肝心の私をお忘れなさいますなよと、まあそういう意味ですね。私なんか、初めて読んだらそうとしかみえないんですけどね。
それをその、門番にあなたが行ったからとかね、“門番の相手に大和の女がなる。”らしいんだけど、そういう解釈をするなんていうのはね、ずい分ひどい解釈。これはまあ特定の註釈者がしてるんですが、『岩波古典文学大系」の解釈なんか、そういう解釈をしているんですね、びっくりするんですね。
要するに、近畿一元史観に立った解釈である、とこう思うわけです。こんなのは、本当に部分的なテーマですが、もっと大きなテーマではですね、例えば
おほきみのみことかしこみ
という言葉が、よく出てくることは皆さんよく御存じの通りでございます。
今日よりはかへりみなくておほきみの しこのみたてといでたつわれは
といった、戦争中、年輩の皆さんには、“なつかしい”歌もございますね。
こういう場合の「おほきみ」という言葉、これはいろんな書き方をされています。
たとえば「大王」と書いて「おほきみ」と読む例があることも御存じの通りでございます。
他にもいろんな書き方がございますけど、ただこの「おほきみのみことかしこみ」という言い方が出てきますと、これは「天皇の御命令を承わって」という意味に、従来どの万葉註釈も、註釈してきたようです。契沖、賀茂真淵以来、そのようでございます。
ところがですね、この「きみ」というのは、女が自分の恋人に言う場合に「きみ」というのが出て参りますが、で、あと、「おほきみ」というと奈良県へ行っちまうんですね。関東における自分の御主人なんかどうなるんでしょうね。「きみ」というのは御主人じゃなくて、自分の恋人なわけでしょう、女の方からみた。ところが「おほきみ」といえば奈良県の天皇になってしまう。在地の自分のすぐ上の御主人や、もう一つ上の御主人やなんかは、あれは「何きみ」なんでしょうね。
こうみてくると、非常に素朴な疑問につき当るわけでございます。
日本中どこでもみな「おほきみ」といえば奈良県の天皇のことを言っていると解釈しているわけでございます。といいますことは、今かりに問題を簡単にするため、「大王」という言葉に表記をしぼって申しますが、「大王」とあれば日本列島中どこで「大王」といっても、これは近畿の天皇しかないというのが、従来の万葉の読解法のルールであったわけであります。
われわれ、こういうルールで万葉の歌を教えられてきた、戦争中から教えられ、現在も教えられているわけです。それは本当なのか。「大王」といえば日本列島でただ天皇家のみかという、論理的にはそういう問題が出てくるわけでございます。
ところかよく御存知ように朝鮮半島では、そうじゃございません。高句麗も「大王」だし、百済も「大王」、新羅も「大王」、駕洛国王も「大王」と書かれております。
しかし日本列島では、“大王”といえば天皇家だけなのかという問題でございます。そこで、大王を表わしている金石文をですね、見てみようということになってきたわけでございます。
さてそれで、「法隆寺釈迦三尊」、前の講演でもお話し申しあげましたし、それは「市民の古代』(第五集)にも採録されております。更に最近は私が、『佛教史学」という学術誌に「法隆寺釈迦三尊の史料批判」という詳しい論文を書きましたので、まあそういうものによってご覧いただければ結構です。
今、かいつまんで、一言だけを申さしていただきます。初めてお聞きになる方、びっくりされるかも知れませんが、詳しくは今申した論文等によってご確認下さい。要するにこの法隆寺の金堂にある本尊とされてるものは、聖徳太子の死後作られたものである。というのが、従来のすべての学者の理解であったわけです。しかし私は、果たしてそうかという疑問を、提出したわけでございます。(編集部註・釈迦三尊像光背銘文の原文は本誌第五集を見られたい。)
ここには、三人の人物が出て参ります
。一人は、二行目に出てくる「上宮法皇」。
そしてもう一人は、一行目に出てくる「鬼前大后」。
もう一人は、二行目の中ほどに出てくる「干食王后」。
この三人でございます。
「鬼前大后」というのは、間人大后だという風に従来解釈しているのですが、なぜ、間人大后を「鬼前大后」と書くかという説明はできていません。
また「干食王后」というのを膳(かしわで)夫人だというんですが、何故「膳」が「干食」になるかも説明されていません。「弗レ[余/心]二干食一」と返り点をつけて、原文には返り点はもちろんないんですが、「食によからず」と読んでいるんですがね。「食によからず」という漢文の文章はないわけです。
[余/心]は、余の下に心。
全体は見事な漢文なんですね、これが。明晰な漢文なんです。そういう漢文なのに「食によからず」など、用語例がない。それにどうも文字そのものはやはり「干食王后」となっている漢字なんですがね。
ところが、「干食王后」がなぜ「膳夫人」か説明がつかない、それはひとえに「上宮法皇」が聖徳太子だと。そうすれば、お母さんは間人皇女にきまってるし、后はたくさんいるけれども、膳夫人だろう、ということになっているわけでございます。
「上宮」というのは、「上宮・中宮・下宮」というように、これは普通名詞であります。「上宮」に住んだ権力者は、限りなくたくさんいるわけです。九州にもですね。たとえば阿蘇山にも、今の阿蘇神社は下宮であり、この火口近くに上宮があったといわれております。大分県の方にも「上宮山」という山がございます。そして、太宰府のところにもですね、竈門(かまど)神社に「上宮・中宮・下宮」とあり、一番上にあるのが「上宮」でございます。というわけで「上宮」というのは普通名詞でございます。丁度「関白」といえば秀吉、ということになっているんだが、実際には「関白」になった人物はたくさんいます。その中で一番われわれに有名であるのが、あの秀吉であるに過ぎないわけです。
同じように「上宮」に住んだ権力者は非常にたくさんいるんですが、最も有名な人物が「上宮太子」であるに過ぎないわけです。
だから「上宮」とあれば聖徳太子だというのは、「関白」とあれば、全部秀吉に解釈するのと同じ無茶であるわけです。一番大事なのは「法皇」という字で、これは僧籍に帰した天子という意味であります。「僧籍に帰した天子」つまりこれは、ナンバーワンを意味する言葉でございます。
ところが聖徳太子は、かつてナンバーワンになったことのないまま、死んだ人物である。常に、ナンバーツーであったわけですね。だから「上宮」とはいえても、上宮法皇とは言えない。だから『古事記』はもとより『日本書紀』にもですね、「上宮法皇」と聖徳太子を呼んだ例はございません。同じく最初の、鬼前大后の「大后」というのは、天子の母を意味する言葉でございまして、いわゆるナンバーツーの太子のお母さんを「大后」と呼んだ例はございません。同じく二行目の「王后」というのは天子の后でございまして、いわゆる「王子の后」を「王后」などというのは、俗解でありまして、そういう例はございません。
中国の用語によりまして、王后とは天子の后である。だから、いずれもこれは、中心人物は「天子」である。「仏法に帰依した天子」である。その天子の母親と、天子の奥さんという形で書かれているわけです。
だから、この一点をとりましても、聖徳太子には似ても似つかないわけでございます。
それと、もう一つは、いわゆる没年月日が違う。ここで「上宮法皇」という人物は、推古二十九年から話が始まって翌年に死んだと書いてありますので、推古三十年の二月二十一日が、その王后の方。
次の日、つまり二十二日に法皇が死んだと書いている。だから、推古三十年二月二十二日に死んでいる。これはもう、はっきりしているわけです。
ところが、『日本書紀』によりますと、聖徳太子は推古二十九年の二月五日に死んでいる。つまり、没年月日の一致しているのは月だけで、年も日も違っている。年も日も違った死に方をしている人物が同一人物ということは、ありえないわけです。
だから、この点からも、聖徳太子ではありえない。
それから決定的なのは、この中に、推古天皇が出てこない。推古天皇に当る人物が全く姿を現わさない。聖徳太子に関することなら、彼が死後、この仏像を作る側としては、当然推古天皇を中心とする以外、考えられない。
推古天皇の名前が、全く姿を現わさないということは、もしこれが聖徳太子を悼んで作られた仏像だったなら、これは万に一つも、あり得べきことではないと思う。だから、なぜこれを「聖徳太子のもの」と言い継がれてきたのか、私にはその方がむしろ不審である。
では何かというと、先頭にある「法興元卅一年」。元号であることを示す「元」ですが法興卅一年とあります。千支から計算しますと、法興元年が推古の前の、崇峻天皇の四年になっている。ということは、崇峻天皇が死んでも、法興という年号は替えられていないということがわかる。天皇が代っても年号がかわらないってことはあり得ない。公年号、私年号ってのを使ってみても、それはあり得ない。
しかも、普通の殺され方でなくて、崇峻天皇は蘇我氏によって殺されたわけですね。暗殺というか、殺されてしまった。最も異常な殺され方をした天皇です。にもかかわらず、年号だけは平気でつづけて使います、「私年号」だから使います、とか、そんなことはあり得べきことではない。
この点をみても、この「法興」というのが近畿天皇家内の年号でないことは、疑うことはできない。
じゃあ、どこの年号かというと、これは「九州年号」ですね。「失われた九州王朝」でわたしが論じました、「表」を出しました「九州年号」の中にこの年号が出てくる。ということから、この上宮法皇というのは実は、「隋書イ妥国伝」に、「日出づる処の天子」として書かれた多利思北弧その人であるという結論が出てきたわけです。それは「阿蘇山下にいる天子」として書かれているのですから、当然といえば当然ですけどね。
しかもそれは「僧籍に、仏門に帰した天子」として出てくるわけです。ということで、これは実は九州で、九州王朝の中で作られた仏像である、という意外な結末が出てきたわけです。
これに関連しては、いろいろな論証がございますが、先ほど申しましたような理由で、今回は省略させていただきます。
ところでですね、ここで振り返ってみますと、従来、この仏像がいわゆる推古仏、飛鳥仏の典型的な代表とされていたことは、有名な事実でございます。そのために、被害を蒙ってきた仏像がございます。
というのは、お隣りにあります。つまり法隆寺に入りますと、金堂の正面が、この釈迦三尊。向かって右側が薬師仏。この薬師仏が、被害を蒙ってきている。向かって左側はこれ、鎌倉時代の仏像でございます。
といいますのは、向かって右側の薬師仏もまたこれこそはっきりと、推古天皇の名前が出てきまして、推古天皇の時に作られたと書いてあるわけです。聖徳太子の名前も、ちゃんと出てくるのです。ところが、いわゆる釈迦三尊像は、皆さま御存じの、あの飛鳥仏のあの何ともいえないですね、クールといいますか、ドライといいますか、感情を表面に出さないような独特の表情をしています。
ところが、お隣りの薬師仏はどちらかといいますと、ポッチャリ顔といえば言い過ぎですが、白鳳天平の仏像に連なるようなイメージの仏像なわけです。だから、こちらの薬師仏は、これははっきり言えば「にせもの」だと。これはまあ、仏像研究の学者はうまい表現を使いまして、「これは追刻である」といった風に上手に言われるわけですね。なかなかお上品に書かれてありまして、白鳳天平の頃に作られたものは、これは「推古朝に作った」と書けば完全に「偽作」ですよね、はっきり言えば。「偽作」と言えば悪いから「これは追刻でしょう」と、上品に言う、表現を心得ているわけですね。
ということで、要するにこれは「にせもの」扱いをされているわけです。だからこれを推古仏の代表に扱った教科書なんかは、あんまりないわけですね。
じゃあどうか、ということで、この薬師仏の銘文を今から検討したいと思います。
金銅薬師佛造像記
池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時、歳
次丙午年、召於大王天皇与太子而、誓願賜、我大
御病大平欲坐、故将造寺薬師像作仕奉詔、然
當時崩賜、造不堪者、小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王、大命受賜而、歳次丁卯年仕奉。
またこの文章は、釈迦三尊のと違いまして非常に下手な文章でして、読みにくいんですが、まあ一応こう読める、という形で読んでみます。
池辺の大宮に天の下を治らす天皇、大御身労を賜る。時に、歳次丙午年、大王天皇と太子を召して請願し賜う。
この次の行から直接法に入るんですね。
「わが大御病・・・」
直接法でありながら、自分のことを「大御病」なんてのはおかしいですが、用明天皇の言葉です。
「わが大御病、大きく平らかならむと欲し、故に当に寺の薬師像を造り作し、仕之奉らむ」と詔す。
しかるに、時に当りて崩じ賜い、造り堪えざれば、小治田大宮に天の下を治らす大王天皇及び東宮聖王、大命を受け賜いて、歳次丁卯年、仕之奉る。
まあ一応、こういう文章なんですね。これは漢文じゃありませんで、まあ日本文を“漢文風”に、漢字を並べてみたと、まあ「漢文風味の和文」であるというような感じでございます。
で、その内容はですね、「池辺の天皇」これは当然用明天皇で、用明天皇が病気になられたと。でその時に、「大王天皇」というのは後にも出てくる「小治田大宮に天下治しめる大王天皇」と同一人物と思われますので、これは推古天皇。ところがその次の「太子」をね、聖徳太子と、これは『寧楽遺文」という、あの本からコピーさせてもらったんですが、私はこの聖徳太子という解釈は間違いだと思います。
なぜかと言いますならばですね。まずいわゆる「大王天皇」、これは要するに、用明天皇は文句なしの天皇として扱っています。推古天皇は、これもストレートに「天皇」だっていいはずなんですがね。これは人が違うから称号を違えなきゃ、とこの作者は思ってるわけです。
それでその、いわば「大王天皇」てのは、「天皇ダッシュ」みたいな感じで使っているらしいんですね。
で、その「天皇ダッシュ」が、最後にきている時は、文字通りの「天皇ダッシュ」でいいんですが、この今の用明天皇の枕元に呼ばれた時には推古天皇は何でもないんです。何でもないってのは、「天皇」じゃ勿論ないし、「太子」でも何でもないんです。「もと敏達天皇の后だった人」に過ぎないわけです。だから「大王天皇」じゃ勿論ないんですがね。
しかし、後に「大王天皇」と表現したから、そのまだ「大王天皇」になってない時期のことも、「大王天皇」と使っているわけです。こういう使い方をするわけですね、この人は。そうするとね、その後にくる、この仏像を造った時はもう、推古天皇と「東宮聖王」、これはもう聖徳太子と考えざるを得ない、「東宮聖王」はね。
そうすると、最初に、二行目に出てくるのが聖徳太子なら、ここも「東宮聖王」としてもらわなきゃ困るわけです。現実には「東宮聖王」になってないけどね。しかしさっきのような理屈でいえば、当然ここも「東宮聖王」としなきゃならないわけです。
ところが、「東宮聖王」とせずに、太子という別の表現を使っているってことは、これは聖徳太子とは別人物だと考えざるを得ない。わたしは、そう考えるわけです。じゃあ、用明天皇の時に、「太子」と言われる人物はいるかっていうと、いるわけです。聖徳太子はもちろん太子じゃないですよ、この時は。
この用明天皇の時に、太子として出てくるのはですね、「彦人皇子」です。
これはどういう人物かと申しますと、例の敏達天皇の第一后、これがその広姫といいますね。これが、后に認められて、といいますか、儀式が行なわれて、その年の内に死んでしまうわけです。そしてその翌年ですね、第二の后が立てられて、これが「推古」なんです。後の推古天皇ですね、第二の后です。
この彦人皇子ってのは、前の后、広姫の子供が、彦人皇子なんです。これは『日本書紀』に書かれているところでね。その彦人皇子が、この用明天皇紀のところに“一回だけ”太子として出てくるわけです。
ですから、用明天皇の時に太子にされていたのは、この彦人皇子であるというのは、『日本書紀』によってわかるわけです。ここは用明天皇が生きている時の話なんですから。そこへ「太子」として出てくれば、彦人皇子と、考えざるを得ない。で、これは聖徳太子と別人物だから、別の書き方で書いてある。こういう風に、私は理解すべきであると思うわけです。
さて、こういう風に理解しましてですね、要するに、用明天皇が死ぬ前に、推古天皇と彦人皇子を、枕元に呼んで、「私の病気をなおすために、薬師仏を造って欲しい」とこういう遺言、というか、遺言するつもりはなかったでしょうが、依頼をしたわけです。ところが、そのことが実現しないうちに、用明天皇は死んでしまったと。そこで、その遺志を実現すべく、この二人のうちの一人であった推古が天皇になって、そして、聖徳太子と一緒にこの薬師像を造ったと、用明天皇の追善のために造ったと、いう文章なんです。
ところが、この文章の中に一人だけ抜けている人物がいるわけですね。というのは、ご存じのように用明天皇と推古天皇の間には、崇峻天皇の時代があるはずなんです。ところが、崇峻天皇は一切この銘文に姿を現わしていないわけです。
これはなぜか。ここで『日本書紀』というものの性格に触れなきゃいけないんです。
『日本書紀』の中では、崇峻天皇の最後の所は皆さんご存じのように、崇峻天皇が蘇我氏によって、その家来を使って殺されたという記事をもって終っているわけです。
これは考えてみると、大変なことでしてね。『古事記』・『日本書紀』で、天皇がその治世の最後を、こういう言葉で終わられているなんて天皇、他にいないわけです。しかし、これはうっかり書いてしまったというようなもんじゃない、と私は思うんです。つまり、『日本書紀』にとっては、これはどうしても書かなきゃいけない“一行”だと、こう思うわけです。なぜか。その理由は“虫の如くに入鹿を切る”つまり、「むしのごとく」の六四五年のですね。
あの不法のクーデターがその原因だと思うわけです。つまりあれは、当然、大義名分によって、「天皇の命」によってなんか、やったんじゃないんですね。天皇の位置につくべきはずでなかった皇子たちが、同じく権力を握るべくもなかった豪族一族と手をつないで、あのクーデターを断行したわけです。その結果、権力を握って、やがてそれぞれが天皇になり、ナンバーワンの豪族に成り上がっていったわけです。
それがつまり、天智、天武、その子供ね、持統、元明、元正、彼らの王朝であったわけです。
ということは言いかえると、あのクーデターによって、本来ならば天皇になるべき血筋の人達は、或は殺され、或は閉門、ちっ居させられ、或は流され、そういう中に、あの七世紀後半から、八世紀が迎えられたということは、おそらく間違いないことでしょう。
ということは言いかえると、今、その権力を握っている天智、天武や、その子供たちは、本来は正しい継承者ではないんだと、不法のクーデターによって、あの地位を握ったのだということが、歴史事実としてでなくて、現実の事実として、人々の胸に泌みていたはずなんですね。
そういう目で、いつも、天智や、天武や、その子供たちは見られていたはずなんです、大和、その他の界わいで。
その中で『日本書紀』は出された。
その『日本書紀』の中で、あれは、あの時、不法のクーデターと見えるだろうが、そこで葬られた蘇我氏は、実はこれ程悪い奴だと、つまり、崇峻を殺すという大逆を犯すような悪者だったんだと、だから、俺達はやったんだと。つまり、自分たちの権力の合法化ですね。
そのために、あの『日本書紀』は書かれている。勿論、それだけではないでしょうけど、それを最も近い一つの目標としてですね、目標の一つとして、『日本書紀』は書かれている、ということを私は疑うことができない。
だから、あの崇峻紀の最後の一節は、ついうっかり書いたので、チェックすべきだったのをつい洩らした、などというものじゃなくて、まさにあれが必要であったという風に私は理解するわけです。では、崇峻は、どのように語られていたのか歴史を元に戻してみますと、先ほど言いましたように用明天皇の時は彦人皇子が太子である。だから本当は、用明天皇が死んだら、彦人皇子が天皇になるはずですね。太子はそういう役割なんですから。ところが、彦人皇子はここで一回出たきりで後は全く姿を現わさないわけです。だから用明が死んでも天皇になるどころか、一切消えてしまって『日本書紀』に姿を現わさないわけです。だからこれはどうも葬り去られた、殺されたのか、幽閉されたのか、そこまでは分かりませんけどね。歴史の表面からは葬り去られた、こうみられるわけです。
それにかわって、いきなり、太子でないのにかつぎ出されたのが崇峻なわけです。勿論この時には、その持ち出した、擁立したバックは蘇我氏であるはずなのです。だから当初は、蘇我氏にとっては崇峻は自分の意志通りに動いてくれるはずの天皇であるべきだったのですね。ところが彼はロボットでなかったから、そう動いてくれなかったわけです。そこで消された。細かなニュアンスを無視すれば、大体の筋はそういうことだと思うのです。そしてついに、いよいよ自分の手持ちの我が娘、推古を天皇におし立てた。そしてとても評判の良かった聖徳太子をその補佐としてつけた。というのが蘇我氏のプランです。推古朝という名前のプランだったのです。
だから、推古朝という時に、人々の間でなぜ、彦人皇子もそうですけど、今問題のところで言えば、あの崇峻天皇は消えたんだろう。まさか、蘇我氏が「私が殺(や)りました」とP・Rするはずはないですからね。この間まで元気で儀式に出ていたのに急にいなくなったと。何か「ご病気により」と出ているけど、本当かな、怪しいなと、おそらく陰の方では、真相は耳から耳へと伝わっている。だが、オフィシャルな場では言ってはならない。推古朝という時代の、崇峻に対する態度だったと私は思うわけです。
ところが、この銘文では、まさにその崇峻について一言も触れていない。大体書こうと思えば簡単ですよ。だって今のように、用明が死んだ後、次に崇峻天皇がお立ちになった。しかしその時には、薬師仏建立の志が遂げられなかったので、次に立った推古天皇と聖徳太子がそれを実現なさったと、こう書けば何ともないですよ。一行が惜しいということはないわけでしょう。何のことはないのに、かたくなにと言いましょうか、崇峻天皇の存在を完全にカットしたわけです。
ということは、先に言いました推古朝の雰囲気からみると大変ふさわしいわけです。
逆に言うと「虫のごとく入鹿を切る」の後ではおかしいわけです。ということで、この銘文はまさに、「虫のごとく入鹿を切る」以前、つまり推古朝そのものに成立したという性格をもっている。ともかく、現在の仏教史では、釈迦三尊を文句なしの「飛鳥仏」にしてしまった。そうすると、仏相からみてもどうも薬師仏が同時代とは見えない。同じ時代の同じ王朝に作られたものには見えない。文章も上手下手が分かれすぎている。ということで、これを白鳳、天平の偽作づくりのしわざにしてしまったわけです。
ところが今のように、釈迦三尊が九州で七世紀前半、推古朝と同じ時代ですが、九州で作られた。と、こうなります時に、この薬師仏が浮上して、“書いてある通り”なのですが、現在の仏教史の扱いから言うと浮上して、これこそ真の推古仏である、近畿の飛鳥で造られた飛鳥仏である、という本来の地位を回復することになると、私は理解するわけです。
そうしますと、文字が早く伝来した九州で、そこで非常に漢文をみごとに使いこなした、又、仏教伝来の早いことを私はかつて述べたことがありますが、そこで、この釈迦三尊が成立する。新しき追いついてきた文明、今から始まろうとする近畿で、この薬師仏、「漢文風味」の和臭の濃い文章を持った薬師仏が成立した。ということで、全体の流れにマッチしているという風に私は理解しています。
その点、多くの学者は今のような通説に従って、まあ上原和さんでも梅原猛さんでも、この「釈迦三尊=推古仏」説を基準にしてこの薬師仏を処理していますが、これは具合が悪いと思います。この薬師仏こそは、真の推古仏である、ということできたわけでございます。
そこで、こういうことをなぜ言うかと申しますと、そこで、「大王(だいおう)」ということばが出てくる。近畿で「大王」ということばが使われていたことは確かである。「大王天皇」というのは「天皇」ダッシュみたいな形で使われている。これに注意しておきまして、次の「伊予温湯碑」にまいるわけです。
そこで「法興六年十月」とありますので、もうこれはグダグダ言いませんでも「法興元卅一年」と同じ九州年号の「法興」であるという問題が最初から出てくるわけです。「我が法王大王」。これは一人と、他の人も私も考えておりましたが、これはどうもそうではない。今日もきておられる原田実さんが、「これは二人でないですか」ということを講演の後の喫茶店でいっておられたことを、覚えております。「それは十分可能性ありますよ」とこう言いましたが、まさにその通りで、これはどうも一人ではないようです。なぜかというと、これは従来の理解では、「大王天皇」という“二階建て”のことばがありますね、薬師仏に。だから、ここで「法王大王」という変な“二階建て”があってもいいだろう。大体このくらいの感じだったと思うんですね、従来は。ところが考えてみますと、「大王天皇」と言えましても「天皇大王」というのはないわけです。
つまり、「大王天皇」で「天皇」が重い。「天皇ダッシュ」という感じになっているわけです。だからこれを“二階建て”ならいい、「天皇大王」でもいいというわけにはいかないらしい。どうもそういう例はないわけです。だから、こっちの場合ももし一人なら「大王法王」と言ってほしいんで、「法王大王」では表現がおかしいのです。これが一つ。それとですね、もう一つ「恵総法師」、聖徳太子の方は、「恵慈法師」でありまして、人物が違うと。これも時間がないので細かく申せませんが、慧聰(えそう)というのが推古三、四年の頃にあるのですが、字が違う。これとぴったり同じ「恵総」が崇峻元年の頃に出てくるのですが、それは九州王朝関係の資料をはめこんだものである。少なくとも聖徳太子と関係がない。
一口でパパッと言ってお分かりにくいと思いますが、要するに「聖徳太子に関する、恵慈法師ではない」ということがはっきり言えるわけです。「葛城臣」というのは、蘇我氏が葛城を称したというのがあるのですが、彼は大臣(おおおみ)であって、それをわざわざ「臣」と言うべき理由はない、というポイントがあります。もっと言いましたら、この聖徳太子がこれであるとすると、聖徳太子が若い時なんですね。六世紀(五九六)です。法興六年というのは。六世紀から聖徳太子が「法王大王」という名前を持っているなんておかしいです。これにもし聖徳太子が伊予に行ったのなら、それは、瀬戸内海の港々を回って大変な盛儀だったわけだし、それから百年余りしか経たない時には、近畿からついていった人達全員の子供や孫は忘れてしまう、また迎えた瀬戸内海の人達が忘れてしまうはずはないので、『日本書紀』にそれが書かれていないのはおかしいわけです。『日本書紀』には「聖徳太子が伊予に行った」という話は全くありませんからね。後世の話です。『日本書紀』にそれがない、ということは、実は聖徳太子は伊予へ行かなかったから、『日本書紀』は、聖徳太子は伊予へ行ったと書いてない、当たり前ですけどね。そういう自明の理解からしましても、これは聖徳太子のことではありえない。
なお、この文章の作者は、二行目、「夷与村に逍遥し、正に神井を観る。世の妙験を歎じ、意を叙べんと欲し、聊か碑文一首を作る」とあります。この「作る」の主語が、当然いるわけです。「我が法王大王」と言っているわけですから、「我」にあたる人物がここに出ていなくてはおかしいわけです。誰か。「法王大王」ではありえない。「恵総法師」、この「法師」は敬称だから、これでもありえない。残るところは葛城の臣しかないわけです。葛城の臣が「我」であり「聊か碑文一首を作る」の主語である、というように私は理解したのです。その葛城の臣が作った文章が「惟ふに夫れ、・・・也」に到る、この文章である。「早駆けり」で申しておりますが。実は、「法興」というのは、この時九州年号が二つ並列している、兄弟年号の時期であると論証しました。今日は省略しましたが。
ですから、ここでは、「法王」・「大王」と二人が伊予へやってきたという風に理解すべきだろうと思います。ということで、ここでは九州に「大王」あり、「法王」と並んで、「大王」ありというテーマが、ここで出てきているという問題を指摘したかったわけでございます。
更に、その次の「人物画像鏡」。九州だか朝鮮半島に行って持ってきたと言われている鏡ですが、この解読は『失われた九州王朝』でやりまして、これも「癸未年八月、日十大王年、男弟王」おそらくこれは兄弟ですね。この二人が「意柴沙加の宮に在る時、斯麻・・・」これは、百済の武寧王だという指摘を『失われた九州王朝』でいたしました。これに対して、井上光貞さんは、允恭天皇のことで、奥さんが忍坂之太中津比売という名であるから、奥さんの実家へ行った時の文章であるだろうと言われたわけです。
それに対して私は、実家へは行くだろうけれど、実家へ行ったからと言って、「・・・の大王・・・の宮に在る時」という言い方はしない。「その『大王』がそこで天下を統治していた時」という意味の慣用句であると、「実家へ遊びに行ってた時」というような意味には使わないんだ、という批判をしたわけです。お答えなしに井上光貞さん、お亡くなりになってしまいましたが。他の方からもお答えはございません。
私は、やっぱりそう考えて、九州王朝の兄弟統治であると述べたのですが、私は「イシサカノミヤ」と読んだのですが、この「イシサカノミヤ」がどこにあるか、『失われた九州王朝』では指摘できなかった。ところがその後、太宰府の裏に私の友人が住んでいるんですが、筑紫の地、太宰府や観世音寺を目の下に見る丘の上ですが。そこで「『イシサカ』ってどこかにないもんかな」と、何回か泊めて頂いた家なんですが、三回か四回目かの時に、つぶやくように聞きますと、「いや、この家はイシサカにあるんだよ」と、ここは「字、石坂だ」というわけです。びっくりしまして、調べてみると確かにそこは石坂なんですね。しかも、太宰府や観世音寺を目の下に見る位置からみましても、今でこそ新しい住宅地になっていますが、当時は庶民が住めるような場所ではないわけです。やはり私は「イシサカノミヤ」の「イシサカ」はここであろうと、太宰府の一角と言いますか、太宰府を真下にみる低い丘の上にあたるこの「石坂」であろうと考えております。
ということで、この「大王」も九州王朝における「大王」である。いうまでもなく、「稲荷山の鉄剣」の「大王」は関東における「大王」である。これは、先ほどの藤田さんからご紹介いただいた本(『関東に大王あり』新泉社)で述べたことで、去年、現地の埼玉県教委で呼ばれて講演をしまして、県教委の方々は、私の説を大変重要なものとして評価して下さっていて驚いたのですが。そこで講演しまして、今度それが活字になりまして、一緒に講演をした井上辰雄さんの講演と私の講演を二つで一冊の小冊子になって出ました。稲荷山の県の資料館で頒けているようですがね。そこでまたご覧頂ければ結構だと思いますが。もちろん関東にも「大王」はいる。
と、こうなりますと『万葉集』で「大王のみことかしこみ」と書いてありましても、それは関東でいえば、関東における「大王」であり、九州で言えば、九州の「大王」である。つまり、「大王」多元説の立場から『万葉集』を読むべきである。ところが、従来は「大王」一元説であって、九州のものが言おうと関東のものがいおうと、どこでいおうと、「大王」と言えば、奈良県の天皇の“みことかしこん”で関東の端へやってくるという、戦争中に習ったあのイメージが『万葉集』の定説中の定説といいますか、それ以外の解釈に私はお目にかかったことはないわけでございます。しかし、東北における自分の直接の上司や、また上毛野君のようなああいう存在を全部通り越えて、見たこともない奈良県の「大王の命をかしこんで・・・」という歌を作るという、そういう考え方に果たして飛躍はないだろうか。要するに、「大王」多元説か、「大王」一元説かを実証した上でやってほしいと思います。一元説を実証すればいいけれど、多元も一元もないそれは常識だ、「大王」といえば、朝鮮半島はいかであれ、中国はいかであれ ーー中国でも、「大王」はたくさんいますから、複数、多数おりますからねーー 我が日本列島だけでは、「天皇家」のみであるという、戦争中の必勝の信念のような、その信念をもとに、もちろん国学者は『万葉集』をそう註釈しました。その国学者の『万葉集』註釈を、戦前はもとより戦後の万葉学者も全て継承して現在に到っていたのではないか、というのが私の提起するところでございます。
さて、そこで、後十分位しかないので、「扶桑国」問題という面白い問題が出てきたのですが、これは懇談会に譲ることにしまして、どうしても省略できない歌を取り上げさせて頂きます。それは最後の柿本人麻呂の有名な歌でございます。
近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本人麻呂の作る歌
玉たすき 畝火の山の 橿原の 日知の御ゆ あれましし 神のことごと 樛の木のいやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ大和をおきて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る ひなにはあれど石走る 淡海の国のささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の
神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の 霧れる ももしきの 大宮処 見れば 悲しも
有名な歌ですね。この歌の内容はどういうことかというと、結局「畝火の橿原の日知の・・・」というのは神武天皇以来、各代の天皇はことごとく、次々と、大和=奈良県に都を置いてきた。ところが「いかさまに思ほしめせか」、何を思われたのか、このXという天皇は、「天離る ひなにはあれ石走る淡海の国のささなみの大津の宮に天の下・・・」つまり近江に都を移された。その近江の宮の跡をたずねていったけれども、それが分からずただ霧の中にかすんでいるのが悲しい。とこういうんですね。そして、この大和から滋賀県に都を移した天皇とは天智天皇のことである、というのが、私が今まで見ました全ての解釈の一致しているところでございます。たとえば、契沖、賀茂真淵から最近では、『万葉集』の独特の解釈で有名な犬養孝さん、それから、西郷信綱さん、中西進さんにしましても、全てこれを天智天皇のことであるという風に書かれている。もちろん、岩波古典文学大系の『万葉集』もそう書いております。角川文庫の本もそう書いております。
しかし、私には ーー昔、国語の教師をしていた時は、やはりそう教えたのでは、と思うのですがーー 今こうやってみてみると、どうにも天智天皇のこととは思えないんですね。私の頭がおかしいのかなとずんぶん悩んだのですが、私以外の人みんな天智天皇にしていますから、江戸時代から現代までずっと。一所懸命『万葉集』に関するものを最近あさって読んでいるのですが、全く例外が出てこない。全部、天智天皇で、万場一致なんですね。
私には全く天智天皇にはみえない。なぜかと申しますと、ご存じのようにここで言っているのは、代々大和にずっと都を置いてきた、ところが、何を思ったのかこの天皇が大和を離れて近江へ都を持っていった。そういう意味だと私は思うのです。ところが、天智天皇以前の代々はことごとく、大和に都があったか。とんでもないことですね。たとえばあの仁徳天皇は難波に都を置いた。「民のかまどはにぎわいにけり」という有名な話があります。そんなに古くまでいかなくとも、天智天皇(中大兄皇子)自身が、「虫のごとく入鹿を切った」後で、難波に都を移して孝徳天皇の「第二次難波京」で、大和を出ていますね。斉明天皇だって九州へ行って没しています。都を移したわけではないですけどね。継体天皇なんて、大和に入るまで二十年も時間がかかって山背あたりに都を次々と移したという話がちゃんと書いてありますね。だから、代々大和にあったどころか大和以外から来た入もいるわけですから、全然合っていないわけです。どうまかりまちがっても、天智天皇には全く合わないわけです。それがどうして全員一致して天智天皇なのだろう、と深い懐疑にとらわれたのですね。
では、天智天皇以外に近江に都を置いた天皇はいたのかと、当然いたわけです。『古事記』・『日本書紀』を見ればちゃんと書いてありますから。これは、『古事記』によりますと、成務天皇、これが「淡海の志賀の宮に坐しまして天の下治ろしめし天皇」と、『古事記』ははっきり書いております。それよりもう一つ前のが『日本書紀』にありまして、『日本書紀』では景行天皇。景行天皇が最初は大和に都を置いていたんですが、晩年に近江に移って、三年間そこで遊んだわけではなくて統治して、そこで死んだと。その後、成務天皇が、子供ですから、そのお父さんのそれを受けついで、近江に都を置いていたらしい。だから景行から成務にかけては近江京であったわけです。
これが「第一次近江京」で、「第二次近江京」は後の天智天皇の近江京である。これは客観的な事実ですね。私の「説」でも何でもないわけです。そうすると、この二つの近江京の内のどっちがこの歌にあたっているかというのが、第二番目の話ですわね。「同定」作業に移りますと、答は非常に簡単でございます。なぜかと申しますと、さっきの「第二次近江京」はどうみたってこの歌の内容にあたっていないわけです。それに対して「第一次近江京」は、ぴったりあたっているわけですね。というのは、第一代神武から第九代開化までは大和盆地の中だけ、行動範囲も中だけのようです。
ところが、第十代崇神だけは、東海や北陸や丹波辺りに軍を進めましたが、自分のその都は大和を出た形跡はない。大和に都を置いていた。次の垂仁も、沙本毘古、沙本毘売を、沙本城で大包囲戦の後、落城させたと。これは、私は奈良市郊外ではなくて、今の茨木市の東奈良遺跡近辺の佐保川近辺だと考えているわけですが。そこでの大包囲戦、つまり、銅鐸圏との戦いに勝ったと私は理解するんですが。その大包囲戦は摂津でやりましたが、しかし垂仁の都はやはり大和を出た形跡はない。『古事記』・『日本書紀』とも大和で、大和として書かれているわけです。次いで、垂仁の次の今の景行ですね。それで、景行の時には、やはり大和でずっと、彼の大部分は大和で、最後何を思ったか近江に移って、そこで三年間経って死んだ。で、成務はやはり近江に都を置いた。
だから、この人麻呂の歌の内容にぴったりなんです。何の矛盾もないのです。という点からみますと、第一次か第二次の両方がある。そのいずれであろうかという問いをたてること、これは正当な問いの順序だと私は思うのです。この順序を立ててみれば、これは「第一次近江京」の景行天皇を詠んだ、としかないと思いようがない。私はそう思うんです。
それに対して、皆さんの中に、それは歴史事実から言えばそうかもしれませんが、そんな歌なんてそう細かに書く必要はないので、途中に例外はあってもかまわないのだと言われる方があるかもしれません。そんなことは簡単でして、たとえばここにありますように、「いかさまに思ほしめせか」非常に複雑な内容をみごとに一句か二句で人麻呂は表現しています。ところが、同じように、その大和以外にお出になったことはあるけれども、しかしよりによって近江の都に・・・とこうやればいいんですね。二句か三句ですむわけです。長歌でね。人麻呂くらいの力量でそれができないはずがない。
ということは、やはり合わないのはおかしい。それでは、次の問題の「しかし、この歌は、壬申の乱というのがあるから、この歌はいい歌になるのだ。あの悲劇があるから。ところがお前の言っている『第一の近江京』はそんな悲劇があったのか」。
その通り、あったのです。といいますのは、景行、成務の後は仲哀です。例の神功皇后を連れて九州へ行って熊襲と戦って死ぬという天皇である。ところが、この仲哀期について、去年話したと思いますが、不思議なことがある。それは都ですね。各天皇とも、「天の下を治らししなり」と書いてある。それが、ここでは山口県(穴門の豊浦宮)と福岡県(筑紫の詞志比宮)で、「天の下治らししなり」と書いてあるわけです。ご存じでしょう。しかし、遠征の途中の寄留地です。遠征の途中に「天下を統治する」なんておかしいわけですし、それ以上に出発地が、出発の「都」が書いてないのがおかしいですね。遠征に出る前は政治をやっていなかったのか、遠征に出た後は、留守番がいなかったのか、そんなはずはないわけです。当然いたわけですよね。留守番がいて留守番に政治を委嘱して出るべきであるし、誰に委嘱したかは、分かるわけです。
というのは、第一の妃(大中津比売命)がちゃんといまして、神功は第二の妃、現代風に言えば“おめかけさん”で、若い彼女を連れて遠征に出ただけの話です。その第一の妃の皇子はちゃんといたわけです。それが有名な、香坂王と忍熊王です。この二人なのです。もし自分に万一のことがあったら、この香坂王・忍熊王が、天皇の ーー天皇と呼んたかどうかは知りませんがーー 「位」を継ぐように、という遺言をして出たはずです。その第一妃共々、この二人に委ねて出た、とみるのが当然だと。実際万一のことがあったわけですね。仲哀は死んだのです。香坂王が次の天皇、天皇という呼び名があれば天皇、もしくは、「天皇にあたる位」をついだはずなのです。ところが、遠征軍は、神功達は、仲哀の遺志に反して新羅へ行くわけです。神功の母方の先祖の地で、『古事記』による限りは“戦争をしていない”のですが。そして帰ってきたわけですから、香坂王の立場から見ると、これは自分達の命令に反した反乱軍になって都に帰ってくる、と見えたわけですね。
そこで、摂津の近辺で両者が対峙した話が出てきますね。『古事記』・『日本書紀』ともに書いてあります。香坂王は、猪にくわれて死んだそうです。当然、忍熊王がその天皇の位を代行する。儀式はなくても代行していたものと思います。だから、大義名分上、忍熊王が天皇を受け継いだ地位にある。そして、それを持たない第二の妃神功と、それが旅先で生んだ子供を連れて、建内宿禰が黒幕でしょうけれど、これは反乱軍の性格を持っている。ここで戦って忍熊王は負けたわけです。どこに逃げたかというと、近江の沙沙那美の地に逃げたと、『古事記』・『日本書紀』共に書いてある。瀬田の渡りで、舟に浮かんで、ここで琵琶湖に沈んでしまった、ということが書かれているのですね。
ここで、大事なことは、忍熊王が琵琶湖に沈んで死んだということは、『古事記』・『日本書紀』の中に語られている伝承なんですね。
それに対して、壬申の乱で、弘文天皇=大友皇子は、山前で首をくくって死んだと書いてある。山前は、色々説がありますが、一番有力なのは大山崎です。要するに、山の一角で首をくくって死んでいるわけです。琵琶湖底に死んだというような説はないわけです。
ところが、先ほどの歌の最後をご覧下さい。反歌がございますね。
ささなみの志賀の辛崎辛くあれど 大宮人の船待ちかねつ
“出ていった大宮人の舟は帰ってこない。どこに行った。湖に沈んだらしい”。そういう反歌になっていますね。
ささなみの志賀の大わだ淀むとも 昔の人にまたも逢はめやも
「昔の人」というのは、普通は歴史上の人をさす。壬申の乱というのは、人麻呂の子供の時分です。子供の時分のことを「私の昔のころは」ということもありますけれど、「昔の人」と言った場合、歴史上の人物を指す方が普通なのです。これを従来は「自分の小さい頃の人」を指すものと詠んできた。ところが、忍熊王として詠めば、当然「昔の人」である。決定的なことは、「湖に沈んだ皇子」と、「山前で首をくくった皇子」との違い。これは当然、「第一近江京」の方が適切であるわけです。それだけではございません。更にもう一つ、人麻呂の歌でこういう歌があるのをご存知でしょうか。
もののふの八十氏河の網代木に いさよふ波の行く方知らずも
という歌があります。これは従来、解釈に学者たちが悩んでいるわけです。岩波古典文学大系でも三つくらいの解釈が並べてあります。無常感という解釈では、『万葉集』ではあまり無常感を歌う時代ではないが、ということです。
ところが、実は、今の忍熊王の屍骸を、建内宿禰がさんざん探させたわけです。ところが、その屍骸が見つからないので、建内宿禰が怒っているのです。『日本書紀』で。
忍熊王、逃げて入るる所無し。即ち五十挾茅宿禰を喚びて、喚びて曰わく、
いざ吾君 五十挾茅宿禰 たまきはる内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳩鳥の潜せな
即ち共に瀬田の濟に沈りて死りぬ。時に、武内宿禰、歌して曰はく、
淡海の海瀬田の濟に潜く鳥 目にし見えねば憤しも
是に、基の屍を探(か)けども得ず。
つまり、屍を発見するのに家来達に命じたんだけれども、どうにも見つからないので腹を立てている歌がのっているわけです。
要するに、生きて出てきたらこわいわけです。向こうの方が「正統」です。こっちは「反乱」を起こしているわけです。一挙に形勢が逆転する可能性がある。だからどうあっても屍をとらえろというわけですね。
「然して後に、日数(へ)て菟道河に出づ。」琵琶湖と宇治川は通じている。おそらく、例の網代木辺りにひっかかって浮かんだんでしょうか。
建内宿禰、亦歌ひて曰はく
淡海の海瀬田の濟(わたり)に潜(かず)く鳥
田上(たのかみ)過ぎて菟道に捕えつ
ついに屍を宇治で見つけてとらえてやったと。なんか日本人離れしたというか、執念ですね。という歌が『日本書紀』に残っているわけです。その宇治で、人麻呂が、しかも「近江の国からのぼって宇治川に来た時に作った歌」として、先ほどの歌がのっています。
もののふの八十氏河の網代木に いさよふ波の行く方知らずも
だから、彼の脳裏にあるものが「忍熊王の運命」である、というのはこの点からも疑うことはできないわけです。ということで、私は、この歌は従来の一切の学者の説と相反して「第一次近江京」を歌った歌であると、こういうことが言えると思います。
最後にもう一つつけ加えますと、それでは、その時その歌を詠んだ人麻呂の脳裏に、壬申の乱のことはなかったか、大友皇子のことが頭の中になかったか。とんでもない。子供の頃に、強烈な印象を与えた事件だったはずなんです。そして、長ずるに及んで、歴史を知るに及んで、それと同じような事件がかつて琵琶湖を中心に起こっていたことを知ったわけですね。その歴史を詠んでいるわけです。この歌を見せられた方も、百人が百人、壬申の乱と、忍熊王と似た運命、山と湖で死んだ場所の違いはあっても、同じ運命をたどった、あの大友皇子のことを思い浮かべたであろうこと、それを私は疑うことができない。
いわゆる、御用宮廷歌人であった人麻呂にとって、その時の天皇は天武、持統、反乱で勝った人達が権力を握っているさなかにね、負けた方に同情するような歌が作れる時代かということです。どうみても人麻吊の歌は「同情」というか、「負けていい気味だ」という歌ではないですからね。あの長歌をみても、そんな歌が作れる時代ではないと思う。彼は「歴史」を歌ったわけです。
しかし、詠む全ての人は、亡びさった大友皇子達の運命をいたんだことであろう。そういう二重構造を持って作られているのがこの人麻呂の歌であろ。それをあたかも「歴史」を忘れて「時事問題」、少年時代の話「時事問題」を歌った、しかも歴史風なムードで歌った歌と従来の学者は考えていたのではないかと。しかしそれほど“浅い”歌ではないように私には思われる。
このように分かり切ったことが、戦後もなぜ、問題提起さえもされなかったのかということ。神功とか応神とか、あの辺は「架空のもの」として歴史から消してしまってあるんですね。何かまともに、「第一次近江京」・「第二次近江京」のどちらかという、当然の問いを立てることを怠っていたのではないか、戦後はね。歴史学者がそうしたものだから、歴史学の影響を受けて、国語学者、考古学者もそういう客観的な問いかけで「同定」作業をすることを、怠ってきていたのではないか。生意気ですが、私は今そのように思っているわけでございます。また、ご批判を賜われば幸いと存じます。