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お断り
 黒曜石を初めとする古田氏の史料批判は更に進展しております。
 詳しくは『古代に真実を求めて』(第12集)の講演記録(「万世一系」の史料批判、二 「国引き神話」と黒曜石)を初め、記載されている論文や報告をご覧ください。
(インターネット上では未公開)


市民の古代 第10集 1988年 市民の古代研究会編
十周年記念講演会

金石文と史料批判の方法

黒曜石・稲荷台鉄剣銘・多賀城碑など

古田武彦

はじめに

 本日は市民の古代の十周年記念、よろこびと申しましょうか、感慨無量の思いでございます。私自身、孤立の中で研究を続けてきました。現在もそうですが、今日お話しをすることも、自分自身でも、ひじょうに怖いことで、断崖を歩くようなテーマばかりでございます。それにたいして、このような「会」を結成していただき、その上、雑誌をつくって、それがもう十号になんなんとする、というようなことは、ほんとうにこれがこの世に存在していることなのかと、私はいつも驚くわけでございます。そしてまた、今日、中小路さんや、山田さんから、ひじょうに深いご理解、知己のお言葉をいただいて、深い感銘をおぼえております。さらに、会場には、これだけたくさんの方々においでいただいて、私の話をお聞きいただくということは、私にとっては過分というか、言葉では言い表せない深い驚きでございます。
 さて、私自身、関西の地におりまして、それから東京に向かってもう四年強が過ぎました。さいわいにも、最近、新しい発見が連続しております。あしたに大発見に取り組み、夕べに新発見に目を奪われるという経験を、今年の三月、四月、五月と続けております。したがって、今日もお聞きいただきたいテーマはたくさんあるのですが、時間も限られておりますので、その限られた時間で話をさせていただくことにいたします。お話しできなかったところは、あとで懇談会もありますので、そこでお聞きいただきたいと思います。大事なテーマが目じろ押しですので、ゆっくりと、ポイントを押えて申し上げたいと思います。

黒曜石と国引き神話

 じつは、先週の火曜日(五月一七日)、私はほんとうに自分にとっての大発見に遭遇しました。早稲田大学の考古学実習室、そこで講演が行われました。ソ連の学者(ルスラン・S・ワシリエフスキ氏、アレクサンドル・I・ソロビヨフ氏)が二名来ておられ、シベリアの研究所(ソ連邦科学アカデミーシベリア支部歴史文献学哲学研究所)の主任研究員などの方々ですが、直接お会いできました。そこで、シベリアという土地に秘められた、考古学的な出土物の状況、歴史ですね、それを大局的に、概観的に話されました。フランスの有名な考古学の本にもりこんである遺跡よりも、さらに古い放射能年代を持つ出土物が発見されたというような話から始まり、その最後のハイライトは、日本へ来る時に持って来られた、黒曜石のニュースでした。それらは、ウラジオストック近辺の、かなり多くの遺跡から出た黒曜石の製品です。そして、それを立教大学、原子力研究所の鈴木正男さんという専門家の方にスペクトルの分析をやっていただいた。ところが、それらの数多い黒曜石製品のだいたいのことを申しますと、約半分ちかくが出雲の隠岐島の黒曜石であるということが確認されました。さらに残りの半分ちかくは秋田県の男鹿半島(インターネット事務局注記、後に北海道赤井川産に訂正)、そこの黒曜石であった。あと一割弱の黒曜石が不明、まだ産地不明である。これは、おそらく北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の有名な白頭山という山、ここの黒曜石ではないだろうかと見ておられるらしいのです。これには対照資料が必要です。いくらスペクトルを分析しても、まちがいのない対照資料がないと駄目なのです。隠岐島や、男鹿半島はそれがあるから産地を特定できた。ところが白頭山のは、対照資料が無い、もしくは少ないので判定できない。おそらくそういうことと思います。
 ですが、それらは数量の比率としては少ないものであり、大半は日本列島の黒曜石である。これは確定しました。そして、その遺跡は新石器、日本でいう縄文時代、はっきりしているもので、B.P.(放射能時代)四〇〇〇年から三五〇〇年、日本の縄文後期前半にあたるところのものです。そこからの出土物である。その中で、まだ放射能時代がはっきりしないものがあるということですが、それも新石器時代のものであるということはまちがいない。おそらく、これらのものには、日本でいう縄文晩期にあたるものもあるのではないかと思うのです。はっきりしているものは縄文後期前半にわたるもの、B.P.で四〇〇〇年から三五〇〇年のものです。B.C.(西暦年代)にするのなら、そこから二〇〇〇年を引けばよいのです。これが私にとっていかに大きな喜びであったかということは、私の今までの本(『古代史を疑う』駸々堂刊、『古代の霧の中から』徳間書房刊)をお読みの方にはおわかりいただけると思います。
 と言いますのは、『出雲風土記』にでております「国引き神話」を分析しました。そこで、四箇所から国を引っぱって来ている。第一回は新羅から、第四回は高志(こし)の国から、おそらく能登半島ではないか、これはほぼ異論がないわけです。それに対して異論がでてきたのが第二回と第三回です。第二回が「北門(きたかど)の佐伎(さき)の国」、第三回は「北門の良波(よなみ)の国」、こう書いている。これを従来、岩波の『日本古典文学大系』の風土記の註では、出雲大社の真北の日本海岸部にある鷺浦を「北門の佐伎の国」にあてている。第三番目の「北門の良波の国」は松江のまっすぐ北、日本海側にある農波(ぬなみ)(野波)という所を良波(よなみ)とまちがえて書いているのだろう、となっている。これに対し不審をもって、ひとつの新しいアイデアを出されたのが清水裕行さんです。神戸大学で自然科学をされ、現在コンピューター関係の仕事をしておられますが、この清水さんが不審をもたれて『市民の古代』(第三集)に書かれたわけです。そのさいは、出雲の隠岐島、島前・島後のふたつをこれにあてはめられたのです。その後、出雲における郷土史家の速水保孝さん、それから、出雲の研究者として有名な門脇禎二さんなども同じ説をとられました。その濫觴をなすものは清水さんの説だと思います。私もその清水さんの説にひじょうに刺激されまして、『市民の古代』を見て、というよりも、それ以前から、講演会の後の喫茶店での話の中で、そのお話をお伺いしまして、この問題に対する関心をさそわれたものです。そして、私なりに考えを進めました。いまの異論の無い第一、第四のところから考えてみると、第一点、これは出雲より以外のところから持ってきている。第二点、現在の日本国家内部にはかぎらない、新羅は日本国家内ではないですから。第三点が出雲から見て「北」にある。北門ですから。第四点は、「門(ど)」と書いてあり、それは入口・出口となっている、交通の要所である。この四点からみると、地図を開くまでもなく、出雲の北にあるのは「沿海州」である。しかも、地図を見て驚いたのは、ウラジオストックは出雲大社から「真北」にあります。日本海の北岸部の中で入口・出口と言えるのは、やはり、ウラジオストック付近であろう。もちろん、ナホトカをふくむ、ウラジオ湾というか、ウラジオを頂点とする領域です。その湾岸部を意味します、「北門」といっているのですから。したがって、第二番目の「北門の佐伎の国」というのは、北朝鮮の東岸部にムスタン岬という雄大な岬が突出していますが、このあたりをいっているのではないでしょうか。そして第三番目の「北門の良波の国」こそは、ウラジオストック、ナホトカを頂点とする湾岸部を指しているものであろう、と考えたわけです。そうすると、地図で見た場合、私の目には大きくバランスがとれて見えたのです。
 つまり、さきの四つの特徴をまとめ、そこから論理的に導いたものが、同時にバランスがとれているように私には見えたのです。まず第一が視野。朝鮮半島東岸部の南半分、そして朝鮮半島の東岸部の北半分、ウラジオストックを中心とする沿海州、そして能登半島と、出雲を中心にして、まさにぐるりととり巻いた「世界」をなしているように見えたわけです。とくに、出雲の漁民にとっての世界である。それが日本海の西半分だったのではないだろうか。第二は、私にとって怖いテーマです。この出雲の「国引き神話」がつくられた時期は縄文時代である、と、こう考えました。それはご承知のように『古事記』『日本書紀』の「国生み神話」、イザナギ・イザナミの国生み神話を分析して、ここでは、場所としては「筑紫」、としては「矛」、「天の沼矛」です。『日本書紀』の一書では「」、「天の沼戈」です。こういう「筑紫」「矛」「戈」というものが三つの特徴をなした言葉である。『古事記』『日本書紀』の「国生み神話」においては。ところが、弥生時代の出土分布図を見ると、やはり博多湾岸、筑紫を中心にして、この銅矛・銅戈の出土が集中しています。もの遺物もそうですし、とくに鋳型が、はほぼ一〇〇パーセントちかく博多湾岸中心に出土しています。私が言っている「筑前中域」こう呼ばれる線上にあります。そしては同じく博多湾岸を中心にして、東は北九州市、西は佐賀県におよんでいます。中心はやはり博多湾岸にあります。そうすると、「筑紫」、現地音で「チクシ」、われわれが言う「ツクシ」、「矛」「戈」というこの三点セットが神話の内容と、考古学的な弥生の出土物分布と一致している。
 とすると、今までの戦後史学の常識、昭和二〇年いらい常識とされてきた津田史学の考え方はどうもおかしいのではないか。大和朝廷の史官が六世紀ないし八世紀頃、デッチあげた造作したものであるとすれば、それが弥生の筑紫の考古学的出土物の分布と一致するということはありえないだろう。偶然の一致ということなどありえない。ではなにかといえば、これは弥生時代にこの神話はつくられた、しかも、場所は「筑紫」でつくられた、こう考えれば両者が一致してあたりまえなのです。つまり、あの「矛」や「戈」はただ無目的にだまって捨てたのではなく、当然、権力者が自己の統治の正統性をPRするために造らしめたものと考えざるをえない。その正統性の根拠は何かといえば、私の祖先は「イザナギ」「イザナミ」である。イザナギ・イザナミが矛や戈を持って、大八洲の国々をつくりたもうた。西日本の地域をつくりたもうた。その子孫である私たちだから筑紫を中心とする支配を行うのは当然の権利である。こういう、権力の正統性のPRのために「矛」や「戈」を持ち出してきた、こう考えれば両者は一致してあたりまえである。私はこう考えたわけです。ところが私にとって本当に怖かったのは「国ゆずり神話」です。この神話が後世の造りものではなくて、リアルであると考えたならば、「国ゆずり神話」の意味するところ、筑紫中心の前に出雲中心の時代があったと、こう考えざるをえない。私は「出雲王朝」という言葉を『盗まれた神話』の最後で使ったのですが、その時は清水の舞台から飛び降りるような、強い緊張感で使ったのを覚えております。
 と言いますのは、当時は、考古学者、神話学者、古代史学者はこぞって、「出雲神話」はでたらめだ、それは古い考古学的出土物が出雲にはたいして無いことをみてもはっきりする、とそろって書いていたわけです。私もそれは知っていたのです。しかし、論理の進行するところ、そのように考えざるをえないということで書いたのですが、それが先年、出雲から三五八本の、考古学者達の言う「中細剣」、私が言うところの「出雲矛」、これの出土によって裏付けが得られました。なお小型銅鐸六個、筑紫矛一六個もでてきました。そのようなことがあったのですが、さらに私の「国生み神話」の分析と対比すると「国引き神話」には、金属器が使われていない、いわゆるだけである。「童女(おとめ)の胸〔金且〕(むなすき)」という、〔金且〕(すき)がでてくるけれども、これは風土記を見れば金ヘンで書いてあるが、これは八世紀時点で書く時にスキといえばこの字を使うわけで、スキ自身はそれ以前に、木製で存在しているものです。だから、どれをとっても、金属器でなければならないものは存在しない。むしろ、最大の中心であるというのは金属器以前から必ず存在する。そうなると、「弥生以後」という金属器が現われてきた時代に造られた神話ではなく、金属器が日本列島に流入する以前、つまり縄文時代にこの神話は造られた、と考えざるをえない。縄文時代の出雲の漁民が、彼らの伝統を元にして造ったものである。こういうふうに私は考えてきたわけです。ところが、このような縄文時代に神話を造るなんて、しかも、それが今も残っているなんていうイメージはまったく従来は無かったものですから、当然これに対して賛成する声は今まで学者の中から聞いておりません。ここにいらっしゃる方々、山田宗睦さん、中小路駿逸さんは別ですが、反対する声は出たのです。門脇禎二さんなどは“古田はあんなことを言っているがとんでもない。”と、だいぶ厳しく反発され、きめつけられました。しかし、私にとっては論理の大いなる冒険であり、また私の方法論に立って、その立場からの分析を何重にも積み重ねたところであった。それはあくまで私の論理的な方法論上の、進行からきた止むをえざる自然の結果でありました。別に奇をてらったわけでも何でもなかったのです。しかし、要するにこれは「仮説」である。私の方法に従って文献を、神話を解読すればこうなりますという、ひとつの仮説にすぎないのです。それを証明、裏付けるものは何か、というとものである。つまり、考古学的出土物である。と言いますのは、新羅が出雲と深い交流を持っていたことは、現地の速水さんが繰りかえして言っておられますように、よく知られています。また、越の国が出雲と古くから関係を持っていたことは、これも反対する人はおりません。

〔金且〕(すき)、金編に且。JIS第3水準、ユニコード924F

 となると、もし私の分析が正しければ、出雲とウラジオストックとの間にものの交流がなければならない。その中でいちばんに考えたのは黒曜石です。出雲は旧石器、縄文と、隠岐島の島後(どうご)の黒曜石によって繁栄した、と私は考えました。で、大国主命などが弥生になって出てくるのは、その富の蓄積をバックにしたものである、こう考えました。そうすると、その黒曜石がウラジオストックの遺跡からもし出てくるのならば、私の仮説はもののみごとに裏付けをえたことになる。逆に、全然それはでませんよということになれば、私の仮説はひとつの机の上の仮説でとどまってしまいます。“事実の裏付けは無い。”と門脇さんからのような批判をあびてもやむをえないことになります。
 私は門脇さんから言われる前に、私自身の中の問題意識として、“ウラジオストックの遺跡から出土する黒曜石を見たい”、こういうことで昨年ソ連に行ったわけです。大阪を中心とする一五人の学者の方々に加えていただきました。ほとんどは、政治学、経済学の方々であり、古代史は私ひとりでした。結果は、二週間にわたり、毎日毎日逆転につぐまた逆転という日々を送りました。これもまたおもしろい話ですが、それはこの前にお聞きいただいた方々も、ここにいらっしゃいますので、今日は時間の都合で省略いたします。結局、ウラジオストックには入れたが、肝心の黒曜石は見れなかったわけです。歴史博物館は改装中ですと言われ、日露戦争以後の展示物の会場に連れて行かれました。「こんなものを見に来たのではなく、黒曜石を見に来たのだ。」と交渉してもらったのですが、「許可がありません。」とのことで、まさに涙をのんだしだいです。印象的なことは、私について来て下さった二人のソ連の学者の方と海岸に出たとき、ひとりの方がつぶやかれました。「モスクワは遠いです・・・。」と。その意味は連日、二週間の中でよく判かった。つまり、ペレストロイカという立場からいうと、官僚主義を排除する、ということになっているのだが、実際はなかなかそうはならない、という嘆きなのです。「モスクワは遠いです。」とつぶやかれたのを、クッキリと覚えています。とにかく、そういうことで、状況設定全体については、まさに行った甲斐がありました。例えば「岩石研究所」などは大歓迎してくれました。ウラジオストックの中で。その「岩石研究所」で見せてもらった黒曜石を見ると、こちらの出雲の黒曜石とは、全く異なっているのです。これは将来、ここの遺跡から黒曜石の製品が出たとき、判別の可能性は十分ある、と思って帰ってきたのですが、今回はむこうから持って日本に来て下さった。それはまさに出雲の黒曜石を含んでいた。しかも年代がはっきりしている。縄文時代にウラジオストック周辺の幾多の遺跡の人々が出雲の隠岐島と交流を持っていたという事実を否定することは、もう誰もできなくなった。“縄文には沿岸航海というか海岸から五〇メートルぐらいのところしか往来しませんよ。”と、従来は言っていたのです。いわゆる「定説」的見地です。しかし、とんでもない、そんなものではない、ということもまた証明されました。これは例の倭人伝の「裸国・黒歯国」問題、縄文人の南米との交流問題へと論理的に波及する、ということは私の本を読んでいただいている方にはすぐお感じいただけるものと思います。私にとっては、本当に手の舞い、足の踏むところを知らず、というか全身の浮きあがるような喜びを覚えましたが、私にとって、私の方法の積み重ねとしての、何重にもかさねたひとつの結論、それがものの出土によって裏付けられた、という点において、非常な喜びを感じたしだいです。同時に、また「縄文」というものに対する考え方も大きく改められないといけないだろうということ、また神話という、『古事記』『日本書紀』などの神話というものについて、じつは縄文時代から伝わっているもの、が風土記に残っているという、今までの神話学の常識をまったく打ち破るテーマも、ここから生まれてくるという、さまざまの波及効果を持っているわけです。
 詳しい話はまた別の機会にさせていただくとして、次のテーマに移ることにいたします。

稲荷台鉄剣

 今年の一月に千葉県の市原市で銀象眼の鉄剣が出てきた、というニュースがありました。皆さんも驚かれたでしょうが、私もひじょうに興奮を覚えました。千葉県は東京にいる私にとって近いですから、何回も何回もくり返し通いました。その実体をつかむこと、出てきた遺跡の実像を見る、ということに大変苦労しました。しかし、関係の方々のお力添えによってそれはできました。これも詳しい話は今日はできませんが、キーポイントだけを話します。まず、出てきた文字がどこまで確かな文字であるか、というテーマです。これは、本日ここに同席しておられる山田宗睦さんや藤田友治さんとごいっしょしました「好太王碑」、そこで経験した方法により、(A)(B)(C)(D)(E)と五段階に分け、(A)と(B)の間、(B)と(C)の間というふうにを取り、全部で九段階の分類ができます。(A)が一番確かなもの、(E)が全然はっきりしないものです。
 そのランクで分けてみますと、(B)ないし(B)と(C)の間というランクに入るものが三つあります。それは、表の「王」「賜」「敬」の三文字です。「敬」はふつう我々が知っている文字とは違いますが、こういう字もありますので、まずこれは(B)と(C)の間、または(B)というかたちにランクして良いと思います。ところが裏の方の、この最初の字を「此(この)」と読む。次を朝廷の「廷(てい)」と読みます。これは期待して行ったのですが、私の朝廷多元論からして「廷(てい)」だったら面白いな、と思ったのですが、どうも現在の状況で、「此(こ)の廷(てい)」と読むのはちょっと無理じゃないか。藤田さんたちとつくった基準からすると(C)前後になるのではないかと思います。(C)と(D)の間くらいになるのではないか。将来もっと読めてきますと(赤外線などで)、「此(こ)の廷(てい)」であるということになるかも知れないが、現状では「此の廷」と決めておいて議論するのは大変危い、これはやはり今のところは、やめておいた方が良い、というのが結論です。
 そうすると、表の「王賜敬」という三文字になります。これはいずれも関連しあった言葉でして、王がありますと、その王からこの古墳の被葬者、葬られている人に「賜う」と、こうなります。それから「敬」というのは、その王に対する気持、尊敬を表わす言葉として出てきやすい言葉です。結局、キーポイントは王になります。王とは何者であるか。この点、じつは市原市で出されました『概要』(「稲荷台1号墳出土の『王賜』銘鉄剣、概要発表要旨、昭和63年1月11日」)というものがあるのですが、佐倉にあります国立の歴史民俗博物館の歴史研究部の方が執筆されたものですが、その『概要』を見ますと、ここでいっしょうけんめい「論証」をやっておられるのです。この発掘概要の中で「論証」を展開しているのです。どういう論証かというと、王の正体をめぐる論証です。ここで王というものについて五つ考えられると。例えば 1).大和政権の中心の王者、2).その大和政権中心の王者の縁戚の王、後に「何々王」と言われる人々、3).中央の豪族、また 4).各地の豪族、5).朝鮮半島の百済とか新羅の国王、こういったものが考えられると。ところが、この中で、第一番目の大和政権の中心の王者、後の天皇、その中心の王者と、新羅・百済などの国王、これ以外の場合、つまり天皇の皇族、親戚とか、有力な中央の豪族とか、地方の豪族とか、こういう場合には、たとえそれを王と呼んだ場合でも〇〇王と、固有名詞が付かなければならない。ところがここには「王」とだけあって固有名詞が無い。とすれば第一番目の大和政権の中心の王者、いわゆる天皇、 ーー『古事記』・『日本書紀』の言うーー であるか。朝鮮半島の国王であるか、どちらかにならざるをえない。けれども朝鮮半島の場合には、この当時五世紀半ばですが、だいたい「刀」を造っており「剣」ではない。従ってこれは除外してよい。そうすると残るところ、大和政権の中心の王者(いわゆる天皇)、これと認定してよろしいと、こういう「論証」をやっている。私は報告書というものが「論文」になってしまったなあ、岸俊男さんのなさった「稲荷山の鉄剣」のさいの「論証」以来の方向が、どんどん進んできたんだなあ、という感じがしました。私の気持を率直に言うと、考古学の発掘報告書というものは事実を書く、「理論」や「解釈」ではなく、誰がみても疑いの無い、即物的な事実を書くのが、報告書であってほしい。私はそう思うのですが、どうでしょうか。ところが現在の報告書は、今のように「議論をする場」になっているようです。
 さて、私の目から見ると、率直に言ってこの「議論」にはひじょうに問題があると思います。お世話になった方々が作られた『概要』ですので申しわけないのですが、学問のためにご勘弁を願えれば、問題があると思われます。ようするに、この五世紀というものを、例の岸さんなどが「稲荷山古墳の鉄剣」を通じてつくられたイメージ、五世紀にはもう近畿の天皇家を中心に、西は九州、東は関東まで統一した支配下にあったんだと、これは誰も疑わない前提だと、これを疑うのは学問じゃないのだと、こういう立場に立っているのです。だからその中で、固有名詞なしに「王」とあれば、近畿の天皇家の王者、こういうようになっているのです。現代も、日本列島は象徴天皇制の中ですから、そこで固有名詞なく天皇といえば、東京の宮城に拠する天皇を意味することは疑えないわけです。それと同じ状況を、五世紀の関東から九州までに設定しているわけです。そうすると、先ほどの論理、論法が生まれてくるのです。しかし、五世紀がどういう状況であるかということは、その「議論」を基にして解読の論証、報告書をやるべきではなくて、やはり、あのような金石文はひじょうに貴重なものであるから、それを基に当時の日本列島の政治状況を知るべき第一史料だ、というふうに見るのが私は正しいだろうと思うのです。で、それ以外に史料は無いかというと、この『概要』で取り上げていない史料がある。それは『後漢書』の、例の倭伝、范曄の書いた『後漢書』、そこで倭国には国々にがいる。そしてその中心に大倭王がいる、そこで「邪馬台国」という名前もでてきます。これを私は五世紀の状況を示すと考えます。つまり五世紀の状況において、国々にみな王がいる、こう書いてあります。そうすると、やはり発掘した金石文に「王」が出てくる、これが大倭王とか書いてあればいいのですが、ただ王とあればむしろ小国の王である可能性が十分ある、と考えたわけです。もしこれを一世紀の状況と見なしたとしても、なおさら、五世紀時代なら、当然そうだったということになるわけです。「国々に王がいた」ということになるのです。
 さて、私の理解では確かにこの金石文の特徴は、王と言って固有名詞が無い、というところにあります。ということは、この金石文を造った、あるいは造らしめたのは当然、この刀をもらった人、その人が「王から私に(誰々に)賜わった」とこういうふうに書いたと思うのです。あるいは、書いたものをもらった、と言っても良いのですが。そうすると、この市原の古墳の被葬者、葬られた人にとって、「ただ王と言えば、もうあの人」ということははっきりしていたと、固有名詞無しでもはっきりしていたと、こう私には思われます。ということは何かと言うと、論より証拠といいますか、市原の近辺におびただしい大古墳が造られている。たとえば、「天神山古墳」の規模が一三〇メートル。時期が四世紀。今の銀象眼がでてきた古墳は時期が五世紀半。規模は直径二〇数メートル。ところが既に四世紀にすぐ近所に一三〇メートルの「天神山古墳」がある。次いで、四世紀には他にも「塚山古墳」(一一三メートル)がある。今度は「二子塚古墳」これが五世紀、直径が一一〇メートルの前方後円墳です。その他にも「釈迦山古墳」が四世紀で直径九一メートル。「権現山古墳」が九〇メートルで五世紀末から六世紀初め。以上のようにめじろ押しに大古墳が並んでいるのです。これより下のランクにしても、「富士台古墳」が五世紀で五六メートル、「金比羅台一号墳」が五世紀で五五メートル、のような古墳が近辺にあります。ということは、「養老川」流域には、今言った一三〇メートルから五〇メートルぐらいまでの古墳がずらっと並んでいるのです。そういう中に、二六〜七メートルのこの「稲荷台一号墳」が存在しており、これに先ほどの銀象眼鉄剣が入っていたのです。そうなりますと、もちろん内容や副葬品の話も大事なのですが、もし古墳の大きさ・型からみましても、同じ領域、同じ川の流域にあり、これは同じ国の領域の古墳なのです。そこで同じ時期に「稲荷台一号古墳」よりずっと大きな古墳がある、それは四世紀からあると、こういう状況なのです。そうすると、あの大きな古墳の被葬者は、この銀象眼の主にとっては目上の統率者であったということはまず間違いないだろう。同輩や目下の者が何倍も大きなものを、すぐ側に造ったとは考えられないと思います。
 それだけではありません。今回、この「稲荷台一号墳」からは、金環、銀環、銅環類がいっさい出ていません。ところがこの地域には四世紀から金環が出ているわけです。つまりこの主は銀象嵌入り鉄剣まで持って死ぬような、金属を“愛好”している人物なのに、それが金環、銀環、銅環を忘れてつけずに埋められてしまったとは、まず考えられません。ということは、やはり同じ領域の、金環、銀環、銅環の海の中で、特に金環をあげてみると、それをはめた人物に対して、より下位の身分の人物であった、ということもまた疑うことはできません。おなじ養老川流域、あるいは千葉県にはもっとありますが、この被葬者より、より大きな墳墓をもち、金環を持っている被葬者が、もう四世紀から五世紀にかけていくつも存在している。その人々はこの稲荷台一号墳の被葬者にとって、自分の統率者、直接の主君にあたるクラスの人々であると、こう考えてまちがいありません。『後漢書』の立場によると、「王」と呼ばれる存在、それに当るのです。もちろん、『後漢書』でいっているのは、西日本の筑紫を中心とする「倭国」の領域の話だと思うのです。筑紫を中心とする西日本がそういう状況であれば、とうぜん、近畿や関東でも同じような、同類の状況があるであろう。このように私は考えているわけです。
 現在のところでは、この稲荷台一号墳の直接の目上のリーダー、これがここでと呼ばれている人物であると考えることから“出発する”のがであろうと私は思います。もちろんこれを断定するのではありません。例えばもっとこの金石文が読めてきて、仮に、こんな千葉県かいわいの養老川流域のそんな狭い領域の話ではない、これは全関東を含んだ領域に大王がいて、それに関連した話であるということが読めて、わかってくれば、もちろんそう理解したらいいのです。この王というのが、千葉県以外の関東のどこかの人物であるということが、もし読めてわかればそう考えたらいいのです。さらに、もっと裏を読んで、そこに近畿の大和という言葉がでてきたと、この王は大和の王なのだというような裏付けが読めてきたら、そう考えたらよい。私はなにもこの王を絶対に“関東一円の王としてはいけない”“近畿の王にしてはいけない”とは考えません。
 しかし、現在ほとんど読めていない。ほとんど読めていない状況では、いま言ったような考え方から“始める”べきである。それは今の状況からして、残念ながらそこで終わってしまうかも知れない。しかし、もっと読めてきて、関東一円となるかも知れないし、あるいは近畿中心となるかも知れない。それはどちらになってもかまいません。ただ、それはわからないのに、さっきのような「理屈」をたてて、“もうこれは近畿の王が支配していた証拠だ”と、これでは堂々巡りになってしまう。近畿が支配していたという前提で読んできておいて、読み終わったら、これによってもう近畿が支配していたことがわかる、というような堂々巡りになっていることは一番困ることです。こういうやり方は、私は正常ではないと考えます。
 さらに、おもしろい問題が出てきました。この「稲荷台一号墳」は、実は二つ墓室を持っているのです。主室があり副室があるのです。まず主室がひとつの墳墓の形で造られた。造った人物はおそらく副室の人物です。まだ生きている。で、自分が死んだ時にその同じ古墳の脇に自分の身を横たえた、というかたちです。これを見て、すぐ思いおこすのは、その隣りに埼玉の「稲荷山古墳」が同じく二つの墓室を持っています。そして、粘土槨、主室の方は盗掘されてすでに無かった。ところが盗掘者が見逃した、粘土槨の脇の方から、金の象眼の文字を持った礫床の墓室が現れてきた。この稲荷山古墳はまずこの主室・粘土槨の人物のために造られた。この場合、とくにはっきりしているのは、副室と主室が一部ダブッているのです。副室と主室が一部切り合っているために前後関係がひじょうにはっきりしているのです。だから、あきらかに副室は後から造られている。こういうことが実証できるケースなのです。しかも、この場合におもしろいのは、さっきの「稲荷台一号墳」と違って最初造られるときに、自分が後から入る位置までちゃんと予定されていた。ちょっと中心からずらして、自分が横に眠る、こういう企画をもって最初から造っているのです。で、予定どおりそこに自分が眠っているという姿をしています。PG型(Partner even to the Grave)、つまり、生前パートナーだったわけです。だから、死んでからもパートナーでいたいということ。これにはいろいろなタイプがあって、たとえば夫婦で並んでいる場合もあります。いちばん極端な例は殉葬・殉死です。弥生時代の殉死・殉葬はパートナーとしての極限状態です。これに対して、ここのケースはより普通のケースだと思いますが、主従型と言えます。生きている時も主従、死んでからも主従。もちろん主従と言ってもこの従はその他多勢の従ではありません。必ず右腕、場合によっては血縁的には叔父さんというように、実質的にはかも知れない。そういう第一の、ナンバーワンのなのです。そして死後もいっしょです。これを要するに、「P・G型古墳の中の主従型」というケースである。これが千葉の「稲荷台一号墳」と、埼玉の「稲荷山古墳」に共通しているのです。しかも、おもしろいことには、この埼玉「稲荷山古墳」の金象眼をもって死んだ、副室(礫床)の人物も、このご主人となる主室(粘土槨)の人物も、この「稲荷台一号墳」のことを知っていたと思うのです。なぜかというと、「稲荷台一号墳」の方は五世紀の後半の前半、それに対して、埼玉の「稲荷山古墳」の方は五世紀の後半の後半、五世紀の末に造られています。ということは、つまり千葉の「稲荷台一号墳」が造られたのは、この埼玉の「稲荷山古墳」の主従ともに生きていた時期に造られた。しかも、神聖な美わしい主従の間柄をしめす古墳として関東一円に聞えていたと思われます。とくに、あの頃は、利根川は東京湾へまっすぐ流れ込んでいました。東京湾にまっすぐ下って来たら、すぐその東横に市原があるのです。距離は埼玉と千葉でも、非常に近いのです。だから、当然、そちらの人々は市原のことを知っていたと。そして、それを知っていた埼玉の副室の人物が自分のご主人が死んだ時に、今度は「企画」をして、こういう「設計」で“予定どおり”の形で葬られた。こういう時間関係になっているのです。
 となりますと、いよいよ従来の一元史観の読解のように、岸俊男さんがやられた、大王は「獲加多支歯*大王」=雄略である。それが「左治天下」・・・とこう結んでいる。としたら、そうすると、どうなるか。今の副室の人物は「自分と近畿の天皇との間」だけを強調した、肝心の、生前はもとより死後もお供しますと言っている主室の人物のことは知らんと、一笑に付して歯牙にもかけないという金象眼銘、その剣を抱いてそばの副室に眠っている。 ーーこういう話になってしまうのです。これはとてもありうる話ではありません。当然ながらこの金象眼の銘文中の大王を「主室の人物」としてこそはじめて、生きている時、わたしはこの大王を、ナンバー・ツーとして補佐した、だから、死んでも離れず、あなたのお側にいるのです、ということになるのです。だから、やっぱり岸俊男さんの仮説は否定されざるをえないと思います。もちろん、学者の中で賛成する方もでてきておられます。青山学院大学の名誉教授だと思うのですが、鶴岡静夫さんという方が、わたしに手紙を下さり、あなたの稲荷山鉄剣の解読にはまったく賛成である。だから、自分もこの立場から論文を書いてお送りすると言って、青山学院大学の『紀要論文』を送って来られました。また、鶴岡さんが中心になって論文集を発行されるということですが、今年のうちに出ますが、私に「大和政権と九州王朝」という題で書いて欲しいという話がありました。私は「九州王朝と大和政権」という題なら書きましょうと言って、快く承諾していただいたので書きました。

獲加多支歯*の歯*は、歯の造字。占の中に九。カタシロ大王

 というように賛成して下さる方も出ているわけですが、やはり、今回の市原市の「稲荷台一号墳」は、その文面そのものが、ひじょうにまだ未確定です。未確定と見なす方が私は本当だと思うのです。わからない文字がたくさんあるのに、わかったように書くことの方が、私はかえって怪しいと思うのです。ところが、はっきりしていることはこの「稲荷台一号墳」がPG型、PG主型古墳だということ、これはもう動かせない、はっきりした事実です。それを無視することは、あまりに重大な問題を含んでいると思います。今日はこの点を申し上げておくところまでにしたいと思います。なおこれに関連して、おもしろい問題がでてきたのですが、それは昭和薬科大学の『紀要』(昭和六十三年度・二二号)に書きました。

多賀城碑

 次に申し上げたい点は、「多賀城」についてです。東北地方、仙台のすぐそばに「多賀城」というところがあります。ここに「多賀城碑」と呼ばれる石碑があります。それについては、以前に講演で述べたこともあり、『市民の古代』(第八集)にも載せていただきました。ところが、その後、おもしろい進展が若干みられましたのでその点を簡単に述べたいと思います。仙台で最近読者の方の会がひじょうに盛んでして、外里さんという方のお世話で、大へん進化発展をみました。その中で、酒井良樹さんという方が私の『市民の古代』に載った「多賀城碑の解読」に対して、大いに批判をしていただきました。それに対してお答えする中で、私自身も新しい発見に到達することができたわけです。そのポイントをお話ししますと、私の解読自身、初めての方もいらっしゃると思いますので、ごく簡単に申します。それは、まず、多賀城が「去京一千五百里、去蝦夷国界一百廿里、去常陸国界四百十二里、去下野国界二百七十四里、去靺鞨(まっかつ)国界三千里・・・」と、こうあるのですが、その方角が書かれていない。つまり、蝦夷国界とか、常陸国界とか、下野国界とか靺鞨国界との表現がありますが、国界といっても、四方に国界があり、少なくとも海を別にしても、三方ぐらいは国界があるはずなのに、どちらの国界かとは書かれていません。だいいち、距離だけ書いて方角がないのはおかしい。『倭人伝』などをみてもおかしいわけです。また、『漢書』西域伝などをみますと、最初に方角が書いてあり、西域ですからまあ西ですが、あと長安を去る何里、何里と、方角が無いのです。方角がないということは、最初に記したから無いのです。その点、従来、見逃されてきたのは「西」という大きな字です。これが実はそれを示すのではないか。「京」が西にあるということは多賀城から見て当然なのですが、「京」にだけ掛けるなら、「京」のところだけ「西の方京を去る・・・」という調子で書けばよい。ところがに書いてあるということは、この「京」だけでなく「靺鞨(まっかつ)」までぜんぶ「西」が掛かっている、それを前提に読んで下さいという意味ではないか、と考えました。これが第一点です。そうすると、この里数解読でいちばん大きな難点になってきた「去常陸国界四百十二里、去下野国界二百七十四里」というのが、従来説のように、常陸の国や下野国の、現代でいう北側のを指すとした場合には、だいたい多賀城から似た位の距離なのです。距離四百台と二百台というような、それほどの違いにはならない、ということが指摘されていたのです。
 ところが、これを「西の国界」とすると、西という場合は、JRでいう東日本、西日本の「西」のことです。つまり、東西南北の四方向で見た場合、東北・北海道をと見るかと見るか、どちらでもとれます。それをととっているのだと。これは、『日本書紀』でも、陸奥の蝦夷のことを「東の蝦夷」だといっている。「北の蝦夷」とは、越の国の蝦夷だと、こういう記事が斉明紀に出てきます。要するに、東北といっているところを東といい、逆に京に近い方を西ととっている。西の国界ということになると、下野の場合と常陸の場合には段差があります。つまり、常陸の国界の方がだいぶ下がっており、多賀城から離れています。しかも、鹿島神宮の鹿島は現在神社ですが、当時は鹿島といえば常陸の中で、ひじょうに重要な宗教的・政治的・軍事的な拠点です。その鹿島を通って常陸に南辺(もしくは西南辺)から京へ向かうとなると、一段と距離が長くなります。そうすると、四百十二里に二百七十四里という段差ができるのではないか、というふうに考えました。次に、第二点は、従来の考え方では、多賀城は陸奥(むつ)の国にある、こう考えていました。ところが私が考えますところ、ここには「陸奥国」が無いのです。京・蝦夷国・常陸国・下野国・靺鞨国とだけあって、陸奥国というのが無いわけです。その無いものを根拠にして読むのはおかしいのではないか。「蝦夷国界を去る一百二十里」というのは、従来では、宮城県の北の県境と岩手県の南の県境、そのあたりを指すと考えられていました。これを逆に、わたしは、仙台から南、今の宮城県と福島県との境、もちろん、だいたいなんですが、その辺までをここで一百二十里と言う、と考えたわけです。つまり、多賀城は蝦夷国の中にあるという表記法ではないか。こういう蝦夷国中心の読法、従来説を「陸奥国中心読法」というならば、新たに「蝦夷国中心読法」をひとつの仮説として指示したわけです。今回、酒井さんからのご批判を受けて、さらに考えていると、この中心読法というのは(酒井さんは「多賀城中心読法」が正しい、と言われまして、それもたしかにそう言えますが)、これは、を中心とする言葉である。という言葉がちゃんとあり、これは奈良の都をさしている、そして、天皇家の年号が二つも入っているのだから、大義名分上は、「京中心読法」というのが正しい。その立場に立ちますと、実は多賀城からみて西の国界といっているのは、からみるといちばん近い国界となるのです。なぜ多賀城から飛び越して、自分に近い方の国界を飛び越して、こちら(西の国界)を言うのかという問題があったのですが、京を中心にみれば、これにいちばん近い国界が、ここでいう「西の国界」だといわれるのではないか、という問題がひとつ。重要なのは、もう一点「靺鞨国」のことです。これは、蝦夷国のもうひとつ北側、ここでいう東側に「靺鞨国」を考えようとすると、三千里ということです。これは多賀城からまでが一千五百里、これの二倍の距離を、ずっと北海道のむこうにとらなければならない。地図で見ればわかりますが、だいたい樺太の北の端ぐらいになります。そこから北はオホーツク海です。そういうことで、どうも変だと思っていたのですが、ここでも酒井さんのご批判を契機に考えてみると、これはやはり、「靺鞨の西の国界」と、こうとるべきではないか。
 と考えると、靺鞨とはいったいどこか、ということになった。調べてみると『旧唐書』に、靺鞨に二種類あって、粟末(ぞくまつ)靺鞨と黒水靺鞨の二種があると書かれています。粟末靺鞨というのが渤海(ぼっかい)です。その東北の方でばんばっていたのが、黒水靺鞨。黒水というのは黒龍江です。その周辺から樺太あたり、そういう地帯に領域のあった靺鞨。この時期に靺鞨というと黒水靺鞨をさすようになっていた。しかもその靺鞨には英雄がでます。中国名、李謹行といいます。「夷人(いじん)の憚(はばか)る所と為る」。夷人とは東夷の人です。新しい日本国も入ります。昔からの倭国も入ります。それら、当時の人々は靺鞨の英雄と強い財力・軍事力およびすぐれた文明に接して、非常に敬意を表する、恐れ憚るところとなっていた。このように中国側で観察して書いているのです。そして、その後、六七六年、七二五年、七二八年、これが多賀城ができた頃の記事なんです。この多賀城のできた時期において、靺鞨国というのはひじょうに強大な勢力を持っていた。そして、日本列島やその周辺の朝鮮半島の人々に非常に恐れられつつ、敬意をもってみられていた。ということが、中国がわの観察なのです。我々はなんでここの多賀城碑に靺鞨のことがでてくるのかと、何か不思議なようにも思われていたのですが、以上の観点からすると、たいへん筋のとおったことになるのです。要するにこれはウラジオストックより、さらに北に上ると、大きな湖がありますが、そこの辺の「西の国界」に到る距離を三千里と言っているようです。
多賀城碑金石文と史料批判の方法─黒曜石・稲荷台鉄剣銘・多賀城碑など─古田武彦

 

「大化」と宇治橋断碑について

 さて、最後に、宇治橋断碑の問題を話すことにします。これこそ、ポイントをズバリとお話し、後で機会を得て、また詳しくお話をしたいと思いますが、私が『失われた九州王朝』を書くとき、この問題にとり組みました。「九州年号」という問題にぶつかったからです。で、この内容を検討すると九州年号というものは、どうしても偽作された年号ではありえないという結論を得ました。ところがその場合に問題になったのは、『日本書紀』の近畿天皇家の年号とされている年号とダブっている年号がでてきます。これは、ひとつは「白雉」(孝徳天皇の後半)、それから「朱鳥」(天武天皇の末年)、これは、同じ年号を九州王朝と近畿天皇家と両方が制定するということはありえないから、九州年号が実在とすれば、結局九州年号の二つの年号を天皇家は「盗用」している、他から持ち込んで、しかも「自分の年号」であるかのように書いてある。というふうに判断したわけです。ところが、そのさいに障碍になった、問題になったのは、取り残されたのは、「大化」でした。これも九州年号の中に、“見え隠れ”してあるのです。ところが、年代が先の場合とちがってかなりずれている。『日本書紀』の「大化」は六四五年であるのに対し、九州年号がわの「大化」は七世紀の終りごろに近いところに、出没している。各文献において少しずれるのです。それがひとつと、それ以上に大事なことは、宇治橋という、ここ(大阪市)に近い所に「金石文」がある。京都の宇治です。そこに「大化二年」で干支(えと)が「丙午」と書いてある。六四五年にあたる形で書いてある。金石文である以上、これを簡単に否定するわけにはいかない。したがって、残念ながら、“涙をのんで”これを「保留」したわけなんです。
 ところがこれに対して勇敢に取り組まれたのが、丸山晋司さんです。『市民の古代』(第五集)に「『大化』年号への疑問」という論文を書かれました。私に、「古田さん、反論して下さい」と言われたのですが、「『反論』なんてとんでもない、私は『大化』が邪魔になってしようがない。三つとも、あれは九州年号からだ、と言いたい、ところが『宇治橋』が越えられないから、できないだけなんですよ、頑張って三つともなんとかして下さい。」というようなことを、丸山さんに言っておりました。ところが、最近、藤田友治さんが宇治橋断碑に取り組まれて、今日の資料にも藤田さんから提供していただいたものが入っていますが、どうもこれは乗り越えられると、詳しくは藤田さんの論文が『市民の古代』に載ると思いますので、今は簡単に結論だけを言いますと、あそこに出ている年号は、記述対象の文面中である。執筆時点の文面中ではない。つまり記述内容に年号が出てくる場合、これを(A)とします。ところが石碑ができた建立年代が裏に書いてあったり、その文面の最後に書いてあったり、これを(X)とすると原則として(A)≠(X)と考えねばなりません。もちろん、(A)と(X)が一致する場合があってもいいのですが、これはむしろ例外であって、今年のことを今石碑を立てて書くというケースも、例外的にはありうることです。ところが普通は、五年前とか、十年前とか、五十年前とかのことを石碑に書くわけです。それは石碑ができた年代と、書かれた文面に出てくる年代とは原則としては、別なのです。今回、正面から取り組んで、何か今まで障害だと思ってきたのが馬鹿らしくなりました。竹内理三さんの『寧楽遺文』の金石文の項目の中に、ちゃんと「大化」年代(七世紀中葉)の中の項目に並んでいるのです。それはあくまで記述対象の年代であって作成年代を指しているのではないのです。建立年代ではないのです。
宇治橋断碑 金石文と史料批判の方法─黒曜石・稲荷台鉄剣銘・多賀城碑など─古田武彦

 だから、建立年代は七二〇年以前か、以後か、それが問題です。七二〇年というのは、『日本書紀』ができた年です。『日本書紀』では七世紀中葉に「大化」をあてて書いてあるのです。七二〇年以後に石碑を建てたとすれば、七世紀中葉のその時のことを書くには「大化二年」と書いて当然なのです。要するに、金石文とはかならずしも、同時代資料とはいえない、ということです。極端な話をすればわかりやすいのですが、紀元は二六〇〇年、私の少年時代、昭和十五年に、全国あちらこちらに石碑が建てられました。そこには「神武天皇は辛酉の年に即位せられしより・・・」と書いてあります。あれも金石文です。だが金石文に書いてあるからといって、「神武天皇が橿原の宮にあの時(B・C六六〇年)即位したのはまちがいない。」・・・ということにはならないわけです。金石文が建てられた年代(昭和十五年)と、それに書かれている年代(B・C六六〇年)とは(A)=(X)でないわけです。これはいちばん極端な例です。でも一般的にこの問題があるのです。だから、宇治橋断碑の文面に「大化二年」とあったとしても、丙午之歳とあっても、それはけっして障碍になることではないということです。もし宇治橋断碑を『日本書紀』を正しとする裏付けにしようとする論者があれば、最低限、この石碑が「七二〇年以前の成立」であることを証明したあとでなければなりません。それが問題の出発点です。あと、藤田さんが問題の様式論(塁線等)から精緻な研究をなさいました。いずれ発表されると思います。(編集部・本号に掲載。一六二頁を参照下さい。インターネット事務局注記 日本古代碑の再検討 宇治橋断碑について で論じられています。)
 となりますと、晴れて三つともそろって「九州年号」から入ってきたことになります。この考えは私が初(※)めてではなく谷本茂さん(「周髀算経」の研究をして、短里を見出された方)が発表を既にされています。丸山晋司さんが発表された翌年(一九八四・一二・一六)に東アジアの古代文化を考える会の研究発表会で発表されました。そこで、「三つとも日本書紀の机上の造作の可能性大」とレジュメに書いておられます。やはりそうだったのです。この点でも、また丸山晋司さんがひとつの新しいイメージを出しておられますが、今は時間がないのでそれは省略します。しかし、丸山晋司さんも結論として、「あの三つとも近畿天皇家の年号ではない」ことについては、まったく一致しておられます。丸山さんの提起しておられる問題は別に、また検討を行うこととして、今の問題は次のようです。じつは、「『日本書紀』は九州年号の表を横において書かれたものである。その中から三つだけサンプルにとって、使っている。」ということがわかってきました。なぜそういうことをしたか。ちゃんと先例があるのです。「神功紀」、『倭人伝』の中から卑弥呼に関する、三つの文を使っている。そして、西晋の「起居注」から壱与に関する一つの文をとって使っているのです。あれを使うことによって、「実は中国に行ったのは神功皇后という方の使者なのだ」と。もしそうでないという人があるのなら、それはまちがいですよと。「正しい歴史では、神功皇后が魏に、あるいは西晋に使いを送ったのだ」ということを正史に収めた。だから九州かどこかで違うことをいうような人物がおれば、それは「嘘の歴史」を語っているものとする、今後、七二〇年以後。同じく九州年号も、「実はこの三つは近畿天皇家が制定されたものである。だから、今後、それを含むような一連の年号のことを言うような人間があれば、それは『偽りの歴史』を言っているものと考えればよい」と。こわいような話です。もうひとつは、雄略天皇の遺詔、死んだ時の詔勅文、隋の文帝(高祖)の遺詔のそっくりさんを使っているのです。「あれが雄略天皇の正しい詔勅だ、と雄略紀に述べられている。正しく、このように定められている」と。とすれば、もしこれより後、隋の高祖とかいった人物が同じようなことを言ったら、彼らが「真似をした」のだ。「我が雄略天皇の遺詔を猿真似したのだ」と。隋はそれほど、いやらしい国であると。『日本書紀』が尊重したのはです。終始一貫であります。隋が一回でてくる煬帝の遠征軍の将兵は、みじめにも高麗で捕虜になり、その後始末の相談をうけたことを書いてあるのが、唯一の隋の記事です。もうひとつの「隋」に当る記事が今の「雄略天皇の、詔勅を真似している」というところです。それに対して輝ける唐帝はすべて、すばらしい天子たちであると。これが『日本書紀』の立場です。私はこの問題に正面からぶつかって、本当にぞっとしたのですが、これを一言で述べますと「真偽逆転の論理」といえます。だから、先ほど、山田さんが話されました、景行天皇とか仲哀天皇のことにしてもそうなのです。「あれが正しい天皇家の業績」と正史は「定めた」のです。あれと似たようなこと(九州年号)を九州あたりで、言う者が出てきたら、それは「偽りを述べている者」であると。そういうかたちで天皇家の歴史を、まさに造成した、新たに「造り定めた」のです。それが『日本書紀』という歴史書、しかも「正史」のとった態度である、という結論に到達したしだいです。
 あと『旧唐書』の問題も『昭和薬科大学紀要』(第二二号、昭和六十三年)に書きましたので、そちらで御覧下さい。以上で終わらせていただきます。(拍手)

※編集部注「近畿天皇家が大化等の三つの年号を盗用した」という論は、丸山晋司氏が「『大化』年号への疑問」(『市民の古代』第五集、一九八三年)において発表されたことがある。


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