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九州年号ー古文書の証言ー 古田武彦講演記録
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藤田友治
本年一月七日に昭和天皇が死去して、一月八日から「昭和」を「平成」と元号を換えた。政府は官公庁や教育機関を通じて元号を強制し、また、民間においても官房長官が元号を遵守するように「協力」を呼びかけた。
だが、今日の国際化した社会にあって、日本の元号は外国の人びとと共通の時間の尺度をもつことに困難をともなう。それ故、パスポートは西暦となっているのである。
時間は過去から現在、そして未来へと悠々に流れていく。大河の水と同じで、一刻、一瞬たりとも止めることができない「永遠の今」の連続である。この時間の流れに抗して、有限な存在者である人間が、政治的、思想的、宗教的、慣習等の理由によって人為的に区切ってきたものが、年号であることは自明である(今日の日本の元号は天皇制によっている。西暦もキリスト教という宗教に基礎を置いている)。
私たちが歴史を学ぶのは、それ(出来事・制度等)がよってきたった理由、背景、原因をたずねることにより、真実を探究することが、今日および明日をどう生きるかに役立つと信じるからであろう。
天皇が死去して翌日から年号が換わるというあわただしさは、日本の伝統であったのだろうか。今日の一世一元の制は明治維新によって確立した近代天皇制によるものであるが、そもそも天皇の践祚後直ちに改元された例はほとんどなく、むしろ即位後二、三年の大嘗祭の際に改元される例の方が多いのである。
さらに、天皇の治政が変わっても、改元されることなく相当期間にわたって元号が続いているケースもある。例えば、「天平宝字」(七五七〜七六五年。孝謙女帝〜淳仁天皇)、「応永」(一三九四〜一四二八年。後小松天皇〜稱光天皇)、「天正」(一五七三〜一五九二年。正親町天皇〜後陽成天皇)などである。このことからも判明することは、今日の日本の改元のやり方は、古代からの日本の伝統であるとはいえない。
一世一元の制は中国の明朝の太祖の元号「洪武」(一三六八〜一三九八年)から始まったものであり、清朝もこれを継承したのを、日本は明治維新以後模倣したのである。これは王制(日本では天皇制)の下に時間をも臣民として明確に縛りつけるものとして機能させるためのものである。
「明治」〜「平成」という元号の出典は次のようだ。
「明治」は『易経』の「聖人南面而シテ聴キ二天下ヲ一嚮テレ明ニ而治ム」および『孔子家語』の「長ジテ聡明、治メ二 五気ヲ一、設ケ二五量ヲ一撫ス二万民」からであり、「大正」は『易経』 の卦「大亨以正ス二、天之道ヲ一也」からであり、「昭和」は『尚書』の「百姓昭明、協和万邦」からとっており、いずれも中国の古典をその典拠としている。
そして、「平成」は『史記』の五帝本紀の中にある「内平かに外成る」、『尚書』の下禹謨の中から「地平かに天成る」という文章から「平」と「成」を組み合わせたものである。
このように、元号制度は全て中国の君主制の思想や制度に依拠しており、本来的に日本の伝統などではなくて、中国を模倣として作られ、今日なお存続している。しかし、中国は元号をやめ西暦を使用しているのである。
では、本来の日本人の時間観念はどのようなものであったか。さらに、東アジア(中国、朝鮮、日本など)の年号の始源および年号観はいかなるものであったか。これらの問いに解答を求めてみよう。
日本人の時間観念を探索することができる最も古い文献は、三世紀の『三国志』魏志倭人伝、裴松之註の「魏略に曰く。其の俗、正歳四節を知らず。但し春耕・秋収を計りて年紀と為す」にみることができる。この文章の意味するところは、「倭人の習俗は中国の暦法(太陰暦)の正月や四節を知らず、農耕の『春耕』と『秋収』の時点を計測して『年紀』としている」というのである。
さて、この文章の解釈には次の二通りがある。
(1) 倭人は中国の暦は知らないが、春耕と秋収の時点を計測して、それぞれを年紀としている(古田武彦氏『古代は輝いていたI 』)。
(2) 倭人は、四季なんか知らず、ただ春に植えて秋に収穫することを一年としている(張明澄氏「一中国人の見た邪馬台国論争」『季刊邪馬台国』13号)。
それぞれの解釈の分岐によって、次のような立場が成立する。
1) 倭国に「二倍年暦」あり、と見なす。
2) 倭国にも「通常年暦」のみ、と見なす。
この二つの仮説は当然にも両立せず、相矛盾する。両解釈が分かれる点を除くと、「倭人は中国の暦ではなく、倭の年紀法をもつ」という情報が得られるであろう。この情報量では、両仮説のいずれが正しいか、判定できない。そこで、検証しよう。
日本民俗学が各地の伝承、口碑を解明したところによれば、日本人は稲作過程でいかに季節感を大切にしていたかが解る。
「山木蓮が咲くと籾蒔をせねばならぬ、散ると田植を始めにやならぬ」
「コブシの花が咲くと畑豆を蒔かねばならぬ(1) 」
つまり、支配者が元号などの官暦・制定暦を定める以前から人間の生活の知恵として、自然界の変化から農耕や狩猟に役立て、生活のリズムをなしていた自然暦が存在していた。自然暦は大自然の気候の変化、動植物の変化に基づいている。「正歳四節を知らず」という文章は、倭人は中国の暦法(太陰暦)を知らないと証言しているのであり、四季を知らないと解することは著しく道理に反する。日本は温帯気候に属し、春夏秋冬が明瞭に分かる(本州・九州・四国)。従って、「四季」を知らないという意味は不可解であり、年紀を中国とは異なる尺度で計測していると解する他はない。では、日本人は年紀をどのように数えたか。
一年を二歳とする二倍年暦論は今から百年以上前から主張されていた。一八八○年(明治一三)ウイリアム・ブラムゼンは『日本年代表』において、「○1 神武天皇から仁徳天皇までの17代の天皇の寿命の平均は109歳、○2 履中天皇から寿命が短かくなり、履中以降17代の平均寿命は61歳。○3冬至と夏至の間、春分秋分をもって一年と数える暦によった」とする「一年二歳論」を主張した。(2) そして、ウイリアム・アストンは倭人の年紀に関する裴松之の註に関して、「しかし、故ブラムゼン氏が、もしこの文を知っていたならば、日本人は仁徳天皇時代まで、春秋の間の六ヵ月をもって一年としたという自説の一つの証拠としたであろう(3) 」という。
その後、この考え方は独自の数理文献学を用いて、古代の天皇の平均在位年数を算出し、『古事記』『日本書紀』の分析から「一年二歳説」の可能性として認める安本美典氏に引き継がれている。 (4)
ついで、安本氏と異なって『三国志』魏志倭人伝の「年数」および『三国遺事』の駕洛国記の分析から入り、『古事記』や『日本書紀』へと発展して「倭国の暦」を追求し、二倍年暦説を提起したのが古田武彦氏である(『古代は輝いていたI 』「第二章『倭国の暦』)。
魏志倭人伝に現われる倭人の寿命は「長寿」が多い。「其の人の寿考。或いは百年。或いは八、九十年」「其の国、本亦男子を以て王と為し、住(とど)まること七、八十年。」
当時の食糧事情、医学等を考えれば、この記事は「長寿国」としてのイデオロギー上の偽作か誇張と考える他はない。しかし“二倍年暦”という仮説のみが十分合理的に説明しうるであろう。ただ、この仮説を承認しない人にはなお解釈上平行線をたどる。そこで、文献上の根拠以外に確かな証拠の必要性を痛感していたが、民俗学を学ぶことから、その根拠を示すことができるように思えるので、次に簡明にのべる。
古田氏は「(ただ、これは ーー二倍年暦をさす。藤田註ーー 記紀といった公式記録の場合であるから、一般の民間等には、その後も残りえた可能性は十分あろう。)(5) 」と課題を明確に残していた。
これは民衆の生活史を学的対象とする民俗学の分野に入らねばならない。民俗学者たちは日本各地の年中行事を研究して、「一年が両分される」という事例に出会っていたのだ。つまり、今日のように正月から十二月までを一年と考えず、一年を二期とし六月を一つのエポックとして二分すると考えざるを得ない行事が、全国各地に伝承されている。この事実から、「結局この六月一日の行事をみると、暦法普及以前の段階に年を二度改め、再生することを願う人々の心意をうかがうことができる (6)」と結論づけている人もあるのである。
ではこの結論を根拠づけている六月一日の行事を次に示そう。
(1) 「コオリノツイタチ(氷の朔日)」系・・・京都、滋賀、兵庫、福井、石川(一部)。
(2) 「ハガタメ(歯固め)」系・・・青森、秋田、岩手、山形、宮城(一部)、奈良。
(3) 「キヌヌギツイタチ(衣脱ぎ朔日)」系・・・新潟、長野。
(4) 「ムケノツイタチ」系・・・宮城、福島、茨城、栃木(一部)。
(5) 「浅間サン」系・・・千葉、埼玉、東京、茨城、栃木(一部)、三重。
(6) 「六月ヒテイ(一日)」系・・・岡山、広島、香川、愛媛。
(7) 「厄払い」系・・・大分、熊本。
(8) 「正月」系・・・島根、鳥取、福井(一部)。
(9) 「イリガシボン(煎菓子盆)」系・・・石川、富山。
以上(文化庁編『日本民俗地図』参照)。
これらは何を意味するのだろうか。各地域の表現形態の違いは、それぞれの地域毎の文化圏を意味していよう。そして、表現形態の違いを越えて、“六月一日が重要な折り目である”ということが共通した原型であり、“年祝い”をすることである。
たとえば、(7) の「厄払い」系である福岡、熊本、佐賀、大分の諸県では、六月一日に「厄払い」、「厄払い祝い」という。福岡県浮羽郡浮羽町では、「厄払い、ヘコカキ、イモジカキ」といい、ヘコやイモジは男女問わず子供が七歳になると氏神に参拝し、近所に赤飯を配る。子供の成長儀礼をなぜ六月一日に「厄払い」として行なうのだろうか。この問いは、佐賀県佐賀市鍋島町の六月一日を「半歳ノ元旦」とよぶ行事を分析すると解明できる。行事内容は、正月の餅を水につけて保存しておき、これを雑煮の代わりに朝食とし、「半歳の内祝い」を家ごと行っていたという。(7) つまり、正月の行事に他ならない。
この地が、最近『魏志倭人伝』の記述の信憑性を高らしめることとなづた佐賀市の吉野ヶ里遺跡の近くであることは示唆的である。『魏志倭人伝』の記事にある「楼観、城柵」等が吉野ヶ里遺跡の発掘調査によって、文献と考古学との対応関係が明白となった。倭人が中国の暦ではなく、「半歳」を一年とする暦をもつことを認識した場合の表現が、「其の俗、正歳四節を知らず。但ヾ春耕・秋収を計りて年紀と為す」と記されることとなったものと思われる。
一年を「二年」と考える二倍年暦は、今日の私たちには奇異なことではあるが、民俗学が明らかにしたところによれば、私たち祖先の古くからの年紀法であり、この暦によって『古事記』・『日本書紀」等の解読がなされねばならないのである。二倍年暦論は学問的仮説として、文献学のみならず、民俗学上の根拠をもつ説として十分検討さればならないだろう。
では、一年を今日の私たちが区切りとする一年(正歳四節)にし、また元号制度などの源流である中国・朝鮮をたずねてみよう。
東アジア文化圏の中で、年号は中国を源流としている。中国においても二倍年暦が行われていた可能性がある。
藤堂明保氏の『漢字の起源』によれば、「歳」は「穂が垂れて刈り取れるようになるまでの期間」をさすから、約半年間であり、対象とする穀物の種類によって異なった「季」がある。黍(きび)と麦とでは穂が垂れる時期が異なるからである。貝塚茂樹氏編集の『古代殷帝国』によれば次のようだ。
禾(か)季(上半年、すなわち後世の春夏)と麦季(下半年、すなわち後世の秋冬)とに分かれる。禾季は禾類(黍きび 等)のできるとき、麦季は麦類のできるとき。卜辞の「春」「秋」はそれぞれ禾季と麦季にあたる。
「甲骨卜辞」の中には「十三月」と記したものがあり (8)、最古の文献といわれる『書経』の中に、「期は三百有六旬有六日、閏(じゆん)月をもって四時を定めて歳を成す」とあるところから、「閏月」をおくようになってきた。つまり、二倍年暦から「正歳四節」への発展である。閏月は、太陽と月の運行のかみ合わせの差をどのように埋めるか工夫したものである。
一年のうちに月がほぼ十二回満月を迎えるところから、初期の天文知識を基に十二進法が考えられ、十二支が成立した。本来、十二支は自然の生命の発達段階を示しており、今日の通俗化した動物名(鼠ね・牛うし・虎とら・・・・・)は後世付加されたものである。
漢字の語源をたずねれば次のようだ(『大漢和辞典』より。子・丑・亥を示す)。
「子ね」とは「万物」をいい、天地間の生物を意味し、「種、果」をいう。
子猶二万物一也。(『漢書』戻太子傳)
「丑うし」とは「生まれて始めて手をあげる」ことをいう。
丑、紐也。十二月、万物動用レ事。象二手之形一、日加レ丑、亦擧レ手時也。(『設文』)
「亥い」とは「男女陰陽が相交はって子を生ずる義である」。
このように、十二支は自然の生物の発達段階をいうのが原形であり、陰陽五行説の台頭によって、十干十二支に組み入れられたのである。
「元号」は漢の武帝の時に、王権の権威を一層貫徹するイデオロギー的支配として制定された。この元号は「建元」(紀元前一四〇年〜前一三五年)に始まり、「元光」(前一三四年〜前一二九年)、「元朔」(前一二八年〜前一二三年)と連続していくが、天の瑞祥(ずいしよう)によって次つぎと改元された。これは、専制帝王の恣意性にもとづき、神仙の術として「奇怪な神々(9) 」を祀らさせていたことによるものである。
瑞祥を良いできごとの前兆、しるしとして天人相関の思想によって元号を変える祥瑞改元は日本にも大きな影響を与えている(「大宝」七〇一年から、「元慶」八七七年までの元号をみると分かる)。
ついで、朝鮮の年号を探究しよう。朝鮮には「独自な年号はなく、中国の元号を用いた」と考える学者が多い。王健群氏も「中原(中国 ーー藤田註)の暦法に従い、干支による記年も同じであったから、独自の年号はなかったはずである(10) 」という。集安で発見された高句麗の瓦当(軒先丸瓦)に「太寧四年」の四文字があり、晋の年号(三二六年か)と考えられている。前一〇八年以後、漢の朝鮮四郡が設置されたことから、漢の元号の影響があるとはいえる。しかし、民衆にも影響があったとはいえず、高句麗最盛期の好太王の頃は独自の紀年を用いたとも考えられる。
好太王碑文に「永楽五年歳在乙未」(一面上行)とある「永楽」は好太王の号であり、好太王の治政の間は一貫してこの紀年が用いられている。
永楽五年乙未(一面七行、三九五年)。
六年丙申(一面九行、三九六年)。
八年戊戌(二面五行、三九八年)。
九年己亥(二面六行、三九九年)。
十年庚子(二面八行、四〇〇年)。
十四年甲辰(三面三行、四〇四年)。
十七年丁未(三面四行、四〇七年)。
廿年庚戌(三面五行、四一〇年)。
好太王碑文は「永楽」の年号を示すだけではなくて、「永楽」年号の前後は干支を用いて年紀としていたことも示している。
好太王の即位前(三九一年)は「辛卯年」(一画九行)と記されており、好太王碑の建立を記す「以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績」(一面六行)の「甲寅」(四一四年)となっており、干支のみである。ここから、好太王の時の名号である「永楽」は同時に元号としても独自に機能していたことと、その前後は干支で表記していたことが明確である。つまり朝鮮最古の年号である。
(表示は論証に直接関係しません。異体字も多いので文字表示は略、)
新羅においては干支から始まり独自の元号へとすすんでいった。干支の使用例として最も古いものとしては、最近発見された三面碑(慶北迎日郡神光面冷水二里・李相雲所有畑)がある。碑石は高さ六七センチ、幅七二センチ、厚み二五〜三〇センチの花崗岩に三面にわたって二二九字がある(慶北道文化財委員・金英夏氏調査報告による(11) ).
この碑の設立年代を記している「癸未年」(四四三年)は、「辛未年」(四九一年)の可能性がある。(12) 「辛未年」であってもなお今日知られている金石文中最も古い碑である。
六世紀になると、新羅は独自の元号を使用し始めた。一九二六年発堀の瑞鳳塚出土の銀製蓋付鋺の銘文は次のようだ。
延寿元年太歳在(辛)卯三月中
大王敬造合杵用三斤六兩
この紀年法は「元号(延寿) + 干支(辛卯)」という形に発達したことを示している。「延寿元年辛卯」とは五一一年と考えられる。
『三国史記』では新羅独自の元号を七例数えることができる。
元号 干支 西暦 王
「建元」(丙辰、五三六年、法興王二三年)。
「開国」(辛未、五五一年、真興王一二年)。
「大昌」(戊子、五六八年、真興王二九年)。
「鴻済」(壬辰、五七二年、真興王三三年)。
「建福」(甲辰、五八四年、真平王六年)。
「仁平」(甲午、六三四年、善徳王三年)。
「太和」(丁未、六四七年、真徳王元年)。
新羅の元号は、高句麗の好太王碑の「永楽」にみられる一世一元制とは異なり、王の即位や践祚には関連がみられない(但し、真徳王元年を除く)。むしろ、中国の元号制を源流としたとも思える「建元」から連続年号の最初を置いている。また、「大昌」や「建福」等は慶事の祝福とみられる祥瑞改元と思われるが、「開国」のように政治的改元とみることができる元号もあり、独自性がある。
百済の元号は、「建興五年歳在丙辰」「忠清北道忠州郡出土金銅仏光背銘)の例がある。「建」の字については別の字ではないかという疑問もあるが、「元号(建興) + 干支(丙辰)」という並記の段階に入っていたことがわかる。「丙辰」は五三六年或は五九六年かと考えられる。
国名 | (1) 元号制定 | (2) 律令制定 | (3) 仏教伝来 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
元号名 | 王名 | 西暦 | ||||
中国 | 建元 | 漢の武帝 | 紀元前 一四〇年 |
秦始皇帝 (前二四六〜二一〇年) |
武帝(前一五九〜前八七) 以後漸次伝播。 |
|
朝鮮 |
高句麗 | 永楽 | 好太王 | 三九二年 | 小獣林王三年 (三七三年) |
小獣林王二年 (三七二年) |
新羅 | 延寿 建元 |
智讃王 法興王 |
五一一年 五三六年 |
法興王七年 (五二〇年) |
法興王一五年 (五二八年) |
|
百済 | 建興 | 聖王 (威徳王) |
五三二 (五九二)年 |
『三国史記』に記載なし | 枕流王元年 (三八四年) |
|
日本 |
九州 | 善記 (継体) |
磐井 | 五二二年 | 「磐井の律令」 (『筑後国風土記』) |
四世紀末から五世紀 |
近畿 | 大宝 | 文武天皇 | 七〇一年 | 大宝律令 | 五三八年 五五二年 |
東アジア文化圏における年号観の源流を探究してきたところを簡明にまとめよう。
元号は中国の漢の時代、武帝の時に制定された。元号制定以前の時間観念は、生物の生育が時とともに生起するところから認識されたものであろう。十二支の語源は万物の発達段階を私たちに知らしめている。この自然の時間観念に対し、人為的・政治的に時を区切り、王権の権威を明確にする形でイデオロギーを導入したのが武帝である。祥瑞改元がまず先行したのは、農耕民の五穀豊穣を願う気持ちに依拠し、時をも支配しようとする専制君主としての願望からであろう。
この願望は、高句麗の好太王碑文においても見ることができる。即ち、好太王即位前後は干支で表記されていたものが、好太王即位と同時に「永楽」号となり、一世一元制のように使用せられている。彼の正式名が「国岡上広開土境平安好太王」(碑文中四回出現)であることと彼の治政を考えると元号制定の役割が考察できる。好太王を「皇天」ととらえ王の絶対化を企てた時、「時間」をも支配しようという「願望」に他ならないのである。
新羅においても、干支の使用が先行し、ついで「元号 + 干支」(延寿元年辛卯)という形に発達したのが六世紀であり、「建元」より連続年号を持つにいたる。百済においても、六世紀に「建興」という元号がみえる。
このような東アジア文化圏の年号観の変遷は、日本に大きな影響を与えた。日本においては、農耕の節目である「春耕秋収」で計測していた(二倍年暦)に代わって、干支の知識の導入後、「年号 + 干支」という並記がすすみ、次いで元号のみとなった(金石文における年号表記のルールについては、拙論「日本古代碑の再検討」本誌第十集を参照されたい)。
元号制定は「東アジアにおける元号・律令等の制定」表によって判明するように、中国や朝鮮においては、「元号 + 律令 + 仏教伝来」という三つの契機がほぼ同時期になされている(百済は不明点あり)。これは偶然であろうか。
永遠なる時間をも支配しようとする為政者にとって、国内における支配の法的根拠である律令の制定、人間の意識への注入としての宗教。これらの契機がほぼ重なることは、偶然ではなくして、むしろ必然性をもつものといえよう。とすれば、通説の認める「大宝」元号及び「大宝律令」とともに、「善記」に始まる九州年号と磐井の律令をも同じ必然性をもつものとして真剣に検討されねばならないであろう。
註
(1)川口孫治郎『自然暦』十頁。
(2)ウィリアム・アストン「日本上古史」『文』一巻十四号、十五号 ーー 一八八八年十月十三日、二十日参照。
(3)同右。ウィリアム自身は「日本人は春分または秋分から年を数え、新年から数えないという意味で、六ヵ月を一年とするという意味を含むのではないようである。」と考えている。
(4)安本美典氏は『卑弥呼の謎』『神武東遷』などの年代論で「古代の天皇の平均在位年数は約十年」と算出している。安本氏の立場は文献によって二倍年暦によるものとそれを認めないものと分けておられるようであるが、不徹底の観はまぬがれない。次のようだ。
「『一年二歳説』は『古事記』『日本書紀』の古代の年紀については、あるいは成り立つ可能性があるが、『魏志倭人伝』の記事については、成り立つ可能性がほとんどないとみてよいであろう。」(『邪馬台国ハンドブック』講談社、二八四頁)
(5)古田武彦『古代は輝いていたI 』(朝日新聞社、三一四頁)
(6)宮田登「暮らしのリズムと信仰」『日本民俗学講座3』朝倉書店、一五四頁。
(7)同上書、一五一頁。
(8)藤堂明保「中国の元号」『元号を考える』参照。
(9)同上書。
(10)王健群『好太王碑の研究』一六四頁。
(11)「東亜日報」一九八九年四月一三日付参照。この記事及び翻訳は岩崎良哉氏によって教示を受けた。
(12)「癸未年」を「辛未年」と考える理由は次の通りである。
碑文三行の「沙喙至都廬葛文王」中「至都廬」は知證王が六四歳(西暦五〇〇年)の齢で王位に登る前に使用していた名前であること。だから、この碑は五〇〇年以前に建立されたのには違いがないが、「癸未年」とすると四四三年となり、この時なら知證王は七歳に過ぎない子供であって、どのように考えても葛文王という高い地位に登って和白会議を主宰することができるかという疑問がある(碑文の最初の判読者沈載完氏)。さらに、李基白氏も「辛」字を「立/木」と記した例(慶州南山ミンソン碑)があるところから「辛未」とし、四一九年となるところから、この時智證王は、五五歳であり碑文の内容とも合致するとしている。私はこの説を首肯する。
好太王の碑文の「辛卯年」も「立/木」としており、永らく日本人研究者もこれを理解できず、「来」「耒」等としたり、改ざんではないかといわれたりしてきた問題と同じで、事実は「辛」は「立/木」と記されていたのである(詳細は拙著『好太王碑論争の解明』参照)。「立/木」の字が風化によって「立/大」のようになり、「癸」と判読されたものと思われる。今後の研究に期待したい。
[立/木]は、立の下に木。辛の異体字。
[立/大]は立の下に大。造字。
九州年号ー古文書の証言ー 古田武彦講演記録