東方史学会 好太王碑訪中団の報告(『市民の古代』第7集)へ
山田宗睦
藤田さん。あなたから『好太王碑論争の解明』という本をいただいてから、半年がたちました。読んで感想を言うとの約束をのばしのばしした半年です。
たくさんの事を言いたい反面、これは言わない方がいいのではないかとためらうことも、感想の中にはあります。率直に言うのが私の信条ですから、簡単ではあれすべて申し上げます。
第一は書名。うけとったとき「論争の解明」ではなく、「碑〔文そのもの〕の解明」とすべきだったと思いました。これは形式と内容という間題にかかわります。
私は長いこと評論家として生きてきました。自分たちが生きている戦後についての評論から出発しました。いきおい沢山の事を、論争的批判的に論じてきました。マルクス主義の立場をとる論争家とみられてきました。論じて、論争して、・・・・・いま論じることの空しさを実感しています(ここのところはもっとじっくり言わないとご理解願えないでしょうが、紙数がありません、哲学者同士のカンでご理解いただくことにして、先を急ぎます。
学問には三つのレベルがあります。一つは古典の形成。二つにその古典の注釈(解釈)。三つに多様な注釈間の論争と、そこからいくとおりかの学説史の形成。かんたんに言うと、一に古典、二に注釈、三に論、です。
古典の形成とは、いま私たちにかかわる問題領域でいうと津田左右吉、古田武彦が追求した仕事。津田は記紀について『日本古典の研究』という古典を書き、古田は魏志倭人伝を克明に研究して『「邪馬台国」はなかった』という古典を書きました。古典の形式が同時に二の「古典」への注釈という仕事と重なってもきます。その上で三の、古田のケースでいえば津田への論争、津田学説史(戦後史学)への批判に、すすみ出てきたわけでしょう。
だから、古典、注釈、学説は、三位一体をなす三つのレベルと言うべきものです。しかし、このうちもし一つをはずすとすれば、聖人(学者)はためらうことなく論争(他の解釈・学説への批判)を割愛するでしょう。論争は三次的なものにすぎません。ところが凡人は三次の論争にこだわって一次の古典、二次の注釈をすてます。王より飛車を可愛がります。
『好太王碑論争の解明』は、碑文そのものについて全面的な解明(注釈)をきちんとすべきでした。それではじめて『好太王碑の解明』なのです。ところがこの本は一々に論争的です。このためかんじんの碑文の全体的解明が、その個々一々の他説への論争・批判にさまたげられて、すっと腑に落ちないにきらい(傾き)がある。『「邪馬台国」はなかった』 ーーこれにも論争・批判はもちろんあるーー が古典になれて、『好太王碑論争の解明』が古典になれない所以を、ふりかえるべきでしょう。
あなたはそのことに気がついている。自分はおしゃべりだと自覚しています。おしゃべりとは口数が多いのとちがうでしょう。しゃべり方の無駄なるをおしゃべりというのではないでしょうか。
悪口を先に言います。文章もときにテニヲハがちがいます。たとえば、八七頁の後から二行目の「を」は当然「が」とあるべきところ。そしてこういうテニヲハのちがう文章は論争の部分に多いようにひが目にはうつります。ご一考下さい。
さて、では『好太王碑論争の解明』はつまらない本でしょうか。いな、「好太王碑の解明」でこれほど全体的かつ個別的に追究したものは、古田論文も王健群本もいれて、これまではなかった。つまり前人未踏の達成を示した本でした。私の書評がまず願ったのは、その内容を表現するのに、碑文の全注釈という形式の方が論争という形式よりもよかった、という一点にあります。内容と形式の問題と言った所以です。
書評とは、けっして対象とする本の要約ではありません。要約はやめて、読んで感銘したところ、前人未踏のところ一、二に言及することにしましょう。
あなたの本を読んで、(あなたが口数多く書いているせいもありますが)通化のホテルで、好太王碑前で、吉林省博物館で意見を交わしたのを思い出します。思い出すままかかげますと、(一)好太王碑問題は、改ざん説をめぐる論争から抜け出して、碑文全体の解明にすすむべきこと、(二)好太王碑を孤立させずに国崗の風土の中で、高句麗古墳群との関連の中でとらえるべきこと、(三)好太王が都した国崗について、その気象、農耕、産業とくに鉄生産といった事を視野にいれて考えるべきこと、そういった箇条がうかんできます。
一九八五年三月末の集安での旅の日々は、私たちが好太王碑の部分的論争の次元から、碑文(及びその環境)全体の史的意味を解明する次元へ、足早に駆け上がっていく日々でした。思考の速度に一つ一つの小「発見」の記録がおいつかない、そういう充実した日々でもありました。
あれこれの先行説への論争を、またあれこれの交渉史を(混雑をかえりみず)本書にいれたのは、あなた、が好太王碑の「解放」交渉から実現への過程を、身を以て推進したことへの熱い思いが原因だったでしょう。
あなたの本には、まさしく従来の好太王碑論争を超え出た成果が、みごとに出ています。だから“論争の解明”などという小さく低い次元は捨象して、“碑そのものの解明”に専念することを、私はすすめたのでした。若いときには論こそは輝いてみえます。しかし論は実事に及びません。実事求是の真義はそこにもあります。
(一)碑(文)そのものの解明で、あなたのポジチブな寄与は、第九章で「守墓人制度の確立」を解明したところにあります。むろんあなたが正当に謙譲に指摘したように、そのプライオリティは朴時亨、王健群にある。しかし守墓人の制度を定めたことの背後に、好太王の対外侵略の必然性、したがって倭との対戦の必然性、それに見合う高句麗の支配構造の独自性を見、これらの全体的関連の中に、碑面の三分の二を占める守墓人問題を据えてみせたのは、まことにめざましいあなたの成果でした。
なぜ好太王碑が建立されたのか、その好太王はなぜ南下して倭と交戦してまで「百残」「東海」 ーー欠字にこれを当てた推論もあなたのメリットですーー 「新羅」を臣民としたのか。まことに立碑、碑文が高句麗当該史の焦点・結節点でありました。そのあなたの解明の過程の中、私は歴史を解く醍醐味を味わわせていただきました。
(二)碑の風土的・歴史的環境については、如山の問題、また東台子遺跡の問題など、第十章その他で言及されています。
じつは現地集安県博物館で、私が最初から最後まで執着していたのが、東台子遺跡の見取図でした。不精な私が、博物館の瓦の拓本などをいれた袋に、遺跡の見取図を写したりしたのは、よくせきのことでした。これが高句麗の社禝を祀ったものであることは、一見してあきらかでしたが、祀ることの丁寧さに私はおどろいていました。他国を侵略収奪せねばなりたたない騎馬民族国家・高句麗が、ここ国崗の地 ーー私は「倭は国のまほろば、たたなづく青垣、山こもれる倭しうるはし」を思い出しました、まことに集安県は高句麗の国中(くんなか)でありましたーー で、農耕社会への熱情を示した遺跡、それが東台子遺跡でした。
あなたも書いているように、注目されるのは I室に屹立する巨石の立石です。これを国崗の北に聳える“聖なる如山”を前に立つ巨大な好太王碑と、相似のものとみる視点は、私たちの共通認識となりました。そして I室の巨石を玉石がとり囲むように、好太王碑は壁画古墳にとり囲まれていました。この古墳群がピョンヤン周辺の高句麗壁画墳をへて、その延長線上に、(高句麗と戦った)倭を併合した日本の高松塚古墳壁画を望見させるのも、まことに注目すべき構図と私には思われました。
あなたが方起東の東台子遺跡論もふまえて、好太王碑の史的位置をさぐったのは、こんご好太王碑を見る基本視座となるでしょう。
(三)その国崗(集安県)の地誌。長春で王健群さんを囲んではげしくも友好的に交わした討論は、すでにこの雑誌にのりました。(編集部注・『市民の古代』第七集 ーー王健群・古田武彦・藤田友治・山田宗睦「討論好太王碑をめぐって」 ーー参照)翌日古田さんをいれて三人、また吉林省自然博物館を訪ねました。このときさいしょ見まちがって入った中日戦争博物館で、人体実験など非人道の極致である七三一部隊をはじめとする日本軍の残虐行為を展示した数々には、粛然襟を正しました。(まちがって入ったのは幸いでした。私はいま神奈川県に戦争資料館をつくる努力をしています。)
その隣りの自然博物館で、集安県(国崗)は、(イ)鉄産出の集中地であること、(ロ)東北中国中、唯一の温暖多雨地であること、この二つを確認して、私たち三人が小さな歓声をあげたこともなつかしい思い出です。
これについて、あなたが第十章「好太王の時期の高句麗国家の構造」の前半をつかい、詳細に叙述しているのに感心しました。不精な私が事の確認で終えていたのに、あなたはメモをとり写真も撮っていました。そのせいで好太王碑の史的環境にひきつづき、碑の地誌的環境がはっきりして、総体として好太王碑の資料環境中の定位置が確認されました。
これは好太王碑を「渡海破」前後の小文に局限し矮小化する域から、あるべき広大な次元に据え直した、研究的立碑とでもいうべきものでした。
さいごになりましたが、忘れてならないことがあります。冗談風に言うと、しゃがれ声のおしゃべり先生で、生徒はさぞかし迷惑だろうと思うのですが、あなたはまごうかたなく教師でした。あなたをここまでおしすすめた動力の一つは、あなたと共に苦労した茨木東高校地歴部の生徒との共同作業でしょう。
この本の中でもっとも感動的なのは、大東急記念文庫の雙鉤加墨本の錯簡を正して、好太王碑四面に復元し、この「新」資料も加えて、各種拓本・雙鉤加墨本などの一字一字を比較対照できる一覧を作製したことでした。
こういう作業は生徒の中に必ずや、研究のみならず人生を歩むことへの記念碑を建立したことになるでしょう。ここにも別の好太王碑建立があった、と私は感動しました。
藤田さん、本当にあなたは甲斐のある仕事をなしとげました。ご苦労さまでした。(一九八七、四、八)
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藤田友治著 四六判上製426頁3200円
従来「好太王碑」の碑文は、日本軍部により改ざんされたとされてきたが、これまでの拓本、釈文の研究からこの説を否定し、中国に王碑公開要求の運動を起して、古田武彦氏らとの現地調査により、改ざん説を明確に否定する、好太王碑論争に画期をもたらす研究である。古田史学の成果をふまえて、碑文にあらわれた倭とは何か、好太王の時期の高句麗国家の構造にまで論及する。資料として好太王碑研究年表、耿鉄華「好太王碑新考」他を付す。 古田武彦 解説に代えて三〇枚
◎目次 ーー好太王碑研究と現地調査 教科書における好太王碑の位置/今日までの好太王碑研究の経過とその意義について/碑公開前の拓本・釈文の調査/好太王碑公開要求運動/好太王碑現地調査報告 好太王碑文の研究 好太王碑“改ざん”論争とその決着/中国側現地調査の意義と問題点/改削説否定後の新しい論争/好太王碑建立の目的/好太王の時期の高句麗国家の構造
本書は、中国、朝鮮、日本の学者たちと交流対談して、高校生達が作った資料をもとに全く新しい地平を切り開いたこと、中国の第一級学者、好太王碑管理者の未発表論文と新釈文を初めて入手訳出し、太王陵・四神塚のダイナマイト封鎖の事実を証言によりはじめて明らかにする。
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